第8話 ケーキ
私の家にサンタさんはいない。
より正確に言うならば、かつてはいた。いなくなったのだ。
おそらくお母さんが、サンタさんをどこかに連れ去ってしまったのだ。だってお母さんが亡くなってからサンタさんは来なくなったから。
お父さんにサンタさんはなんで来なくなったのか訊いても、お父さんは答えなかった。
お父さんにもわからないならきっと、いくら考えても私にはわからない。
そうやって私は考えるのをやめた。
サンタさんはもういない。そういうことにして割り切って諦めた。
誰しもいつか、サンタさんが来なくなる日を迎えるという。
お父さんにも、サンタさんはもう来ない。
だから、私の場合はそれが少し早かっただけなのだ。
クラスもみんなにはまだサンタさんが来るらしいけれど、それが羨ましいなんてことは、きっとない。
サンタさんが来なくなることを、彼女らはきっとまだ知らない。だから、私の方がきっと少し大人なのだ。
友達がする、クリスマスプレゼントの話の輪の中で、笑顔を張り付けてばかりいること。
お父さんにクリスマスにケーキを食べたいなんて言わないでいること。
その小さな我慢を、誰にも言わないでいること。
私は聡明で、強くて、偉いから。
サンタさんはもういない。そういうことにして私は、口を噤んだ。
起きたら目元が滲んでいた。
だけど私を起こしたゆずさんにも、隣にいる朱里にも、たぶん気づかれていないだろうと思う。
私は制服の裾でそれを拭った。
「双子みたいに眠ってたね」
「すみません、眠くなっちゃって」
夕飯は唐揚げだった。
私と朱里とゆずさんと実里ちゃん。四人で食卓を囲む。
ベッドの上で眠くなってしまって、ゆずさんに起こされた時にはもういい時間になっていた。
眠った時は背中合わせだった気だするけれど、目が覚めたら向かい合っていて、ゆずさんにそのことをからかわれてしまった。
「お姉ちゃんたち、おいしい? 私が作ったんだよ」実里ちゃんが言う。
「衣付けただけでしょ」
「おいしいよ、実里ちゃん」
私が褒めると、実里ちゃんは「でしょー」と言って笑った。
「実里ちゃん、まだ食べる? 取ってあげるよ」
「食べる」
私は朱里ちゃんのお皿をとって、唐揚げをよそう。
「はい、そうぞ」
「ありがとー」
実里ちゃんは私や朱里よりもよく食べる。
自分より小さい子がたくさん食べている姿を見るのは、なんだか気持ちがいい。
「実里。あんまり食べ過ぎないでよー。今日はケーキもあるんだから」
ゆずさんが呆れたように実里ちゃんに言う。
クリスマスケーキ。お母さんがいた頃には食べていた。
昔私が食べていたのは、スポンジ生地、生クリーム、イチゴみたいなケーキではなく、チョコレートのケーキだった。
いつからかはわからない。私が覚えている限りは初めからそうだった。
お父さんの好みではないだろうから、お母さんの好物だったのだろうか。
どちらにしても、私はそれが好きだったし、ケーキをみんなで食べると幸せな気分になれた。
だけどその習慣は、お母さんが亡くなってからは、我が家から消え去ってしまった。
私もわざわざ食べたいなんて言い出さないし、お父さんも仕事が忙しいから多分、クリスマスなんてものを意識していないのだろう。
夕飯を食べ終わるとゆずさんは、「片付けるから待ってて」と言って、食器を片付けた。
私は手伝うと申し出たけれど、例のごとく断られてしまった。
だから結局私はリビングの炬燵に入って、朱里と実里ちゃんと三人でテレビを見ている。
テレビはバラエティのクリスマス特番で、なじみの顔ぶれの芸能人が並んでいた。
ふと姉妹に顔を向けると、同じような顔をしてテレビを見ている。
私は二人の顔を何の気なしにじっと眺めた。
「ん。なに」
私はなんでもないよ、と否定する。
