第2話 病院

 メメと名乗る少女の体は、柔らかかった。

 いや、これだけ言うと語弊がある。何も齢十八の少女の体をどうこうしてやろうと思ったわけではない。目出し帽集団との戦闘で力尽きたメメをなんとかしようと、俺はひとまず彼女を抱きかかえた。するとどうしたことか、添えた右腕を岐点にするようにして、メメの背骨がぐにゃりと曲がったのだ。

 いや、これもまだ語弊がある。背骨が曲がったのではなく、。背中、首、脛、腰、およそ人間の大きな骨があるであろう部分がぐにゃぐにゃなのだ。

「ナマコで出来てる」とは言っていたが、それを聞いてハイそうですかというものでもない。ナマコといえばあれだ、水族館でかろうじて見たことがある。黒くて、丸くて、ぶよぶよで、生きてるんだか死んでるんだかわからない、魚みたいな虫みたいな、あれだ。人間の体があれでできているわけがない。

 あまりの不気味さに疲れがどっとでたのか、一気に血の気が引いた俺は、そのまま気を失ってしまった。


 ***


 窓から差し込む光で目が覚める。俺は病院のベッドの上にいた。

 五、六メートル四方の真っ白な病室。四つのベッド。衣服は昨晩のままだ。

 ふと横を見ると、昨晩のナマコ少女――メメがカーテンを開けたところだった。夏の日差しが眩しい。

「おはよう、おにいさん。昨日は災難だったね」

「……おかげさまでな」

 そうだ、もとはといえばこの子に関わったせいでなぜか今病院にいる羽目になってるのだ。悪態をつきたいところだが、メメの頭に巻かれた包帯を見て言葉を飲んだ。

「そっちこそ昨日は大丈夫だったのか。頭、ぶっ叩かれてたろ」  

「言ったでしょ、私そういうの平気なの、だから」

 ぐにゃり。手に残る感触を思い出し、身震いする。やはりあれも夢ではなかったか。

「それにしてもこんな時間までカーテン閉めっぱなしなんておかしいよ。この病院、看護師さんいないのかな」

「なあ、お前――」

「メ・メ」と即座に、一音一音押さえつけるように訂正が入る。

「……メメは、一体何者なんだ。伊緒奈とどういう関係だ。というか、どうしてチンピラに追われてた、ナマコってどういうことだ、あとあの不思議な技というか手品というか、あれはなんなんだよ」

「何者、ねえ……」カーテンの端を結び終えたメメは、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。

「伊緒奈さんは大学の先輩。サークルが同じで、まあ仲良くしてもらってるっていうか……」

 メメが口の前人差し指を持っていき、小さく十字の形を作る。

「それが二週間前から連絡取れないからさ、心配で。誰に聞いても連絡つかないって言うし。どうしようと思ってたときに、前にお兄さんが居酒屋でアルバイトしてるって言ってたのを思い出して……」

 なるほど、それで俺を訪ねてきたわけか。と腑に落ちた次の瞬間、メメの指の交点が黒く変色し、むくむくと盛り上がったかと思うと、缶ジュース大の物体が出現した。「うおっ!」と思わず声を上げてしまう。

「ナマコ……だよな? 」

 ぼとっ、と俺が横たわるベッドの縁にナマコが落ち、掛け布団ごしに脚に感触が伝わる。確かにそこに存在するナマコ。また「うおっ」と声を上げてしまう。

「そう。私自身もナマコだし、こうやってバッテンからナマコを出すこともできる」

 なんでもないことのようにさらっと説明するメメ。その目の前で、ナマコはもぞもぞと蠢いている。

「いやいやいや、どうすんだよこれ。病室にナマコなんて看護師にどう説明するんだよ」

「大丈夫、こうすれば――」と言いながらメメがナマコに左手を押し付けると、ナマコは跡形もなく消えた。にゅるん、とメメに吸収されたように見える。

「すぐ戻せる」ほらっ、と言いながら左の掌を見せつけてくる。マジシャンが、種も仕掛けもありません、と観客にアピールするように。あまりの光景に、突き出された左手とメメの顔を交互に凝視してしまう。思考が追いつかない、追いつくはずもない。

