第10話 なんで、そこまでしてくれるんでしょう
ゆずさんはゆっくりと語りだした。
その内容は、だいたいこんな感じ。
朱里がゆずさんに、クリスマスに私を家に泊めたいと言ったこと。
ゆずさんはそれを快諾したこと。
朱里が私のお父さんに訊いて、以前はどんなケーキを食べていたのかを確かめ、私を驚かそうとしたこと。
最初はお父さんも朱里の質問に驚いたものの、朱里の意図を聞くと素直に話したということ。
ゆずさんは一通り話し終えると、「それで、何か質問ある?」と言って私を見た。
「じゃあ、朱里が私のお父さんに訊いて、私のためにあのケーキを用意したってことですか?」
「そういうこと」ゆずさんは一つ首を縦に振って答えた。
私のために。
朱里がなぜ私のためにそこまでしてくれるのかはわからない。
他人のためにここまでするのは――おそらく普通ではないと思う。少なくとも私には、そんなことできない。
「なんで、そこまでしてくれるんでしょう」私が問うと、ゆずさんは「さあ」と言った。
「本人に訊いてみたら?」
「朱里に言わないでって言ったのは、ゆずさんでしょ」
「あ、そうだった」ゆずさんはてへ、と笑った。「とにかく、約束は守ってね」
「わかりました」私は頷いた。
理由はわからないけれど、朱里にこのことを話すのも問うのも控えた方がいいらしい。
「聞きたいことはそれで全部?」
「はい。ありがとうございました」
ゆずさんは、うん、と頷いて立ち上がった。
「もうすぐ朱里、あがると思うから」
「わかりました」
「一緒に入ってもよかったのに」
ゆずさんはキッチンで茶碗を洗いながら言った。
「私たちもうすぐ、中学生ですよ」
私は階段を上って、朱里の部屋へと向かった。
私たちがもっと小さい時には、家庭用のビニールプールで一緒に遊んだり、一緒にお風呂に入ったりもしていたのだが、もうすぐ中学生になる年で二人でそうするのは、ちょっと憚られる。
いいとかだめとか、したいとかしたくないとか、そういうところではなくて、もっと常識的な部分での話だ。
二人で温泉に行くのとはわけが違う。おそらく、二人でお風呂に入るのは普通ではない。
しばらくしてから一階から朱里の声がして、朱里がお風呂からあがったことがわかった。
私もお風呂に向かう準備をする。
下着やパジャマは、朱里のものを借りた。
一階に降りて朱里とすれ違った。
見慣れない柔らかな水色のパジャマ姿で、それが彼女の持つ涼しげな雰囲気に不思議と調和していてよく似合っていた。
「ふた、あいてるから」
「うん」
「あと歯ブラシ、洗面台の引き出しの中に入ってるから、使って」
「わかった。ありがと」
洗面所に入り、着替えを洗濯機の上に置く。
隣にある洗濯かごの中に、朱里の抜け殻が入っている。
その上に私の脱いだ服を置いて、浴室の床を踏む。
朱里の入っていた浴室。さっきまで朱里の体が浸かっていた浴槽。
髪を洗って体を洗って顔を洗って、その浴槽に浸かった。
……彼女の入っていた浴槽。
ぶんぶんと頭を振って、変に流れがちな思考を抑制する。
はあ、と大きく息を吐いて目を瞑る。
今までのことに思いを馳せる。
もう年末だ。
クリスマスが終わったら、落ち着く暇もなくすぐ大晦日が来て元旦が来る。
年が明けたらそれから続く一年が途方もないものに感じられるのに、こうして年末を迎えると一年は一瞬だったように思える。
脳裏に蘇るのは今日までの事だ。
ほとんど彼女と一緒にいた記憶しかない。だから蘇るのも彼女にまつわるものばかりだ。
星を見上げて話す彼女の声色。あたたかな太もも。戯れのような口づけ。一見感情に乏しいようで、よく見れば感情を豊かに映している表情。
「どうしたもんかな」
彼女が私にしてくれたこと。嬉しかった。
だけどそれに対して、そんなことをしてくれる朱里に対して、私は何も返せない。
私が朱里にしてあげられることは、とても少ない。
言葉を交わして、抱きしめて、たまにキスをして。そういうことしか、私にはできない。
自分のことや感情をあまり話したがらない彼女は、だからあまり何を考えているのかわからない。
そのくせに人一倍繊細で抱え込む性格だから、きっと私にさえ話していないようないろいろがあるんだろう。
そしてきっと私は、それを全部知ることができない。
それでもその傍らに、私はいたいと思う。
こんなにも長い時間一緒にいるのに、私は彼女のことをまだ、全然知らないのだ。
好きな音楽、好きな小説、好きな漫画、好きな教科、嫌いな先生、嫌いな食べ物、苦手なクラスメイト。
そんなことばかりしか知らない。
どんなことを考えて生きているのか。どういう人を好きになるのか。どういう人を好きになったのか。私にキスしてくれたり、頭を撫でたりしてくれたりするとき、何を思っているのか。
いろんなことを、いろんな彼女の感情を、もっと知りたい。
長くお湯に浸かっていると体が火照ってきて、少しのぼせてきたような気がしてきた。
私はお風呂をあがって体を拭いて、貸してもらった下着とパジャマを着た。
体がいつもと違う匂いに包まれた。
いつも朱里から感じる匂い。
今日、実里ちゃんから感じた匂いと同じはずなのに、なぜか鼻腔に侵入した匂いが脳髄に染み出して、正常な思考を侵す。
長くそうしていることは許されない。
これで最後。
パジャマの首許に顔を入れて、一つ大きく息を吸って吐いた。
洗面台の引き出しを開けて、新品の歯ブラシを取り出す。
包装は、傍らのごみ箱に捨てた。
歯磨きを終えて洗面所を後にすると、ゆずさんはリビングで炬燵に入って、机につっぷすような形で眠っていた。
「ゆずさん、あがりましたよ」私はその横で膝立ちになって言う。「寝るなら布団で寝てください」
ゆずさんはゆっくりと顔を上げた。「ああ、ごめん。また寝てたみたい」
「私たちも、もう寝ますから」
「うん。あ、そうだ」
ゆずさんは、私の全身を見て言う。「うん、ちょどよかったみたいだね」
たぶん、パジャマのサイズのことだろう。
「はい、ちょうどでした」
私はパジャマの袖を摘まんで軽く引っ張る。
「小さくなくてよかった」
ゆずさんはそう言って立ち上がり、あくびをした。
「じゃあ、おやすみ、アキちゃん。お泊りだからって夜更かししちゃだめだよ」
「すぐ寝ますって。朱里も眠そうだったし。もしかしたら、もう寝てるかも」
「確かにね。それじゃあ、おやすみ」
「はい。おやすみなさい」
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