第4話 目、閉じて

「目、閉じて」


 アキは私の目を見つめ返して言った。 

 私は黙って目を瞑った。いつも先に目を瞑るのはアキの方だから、こういうのは初めてのことで緊張する。

 私はアキがしてくるのを待つことしかできない。


 目を閉じて感じる数秒が、時間が本来もつその長さより、何十倍のものの様に感じられた。

 一階でお母さんが垂れ流しているテレビから聞こえてくる夕方のニュースの音。

 私の心臓の音。

 私かアキのものかわからない、微かな息遣い。

 秒針の音。

 それらが鼓膜を薄く揺らしている。


 その繊細な呼吸の音が不意にやんで、私の肩にそっと手が乗せられた。

 その手つきは、ガラス細工に触れるくらい恐る恐るといったもののようにも思えたし、本棚に並べられている小説を手に取るくらい自然なもののように思えた。

 彼女の体温が、私を取り巻く空気の温度に侵食し始めた。それで、彼女と私の間に、もうほとんど距離がないのであろうことを知った。


 微細な温もりが肩から私に伝わり始めたのを感じた頃、彼女の唇が私のそれに触れた。

 触れて、二つがくっついてからアキは、ほとんどそれを動かさなかった。

 どれくらい長くくっついているのかは秒針の音が伝えていたはずだが、私は自分の心臓の音でそれがうまく聞こえなかった。


 そしてその傍ら、自分の中に邪な感情が芽生えているのを見つけた。

 いままでそれなりの回数やってきたけれど、それを見つけるのは初めてで、私は動揺した。

 正しいキスがどんなものなのかはわからない。漫画や小説で見るようなものが現実であるのかも知らない。


 だから、いま彼女としていることが、ただしいキスなのかはわからない。

 だけど、いま彼女としていることが正しいやり方だとしても、これじゃ少し物足りない。

 もっと、彼女のことを知りたいと思った。


 彼女の唇を舌先で突き、その入り口を少しこじ開ける。薄く開かれたその中に舌を入れようとすると、彼女の唇でぎゅっとつままれた。

「痛い」私は口先を離して言う。

 実際痛みが出るほどの強さで挟まれたわけではないけれど、阻まれた抗議の意味を込めて私はそう言った。


「なにしてんの」

 彼女のその問いには答えず、私はただ「いいじゃん」とだけ言った。

 彼女からしてほしかったはずが、結局また私からしようとしている。

 それでも私の中に生まれたその衝動に抗うことはできず、私はまた、彼女の方に近づいた。


 掌で彼女の瞼を下ろす。

 うるさい心臓の音を無視してあてがった唇は、一回目のそれよりは温かかった。

 それが私のせいなのか、もしくは彼女のせいなのか、それとも両方のせいなのか、わからなかった。

 しばらくそうしていると、私と彼女の体温が混ざり合っていった。

 その境界線が曖昧になっていくのがなんとなくわかった。


 下唇を何度か食んで彼女の反応を確かめる。

 すると、彼女もわずかに唇を動かして答えてくれた。

 もう一度舌を入れようと思ったけれど、さっきアキに拒まれたことを思い出した。

 許可を求める意を込めて舌先でつつくと、何度か逡巡したあとに薄く開かれた。

 舌を伸ばし、柔らかなものに触れる。それを確かめたくて舌先で触れると押し返された。


 それに抗うようにまた押しつけると舌先が絡み合った。それに驚いて舌を引いた。

 気づけば、私の呼吸は乱れていた。自分がどんな風に息を吸っていたの思い出せない。

 息の仕方がわからない。今までこんなやり方したことがなかったから。

 一度離して、息を吸って、またあてがう。


「もう、終わり」

 もう一度舌を入れようとしたところでアキが唇を離した。正直なところ少し安心した私がいた。

 これ以上は危ない。靄がかかり始めた脳が、そう伝えていたから。

「そうだね」

 本当なら、もう終わり? なんて言って悪態の一つでもつきたいところだったけれど、生憎そんな余裕は残されていなかった。


 深呼吸をして呼吸を整えた。

 脳に新鮮な空気を入れて、さっきまでかかっていた靄を晴らした。

 冷静になると、萌芽していた邪な感情はなりを潜めて、その代わりに残ったのは、さっきまでの行為の残滓がもたらした微妙な空気感だけだった。

「ごめんね」

「なにが」

「いや、ちょっと変だったよね。私」私は手の甲で唇をぬぐいながら言った。「なんか、危なかった気がする」

「別にいいよ」アキは私から目をそらして、机の上のお菓子を手に取った。「嫌じゃなかったし」


 嫌じゃなかった。

 その言葉をどういう風に受け取ればいいのかわからないけれど、拒まれたわけではないんだろうな、と思っておくことにした。

「そっか。嫌じゃなかったなら、よかった」

 私もそう言って机の上のお菓子に手を伸ばした。知らない形の魚に象られたそれは、今の私にはちょうどいい塩気だった。


「これ、何の魚かな」

「わかんない」アキはまた、別の形の魚に手を伸ばしながら言った。「わかんないのばっかりだよ」

「そうだね」私も首を縦にふって同意した。わかんないのばっかりだ。


 二人してお菓子を食べたりジュースを飲んだりして駄弁っていたら、一階からお母さんの大きな声が聞こえた。「ご飯だよ」

「あれ、今何時だっけ」

「7時過ぎくらいじゃない」

 私の家のご飯は大体8時か、それより少し早いくらいだから、この時間帯の夕飯は珍しい。

 早い時間帯の夕飯のいいところは夜が長く感じられるということで、悪いところは寝る前に少しおなかがすくということだ。


「今日の夕飯、結構早めじゃない?」

「ね、思ってた」私は立ち上がりながら言った。「お菓子食べ過ぎて、あんまり夕飯入んないかも」

「私も」アキは言った。「でも今日コロッケだし、絶対食べきるよ」

 そう言ってアキも立ち上がった。


 私たちは、部屋の電気を消して、階段を下りて一階へと向かった。

 

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