 蝉時雨が大きくなる。窓から差す夏の日差しはあまりに強く、現実味のない白々しさだ。

「『ほんとに人間?』って顔してるね」とメメに言われ、我に返る。

「いや、すまん、つい……でも、こんなことが……」

「大丈夫、私もずっと自分のことヤバいと思ってるから。この力も、本当は人に見せたくないし」

「じゃあなんで……」今、わざわざ見せてくれたんだ。

「昨日見せちゃったからもうしょうがないでしょ。あいつらしつこいんだもんなー」と、メメはうつむきがちに、口をとがらせる。

 ごく一般的な少女との、ごく一般的な会話。それとは対象的に、さっきまでそこで蠢いていた、ナマコの感触。

 全てが白に包まれた病室で、メメのパーカーと黒髪はぽつんと黒く、まるでそこだけポッカリと穴が空いているようだ。

「でもなんか、おにいさんになら、話してもいいかなって。伊緒奈さんのお兄さんだし、それに――」

 ふっ、と顔を上げたメメと、目が合った。

「私を助けてくれたでしょ?」

 蝉時雨が止む。

 夏の光の中に、少女の輪郭がくっきりと浮かび上がった。


 コンコン。

 無機質にノックの音が病室に響く。

「失礼しますよー」という声とともにドアが開き、医者が入ってくる。

「どうですかご気分は」

 そういえば気を失ってたにも関わらず、体に疲れは残っていなかった。むしろ久しぶりにたっぷり睡眠を取れて、調子がいいぐらいだ。

「特になんともないですね」と応える。

「ああ、そうですか。……ところで」と、医者は全く俺になんて興味がないように即座に話題を変え、メメの方を向く。

「あなた、すごいですねさっきの。手からウニョウニョって。あれ、どうやるんです?」

 えっ、とメメが小さく漏らしたのが聞こえた。この病室のドアはすりガラスになっていて、外から中の様子は見えないはずだ。室内の監視カメラから見られていたのだろうか。

「いやあアレは別にただの手品ですよー」

軽く流すメメ。対応に慣れが見えるが、その答えで納得する奴って果たしていたのか……?

「あれは……一度に何個まで出せるものなんですか?」

 医者の目つきがだんだんと白い光を帯びてくる。口調がねっとりしてきた。

「速度は? ニュルンて出すだけじゃなくて、なんというのかな、発射できるでしょ? 当たったらかなり痛そうだ……」

 俺はメメと目を合わせ、ベッドから身を抜いた。

「あとだいぶ強度あるよなあ……昨日やられたときは、でこがカチ割れたかと思ったぜ……」

 三者同時に臨戦態勢をとる。医者は懐からメスを抜き、メメは指を十字に構えた。

 、と言った。昨日の目出し帽の中に、この医者がいたのか。

 よく見たらこの医者、かなり若く、体つきががっしりしている。確かに昨日襲われたチンピラもこんな奴らばかりだったような。しかし、だとしたらなぜこの病院にわざわざ搬送を……?

 マスクをしていて表情はよくわからないが、爛々とした目つきからは、この状況を楽しんでいるように見える。

 医者の注意が明らかにメメのほうへ行っている。どうするか、俺が飛びかかり、動きを封じた隙にメメがトドメを……。

「動かないで。さっきそいつの白衣の裏にびっしりメスが仕込んであるのが見えた」

……なるほど、取り押さえても、暴れられて血まみれになるのはこっちってことね。

 それを聞いて医者がわかりやすく肩を落とす。

「はぁ……いいんだぜ抱きついてきても。ま、すぐ終わるから大人しくしときな……」

「ずいぶん余裕だね。状況わかってんの、おっさん」とメメが言い放つ。確かに、二対一。医者は刃物を持っているとはいえ、こっちには戦闘慣れしていて特殊能力を持つメメがいる。

「それはこっちのセリフだお嬢ちゃん……」たまらないといった表情で医者が言う。

「本当にあんたらをやっちまうなら目を覚ます前に拘束でもしてしまえばよかったんだろうが、俺はやらない……。俺は実戦とが主義なんだ」

 ガラリ、と扉が開く。看護師が――廊下にいる無数の看護師が――なだれ込んでくる。

「見せてくれよぉ……お嬢ちゃんの能力」

 とっさに俺はメメの近くに移動し、構える。完全に部屋の隅に追いやられた形だ。ものの数秒で看護師はどんどん入ってくる。

「お兄さん、私のお腹殴って。早く!」

 昨日のことを思い出し、何をするつもりかは察しがついたが、気が引ける。だが、考えている時間はない。

 腰を落として踏み込み、メメの鳩尾に下突きをいれる。

「うっ」という声とともにメメは白いを吐き出した。部屋一面に広がったそれは、医者と無数の看護師の上に覆いかぶさる。かなり粘性が高いようで、看護師たちの動きが完全に止まった。看護師たちが口々に呻くのが聞こえる。

