第3話 駅

 太陽が真上に来ている。まったく、暑くて敵わねえ。

 なんだってこいつらは屋根のねえところに出ていくんだ。日陰に入ってもっと涼しくやろうぜ。

 プラットホームの端は屋根がなく、日差しが容赦なく照りつける。目の前にはいびつなヘッドギアとグローブをつけた兄ちゃん、線路にはナマコ女がこちらを向き、手をクロスさせて構えている。

「お前邪魔だなあさっきから……俺はそこのお嬢ちゃんに用があんだよ」俺は線路の方を見ながら言った。

「痴漢したやつがなに言ってんだ」と兄ちゃんが応える。

 痴漢……? もしかしてがあのナマコ女になんかしたのか。人間は感情失っちまうとなにするかわかんねえんだなあ、情けねえなあ。

「あいつらが何したか知らねえが、俺は痴漢みてえな卑怯なやり方は性に合わねえんだ。悪かったな。お詫びに正々堂々、正面からぶっ潰してやるよ」

 俺が言い終わらないうちに、兄ちゃんが黒く染まった拳を構えた。

 さっきナマコ女となにやらガサゴソやってたが、なんだそりゃ。硬化したナマコを頭と拳、脛にまとわせてやがる。いわば間に合わせのプロテクターか。

「だっせえなあそれ。てか気持ち悪くねえの、そんなもん体につけてよ」

「なんか内側はブヨっとしてるけど、でも死ぬよりマシだ」

「俺はそんなもん、死んでも触りたかねえよ」

 兄ちゃんが突っ込んできた。踏み込みと構えを見るに、まるっきりの素人ってわけでもないらしい。

 左の下段回し蹴り……と見せかけて、膝を返して上段に入れてきやがった。ぎりぎり右肘で蹴りをガードする。あと少しで側頭にモロで食らって、下手すりゃ失神もありえた。硬化したナマコで蹴りの威力が増してやがる。

「いい蹴りだな兄ちゃん。ヒヤッとしたぜ」

 と同時に、視界の端でナマコ女が構えるのが見えた。

 なるほど、近距離と遠距離で俺を叩こうってのか。甘えなあ。

 俺は左手でナマコ女からの遠距離射撃を防ぎながら、右手で兄ちゃんを振り払った。兄ちゃんのほうは「うっ」とうめきながら、右側の線路の方へ吹っ飛んでいく。線路にどさっと落ち、それっきり動かない。紙みてえに軽いやつだ。プロテクター意味ねえじゃん。

「おにいさん!!」

 ナマコ女が叫び声が聞こえる。俺は左側の線路に降り、線路にいたナマコ女に殴りかかった。するとまたさっきの動きだ、お嬢ちゃんが空中で指をせわしなく動かしている。

「ナマコ壁! 壁! 壁!」

 俺は飛んでくる壁を増強した腕で突き破る。ナマコ女は泣き出しそうな顔でじりじりと線路の上を後退りしながら、壁を飛ばしてくる。何枚来ても同じだっての。

「ねえ、あなたはなんでこんなことするの。私に用があるなら、おにいさん吹っ飛ばすことなかったじゃん!」

 勘弁してくれよ、突っ込んできたのはあいつだぜ。

「あなたもそんな力を持ってるならわかるでしょ。あのおにいさんは普通の人間、私達とは違うんだよ。打撲で骨も折れるし、傷はすぐには治らない、おまけに体力もない。ほっといてあげてよ」

 ガキの理屈だ、反吐が出る。なんでこの年頃のやつは自分の言うことが常に正しくて清らかで、素晴らしいって顔ができんだ。

「だからよぉお嬢ちゃん、被害者ヅラしてんじゃねえよ……俺はもともとあんたしか見てねえぜ。そこにあいつが首突っ込んできて、あんたはそれを許容していたんだ。現にさっきだって、あのだせえプロテクターつけさせてよ……。

