第29話 テスト前、お昼ごはん
五月も上旬になった。
少しずつ雲が高くなり始めて、半袖で過ごせる日もだんだんと増えてきた。
あれから私は、少しずつ朱里と言葉を交わすようになった。
だけどまだ本質的な会話はできていない。
私から話しかけることもたまにしかない。
自分から彼女に話しかけることが、まるで彼女のことを全面的に受容してしまうことであるかのように感じられて憚られてた。
私にはまだ、『彼女から話しかけられているから仕方なくそれに応じているだけ』という言い訳が必要だった。
いつも通り家を出て、コンビニに寄って昼食用のパンを購入する。
その道すがら、小学生の女の子の二人組とすれ違った。
彼女たちは屈託のない、世界のすべてがまぶしくてたまらないというような、そんな笑顔を浮かべていた。
私も、あの頃はあんな風に笑っていたのかもしれないな、と思った。
今じゃなかなかあんな風に無邪気には笑えないけれど、確かに私もあのくらいの年の頃は何も考えずに笑っていた気がする。
いつからこんなめんどくさくなんてしまったんだろう。
自転車を停めて、教室へ向かう。その途中に、朱里に背中が見えた。
思わず声をかけようとして、彼女に向けて手を伸ばすした。
だけどその手が彼女に届くことはなく、結局私にできたのは、彼女が角を曲がって見えなくなるまで、ただその背中をみつめることだけだった。
話をしたい。話すのが怖い。
どちらも私の中にある感情だ。
そんな私だから、今に至るまで朱里と核心的な会話はできていないけれど、それでもいくつかの疑問を彼女に尋ねることはできていた。
その一つが、なんでこの学校に入学したか、ということ。
その問いに、彼女は私がいるから、と答えた。
――私がいるからと言う理由だけで高校を決めてしまえるのに、なんで私とわざわざ離れるようなことをしたのだろう――
その疑問は、言葉にはならずに喉の奥に沈んで消えていった。
代わりに、なぜ私がこの高校を受験することを知っていたのかと問えば、朱里は私の父に聞いたと答えた。
つまり父は、朱里が私と同じ高校を受験する可能性があることを知っていた。
なんで教えてくれなかったのだろうとも思うけれど、父は朱里と別離が私に残していった影響のことを知っているから言いづらかったのかもしれない。
いろんな部分の歯車が少しずつずれているような心地がしている。
私を取り巻く人間が少しずつ私に嘘をついているような。
それが悪意からくるものではないとわかっていながら、それでも私の中には澱のようなものが溜まっていく。
知らなきゃいけないことが、まだたくさんある。
今はまだ怖いけれど、少しずつでいいから進まなければと思った。
教室に入ると、前の席の穂乃香は机に突っ伏して寝ていた。
「おはよ」
私は彼女の頭をとんとんと叩いた。
穂乃香はおもむろに顔をあげる。
「ああ、アキちゃん。おはよ」
「眠そうだね」
「まあね。テスト勉強しててさ」
来週から中間テストが始まるため、私たちはその対策に追われている。
もちろん学校が始まってからそこまで経っていないから、出題範囲が広いわけではない。
だけど高校に入ってから初めてのテストだから、大半の生徒はそれなりに気合を入れている。
「そっか」
「アキちゃんは、そこまで焦ってそうじゃないね」
「私はほら、別に成績こだわらないから」
「えー、でも最初の試験だしさ。いい方がよくない?」
「まあそっか。じゃあ、勝負でもする?」
「いーねー。負けた方ジュース奢りね」穂乃香は肩をぶんぶんと回しながら言う。
「じゃあ私も頑張らないとかー」
「言ってアキちゃん、ちゃっかり勉強してるもんね」
「そんなことないよ」
中学生の時からの習慣で、その日の復習だけはさらっとするようにしているけれど、それだけだ。次の日の勉強についていける程度に勉強しておけばそれでいいくらいの気持ちでいる。
そういえば、朱里はどうなんだろう。
そもそも、彼女がどれくらい勉強をできるのか知らない。
小学校の時は、そこまで悪い方じゃなかった。最後の方は私よりもいい時だってあった記憶がある。
……今思えば、中学受験のための勉強をしていたんだろうな。私の知らないところで。
午前の分の授業が終わると、隣のクラスから早崎さんと朱里がやってくる。
あの体力テストの日から、時々四人で昼食をとるようになった。
たまにこうして隣のクラスから二人が訪ねてくるのだ。
だいたい週に二回くらいの頻度。
「おなかすいたねー」
私と穂乃香の席の周りの机を適当に並べて、早崎さんと朱里が座る。
テストの事、気になる人の事、先生の悪口。他愛もないことを各々が脈絡もなく適当に口に出す。
私は鞄から通学途中に買ったちぎりぱんとクリームパンを取り出して、ちびちびと食べる。
「毎回思うけどさ、アキちゃんお昼それだけで足りてるの?」
私がちぎりぱんの半分を食べ終わったあたりのところで、早崎さんが言う。
「うーん。そりゃお腹すくけど、別にって感じだしなー。私一人暮らしだし。朝弁当作るのも面倒だからさ」
「え、アキちゃん一人暮らしだったんだ」
「そうだよ。言ってなかったっけ」
確かに、ここらの高校生で一人暮らしをしている人は少ない。
このクラスにはたぶん私一人だけだし、寮に下宿している生徒は多少いるだろうけど、私の様にアパートを借りて暮らしている人は珍しいだろう。
「そう言えばなんで一人暮らししてるの? 確か……朱里ちゃんと同じ小学校なんだよね。でも朱里ちゃんは一人暮らしじゃないんでしょ」
穂乃香が食べ終わった弁当を片付けながら言う。
「ああ、それは……」
私は少し言いよどむ。簡潔には説明しにくいことだ。
なんとなく宙を仰ぐと、視界の端で朱里が私の方を見つめているのが見えた。
仕方ないから私は小さく息を吐いて、一から説明することにする。
「本来は電車で通う距離なんだけど、家がさ、最寄りの駅までちょっと遠いんだ。お父さん朝早くて駅まで私の事送れないからさ、じゃあ一人暮らししよっかなって感じで」
「なるほどね」穂乃香は得心したというふうに頷く。「一人暮らしってなんか憧れるよね。大変なんだろうけどさ」
「そうでもないよ。慣れたら大したことない」
「なにそれ。なんか大人ぶってる?」
「ぶってないぶってない」
早崎さんも弁当を食べ終わったようで、それを片付け始めている。
朱里ももうすぐ食べ終わりそうだ。
「じゃあ、私次の授業の宿題してないから、先に戻っとくね」
早崎さんはそう言って立ち上がる。自分の教室に戻った彼女を見送った後に、私は朱里に尋ねる。
「朱里はしてるの?」
「ん、なんのこと」
彼女は首を傾げた。
「だから、宿題」
「……してない。なんだっけ、それ」
「聞いてなかったの? 次の授業、宿題でてるんでしょ」
「わかんない、してない、かも」
「しっかりしなよ。早崎さんもしてないみたいだから、一緒にしたら?」
私が言うと朱里は「ありがと、そうする」と言って立ち上がり、足早に隣の教室へ戻っていった。
不安だ。
テスト前だと言うのに宿題もしていないし、成績に頓着しないのは構わないけれど、ひどい成績をとってしまうのは看過できない。
「三上さん、宿題してなかったの?」
「うん、なんかそうだったみたい」
「案外抜けてるところあるんだね」
穂乃香はそう言って笑った。
私はそうみたいだね、と言って小さく頷いた。
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