第3話 私の仲直り

 階段を下って一階へ向かうと、お母さんはキッチンで料理をしていた。

 お母さんとは、別に喧嘩したわけではない。ただ一昨日少し口論になっただけだ。

 きっかけは、私がお母さんに洗濯物を畳むことを頼まれていたことを忘れていたことだ。


 そのことに気づいたとき、すぐに謝ればよかった、と今となっては思う。面倒で、一度しらを切ったら怒られてしまった。


 つまるところ、私が悪いのだ。

 謝るタイミングを見失ってしまったこと。

 そして、一度よくない態度をとってから改めることができなかったこと。

 悪かったところをあげたらきりがない。


 だけどたぶん、お母さんは怒ってはいないと思う。

 今朝だって普段通りにご飯を作ってくれたし、いつものように送り出してくれた。

 さっさと私が謝れば済む話だったのに、アキに背中を押されるまで、勇気を出すのに時間がかかってしまった。


「お母さん」

 包丁を握っている背中に声をかけると「はーい、ちょっと待ってね」と、優しい声が返ってくる。

 私はそのことに少し安心した。

 もしも不機嫌そうな声が返ってきたらと思うとぞっとする。

 もっとも、お母さんのそんな声は聞いたことはないけれど。


 お母さんはタオルで手を拭いて、私の方を振り返った。

 私は大きく息を吸って吐いて、ゆっくりと口を開いた。

「あの、言わなきゃいけないことがあって」

「なあに、あらたまって」

 お母さんは何でもないような顔をしている。

 だけど、たぶん私が今から何を言おうとしているか気づいている。私が切り出しやすいように素知らぬ顔をしているのだろう。

 その優しさを内心ありがたく思いながら、私はお母さんに切り出した。


「あのね、その、洗濯物、畳むの忘れちゃっててごめんなさい。それと、すぐに謝れなくて、ごめんなさい」

 私は一息にまくしたてて、おもいっきり頭を下げた。

 すると、私の頭の上を何かがわさわさと滑る感触があった。

 ゆっくりと顔を上げると、お母さんはにんまりとした顔で私を見ていた。


「よく言えました」

 お母さんはその、にんまりとした顔のまま私の頭を撫でまわしていた。

 そしてその手をわしゃわしゃと動かしながら言った。

「もとから怒ってなかったよ。謝れてえらかったね」

「いや、別に」と私は言った。「私が悪いし」

 しばらくその手を私の頭の上で往復させた後、お母さんはその手を離した。

「お母さんもごめんね。はい、仲直り」

 お母さんは両腕を広げた。私が首をかしげると、お母さんは「仲直り、でしょ」と言って腕をぱたぱたさせた。

 その場違いな仕草が、なんだかおかしくて私は少し頬を緩めた。


 私はお母さんの腕の中に飛び込んでぎゅっとした。

 その柔らかな腕の中で私は、深い安堵感に包まれた。

 お母さんの持つこの匂いは、なぜ私をこうも安心させるのだろう。

 同じ家で、同じ柔軟剤で、同じものを食べて生きているのに明らかに私とは匂いが違う。

 もっと深くて、もっと温かい。不思議だ。

 それはそうとして、仲直りできたことを伝えなえればいけない相手を思い出した。

「アキが背中押してくれたんだ」

 私はお母さんから離れて言った。「お礼、言わなくちゃ」


 私はばたばたと階段を駆け上がった。二階のドアを開くと、アキは本棚の漫画を読んでいた。

 私が部屋に戻ってきたことに気づくと、アキは顔を上げた。

「うまく仲直りできたみたいだね」

「聞こえてたの?」

「顔見たらわかるよ」

 この部屋には鏡がないから、今自分がどんな顔をしているのかわからない。

 だけど、それを教えてくれる相手ならいる。


 私はアキのそばに座った。「私今どんな顔してる?」

「言うまでもないよ。自分でわかるでしょ」アキは漫画に目を戻しながら言った。「声も明るいし」

 自分の顔を触ると、若干口角が上がっていた。

 私はお母さんと仲直りできたことが、自分で感じている以上に嬉しかったのかもしれない。

 私はそこまで表情に出る方じゃないと思っていたのだけれど。


 崩れた表情をアキに見られたことが恥ずかしくて、私は取り繕いながら「そんなことないよ」とすまして言った。

「お母さん、なんて言ってた?」

「んー。最初から怒ってなかったって。私が謝るのを待ってたって」

「朱里のお母さんらしいね」そう言ってアキは漫画から顔を上げて笑った。「じゃあこれで、一件落着だね」

 いっけんらくちゃく。

 彼女の少し舌足らずの発音がかわいかった。


「まあそうだね。一件落着」そしてさっきから、アキが触れないようにしていることがある。「あとはアキがご褒美くれるだけかな」

 するとやはりアキはぎくっとした表情をして、「やっぱり覚えてた?」と言う。

「そりゃ覚えてるよ」私は少し語気を緩めた。「そのために頑張ったんだもん」

 するとアキは、はあと大きくため息を落とした。


 彼女の気持ちはわからないでもない。

 私だって、自分からする時はちょっと恥ずかしい。

 しかしこうも露骨に拒否されると、それなりに悲しくはある。

 ねえ、とアキに声をかけると「わかってるよ」とすぐに返事があって、「ちょっと待って」と続けられた。「まだ、心の準備ができてないんだよ」


 心の準備。いつもしていることに今更心の準備も何もないと思うのだけれど、それは口には出さなかった。

 彼女には彼女なりのペースがあって、私がそれを歪めるわけにもいかない。

 別に嫌と言われたわけではないのだから、と自分にそう言い聞かせた。


「まあ無理強いはしないからさ。今日じゃなくてもいいし」

 無理強いはしない、本当に。

 実際いつかそのうちしてくれるならば、その約束を取り付けられただけでも、釣果は上々と言えるだろう。


 しかしアキは私の意に反して、言った。

「いや、今日する。今しないと一生できない気もするし」

 アキは意を決したように立ち上がり、手元の漫画を本棚に戻した。

 その後部屋の中をぐるぐると歩き回り、突然私の前に立ち止まった。

「よし、じゃあ、いい?」

 アキは、急に立ち止まったと思ったら意を決したように言った。


 ……あれ。

 いろいろと本来そこにあるはずの過程や脈絡をふっとばしているような気がする。

 まあ今に始まったことではないか。


「ほんとに大丈夫?」

「早く。決意が揺らぐでしょ」

「今日じゃなくてもいいって言ったのに」

「だめだって」


 そういうもんかな、と言おうと思ったけれど、そういうもんだよ、と答えが返ってくるのはわかりきっている。

 彼女は決意が揺らぐ、なんていうけれど、一度すると決めたら彼女はたぶん揺らがない。

 どちらかと言えば、なぜか私の方が揺らいでしまっている。

 彼女がしてくれるって言ってくれているんだから、私にはそれを断ったり彼女の意志を確認したりする必要なんてないはずなのに。


 私は小さく「わかった」とだけ呟いて、彼女の方を見つめた。「じゃあ、お願い」

 

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