変に追及されないように、実里ちゃんに「おもしろい?」と尋ねる。
「おもしろいよー」
間延びした声が聞こえてくる。
「よし、じゃあ、こっちおいで」
私が床をとんとんと叩くと、と実里ちゃんは私の方に這い寄って来て、私の足の間にすっぽりと収まった。
脇の間から手を通して、おなかの前で組む。
左右にゆさゆさと揺れてやると、実里ちゃんは楽し気な声を上げた。
「もう、甘やかさないでよ」
朱里は私にそう言ったけれど、私はまあまあ、と言ってそのまま実里ちゃんと一緒にテレビを眺めた。
私の腕の中で揺れる実里ちゃんからは、朱里と同じ匂いがする。
この匂いが朱里だけのものではない。そんな単純なことに、初めて実里ちゃんの匂いを嗅ぐまで気づかなかった。
朱里じゃない人から、朱里の匂いがする。
「そろそろ準備してー」
しばらくして台所からゆずさんの声が聞こえてきて、私たちはそれに従いキッチンに向かう。
冷蔵庫の中にあるケーキの箱と、とりわけ用の食器を机の上において、席に座った。
ゆずさんはケーキナイフを持ってきて、じゃあ、あけるよーと言った。
箱の中から現れたそれは想像していたようなケーキではなく、私には馴染み深いチョコレートのケーキだった。
驚いて私はゆずさんに目を向けると、ちょうど目があった。
「あの」私は口を開いた。心なしか自分の唇が震えているような気がした。
「ゆずさん家のクリスマスケーキって、いつもチョコレートなんですか?」
「ううん、違うよ。今日だけ特別にね」
「あの、それってどういう……」
「まあいいから、食べようか」
ゆずさんは私の質問には答えず、ケーキに包丁を刺して私たちのお皿に取り分けた。
いただきます。
みんな手を合わせて、それぞれのお皿の上のケーキを食べ始めてしまったから、私はゆずさんを追及することもできなかった。
今日だけ特別。
なぜ今日だけが特別なのか。特別だった場合、なぜチョコレートケーキだったのか。
疑問が沸いては消えない。
フォークで細長い二等辺三角形の先をけずって口に運ぶ。
ホールケーキの上には小さなサンタさんが乗っていて、それを実里ちゃんがとって食べた。
サンタさんの頭が実里ちゃんによって嚙みちぎられ、胴だけが残った。
それを見ていたら、私がそれを羨ましがっていると勘違いしたのか、実里ちゃんからは「アキちゃんはこれ」と言って、「メリークリスマス」と英語で書かれたホワイトチョコレートの板をくれた。
「ありがとう」
私は素直に受け取って口に入れる。
それに続けて、またケーキも口に運んだ。口の中に濃くて滑らかな香りが広がる。そして私は、その味の奥にほのかな懐かしさのようなものを感じた。
しかしそのことは口には出さず、私は黙々と食べ続けた。
私はきっと、このケーキを食べたことがある。私はこのケーキの味を知っている。
「おいしい?」
朱里がケーキを口に運ぶ手を止めて尋ねる。私が答える前に実里ちゃんが「おいしー」と答えた。
「あんたじゃない」
そのあしらい方に私は少し笑いながら、「おいしいよ」と答えた。「懐かしい、感じがする」
自分でそう答えると、鼻の奥に何か滲んでくるような感覚を覚えた。
「そっか」朱里はこころなしか満足げな表情で頷いた。「良かった」
「よーし。食べ終わったやつから風呂入ってねー」
ゆずさんは私たちのなかで一番早く食べ終わっていた。
私も朱里も、まだ食べ終わっていない。
次に早く食べ終わった実里ちゃんは、ごちそうさま、と言って椅子から飛び降り、「じゃあ私から入るねー」と言って洗面所の方に消えていった。
「ごちそうさまでした」
それから少しして食べ終わった私たちは、手を合わせて食器を下げた。
「じゃあ、戻ろうか」
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