「おいおいこれなんだよ、聞いてないぜ……」と医者が言うのが聞こえる。

「お嬢ちゃんの能力ってナマコが出せるだけじゃねえのか……?」

「わたひ自身もナマコなのー」口からが出たまま喋るメメは呂律が回っていない。

「なるほどねえ……ナマコの体ってことは、これはただの内臓じゃなくて、ってやつかぁ……でもあれって確か、ナマコの肛門から出るんじゃなかったか」

 ピュッ、と追加でメメの口から医者の顔面にが飛ぶ。医者はスパッツを被った芸人みたいにもがいている。あれ、もしかして息ができないんじゃないか?

「えっちぃー」と言い捨てるメメ。

「はへ、出口は塞がれひゃってるからー……はどだね」

「窓か」と確認すると、こくんと頷くメメ。

「でも窓から逃げるにしても、ここ何階だ? 飛び降りられる高さなのか」

 メメが両手で指を七本立て、こっちに見せてくる。飛び降りるには無理がある高さだ。

「はいひょーふはいひょーふー」と言って、メメは自分の口から伸びた白いものをぐっと引っ張って見せた。看護師たちと病室の内壁にへばりついたそれは、ちょっとやそっとでは剥がれそうにない。

 これまでスーツアクターとして散々殴られ、スタントの仕事もして来たけれど、今度のはちょっとばかり度胸が要りそうだ。


 ***


 七階からの飛び降りスタントをして病院を抜け出した俺とメメは、ひとまず駅に向かってひた走った。状況の整理がついているわけではないが、まずは安全な場所に避難する必要がある。最初、近場で身を潜められる場所を探そうともしたが、一旦この街から離れるのが先だと考えた。