 お前があの弱えやつを危険に晒してんじゃねえか」

 ナマコ女の足が止まった。諦めたのか、壁を正面に出したまま、こちらに発射してこない。

「俺はよぉ、別にあんたを殺そうとしてるわけじゃない……あんたがどんな能力持ってっか、それが知れたらいい……」

「私の能力を知ってどうする気。おじさん、昨日のチンピラに紛れてたってことは、『バベル』の人でしょ。……あの人からの命令で動いてるの? あなたが私の能力を知りたいように、私だってあの人のことを知りたいだけ。ただ会って話がしたいだけなんだよ。それってそんなにダメなことなの?」

「さあな、俺は命令で動いているだけだ。今回の目的はあんたの能力を暴くこと、それ以上でもそれ以下でもねえ……。

 それとなお嬢ちゃん。『あの人に会いたいだけ』は無理だ、やめとけ。関わらねえほうがいい。アレはあんたが想像してるより数段やべえぞ。消されるぜ、あんた」

白浪しらなみさんはそんなことしない」

 ナマコ女が感情的になっている。地雷だったか。

「なんだ? やっぱりお前ただの追っかけかよ、俺よりよっぽどガチモンのじゃねえか。夢見るファンは手に負えねえな」

「馬鹿げた街で引きこもり生活してる妄想野郎に言われたくない」

「……もういっぺん言ってみろ」

「馬鹿げてるでしょ、あんな自分しかいない街なんて。街全体で大きなおままごと、ジム・キャリーにでもなったつもり? 一人でいるより、おじさん、よっぽど孤独だね」

「黙れ」

 なんだかどうでもよくなってきた。早くこいつ、ぶっ潰そう。

 俺は右腕を振り上げる。

「人はすぐいなくなっちまう……だが、俺はまた分裂すればいい、いなくならない。脆いもんだよなあ……さっきまで生きてたやつが、ちょっと目を離すとピクリともしなくなっちまう……だから俺は、脆いやつは嫌いなんだ……。

 なあお嬢ちゃん、さっきまでいた兄ちゃんはどうした、ん? ははっ、なんだよ……お前こそ、一人ぼっちじゃねえか……!」

 目の前の壁に向かって、腕を振り下ろす。腕が壁に当た――。

「おにいさん!」ナマコ女が叫んだ。

 線路の砂利を踏む音が近づいてくる……なるほどな。

 俺は右手を壁にぶち当てながら、左手を後方にぶん回した。

 ゴッと鈍い音が響く。拳と拳のぶつかる音。さっきの兄ちゃんが、飛びかかってきやがった。

「よお……ずいぶんと目覚めがいいな……」

「スタントが本業でね、殴られるフリは慣れてる」

「だが奇襲は失敗だ……足音がでかすぎて気づいちまったよマヌケ」

 右手でナマコ女の壁、左手で兄ちゃんの拳を受け止めている。兄ちゃんの方はまだ力があるが、ナマコ女の方はもう保ちそうにない。

「お前ら二人が協力して俺を挟んだってどうってことない……。

 この状況に持ち込めば、力で俺に勝てるとでも思ったか……?」

「力じゃ勝てない。だから協力するんだ」

 兄ちゃんがこちらをまっすぐに睨みながら口を開く。

「ありがとう、近づく俺に気づいてくれて。今のポーズ、最高だ」

 ポーズ? 何を言って――。

「ナマコ雫

 俺が真横に伸ばした両腕、その真下の地面から、黒いドラム缶大の柱がでてきた。これは、ナマコ……?

 気づいたときにはガキンッという音ともに、両腕がナマコに挟まれていた。ナマコは地面に生えたまま硬化しており、引き抜こうとしても両腕はびくともしない。

「お嬢ちゃん、そりゃ反則だぜ……あんたなんもないところからこんなでかいナマコだせるのかよ……」

 壁の横からナマコ女がひょっこり顔を出した。落ち着いた涼しげな顔だ。さっきの焦った表情は、俺を油断させるための演技か。

「ううん、バッテンがないと無理だし、私のナマコは、バッテンの大きさに比例して大きくなるんだよ」

 俺はふと、足元を見た。

 両腕をガッチリ挟んでいる巨大ナマコは、線路と道路の四つの交点から生えている。

 線路のレールの並行線と、道路の端の並行線。合計四つの線は交差し、上から見ると#を横長にしたような形になる。あの二人に前後を取られた俺は両腕を水平に伸ばして対抗。そのタイミングでナマコ女が、#の四つの交点からナマコを発動したのか。

