第2話 彼女の仲直り
練習しない?
彼女がそう言いだしてから、もう一か月が経とうとしている。
なんだかんだ言いつつも、私はそれに首を縦に振って答えた。
何の練習かは明白だ。語るまでもない。
彼女と初めてキスした日から、私は何度か朱里の家に行って、何度か同じ夕飯を食べて、何度か隠れてキスをした。
今日も彼女の家に向かっている。当然、朱里も一緒だ。
「今日、コロッケらしいよ」
「お、やったー」
ゆずさんの作るコロッケは絶品だ。
今まで何度もゆずさんの料理を食べてはいるけれど、その中でも私が一番好きなのがコロッケなのだった。
「アキ、ほんとにコロッケ好きだよね」
「だっておいしいじゃん。うちではお父さんコロッケなんて作ってくれないし」
「まあまあ、アキのお父さんの料理もおいしいでしょ?」
「まあ、頑張ってはいるかもね」
実際、お母さんがいなくなってから、お父さんは料理を頑張ってくれている。
だけど仕事が忙しくて、あまり厨房に立つことはない。
今では私が厨房に立つことが多いくらいだ。
朱里の家に着くと、元気な声でゆずさんが出迎えてくれた。
「二人とも、おかえりー」
ゆずさんは私が来た時に「おかえり」と言う。
私の父の帰りは遅い。私が家に帰るときは、ほとんど父は家にいない。
私が「おかえり」という声を聞くのは、ここに来るときだけだ。
だから、この家に来るたび、私は少し嬉しくなる。
「お邪魔します」
だけどここは私の帰る家はここではない。ただいまとは言えない。
だから私は毎回、お邪魔しますとだけ言うのだ。
「いいから、入って」
朱里がゆずさんの言葉を無視して、後ろから私を押してくる。
あれ?
些細な違和感を覚える。少しして、その正体に気づく。
朱里が、頑なにゆずさんと目を合わせようとしないのだ。
いつもはそんなこと絶対ない。基本的に朱里はゆずさんと仲がいい。
何かあったのかな、と思いながらも聞けずに朱里に連れられて二階へ向かう。
ゆずさんは、ご飯ができるまでゆっくりしていってね、と言っていた。ご飯ができるまでに何があったか聞いてみよう。
「なんかおやつ持ってくる」
そう言って朱里は一階へ向かっていった。
朱里とゆずさんの間に何があったか。
少し考える。
まあ…… 喧嘩したんだろうな。
「あんまりいいお菓子なかった」
朱里が一階から戻ってきて、お菓子とジュースの乗ったお盆を机の上に置いた。
お盆の上には魚を模した形のおやつと、細く揚げたポテトチップス、それとオレンジジュースが並んでいる。
「いいじゃん、私これ好きだよ、おいしいじゃん」
私はタコやマンボウの形をしたそれを摘まんで、口に運ぶ。
「私も嫌いじゃないけどさ。お母さん、自分の好きなお菓子ばっかり買ってるんだもん」
やっぱり、と思う。お母さんの好きなやつだからと言って忌避する必要なんてないはずだ。
でもそれがあまりにも露骨すぎて、私は少し笑ってしまった。
「ねえ、お母さんと喧嘩したでしょ」
私は笑いを悟られないようにしながら、朱里に問いかけた。
「……してないよ」
朱里はか細い声で否定したけど、その反応から喧嘩したのは明白だった。目線をそらしたその顔がかわいかった。
私は朱里の顔をしたから覗き込みながら「ほんとに? 嘘はなしだよ」と言った。
「……なんでわかったの?」
やがて朱里は観念したように、ぼそっと呟いた。
「やっぱり。全然ゆずさんと目合わせようとしないし、そりゃわかるよ」
「そっかぁ」ぽつり、と朱里は言った。
「喧嘩したの?」
「喧嘩って言うか。ちょっと言い合いになったというか」
「内容は?」
「別に、些細なことだよ」
些細なことで言い合いになるほど、この親子の仲は悪くないとは思う。
どんな内容で喧嘩したのか知りたいとは思うけれど、あまり言いたくはなさそうなので深くは追及しない。
「まあ何でもいいけどさ、早く仲直りしなよ」
「そのうちね」
「仲直りしてないと、夕飯の時私が気まずいんだけど」
最悪仲直りするのが今日でなくてもいいんだけど、気まずい夕飯にはしたくない。
私は、みんなで談笑しながら食べるご飯が好きなのだ。
「うーん」と唸っている朱里に、私は「変な意地張ってないでさ」と言う。今日の彼女は、少し強情だ。
つんつんと横腹をつつくと、それを鬱陶しそうにしながら、「どんなふうに謝ればいいのかわかんない」と、朱里は返す。
渋い表情をした朱里の口から放たれた言葉は、理由と呼ぶにはあまりにいとけない。
私は、自分のお母さんとのことを思い返す。
私がお母さんと喧嘩をすることはほとんどなかったが、その頻度が少ない分、一度喧嘩すると、それは長引いた。
お互い折れずに意地を張りとおし、最後には痛み分けのような形でうやむやになるのが常だった。
だから実は、大きな顔をして人のことは言えないのだ。
それでも、朱里には今仲直りしてほしいのだ。
私は一つ、朱里に提案をする。
「じゃあさ。今から私のことをお母さんだと思って謝ってみてよ。それで実際に謝るときは、今からやるみたいにお母さんを私だと思って謝ってみてよ。そしたら少しは謝りやすくならない?」
「んー、そうかな」
朱里は、若干不服そうというか、納得していなさそうだったけれど、ほら、やるよと声をかけると不承不承と言った感じで頷いてくれた。
「じゃあ、いくよ」そう言って朱里は切り出した。
「……ごめんなさい、この前は、嫌な態度とっちゃって。ひどいことも言っちゃったけど、ほんとはそんなこと思ってないから。反省してます。ごめんなさい」
そう言って朱里は頭を下げた。殊勝に自分の心境を述懐する口ぶりはしおらしい。
こんな態度で彼女に謝られたら、だれでも許してしまうだろうと思う。
それに、なんというか、ここまでしおらしい朱里は珍しい。
そんな彼女を見ていると、からかったり、いじめたりしてしまいたくなる。
よくない衝動だ、と思いぶんぶんと顔を振る。
私は何でもないふりをして、下げられた朱里の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「うん、よかったよ、すごく。絶対ゆずさんも許してくれると思う」
「え、そんなに?」朱里はそう言って顔を上げる。
朱里は私の感想に少し動揺したようだった。確かに私情を交えすぎたかもしれない。
「よかったよ、ほんとに。よし、行こう」
そう言って私は立ち上がり、朱里の背中を押した。
「待って待って。急すぎない?」
「こういうのは勢いが大事なんだよ」
「わかった、わかったからちょっと待って」
「もー、なに」
「うまくいったら、ご褒美ちょうだい」
唐突に朱里がそんなことを言ってくる。
「なに、ご褒美って」
「……わかんない?」
まさか。「え、キス?」
「だめ?」
まったくそういう文脈じゃなかったのだと思うけれど、急に変なことを言い出すから私は困惑してしまう。
しかも、「ご褒美」ってことは、私からしてってことなんだろう。
どうしよう。いままでそれなりにしてきたけど、私からしたことはなかった。
やり方がわからないなんてことはないけれど、いざ私からとなると及び腰になってしまう。
だけど、朱里がその「ご褒美」があることで頑張ることができるなら、私も頑張らないといけないと思う。
「わかった、いいよ、したげる。だから頑張って」
私は朱里を一階へと送り出した。
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