 駅に着く。改札を抜け、来た電車に乗った。車内はがらんとしている。

 長椅子に腰を下ろし息を吐くと同時に、ドアが閉まる。静かに電車は動き出した。不気味な病院から抜け出せた安堵感がこみ上げてくる。

「なんなんだあいつら。ナマコの力のこと知りたがってたみたいだったけど……」

「うん……今までそんなことなかったのにな……」メメはまるで走ってなんていないように呼吸一つ乱れていないが、不可解なようで神妙な顔をしている。

「内蔵はその、もういいのか」

「うん、もう大丈夫。十五分位あれば回復できるし、昨日ほど消耗してたわけじゃないから。」

「なあメメ、さっきの病室での質問、まだ答えきってくれてないよな」

「ナマコの話はしたでしょ?」

「それはわかった。あいつらはなんなんだよ。あの医者と看護師、それから昨日のチンピラ。なんか知ってんだろ」

メメは沈黙した。電車の走行音だけが虚しく響く。

「……お兄さんには、関係ないでしょ」

メメはうつむき、膝に手を置いて一点を見つめている。

それはそうだ。もとはといえば俺がおせっかいで揉め事に首を突っ込んだけの話で、これ以上深入りしなくてもいいかもしれない、だが……。

メメは視線を動かすことなく、口を開いた。

「お兄さんこそ、なんで助けてくれたの」

攻め立てようというわけではなさそうな、単純な疑問。

今度は俺が沈黙する番だった。

「いや、なんでって言われても……」

なぜなのだろう。昨晩からの自分は、自分でもよくわからない。

思考を巡らすほどに、沈黙は深くなる。電車の走行音も小さくなり、体が無音に包まれる。


 電車が途中の駅に着いた。プシューという音がして扉が開き、乗客がまばらに入ってくる。ドアはすぐに閉まった。

 嫌な予感がした。俺とメメの思考が、強制的にさっきの街に、病院に戻される。

「あのさ、私思うんだけど、あのお医者さんと看護師ってさ……でもまさか――」

「いや、そのまさかだろ」

 違和感はあった。看護師が病室に入ってきた瞬間から電車に乗るまで、逃げることに必死でそんなことは無視していたが。

「あの看護師って、みんな男の人だったよね」

「別に男でも看護師にはなる人はいるだろ」

 そうじゃなくて、とでも言いたげに、眉をひそめながら頬を膨らまし、こちらを無言で睨みつけるメメ。

「駅に着くまでに見かけた街の人――病院の前にいた人も、犬の散歩していた人も、学生も、おまわりさんも、配達員も――みんな、男の人だったよね」

 全員同じ体格、同じ声。全員マスクをしていたのでちゃんと見えたわけじゃないが、同じ目つきをしていた。冷静に理解しようとすればするほど、異様な光景が思い出される。

「そっくりさんしかいない街……だったのかな」

「だといいんだがな」

 ふと周りを見渡す。平日の昼間、乗客はまばらにしかいない。全員がサラリーマンのようだ。皆同じようなスーツを着て、革靴を履き、手元のスマートフォンを操作している。嫌な予感が、当たった。

「メメ、こいつら全員――!」

 瞬間、隣の車両とを繋ぐ扉が空き、サラリーマンが次々に入ってきた。さっき病室で見た無数の看護師がフラッシュバックする。

 今度はマスクをしていないからよく見える、間違いない。

 サラリーマンは、

 疲れ切って似たような顔になっている、とかではない。同一人物なのだ。一卵性双生児、クローン、ドッペルゲンガーといった単語が頭の中に浮かぶ。

 あまりのことに気を取られているうちにいつの間にか俺は席を立たされ、満員電車の真ん中で棒立ちになっていた。人が多すぎて身動きが全く取れない。サラリーマンは全員が狭い手元でスマートフォンを操作していて、周りのことなど全く意に介していないようだった。俺はまだ通勤ラッシュというものに遭遇したことはないが、おそらくこんな感じなのだろう。

「おにいさ〜ん」人混みの向こうから間の抜けた声が聞こえた。

 気づくとメメはサラリーマンを三人ほど挟んだ向こうに埋もれていた。周囲を身長百八十センチメートルはあろうかという男に囲まれ、百五十センチメートルほどのメメの姿は見えない。

「おい、大丈夫か!」と思わず叫ぶ。

「足がつかな〜い、たすけて〜」

「緊張感ないな」

「体がぎゅっと潰されてるんだよ〜、痛くはないから平気だけど〜」

なるほど、ナマコの体は便利なものだ。

 だがこの状況はかなりまずい。攻撃を仕掛けてくるようには見えないが、目的が見えない。しかし奴らの近くにいて安全な訳はない。なんとかこの状況を抜けなさなくては。

「メメ、昨日のナマコ乱射でこいつら蹴散らせないのか!」

「無理〜両手が挟まれちゃってバッテンつくれないよ〜」

 メメは呑気に「あれはナマコ乱射じゃなくて、ナマコブレットっていうの〜」と喚いている。技名をつけているのか、いかにも未成年らしい。

「おにいさんは〜? おにいさんはバッテン作れないの〜」

「俺がやったってしょうがないだろ」

「出せるよナマコ〜おにいさんがバッテン作ってくれたら〜。近くのバッテンなら大丈夫だからさ〜」

 それを早く言え、と思い両手を合わそうとしたが、右手が上がってきたのみだった。左手はサラリーマンにガッチリ挟まれていて、全く引き抜けない。引き抜こうとすればするほどサラリーマンの力は強くなるようで、左腕が折れてしまいそうになる。

 俺は痛みに堪えながら左側のサラリーマンの頭部を殴るが、身動きが取れないため体勢が悪い。あまりダメージが入っていないようだ。それなら、と思い右手でポケットからスマートフォンを引っ張り出し、サラリーマンの頭部に叩きつけた。角で殴っているが、無視される。なんなんだこいつら。自我があるのかないのか。

「おにいさん、今スマホ持ってるよね」メメの声がした。さっきとはまるで違う、緊張感のある声だ。

「ああ、持ってるが」

「メモ機能あるでしょ。そこにバッテン書いて」

 なるほど、絵に書いた十字記号でもナマコが出せるのか。

 俺は即座にスマートフォンのメモをペイントモードにし、片手で画面いっぱいのバッテンを書いた。それをまずは俺の左手を挟んでいるサラリーマンの側頭部に向ける。準備完了だ。

「いいぞ、メメ! ぶっ放してくれ!」

「まだ。こいつら、全員殺す」

 急に物騒なことを言い出すメメに、思わず「え」と漏らしてしまう。その声は間違いなく、怒りに満ちていた。

「そのメモ、画像にしてファイル転送して。全員に。」

 俺は即座にそれを実行した。サラリーマンたちが見ているスマートフォンには、「粟森タケルが一枚の画像を共有しようとしています」というメッセージとともに、俺の書いた歪なバッテンが表示される。それと同時に、メメが静かに発声した。