 で、俺は踏切の真ん中で、両腕を真横に伸ばされて、磔にされている。まんまとハメられた。

 アスファルトから立ち上る陽炎、線路に反射する夏の白い日差し。蝉の声がやけにうるさい。

 真上にあるはずの太陽が、ふっと消えた。見ると、さっきの兄ちゃんが俺の頭上に影を作っている。

 飛び上がった兄ちゃんは両手拳をあわせて、腕を思い切り振り上げていた。方や俺は腕はロックされていて、体が切れねえから分裂もできねえ。防ぐ術なし。

俺は、静かに目を閉じる。

なんなんだよこいつら、嫌味かってくらいにキラキラしやがって……。

 ああまったく、暑くて敵わねえ。


 ***


 巨大な両腕が水平に固定され、男は頭を垂れて失神している。そいつを前に、俺はヘッドギアのナマコを外す。ナマコの内側はひどく蒸れていたので、外気が気持ちいい。

 そのまましゃがみこんだ俺は、足に装備したナマコをペリペリと剥がした。

「ほんとに倒しちゃった……」

 メメが後ろから話しかけてきた。

「線路と道路が重なってるバッテンに目をつけるなんて。しかもナマコを拘束に使うなんて、よく思いついたね」

「満員電車に乗ってたとき、この男に腕を挟まれたのを思い出したんだ。それからナマコをスマホから出す遠隔の技も。線路に気づけたのは偶然だ、運が良かった。

 それより怪我、なかったか」

「私はなんとも。おにいさんこそ、大丈夫? 派手に吹っ飛んだから本当にやられちゃったかと思った」

「受け身取ったから平気だ。慣れてるよ」

「そう……ねえ、おにいさん」

 メメが俺の隣にしゃがみこんできた。

「私、これまで結構、一人でなんとかしてきたつもりだったけど、でも、今日は多分無理だった。おにいさんの作戦のおかげで勝てた。だから、ありがとう。

 それと……本当にごめんなさい」

 メメはうつむきがちに、絞り出すように言葉を発している。強い日差しを受けて、メメの顔にかかる影が、濃さを増す。

「さっきおにいさんが吹き飛ばされるのを見て気付いた。やっぱり、こいつと私は同じで、おにいさんとは違う。ううん、こいつと私だけがおかしいんだ。

 こんな訳のわかんない体……私は自分のこと嫌いになりたくないけど、けど、このおじさんは多分、自分のことすごく嫌いになっちゃったんだと思う。自分の分裂作って、自分だけの街で暮らして。でも、最後は一人で戦ってた。

 おにいさんと一緒に戦って、私おじさんの気持ちが少しわかっちゃった。私のせいで、こんな私のせいで、周りの人を傷つけたくない。私によくしてくれて、親切にしてくれる人なのに、私の勝手な目的に巻き込みたくない。

 だから、おにいさん。今日は本当にありがとう。……早くお家に帰って、それから、大切な人と一緒にいてあげて」

 メメは穏やかに微笑みながら、まっすぐにこちらを見つめている。確かに俺が昨日気まぐれであのチンピラに応戦しなければ、こんな危険な目には合わなかった。正直全く今までのことは整理がついていない。チンピラに襲われて女の子と逃げて、病院だ、謎の組織だ、分裂人間にナマコ……あまりに突飛だ。

 だがこの感覚、初めてじゃない。半年前にも同じものを感じた。

 大切な人、か。

「俺には、妹がいるんだけど……君より、少し年上の」

 俺はぼつぼつと話し始めていた。僅かな光を頼りに、先を確認しながら一歩ずつ闇を歩んでいくように。

「素直でまっすぐな奴で、いつだって前向きに生きてる。あいつを見てると、人生って立ち止まってる暇なんかないんだなって思えるような、そういう奴。

……でな、妹は今、入院している。

メメから「え」と小さく声が漏れる。俺は話を続ける。

 「俺もうまく説明できないんだけど、言葉が理解できないらしい。こちらから話しかけても通じないし、あいつの言う言葉も意味をなさない。喋っても筆談でもダメ」

 突然こんな話をされても困惑するだろう、と思ったが、メメはこちらを見つめているだけだった。

「妹は……伊緒奈は、ずっと小説家を目指してたんだ。なのに、こんなことってあるかよ。小説家になろうっていうやつが……いや伊緒奈なら絶対になれた。贔屓目じゃなく、きっと誰にも書けないすごい話を生み出せたはずだ……そんなやつが、まさか言葉を失うなんて。

