第7話 別にいいんじゃない。どんな関係でも
「ただいま」
「お邪魔します」
朱里の家に着くと、キッチンのほうから「おかえりー」と緩い声が聞こえた。
「すみません。こんな日にまで」
「なに言ってるの。アキちゃんはうちの子みたいなものなんだから。そんなこと言わないの」
ゆずさんは、私と朱里の頭に乗った雪を、掌で優しく払った。
うちの子みたいなもの。
あまりに自然に言うものだから、その言葉をまるごと信じてしまいたくなる。
ゆずさんが本当にそう思っているかはわからないし、別に私は朱里の家の子供になりたいわけではない。
それでも、そう言ってくれる好意だけは本物なのだろうな、と思う。
「ごめんなさい」
「わかればよろしい」
「何か手伝うことはありますか? 料理とか」
私はそう切り出したけれど、ゆずさんはううんと言って首を振り、ゆっくりしてて、と言ってキッチンに体を向けた。
「アキはゆっくりしとけばいいんだよ」
後ろから朱里が押してくる。
ゆずさんはもう背中を向けてしまっているので、私は朱里に押されるがままに二階へと向かった。
朱里の部屋に入る。
ランドセルを置いてベッドに腰かけると、朱里はにやにやとした顔で言った。
「怒られちゃったね」
「なんでちょっと嬉しそうなの」
「そんなことないよ」
朱里は机の上のリモコンを手に取って、暖房を入れた。
そして買ってきたお菓子とランドセルを置いて、私の隣に腰かけた。
ベッドが小さく沈んだ。
そのままばたんと後ろに倒れると、ふわっと朱里の匂いが鼻腔をくすぐった。
「ほんとに来てよかったのかなって、私も思っちゃうんだよ」言い訳をするように、私は呟いた。「だって今日クリスマス・イブだよ」
隣に座っている朱里に表情を見られないように、私は小さく寝返りを打った。
「だから?」
「いや、だからさ。なんか、そういう日に来てよかったのかなって」
一般的にこういう日は、家族だけで過ごすべきなんじゃないかと思う。
そこに部外者の私が入り込むことは、あまりいいことではないのかもしれない。
不意に頭になにか柔らかいものが触れて、往復した。
朱里が私の頭を撫でているのだ。
「なに」
「……お母さんも、うちの子みたいなものって言ってたでしょ」朱里は少し間をおいてから言った。「アキは考えすぎなんだよ」
そうは言ってもね。
そう言い返そうとしたけれど、結局私は黙って、頭をさするその手つきに身を預けた。
その代わりに訊きたいことがあって、私は口を開いた。
「ゆずさんはそう言ってたけど」私はうつ伏せになって尋ねる。「朱里はどうなの?」
「私?」
「うん」
わかっている。こんなことを訊いたって仕方がないし、私のための言葉しか出てこないことは。
それでも朱里の口から、そのことを聞きたかった。
しばらくすると朱里は、不意に私の頭を撫でるその手を止めて、ベッドの上に正座をして私の方を向いた。
「ほら」
朱里は自分の太腿をとんとんと叩く。
なんのことかと思って彼女の目を見ると、朱里は「頭、乗せて」と言った。
「なんで?」
「いいから」
その言い方には有無を言わさぬ威圧感があって、私は黙ってその言葉に従った。
壁に寄りかかって足を延ばした朱里のそれに、頭を預ける。
朱里の制服のスカートに、すとん、と頭が落ちた。
彼女の太腿は、いつも使っている枕よりは柔らかくなかったけれど、そのかわり枕にはない体温をうっすらと感じた。
私は彼女の太腿の上で仰向けになり、ぼーっと朱里の顔を見上げた。
私の視線に気づいた朱里は、左の手のひらを私の瞼の上に落した。
「アキは反省しなさい」
「反省?」私は尋ねた。私に、反省すべき要素などあっただろうか。いや、そりゃあるんだろうけど、今ここで朱里に指摘されるようなものはないはずだ。
「何のこと?」
「私は怒ってるんだよ」朱里は少しぶっきらぼうに答えた。「自分で考えて」
怒っているんだよ。
朱里は確かにそう言った。だけどその怒っている人が、その怒りの対象に膝枕をしていることがおかしかった。
私は朱里の手の平の中で、朱里に悟られないくらい小さく笑った。
「わかんないよ、降参」
私はしばらくしてから言った。
本当にわからないわけではない。
なんとなく、こういうことなんだろうという予想はできる。
