第28話 体力テスト2

 次の種目は長座体前屈だ。


 専用の器械のあるスペースに移動して、順番を待つ傍ら、私は朱里に尋ねた。


「ねえ、さっきの何?」

「さっきのって?」

「ほら。なんか私が変わったとかって言ってたじゃん」

「別に。言葉の通りだよ」


 朱里はそう言って、私との会話を打ち切る。


「変わったかな、私」

「わかんない。私の気のせいかも」


 なにそれ、と言いかけた言葉を、喉の奥に仕舞う。


 そこまで食い下がる理由もない。


 私も、ある程度はあの頃から変わった実感はある。


 ――誰のせいだって話だけど。


 素直に黙って、順番を待つ。


 彼女と話していると、引き出しの奥に仕舞った記憶は否応なく引きずり出される。


 朱里と離れてからの私が、その喪失を埋めるために取った手段は、できるだけ彼女のことを思い出さないようにするということだった。


 もちろん脳は勝手に彼女との記憶を再生するから、忘れるということは現実的ではなかった。


 だけど三年という時間は、その思い出のフィルムを擦り切らせ、彼女との記憶を引き出しの奥に追いやってしまうには十分だった。


 朱里と話すことで、その凍り付いた記憶が徐々に溶け出しているようだった。


 私たちの順番が回って来て、私は器械の前に座る。


 朱里が私の横について、「いつでもいいよ」と言う。


「じゃあ、いくよ」


 私はそう言って、手を伸ばして器械を押す。


「もう無理」最後にぐっとして手を離す。「結果は?」

「ちょうど四十」

「うーん、それってどうなの?」

「平均くらいかな」


 次いで朱里の番。

 朱里の結果は私よりも五センチ程伸びていたが、まあ誤差みたいなものだ。


「アキ、体固くない?」

「いや、五センチなんて誤差みたいなものでしょ」

「そうかなー」


 今から行われる最後の項目は反復横跳びで、今日の中で一番ハードだ。

 私たちは体育館の端に集まる。


 順番は私からだ。


 朱里が横に座って私を見ている。


 合図とともに私は動き出す。

 左、中央、右、中央、と順番に飛ぶ。


 そういえば、私は反復横跳びが何秒間行われるのか知らない。

 そろそろきついなと思ってきたところで笛が鳴る。


「何回?」


 はあはあと荒く息を吐きながら私は朱里に尋ねる。


「四十八回」

「え、ほんと。結構高くない?」

「うん。結構高いと思う」


 私は運動において突出した特技や長所を持たない。

 だけど得点表を見ると点数は八点だった。私にしてはできすぎた結果だ。


 朱里は結果を用紙に記入し、立ち上がる。


「じゃあ次、私」


 合図とともに彼女は反復横跳びを始める。

 足を横に動かすたびに髪が揺れる。


 確か、反復横跳びは線を越えていないとカウントしてはいけないはずだ。

 何回か線を越えていないことがあったが、朱里が頑張って跳んでいるのにカウントしてあげないのはなんとも忍びない。


 それを見ないふりをして、回数をカウントし続ける。

 程なくして、笛が鳴る。


「何回?」

「三十八回」私は彼女に回数を伝える。「……朱里、もしかしてこれ苦手?」

「……うるさい」


 小学生の頃に、体力テストをした記憶はない。

 そりゃしたことはしたのだろうけれど、そんなこといちいち覚えてはいない。


「そんなイメージなかったけど」

「仕方ないでしょ。才能ないんだよ」

「そっか」


 彼女の言い訳するような口調に私は少し笑う。


 今日計測の種目はこれで終わりだ。

 すべての計測を終えた私たちは、少し時間を持て余す。


 穂乃香と早崎さんも終わったようで、いつの間にか四人で体育館の端に腰かけて談笑していた。


「そういえば、みんな出身中どこなの?」穂乃香が何気なく尋ねる。


 私は、ちらと横目で朱里を盗み見る。

 目があった。

 どきっとしてすぐに目を逸らす。


「私は、北中だよ」


 取り繕うように私は言う。


「へー、ちょっと珍しいよね。北中出身って」

「まあそうだね。ちょっと遠いし」

「三上さんは?」

「私は桐野だよ」

「桐野? 三上さん桐野なんだ。お嬢様じゃん」


 朱里の言葉に、穂乃香は驚いたように言う。


「全然そんなんじゃないよ」

「でも桐野もあんまりいないよね」

「まあ、大きい学校じゃないからね」

「早崎さんは?」

「私は普通に一中だよ」

「多いねー、一中。三割くらいそうなんじゃない?」

「ね」


 それから共通の知り合いや部活の話なんかをしていたら、招集の声がかかった。


 先生から体育館で行う種目は今日で終わったから、次回はグラウンドでの集合になるという旨が伝えられた。


 そのまま流れで四人で更衣室まで向かう。


 一緒に着替えて、一緒に教室へ戻る。


 次の授業の準備をしていると、穂乃香に声をかけられる。


「ねえ、アキちゃん」

「ん、どうしたの」

「隣のクラスの三上さん、いたでしょ?」

「うん」

「もしかして、知り合いだった?」


 一瞬、その言葉にどきっとして心臓が締まる心地がした。


「え、なんで?」

「いや、なんか初対面じゃなさそうって言うか。気のせいだったらごめん」

「いや……」そう言って私は、何と言うべきか考える。「小学校が、一緒だったんだよね」

「そうなんだ。やっぱりね」彼女は頷きながら言った。「結構仲良かったの?」

「そーだね」少し言葉に詰まる。「まあまあかな、一応同じクラスだったけど」

「そうなんだ」


 私の返答に納得したのか納得したのか、穂乃香は頷いて教室の後方のロッカーへ向かっていった。


 はしゃぎすぎたかな、と思った。


 思いのほか朱里と一緒にいるのが楽しくて、つい昔の感覚に戻ってしまった。


 彼女は、勝手にいなくなったのに。

 勝手で、わがままなやつなのに。


 私と朱里は幼馴染で親友だったけれど、今思えばちょっと変な関係だった。


 振り返ってみれば、私が彼女に対して抱いていた感情は、他の友達に対して抱いていたものとは少し違うものだった。


 友愛はもちろんあったけれど、それだけじゃなかったような気がする。


 独占欲。庇護欲。


 その感情に思いつくまま言葉を当てはめても、いまいちしっくりこない。


 しかしいずれにしても、彼女との別離は私に多くの傷を残したのは確かだ。


 だから私は、素直に仲が良かったなんて言えない。


 高校に入ってからここまで長い時間朱里と話したのは、今日が初めてだった。


 今までも彼女は私と話そうとしてくれていたけれど、私はやんわりとそれを拒んだ。


 彼女は私から一度離れた。


 その記憶自体はなくならない。


 これからまた仲良くなって、私の多くを彼女が占めて、そしてまた離れていってしまうなら、最初から仲良くなんてならない方がいい。


 そう思う一方で、今日彼女と話して、思い出してしまった。

 彼女との会話の心地よさや、隣にいる時の安心感を。


 でも、それでも、彼女のことを全面的に受容できるほど、私はまだ大人じゃない。


 これからどうしょうか。どうするべきだろうか。


 いろんなことがわからないまま、私はただ教室の外に広がる青空を眺めていた。

 

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