「ナマコドロップ


 ドドドドという打撃音が車内に響く。スマートフォンから発射されたナマコが、一人一撃ずつ、サラリーマンの眉間に直撃した。満員電車の圧迫感は相変わらずだったが、周囲のサラリーマンは全員一撃で失神してしまった。おそらく床には、手から滑り落ちた人数分のスマートフォンと、ナマコが落ちているだろう。


 電車は駅に到着し、扉が開く。俺とメメは、累々としたサラリーマンをかき分け、なんとかプラットホームに降り立った。

 車内は芋洗い状態でひどい熱気だったが、外の暑さはそれ以上だ。プラットホームには屋根がついており、電車が横付けするあたりはすっぽり影に覆われてるが、端のほうには屋根がなく、日差しが容赦なく降り注いでいるのが見える。

 振り向くと電車からサラリーマンたちが溢れ出ていた。これが勤勉に職務を全うしてきた者の末路かと思うと悲しくなる。

「しかしよく思いついたな、ファイル転送機能で一網打尽にするなんて」

 メメがうんざりした様子で口を開いた。

「あいつら、痴漢してきたんだよ」

「え」

「だからやり返してやろうと思って、思いついた。ちょっと前に流行ったでしょ、画像共有するタイプの痴漢。それで殺してやったの」

「……死んではないよな」

「死ねばいいでしょ」

 見ると、電車のドアからサラリーマンが何人か溢れ出て倒れており、ドアが閉まろうとしているが、サラリーマンが間に挟まれていて動かない。俺達が乗っていた車両だけでなく、連なる六両の車両のドア全てでも同じことが起きていた。しかしドアのパワーは弱まる様子はなく、むしろ段々と強く、サラリーマンの胴体を締め付けていく。ギシギシ、ミシミシと、異様な音が溢れてくる。

 あっ、と思ったときにはドアがバンッと勢いよく締まり、線路の先で踏切が鳴り出した。電車がゆっくりと発進していなくなるまで、俺はその光景をただただ見ていることしかできなかった。

 サラリーマンが千切れた。

扉に挟まれていた人間が、胴体で真っ二つに。

 プラットホームのドアがあった場所、二箇所に残された、合計で十ほどの上半身。

次の現象は、頭が目の前の光景を理解する前に起こった。

 真っ二つになった死体、その断面がむくむくと盛り上がり、ものの数秒で元の人間の形にもどり、そして、立ち上がる。輪切りになった人間が、復活した。

 復活した十体ほどのサラリーマンが小走りに集まってくる。

 まずい、また囲まれ――。


「ナマコかべ


 メメの冷ややかな声とともに、サラリーマンたちは真っ黒い壁に吹き飛ばされ、そのままプラットホームから転落した。

 壁はプラットホームの端まで着くかつかないかのところで崩壊し、ぼとぼとと地面に散らばった。ナマコが綺麗に正方形に並び、壁となって発射されたようだ。また、今度はプラットホームの両側から踏切の音が聞こえてきた。

 あっけにとられた俺が隣を見ると、メメが右手の人差し指と中指を、左手で包みこんでいるのが見えた。指を十字に構えるのとは違う構えだ。あれだけの数のナマコを一度にどうやって発射したのだろうか。

 メメは大股で前進し、黄色い線の周辺に散らばったナマコを吸収しながら、小さい声でぶつぶつ「死ね痴漢」と呟いている。

 再生するサラリーマンも服は復元できないのだろう。線路まで吹き飛ばされた彼らは、下半身になにも纏っていなかった。


 次の瞬間、ゴウッという風とともに、快速電車が侵入してきた。ガリガリと凄い音がして、サラリーマン達が弾け飛ぶ。それとほぼ同時に電車が一瞬浮き上がり、急激に速度を落とした。サラリーマン達を轢いた衝撃で脱線したのだろう。車両の横側が押し付けられ、プラットフォームの端がガラガラと削られ、めくれあがっていく。足元にビリビリと振動が伝わってくる。電車は激しい金属音と砂煙を巻き上げながら減速し、停止した。俺とメメは、いつの間にかホームの反対側に避難し、固まっていた。

