第23話 別れの季節
校門をくぐって、学校の中に入る。
知り合いの先生たちとすれ違うと、「卒業おめでとう」と声をかけられた。
その度私は、「ありがとうございます」と返して、朱里は軽く会釈をした。
歩みを進める。
いつもと変りない道も、卒業式の後、もう見ることのない風景かもしれないと考えるだけで、何か特別な意味を持っているように感じる。
砂利道を進み、私たちが四年生か五年生の頃にできたプレハブ校舎の下を通る。
今日は確か、私たちと、一部の生徒以外は休みだったはずで、いつもの騒がしさが嘘のように静かだ。
遠くでは私たちのような生徒たちがはしゃぐ声がしているけれど、それは幕一枚隔てた先で聞こえているようで、妙に現実感がなかった。
私と朱里は校庭のフェンスの傍の段差に座り、ぼんやりと景色を眺めた。
タイヤの跳び箱や雲梯、花壇、雲一つない青空。
朱里を横目に見る。彼女も似たようなものを眺めているように思えた。
「感傷って、こういう時の事を言うのかな」
「カンショウ?」
「感じるに傷って書いて、感傷」私は宙に指で漢字を書く。
「それって、どういう意味?」
「んー。なんか無性に泣きそうというか。悲しいというか。そんな気分の事だよ」
「アキ、泣きそうなの?」
「……少しね」
実際、泣きそうなのは嘘ではない。だけどそれはあくまで泣きそうだっただけで、本当に涙が出そうだったわけではない。
ただ言葉にすると、初めは冗談交じりで言ったものが、本当に涙が鼻の奥で滲んでくるように感じられて、私は朱里から顔をそむけた。
「朱里は?」私はそれをごまかそうと言葉を紡ぐ。「朱里は、そんなことない?」
「私は、今は、そこまでないよ」
「今は? 前はそうだったってこと?」
朱里は私の言葉には何も言わなかった。
「まえ、アキの前で泣いたでしょ。あれで最後にしたんだ」
「泣くのを?」
「そう」
私は少し考える。泣くのを、最後にする。その言葉は、どういう心情から発せられるものなのだろうか。
それからは何かしらの覚悟のようなものを感じるけれど、そのくらいの覚悟をする必要が、なぜ朱里にあったのか、私にはわからなかった。
私はまた、横目で朱里の顔を盗み見る。
でもその表情からは、いつものようになにも感じることはできなかった。
「変なの」私は茶化して立ち上がった。「ちょっと歩こうよ」
私は朱里に手を伸ばす。
朱里はその手を取らず、ひとりで立ち上がった。
鉄棒。三角ジム。プールサイドのフェンス。タイヤの跳び箱。銀杏の木々。砂場。金次郎像。
それらの隣を通り過ぎて、時折朱里と言葉を交わす。
校庭をぐるっと一周まわって、校門に戻ってきた。
「朱里、もう大丈夫? 思い残すことはない?」
「ないよ。大丈夫」
「じゃあ、いこうか」
私たちはそうやって小学校を去った。
その後は、いつものように、歩いて家に帰った。
朱里の家に寄ってもよかったのだけれど、どうせ春休みにも会えるのだから、今日くらいはお父さんとゆっくりしようと思って、寄らなかった。
この通学路を通るのは、これが最後だ。
もちろん、この道を通るのはこれから何度もあるのだろうが、この道が私にとって通学路として存在しているのは、今日で最後になる。
だから、何か感じ方が変わるのかもしれない、と思っていた。
だけど、その予想に反して、帰り道は案外何も変わらなかった。
いつものように、ここはただの住宅街で、時折畑があって、公園があって、隣に朱里がいて、それだけ。
私の家の前に着いたとき、私は朱里に言った。
「それじゃ、朱里。春休み、暇でしょ。たくさん遊ぼうね」
私の言葉に、朱里はわずかに表情を歪めたように見えた。
しかしその表情は、一瞬でいつもの顔に戻ってしまった。
「そうだね。遊べたらいいね」
朱里の言葉に私は頷いて、それじゃ、と言いかけようとする。
言いかけようとして、朱里の言葉に、それが遮られる。
「あのさ、アキ」朱里が私の目を見ずに、言う。「お願いがあるんだけど」
「なに」
朱里は、はあ、と一つ息を吐いてから言う。
「最後に、キスしたいんだけど」
「え?」
私は思わずそう声を漏らす。
今なんて言った? とはさすがに言わないけれど、言いたいことはある。
「いま、ここで?」
ここはただの住宅街の一角で、そりゃ人通りは少ないけれど、だからと言ってまったくないわけではない。
そんな場所で、それをするのは憚られた。
「うん。だめ?」
だけど、朱里の切迫した表情を見ると、私は何も言えなかった。
切なげで、懇願するようで、余裕なさげで。
そんな表情は見たことがなくて、私は内心とても動揺した。
卒業式の壇上でさえ緊張を表情に出さなかった彼女の顔が、見て取れるほどに感情に歪んでいる。
「朱里、どうしたの?」私は彼女に問いかける。
「卒業式だからさ」彼女は目を伏せて言った。「記念って言うか」
「記念かあ」
私はそう言って少し考えるそぶりをする。
彼女の唇は小さくわなわなと震えていて、表情に浮かぶ彼女の感情は、いまにも決壊しそうだ。
本当は、今すぐに「いいよ、しよう」なんて言って、彼女の言葉を受け入れるべきなんだと思う。
だけど、私はそれをしない。
だって、彼女は、私に何か隠していることがあるから。
私はそれを確信している。
「ねえ」私は、できるだけ優しい声で、朱里に言う。「朱里さ、私に何か言うことがあるよね」
朱里は、はっと顔を上げる。
私と目が合う。
彼女は、眦に涙を浮かべているように見えた。
「ないよ」彼女は言う。
「本当に?」私は問う。
朱里は私の問いのは答えない。
私は朱里とじっと見つめあう。
眦に浮かべたそれが、いまにも零れ落ちそうだった。
朱里は袖で目もとを拭い、そしてまた、俯くように顔を背ける。
「言えないよ」朱里は呟く。「言いたくない」
「やっぱり」私は口先で、小さく言う。「あるんだ。言わなきゃいけないこと」
また、朱里は何も言わない。
言えないよ。言いたくない。
そんなに、言いにくいことが?