だけど私のその予想を、自分の口から言うのは憚られた。
それはあまりにも自意識過剰だし、何より、おそらく朱里も私が答えることを望んではいないだろう。
「じゃあ今から私が言うこと黙って聞いて」
まったくだめだな、と言うように朱里は言った。
私は彼女の言う通り、黙って頷いた。
「アキはさ、知ってると思うけど」朱里は訥々と話し始めた。
「私さ、友達いないじゃん。……たぶん私を作った人ってさ、家族とアキくらいのものなんだよ。私の中には、お母さんとお父さんと、実里と、そしてアキとの思い出が積み重なっていて、それが今の私を形成してる。だからそういう意味では、少なくとも私にとってはほんとに、アキはもう家族みたいなものだから」
私の瞼の上にはずっと彼女の手が置かれていて、だから彼女の顔を見ることはできなかった。
今どんな顔をしているのか、知りたいと思う。
その手をそっとどけて、彼女の顔を見た。
心なしか、少し赤みを帯びているようにも見える。
……照れるなら最初から言わなければいいのに。
私もそれに面映ゆくなる。
気恥ずかしさに私も、耳が赤らんでいくのを感じた。
「何か言ってよ」彼女は目を逸らして、ぶっきらぼうに言う。
「いや、その、なんだろ。ありがとう、かな?」
「別に、なんでもいいけどさ」
「なにそれ。じゃあ一応、ごめんもかな」
このまま朱里と話していると、気恥ずかしさでどうにかなりそうだったので、窓の外を見ようと膝歩きで窓辺まで寄った。
さっきまで静かに降っていた雪は、その強さを増していた。
住宅街の屋根は白一色に染まり、街路灯の明りが滲んで見えた。
これは本格的に積もるぞ、と私の心は踊った。
私はしばらくそれをじっと眺めていた。
しんしんと降りゆくそれは、今年が終わっていくことを否応なく意識させた。
朱里だけだったな。何かの比喩表現でもなんでもなく、本当に朱里だけだった。
私と彼女は、ずっと一緒にいた。
ただ、彼女と一緒に過ごすこの時間が愛しかった。
「今のさ」と私は窓の外を見たままで言う。「今の、すごい嬉しかったよ」
何も言葉が返ってこなくて隣を見ると、朱里はいつの間にか猫の様に丸くなっていた。
暖房が効いてきて眠くなったのかもしれない。
いつもなら眠くなるのは私が先なのだけれど。
「ねえ、朱里、起きて」私は少しいたずらをしてやろう、と朱里に声をかける。
んん、と小さな声が聞こえた。目をこすりながら朱里は私の声に体を起こした。
「朱里は私の事、家族みたいなものだって言ったよね?」
朱里はそれに、「ん? 言ったけど」と間の抜けた声で返した。だけどその後声は「それが、どうかしたの?」と不安げに揺れた。
「ううん」私は首を振って訂正する。「別に、どうかしたわけじゃないよ」
「じゃあどういう…」
朱里が言い終わる前に私は、その口を私の口で塞いだ。
数秒してからそれを離して、「でもさ、家族みたいな関係って、こういうことするのかな」と言ってにやっと笑った。
「……知らないよ」
朱里はさっきの不安げな顔を一変させ、鬱陶しそうに眉根を寄せて言った。そんなこと言うために起こしたの? といった具合に。
そして袖で口を拭って「別にいいんじゃない。どんな関係でも」と呟いた。
「まあ、確かにね」
寝起きの朱里はいつもより少しとげとげしくてかわいい。
いつものは無愛想とか素直じゃないとかそういう部類だけど、寝起きの場合は単純に機嫌が悪い感じだ。
寝起きの朱里に、面倒くさい絡み方をするのが、私は好きなのだ。
「ねえ、私たちの関係って、なんて言うの」
「そりゃあ、友達とか、幼馴染とか、そういうのでしょ」
「親友、は?」
「じゃあ、それも」
「いっぱいじゃん」
「一個しかだめって決まりもないでしょ」
朱里は投げやりにそう言って、今度は布団に潜った。「もういいでしょ。夜ごはんまで、ちょっと寝るから」
「じゃあ私も一緒に寝ようかな」
「好きにしたら」
たぶん「いいよ」という意味なのだろう。
少なくとも拒否はされていない。
私は勝手にそう解釈して、朱里の入った布団をめくってその隣に潜り込んだ。
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