 脱線しガタガタになった電車のドアが、ゆっくりと開く。

「俺の同志を線路に突き落として電車を止めるとは……ひでえことしやがる……」

 砂煙の中から、一人の男が姿を現した。

 全身を黒のスーツで纏っており、一見すると先程の量産型サラリーマンのようだ。だがよく見るとネクタイはしておらず、シャツの裾をだらしなく外に出している。猫背だが肩で風を切るような歩みは、勤勉なサラリーマンというより、グータラ社員と言った感じの風貌だ。

 顔はやはり、量産型サラリーマンと全く同じだった。ボサボサの伸びすぎた髪の下から覗く、白い光を帯びた目。

 雰囲気がこれまでの医者や看護師、サラリーマンとは違う。これまでの量産型とは違い、明らかに人としての強い意志を持った個としての存在。俺は――おそらくメメも――直感的に感じた。

 こいつがだ。

「可哀想な俺達、いいチームだったのになあ……ちゃんと弔ってやるからよ……悲しいのは、俺一人で十分だ……」

 砂煙が立ち込める男の右手の先に、きらりと長く光るものが見えた。

 日本刀だ。

 男は電車から降り、強く踏み込んだ。プラットホームの幅は約五メートル。刀を振り上げ、こちらに急接近してくる。

「ナマコ壁!」というメメの声とともに、大きな黒い壁が目の前に現れた。

 壁の向こうでガキンッという金属音が響く。

 壁は一辺が二メートルほどの正方形をしており、二十匹ほどの巨大なナマコが、まるで俵が積まれるように隙間なく重なっている。

 俺は唖然としている間に壁に囲まれていた。メメが追加で壁を二枚生成したようだ。線路を背にして三方を壁で囲んだ二メートル四方の空間に、メメと二人で籠城する形になる。

「大丈夫、私のナマコかべなら、硬化で刀を防げる」

 俺はどうしようもなく、ただ頷くことしかできない。

「うえぇ、こんなにたくさん出せるのかよ……切れっかなあ……」

 男はしぶとく刀を何度も振り下ろす。金属音が鳴り続けている。

「弾丸みてえに飛ばすやつと、今回のいっぺんに壁にして出すやつ、体内にはキュビエ器官に、骨のない体か……。あとは何ができんだ、ナマコ女……」喋りながら、男は刀を容赦なく振り下ろしてくる。

「その呼び方やめて」

「切られんのが怖いのか? ナマコだって再生できんだろ……」

「こっちにはおにいさんが、普通の人がいるんだよ!」メメが一瞬語気を荒げた。

「私の体は多少再生できるけど時間がかかるし、痛いもん。……あなたは痛くないの」

「痛えさ、すんげえ。でもなあ、痛くないとやってけねえんだ……」

 ぴたりと金属音が止んだ。壁の間からそっと覗くと、刀をだらりと下げて立ち尽くす男の姿が見えた。

「お嬢ちゃん、ナマコとかそういうウニョウニョしたやつらはさ、大抵再生能力をもってるだろ……でもな、切られてばらばらになった肉片一つ一つそれぞれが、個体になって再生する『極性』を持つ生物は、ごくわずかだ……」

 切っても切っても分裂して増える生物。昔テレビで見たことがある。

「お前、プラナリアか」

「まあ似たようなもんさ。俺は。切れば切るほど分裂して数を増やす……だけじゃない」

 男は刀を持ち直したかと思うと、自分の腕にスッと切込みを入れた。長ネギを縦に包丁で裂くように、サクサクと切っていく。当然血が流れ、痛覚もあるだろうに、その表情は恍惚として笑みに満ちていた。切られた傷口は瞬く間にムクムクと膨れ上がり、やがて塞がって、腕が元の倍の大きさになった。男は膨れた腕に、さらに切込みを入れていく。

「二倍、四倍、八倍、十六倍……分裂は爆発的な力を生む。痛みの数だけ強くなる。生きてるって感じだよなあ!」

 男が刀を腰の鞘に収め、自分の体ほどの大きさの腕を振り上げる。

「まずい、逃げろ!」

 俺はメメを抱え、側面の壁を押し倒して外に飛び出した。ほぼ同時に、轟音とともに壁は男の腕で粉々にされてしまった。辺りににナマコが散らばる。

 この駅のプラットホームは島式で両側に線路が走っている。幅は五メートルほどと狭いが、全長は約百五十メートルほどあり、端の方は雨よけの屋根も設置されていない三十メートルほどの空間がある。俺はメメを抱え、プラットホームの端まで走った。

