第25話 あの日の事

 時は少し遡って、小学校の卒業式の後のことだ。


 あの頃のことを思い返すのは少し辛いけれど、まあ、仕方ない。


 結末から話すと、小学校を卒業してから私と朱里が会うことはなかった。


 朱里は私の知らないところで中学受験をしていて、だから私と同じ中学校に通うことはなかった。


 だけど、それだけならまだよかった。


 朱里がなにかしらの理由で中学受験をしていて、なにかしらの理由でそれを私に言えなかっただけだったのなら。


 それなら、たとえ通っている中学校が違おうと、時間を見繕って会うことは十分に可能だ。

 休日に、学校帰りに。時にはずる休みなんかもして。


 だけど彼女は本当にもう私と会うつもりはないらしく、彼女は私との対面をはっきりと拒んでいた。

 紛れもなく、はっきりと、自分の意志で。


 春休みの事だ。


 卒業式が終わってやるべきことも一通り終わらせて暇を持て余してした私は、いつものように朱里の家へと向かった。


 玄関のチャイムを鳴らす。


 バタバタとした音が聞こえて、しばらくしてから玄関の扉がゆっくりと開いた。

 だけど予想に反して中から出てきたのはゆずさんで、私の見たことのない神妙な面持ちをしていた。


「あ、あの。遊びに来たんですけど。……もしかして、迷惑でしたか」


 私はそう言って、思わずゆずさんの顔色を窺う。


「いや、そういうわけではないんだけど……」

 そう言うゆずさんの口調は歯切れが悪かった。

「……朱里から、何も聞いてないんだよね」

「何もって……。なんのことですか」


 私はなんだか不穏な空気を感じとる。

 最近の朱里の、妙な雰囲気のことを思い出す。


 ゆずさんは大きく一つため息を吐いた。


「なるほどね」

「なるほどって……。何の話をしているんですか?」

「アキちゃん、ごめんだけど、また明日来てくれないかな。今日は朱里、遊べないんだ」

「遊べないって…… 風邪でもひいたってことですか。じゃあ私、看病しますよ。この前私、朱里に看病してもらったから、そのお返しもしたいので」

「うーん、まあ、風邪、みたいなものかな。でも、今日のところは、とりあえず大丈夫だよ。私も朱里と少し話さないといけないことがあるから」


 ゆずさんの、有無を言わさぬ口調に私は少したじろいだ。


「わかりました。……じゃあ、また明日来ます」

「うん、そうしてくれると助かるよ」


 本当は帰りたくなんかなかったけれど、そうするほかなかった。


 朱里が家の奥にいて、そこまで入ることを拒否されているのだから、私にできることは何もない。


 そして次の日。


 私は不安の募る胸を抱えて、朱里の家へ向かった。


 昨日と違って玄関から出てきたのは朱里で、私はそれに少し安堵する。

「朱里」私は彼女に言う。「遊びに来たよ」

 私は笑顔を作る。


 だけど朱里は黙っている。その表情からは感情が読めない。


「アキ」少ししてから、彼女は口を開く。「もう、ここには来ないで」

「え」


 その言葉に思考より先に、声が漏れ出ていた。


 ――彼女は今、なんて言った? 

 もうここには来ないで?