 二週間前、伊緒奈は小説の取材で街に出かけていって、その夜の事件をきっかけに、言葉を失った。

 あの交差点で、クジラを見た時から。

普通はこんな話してもなんのこっちゃだろうし、そもそも今まで人に話したこともない。だけど今は、妙に受け入れてしまってるんだ。踏切にナマコがいるなら、交差点にクジラがいても不思議じゃないからな」

 俺はメメを正面から見据える。

 「もしかして君が追いかけている奴と、俺が知りたいことは関係があるんじゃないか」

「待っておにいさん、たとえそうだとしても、でも……」

「俺はもうとっくに巻き込まれてる。

 それに、俺は伊緒奈のために、自分から首を突っ込んでるんだ」

 俺はメメの目を正面から見つめる。やっと掴みかけた手がかり、逃すわけにはいかない。

「だから、メメ。君の知ってること、教えてくれないか」

 俺はメメの目を見て離さない。沈黙。時間が止まったように思えた。

「なあメメ、なにか知ってるんだよな。こいつはメメがナマコを出せるみたいにクジラの能力を持ってて、半年前、あの交差点に現れたんだろ。こいつのせいで、こいつのせいで――」

「ごめんなさい……!!」

 メメが絞り出すように叫んだ。声が震えている。

「……悪い、俺は別に君を責めてるわけじゃ」

「私のせいなんだ、

 今度は俺が固まる番だった。何を言ってるんだ、この子は。

 理解の範疇を超えた俺の脳みそは沸騰を通り越して吹きこぼれ、逆に冷静さを取り戻しつつあった。というよりも、思考を放棄した。暑さも風も感じない、無の感覚。

 まずは話を聞こう。そう思った。


 ***


 メメは黙ってそのまま歩き出した。

 俺も黙ってついていき、踏切から数メートル離れた木陰にある段差に並んで座った。

 今日は日差しが強いが、それを木陰は遮ってくれていて、風もあるので結構涼しかった。

 メメが口を開く。

「昨日のことから順番に話してもいい?」

 俺は黙って頷いた。

「昨日襲ってきたチンピラ集団。あれは『バベル』っていう、新興宗教の信者。この辺りの地域に十年くらい前からある団体らしいんだけど、ここ最近人数が増えてるみたい。教祖様がすごい霊力を持ってて、みたいな、そういうタイプの。知ってる?」

 全く聞いたことがない。俺がそういったニュースに疎いだけかもしれないが、それにしたってダサい団体名だ。

「私も知ったのは今年に入ってからぐらいなんだけどさ……もしかしたら、そこに行ったらわかるかもしれないんだよね、私のこの力のこと。ううん、能力だけじゃない。私が知りたいこと、全部」

 メメは遠い目をして、踏切の方を眺めている。雲を見ているのか、それともうなだれたウズムシのおっさんを見ているのか。

 ウズムシのおっさんの力も、メメが昨日からポコポコ出しているナマコも、どう考えても理屈で説明できるものじゃない。本物の超能力だ。

 メメがおもむろにスマートフォンを取り出す。少し操作したあと、画面を見せてきた。

 見たところメメが話した『バベル』とかいう新興宗教団体のホームページのようだ。禍々しい紫色の背景に、白髪、白服に身を包んだ、白尽くめのナンパな男が柔らかな笑みを浮かべ、写っている。