「メメ、ホームの端についたらさっきの壁を発射して、あいつを遠ざけられるか。相手がでかい腕で殴って来るなら、こっちは距離をとってナマコの発射で対抗しよう」

 言っている間にプラットホームの端についた。振り返ると、男は大きな腕を地面から上げ、こちらに振り向いているところだった。

「了解、おにいさん」

 メメが右手の人差し指と中指を揃えて伸ばし、顔の前に構えた。

 そして素早く体の前で縦と横に空を切るようにして右手を大きく動かす。その指先が通った場所には黒い残像が線として残り、空中に、一辺が二メートルほどの格子状の模様が浮かび上がった。メメが「ナマコ壁」と唱えると、格子模様の交点からナマコが発生し、さっき見た壁になって男に向かってすごいスピードで発射される。

 男と壁が激突し、鈍い音が響いた。さっきはサラリーマンをまとめて十体吹き飛ばした壁。その衝撃は相当なはずだ。

 しかし、男を前に、ナマコの壁は真ん中から引き裂かれ、粉々に砕け散った。その衝撃を物語るかのように、男が踏ん張った足元のアスファルトがえぐれている。

 メメはまた右手を格子状に動かし、壁を発射した。二枚目、三枚目、四枚目……結果は同じだった。崩壊する壁を見るメメの額には汗が滲んでいる。

「それなら――」メメは右手を左手に収め、今度は両手の人差し指で十字を作った。

「ナマコブレット!」

 発射されたナマコは男の顔面を捉えた。かに思えたが、男は首をひねりそれをかわした。メメが連射するが、かすりもしない。

「それやめろよ、当たると気ぃ失うぐらい痛えんだぜ……。でも昨日頭にぶち当てられてその軌道は見抜いてんだ……。それに今は筋肉分裂のもしてスピードも増してる……当たるかよ……」

 男はゆっくりとではあるが確実に、こちらに近づいてくる。このままでは距離を詰められ、近接戦に持ち込まれる。メメの能力もあの男の前では物量不足だ。壁をぶつけても打ち破られる。昨日のように相手を一発KOできればいいのだろうが、狙い撃とうとしても当たらない。せめて電車内でサラリーマンを一網打尽にしたように、男に至近距離でナマコを当てられればいいのだが、あの腕があってはこちらからは近づけない。

 能力がすべて、相手に攻略されてしまっている。

 この状況を打開できるものはないのか。どうすればいい。周りを見渡してみるが、誰かに助けを求められるような状況でもない。周囲にあるのは、プラットホーム、脱線した電車、線路。

 そうだ、いっそのこと線路に降りて逃げてしまおうか。

 この駅は高架や地下にあるわけではない。線路に降りれば地続きで道路まで出られるではないか。プラットホームの両端端に踏切が設置されており、そこには交差するように道路が――。

「こうなったらもう、もっと大きいのをぶつけるしか」

 メメの追い詰められた声が聞こえた。その声は、少し震えている。

 俺はバカだ。なぜ気が付かなかった。

 メメが腕を十字に構えた。指ではなく、腕。

「メメ、もしかして、指より腕で十字を作ったほうが大きいナマコがだせるのか」

「そうだよ、バッテンを作る物の長さでナマコの大きさが変わる」目も合わせず答えるメメの口調には、明らかな焦りが見える。

「待て。あいつは際限なく分裂して力を増幅する。力で対抗したらだめだ。いつかこちらの限界が来て、負けちまう」

「じゃあどうすればいいの! こうなったらもう、私がやるしかないじゃん」

 本当に、俺はバカだ。

 この子は、あの怪物に出会ってからずっと、なにもできない俺を守ろうとしてくれているんじゃないか。

「それとも、おにいさんあいつに勝てるの?」メメが泣きそうな顔でこちらを睨みつけてくる。

 俺は一瞬呼吸を止め、思考を整理する。

 力が増幅し、巨大な腕を持つ敵。ナマコの硬化、大きさ、発動条件。これまでの戦い。そして、駅周辺の環境。

 一息にふっと吐き切り、俺は口を開いた。

、絶対に勝てない」

 世の中は理不尽だらけだ。

 だが、それは大切なものを守らない理由にはならない。その理不尽にほんのわずかでも抗える可能性があるなら、なおさらだ。

「作戦がある。あいつに勝とう」

 メメは瞬きをしたあと、ほんの少し口角を上げ、頷いた。

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