 私は押し黙って、俯く。


 そんなこと突然言われても、わかりましたなんて肯けるはずない。


 視界が白い。脳が理解を拒んで、思考を停めているのがわかる。


 彼女の言葉が耳から入ってきてから少しして、脳の奥の方に意味が染みわたってきて、私は鼻の奥に涙が滲んでくるのを感じた。


 だけど、私はそれを無理に押し込めて言う。


「どういうこと? あ、これからは朱里が私の家に来たいってこと? うん。お父さんに言っとくよ。すぐには難しいかもしれないけど……」

「違う」朱里はゆっくりと、だけど厳然とした口調で言う。「私は、もうアキとは遊ばない」


 言いたいことが、次々と脳裏に去来する。

 どういうこと、とか何考えてるの、とか。

 だけどそういう言いたいことがありすぎて、結局私はなにも言えなかった。


 当然、朱里も何も言わない。


 何か言おうとするけれど、そのたびに喉が詰まる。


 ――泣きそうになる。


 それらをなんとか押し込めて、しばらくしてから私は朱里に言った。


「理由、聞いてもいい?」

「このまえ、話したじゃん」


 アキは言い訳するように呟いて、目を逸らした。

 私は思い返す。

 そして、卒業式の日の会話を思い出す。


「話したくないってこと?」


 朱里は何も言わない。頷きすらしない。


 それを責めようとしても、彼女の表情を見たらそういう気も起きない。

 さっきまでの無表情は崩れ、悲痛な雰囲気を彼女は浮かべていた。


 胸の右側がずきずきと疼いた。


 気を抜くと本当に泣いてしまいそうだ。


「朱里は、それでいいの?」私は朱里に問いかける。「寂しくないの。私と会えないの、嫌じゃないの」


 そう問うた私に、朱里はゆっくりと言葉を返す。


「寂しいよ。私だって、嫌だよ」

「だったら……」


 朱里は、少し眇めた目で私を見ている。

 なんでそんな目で私を見るんだろう。

 そんなんだったら、そんなこと言わないでよ。


 ――ずっと一緒にいようよ。


 言おうとした言葉は、朱里に遮られてしまった。


「アキ」


 彼女は、私の名前を呼ぶ。


「なに」


 私はそれに、言葉を返す。

 だけどこれは、何も言っていないに等しい言葉だ。

 こんなの、時間を引き延ばしているだけに過ぎない。


「アキ」

「何って」


 今更、彼女は私に何を言おうというのだろう。

 私に会わないなんて言っておいて。

 どんな顔をして、私の名前を呼んでいるのだろう。


 そう思って、朱里の顔を見る。

 先ほど眇められれていた彼女のその目は、はっきりと涙を湛えていた。


「なんで、朱里が泣いてるの」


 そう言うと朱里は袖で目元を拭った。


「泣いてない」

「泣いてるよ」私は朱里に近づいて、その目元を親指の腹でなぞる。「ほら」

「うるさい」

「泣くくらいならさ、そんなこと言わないでよ。今なら、全部聞かなかったことにできるから、私」


 朱里は、ぶんぶんと首を振る。

 朱里の首許に手をやる。


「私の目見て」


 私はそう言って、彼女の目を見つめる。

 涙を湛え、少し赤らんだ瞳。


「本気で言ってるの?」


 私は問う。朱里は私の瞳を見つめ続けている。

 しばらく、見つめあう。

 そして、その小さな首が、一つ縦に揺れる。


「……そっか」


 私は無理に笑顔を作る。


「じゃあ、最後に一つだけ聞いていい?」私は朱里の首許から手を離す。「会わないってさ、いつまでなの」


 朱里は黙って私の目を見つめ続けている。

 眦から一つ、涙がこぼれる。


「わかんない」

「それも、わかんないの」


 私はそう言いながら再び彼女の目元を拭う。


「……ごめん」

「謝ってほしいわけじゃ、ないんだけどな」

「……ごめん」


 それから、朱里は何も言わなかった。

 謝ったっきり、何も。

 理由も、期限も、別れの言葉も何も言わないで、私はずっと宙ぶらりんのまま、何も納得することも理解することもできずにいる。


「うわー」


 私は空を見あげる。

 目が滲んでいる。


 それじゃ、私にどうしろと言うのだろう。

 何か言えることがないか考える。


 引き留める言葉。未来を変える言葉。運命を変える言葉。


 ……ないな。


「朱里」私は大きく息を吐く。

「朱里の事、一生恨むからね。朱里のやってること、ほんとに意味わかんないし。いきなり絶交みたいなこと言われて、怒んないの私くらいのものだからね。朱里にもいろいろ事情があるのかもしれないし、いろいろ悩んだのかもしれないけど、それで許されると思わないで。ほんとに、一生恨むから」


 そうやって私は彼女に呪いをかける。

 その言葉が刃物みたいに、彼女の胸を引き裂いてしまえばいいのにと思った。

 ぐいっと彼女を引き寄せて、首筋をがぶりと噛む。


「痛っ」


 数秒思いっきり力を入れた後に、顔を離す。

 首許を見たら私の歯形がくっきりと浮かんでる。

 この印が、消えない傷になればいいのにと思った。


 朱里が鏡を見るたびにそれを意識して私のことを思い出して、今日と言う日のことを一生後悔し続ければいい。


「じゃあ私、帰るから」私は朱里に背を向ける。「ほんとにもう来ないからね」


 私は朱里の家の玄関から出る。


 こんなになってしまっても、朱里が私のことを見送りに来てくれるんじゃないかって、期待している私がどこかにいる。


 馬鹿みたいだ。

 そう思いつつも一瞬振り返ると、朱里は突っ立ったままこちらを見ていた。


 口の中が乾いていた。


 私は何も言わないまま顔を戻して、足早に去った。


 結局何もわからないまま、何も解決しないまま、それどころか修正不可能なところまで滅茶苦茶になってしまったまま、いつのまにか全部終わってしまった。


 こうしてこの日を境に、私と朱里との関係は終わった。

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