白浪しらなみ蓮司れんじ

 メメはゆっくりと、噛みしめるように言葉を発した。

「私が追いかけてる人の名前」

 この白浪という男、見覚えがある。

「なあメメ、俺のこの白浪って人なんか見たことある気がするんだけど……この人って、アーティストか何かじゃなかったか。最近SNSでたまに見る」

「見たことあるんだ」

 まあ暇な時間でネット動画はよく見てる。つい時間を無駄にしてしまうからやめたいと思っていたが、こんなところにつながってくるとは。

「それは白浪さんの表の顔。ここ最近バズってる世界的に有名なバイオリニストだよ。バイオリンの技術が一流なのはもちろんなんだけど、凄いのはそのカリスマ性だね。ほら、動画がどんどん拡散されていってる」

 メメはそう言い、続けて動画サイトにアップされたいくつかのショート動画を見せてきた。白浪という男が、バイオリンを使って流行りの曲をスタイリッシュに演奏する動画だ。かなりの数再生されている。

 白髪ではあるが年寄りというわけではない、四十代ぐらいだろうか。糸目ではあるが、目の奥にギラリとしたものが見て取れ、精力を隠しきれていない感じがする。

「この人が実は宗教団体『バベル』の教祖というのは、世間には知られてない」ネットの闇だね〜と、メメが眉をひそめながら、わざとらしく笑ってみせる。

 白浪蓮司。全身白ずくめの教祖でカリスマバイオリニスト。なんだかてんこ盛りのやつだが、そんなことはどうでもいい。

 メメがこいつを追いかけている理由、さっきのメメの反応。おそらくこいつだ、

 俺は意を決して口を開いた。

「じゃあ、こいつがってことか?」

「わからない……私は直接見たことがないから。でもさっきのおにいさんの話を合わせて考えると、いやでも……」

どうも返事がはっきりしない。メメがこちらを見た。

「おにいさん、伊緒奈さんがクジラに会ったっていうのは、本当なの?」

「ああ。正確には俺が見ただけだけどな。2月のあの日、高架下で倒れる伊緒奈を俺は発見し、その奥の交差点に確かにクジラを見た」

「そのとき白浪さんはいた?」

「いや、暗いし突然のことで、よくわからなかった。どこか暗がりにいたとしても、気づかなかったと思う」

メメは、そう、と答えて肩を落とした。

「メメ、そろそろ教えてくれるか」

この子を責めたくはない。彼女にも彼女なりの事情があるのだろう。しかし、どうしても語気が強くなってしまう。

「君のせいで伊緒奈が巻き込まれたって、どういうことなんだ」

メメはうなだれたまま少し沈黙し、ポツポツと話し始めた。


 メメは大学生になりたてのころ、伊緒奈と知り合ったらしい。

 大学に馴染めずあまり話し相手のいなかったメメを、伊緒奈がサークルに勧誘したのがきっかけとのことだ。当時伊緒奈は大学3年生、メメは大学1年生だから、もう3年ほど前のことになる。

 伊緒奈はその頃から小説家志望だったから、文学部で、サークルも小説執筆をするサークルに入っていた。サークルといっても月に一回読書会があるかどうか、執筆も部誌を年に3-4回出すといったぐらいのゆるい活動内容だったようで、伊緒奈は時折「サークルは楽しいんだけどね、もっとガッツリ書くのかと思ってた」と漏らしていた。

 はじめは校内に居場所がないからなんとなくサークルに行っていたメメだが、部室で読書にふけるメメに伊緒奈が興味を持ったらしい。詳しくは話してくれなかったが、そこからだいぶ親密な仲になっていたそうだ。俺も伊緒奈の交友関係については特に聞くことはなかったし、あいつの性格的に特に心配もしていなかったが、こんな後輩がいたとは知らなかった。

そこから月日は流れ、去年の秋。メメがSNSで白浪を見つけたことをきっかけに、単身バベルに乗り込んだらしい。これがメメとバベルとのファーストコンタクト。このときナマコの能力を出して戦ってしまったことが原因で、バベルに追われるようになったとのことだ。

追われる立場になったメメはしばらく伊緒奈とも距離を取っていたらしいが、伊緒奈は友達想いのやつだ。そんな勝手は許さない。学校の近くで偶然出会ったときに事情を聞かれ、ついバベルのことを話してしまった。

