第11話 いろいろありがとね

 部屋に戻ると、朱里は床に布団を敷いていた。

 寝ているかもしれないと思っていたが、その予想は外れていた。


「あがったよ」私は朱里に声をかける。「パジャマ、ありがとね」


 朱里は敷いた布団に、ごろんと仰向けに寝転がった。

 そのまま彼女は私を見上げるようにして言った。

「不思議な感じがする。アキが私のパジャマ着てるの」

「朱里の匂いがするよ」私は言った。


 敢えて言葉にすれば、このパジャマを着ていることが、何でもないことになるかもしれないと思った。私の体に纏わりつく彼女の匂いは、依然として私の脳の一部を蝕んでいる。


「安心する」

「なにそれ、変なの」

「どうする、もう寝る?」私は布団の上に腰を下ろす。

「うん。お風呂入ったら眠くなっちゃった」

 私は朱里の隣に寝転がった。

「私がこの布団に寝るってことでいいの?」

「どっちでもいいよ」朱里は再び寝転がり、私のお腹の上に頭をのせて言った。「アキの好きな方でいいよ」

「えー。私もどっちでもいい」


 私は朱里のパジャマの中に手を入れてまさぐった。

 彼女のお腹はすべすべしていて気持ちがいい。

 さすったりぷにぷにしたりして楽しんでいると、朱里から手の甲をたたかれて咎められた。


「私もどっちでもいい」

「えー」


 私も朱里も優柔不断だから、こういう時に困る。


「何かゲームでもして決める?」

「めんどくさい」

「だよね」

「じゃあ私が布団で寝る」


 どうせ堂々巡りでまとまりのつかない話し合いなら、適当に決めてしまった方がいい。それに、朱里のベッドで眠るのは、今の私には少し難しい。


「わかった」そう言うと彼女は起き上がり、ベッドの上に行った。「それじゃあ、私はこっちね」

 朱里はリモコンを手に取って電気を消した。


「おやすみ」


 彼女は言慣れたその言葉を口にした。

 毎日一回は言っていて、相手をいたわる優しい言葉。

 だけど私はなぜか、その言葉を聞いて少し寂しくなった。

 少し考えて、その言葉が今日という一日の終わりを意味しているからだと思い至る。

 私はその言葉に返事をするのを躊躇った。


「ねえ朱里」私は小さく口を開いた。

 自分の口から出たその声は私の想像よりも頼りなげに響いて、少し掠れていた。

「ん。なに」

「いろいろありがとね」

「なんのこと」


 本当はなんのことかわかっているはずなのに、彼女は知らぬふりをする。

 それが彼女なりの気遣いなのかもしれないし、ただ単純に何か言われる程のことだとは思っていないだけなのかもしれない。

 だけどどちらにしても、それは彼女の優しさだ。


「いろいろはいろいろだよ」

「へー。まあ、なんでもいいけど」朱里はいつものような感情の起伏を感じさせない声で言った。「……アキは、嬉しかった?」

「それは、もちろん。嬉しかったし、帰ったらお父さんといろいろ話してみるよ」

「うん。それがいいよ」彼女の言葉は相変わらず乾いている。だけど彼女の声は、心なしか柔らかく響いていた。


「でも、朱里」私は言った。「私は朱里に何も返せない。こんなにしてもらっても、それを私はどうやって朱里に返せばいいのか、わからない」


 暗闇の中、ただ私は彼女の返答を待つ。

 静寂の中、私たちの呼吸の音とか、秒針の音とか、そういうどうでもいい音だけが聞こえていて、私が一番聞きたかった彼女の声は、一向に聞こえてこなかった。

 その空白はあまりにも長くて、彼女が眠っているのか起きているのかわからなかった。


 それを確かめるように、私は言う。

「だから、なにかしてほしいとかあったら、言ってね。できることなら、してあげたいから」


 こんなこと改まって、彼女に言うのは恥ずかしい。

 だから、彼女に聞こえていなくても構わなかった。

 朱里が聞いているのか聞いていないのかわからないから、全部を天に任せてしまいたかった。


 私は、朱里が寝ているベッドに背を向けるようにして、寝返りを打った。

 朱里の返事はない。

 本当に寝ているのだろうか。

 ……勇気を出して放った私の言葉を無視して。

 そう考えると文句の一つくらい言いたくなるけれど、寝てしまったものは仕方ない。


 まあ、布団に入って寝るなと言う方が酷な話かもしれない。

 いいかげん、私も寝よう。

 目を瞑ると、今日のことが無秩序に脳に流れる。

 それが脈絡のない夢へと変容していく中で、不意にとん、と音がして私は意識を現実に戻した。


 上体を少し起こして夜目に目を細めると、朱里が私のそばに座っているのがぼんやりと見えた。

 だけど寝ぼけた頭では、うまく現状を把握できない。

 私は残った意識の上層で呟く。


「どうしたの」

「したいこと言ってって言ったじゃん」

「ん?」


 彼女の声がしてすぐに、私の上にかぶさっている布団がめくれる感触がした。


「隣に寝るから」

「え?」


 次第に、意識が少しずつ戻ってくる。

 だけど私が何か意味のある言葉を発する前に、朱里は私の布団の中に潜り込んできた。


「何も言わないで」


 朱里はぶっきらぼうにそう言って私の隣に収まった。

 彼女は私の方に体を向けている。

 何も言わないでと言われたから、私はもちろん何も言わないけれど、説明くらいしてほしいと思う。

 朱里がなにをどんなふうに考えているのか、もっと知りたいと思ったばかりなのに。


 抗議の意を込めて彼女の脇腹の肉を摘まむと、じっとしてて、と声が返ってきた。

 どうやら私は声を発するどころか、行動を起こすことすらも許されないらしい。


「寝るだけだから」


 朱里はそう言ったっきり本当に動かなくなった。

 本当に寝るだけなんだな、と思った。

 それがどうというわけではない。たんにそう思っただけだ。


 二度寝には間に合うくらいには、眠気はまだ私をの隣にいた。

 私は再び目を瞑る。隣にいる朱里はもうすでに眠ってしまったようだった。

 私は一つ寝返りを打つようにして、朱里の方に体を向けた。

 それは決して、彼女の髪の匂いを嗅ぎたいと思ったからだとか、そういうわけではない。

  

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