私は彼女に問おうとしたしたところで、彼女が言った。
「ねえアキ。……私が卑怯なことを言ってるのはわかってる。けどさ、今は何も言わないで、私のお願い聞いてくれないかな」
「なにそれ」
「お願い」
その強引さは、いつも私が慣れ親しんだもので、それに身を任せてしまいたいと思う。
そのわがままに、勢いに、私は身を委ねてしまいたい。
でも、だめだ。
ここで引いたら。
「わかんないよ、朱里。朱里が何考えてるのか。最近ずっとちょっと様子変だし」
「そんなことないよ」
「あるよ」私は語気を強める。「急に泣き出すし。かと思えばぼーっとしてるし。急にキスしたいとか言い出すし」
それにはさすがの朱里も心当たりはあるようで、彼女は少し押し黙る。
「……それは、ごめん」
彼女はしばらくしてから、小さく言って俯く。
はあ、と私はため息を吐く。
彼女を傷つけたいわけじゃない。
「わかったよ。本当に言いたくないなら、言わなくてもいいよ」
私の言葉に、朱里ははっと顔をあげる。「その代わり、一つ約束して」
「なに?」
「いつか話して。いつでもいい。朱里が言えると思えたタイミングでいいから。いつか、私に話してよ」
「……わかった」朱里はこくりと頷いた。
私はそれを見て、「はい」と言って手を叩いた。
「じゃあ、これでこの話は終わり」私は朱里に微笑みかける。「それじゃ、する?」
「何を?」
「……朱里から言ったんじゃん」
「あ」
朱里はそう言葉を零して、目を逸らした。
その顔は若干赤らんでいるように見えた。
朱里がゆっくりと私に向かって歩いてくる。
そして、無言で私の手を取る。
朱里が私の手を引っ張って、二人で電柱の影に隠れる。
私はブロック塀に寄りかかるような体勢をとらされた。
朱里は左手で、中途半端に宙に浮いた私の手を逆手で握り、右手で私の首許に手を当てる。
「いくよ」
「……いいよ」
そして私は彼女の唇を受け入れる。
いつものように、食み、啄み、噛む。
人通りはないはずだ。
私の耳は朱里以外の声を聞くことを拒んでいるし、私の目はいつの間にか閉じられていた。
だから、私たち以外の誰かが近くにいるかなんて、わからない。
だけどこうして続けている以上、誰にも見られていないと、そう思うほかない。
朱里の手にぎゅっと力が入り、唇が離される。
「これくらいにしとく」
朱里が、小さく笑って言う。
「そうだね」私はそれに返す。「また、できるし」
朱里が私の体の近くから離れる。
「それじゃ、行くから」
朱里が言う。
「待って」私は振り返ってしまいそうになる彼女の袖を摘まんだ。「最後に、ハグしよ」
私はそう言って、彼女の返事を待たずに抱きすくめる。
彼女の胸のささやかなふくらみと、その奥の早まった鼓動を感じる。
「鼓動、早いよ」
「しかたないでしょ。ていうか、いいって言ってないんだけど」
「キスしたんだからいいでしょ」
彼女の息遣い。匂い。温度。柔らかさ。声。それらを忘れないように確かめていると、朱里は「もう終わり」と言って、私から離れた。
自分からキスしよう、なんて迫っておいて、ハグされたら自分から離れていく。
その事実に私はくすりと笑って、わかったよ、と言った。
「それじゃ、ほんとに行くから」
「うん」私は頷く。
「またね」と言って、彼女が背を向けて歩き出す。
私は彼女の隣について、一緒に歩く。
「なんでついてきてるの」
「ん?」私はとぼけた声で言う。「名残惜しいじゃん」
朱里が私のことをじとっとした目でにらんでいるのが横目でわかったので、「送るだけだから、家まで」と付け加えた。「お願い」
彼女は何も言わない。
拒まないということは、許されたのだろう。
いつものように、まばらに言葉を交わしながら歩いた。
朱里の家に着く。
今度こそ、さよならだ。
「じゃあね、朱里。またね」私は手を振る。
「うん、じゃあね」朱里は私と同じように、小さく手を振った。「送ってくれてありがと」
朱里はそう言って、玄関の向こうに消えて言った。
ハグもして、キスもして、そういうことをした割には、ずいぶんあっけない別れだったな、と思う。けど、そういうものか。
変に言葉を交わしても、名残惜しさが尾を引くだけだ。
それを朱里はわかっていたんだろう。
そもそも、今日は卒業式だったから、別れとか、思い出とか、そう言うものに敏感になりすぎている。
だから、こうやって追い縋るようなことをしてしまったけれど、日常はいつものように変わらず進んでいくのだし、別に何も気に病むことはないはずだ。
今だって、さっきまで隣に朱里がいて、急に一人になったからこんなことを考えてしまうのだ。そうやって、私は自分に言い聞かせる。
家に帰って、卒業アルバムを開く。
後ろからページをめくり、寄せ書きの書かれたページを開き、朱里のメッセージを探す。
見慣れた文字で書かれたメッセージは、すぐに見つかった。
『さよならは、言わないからね』
私が朱里と会ったのは、この日が最後だった。
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