事情を聞いた伊緒奈は、メメが白浪に会えるよう協力すると言い出したらしい。好奇心旺盛で友達想いな伊緒奈の言いそうなことだ。

伊緒奈は小説執筆を2年ほど続けるなかで、取材をする際のノウハウも学んでおり、面識のない人とアポイントメントを取る能力に長けていた。

そして今年の2月。小説の取材という名目で、あっさりとメメと白浪の会合が決まった。

しかし、メメが集合時間になっても白浪は現れず、その日以来、伊緒奈とも連絡が取れなくなってしまったのだという。


事情はなんとなくわかった。だが、俺が聞きたいのはそんなことじゃない。

「白浪は、伊緒奈に何をしたんだ」

つい語気に力が入る。メメの体が一瞬強ばるのがわかった。

「すまん、君を責めたいわけじゃないんだ。そんな危ないやつらに会いに行ってたなんて知らなかったけどそれはまあ、あいつが勝手にやったことだろ。それは……仕方ない。メメに非はないよ。

それより、俺は伊緒奈を助けたい。どうすればあいつの言葉は戻る。何か知らないか」

メメは顔伏せたまま、ゆっくりと口を開いた。

「ごめんなさい。わからない。

交差点でクジラを見たんでしょう、おにいさんも。あのあとすぐ伊緒奈さんのところに来たの?」

「ああ、たまたまな。伊緒奈が……高架下で倒れてるのを見つけた」

「ねえ私も聞いていい? さっき言ってた、伊緒奈さんが言葉を失ったって……。伊緒奈さんは今、その、どういう……私、あの日に別れて以来それっきりで、連絡したけど全く返してもらえてなかったから……」

そうか、入院以来言葉が理解できなくなった伊緒奈は、俺以外の人との連絡を一切遮断していた。友達が多いやつだったはずだが、その人達ともう話せないというのがあまりにも苦しかったのだろう。一度スマホは解約寸前までいったが、絵なら理解出来るとわかったあとで、俺の連絡先だけがスマホに残っていた状態だった。

「話したとおりだ。伊緒奈は数日前まで大学近くの病院で入院してた。命に別状はなかったが、言葉が、なんというか、うまく話せないし、理解もできない状態だ。だから連絡が帰ってこなかったのもメメのことが嫌いになったわけじゃない。返せなかっただけだ」

「そっか……。それでよかったとは、ならないけど……。あとね、おにいさん。こんな状況で言うことじゃないかもしれないけど、私は白浪さんが犯人じゃないと思ってる」

意外な言葉に俺は耳を疑った。状況を見れば、交差点のクジラと白浪には関係があって、そのせいで伊緒奈があんな風になってしまった、と思わざるを得ない。

「私どうしても、白浪さんがそんなひどいことする人に思えない」

「その白浪って、メメとどんな関係なんだ」

「それが、私にもわからない」

「わからないって、それじゃあ……」

「でも、その白浪って人が、私の秘密を握ってるってことはわかる。私がこんな体になる前に最後に話したのが多分その人。で、気づいたらこんな体になってた。

 それが今から大体十二年ぐらい前の話」

 メメはまだ十八歳のはずだ。十二年前と言ったら、六歳。小学校に上がりたての少女に、一体何が――。

 この子は、そんなときからこの異質な体とともに生きてきたのか。

 「さっき病室で、『お前は何者なんだ』って、おにいさん言ったよね。

 私だって知りたいよ。私は何者か、なんて……。

 なんで私はその白浪って人と最後に話をしてたのか。私の体は、なんでこんな風になっちゃったのか。私はもともとどんな子で、何をしてて、どこから来たのか。その全部の手がかりが今、白浪さんしかないんだ。

 六歳より前の私には、

 幼少期の記憶は成長とともに薄れ、曖昧になり、その多くは消滅する。しかし完全に記憶が消滅するのはだいたい三歳以前の話で、四歳以降のいくつかの記憶は、ぼんやりとでも残っているものだ。どんな土地で生まれ、何を見て、誰に育てられ、誰と遊んだのか。

 そういった幼少期の記憶が、全くない。

 記憶喪失。事象としては知っているが、目の当たりにするとこれまた現実味がない言葉だ。

「六歳ぐらいの頃だと思うんだけど、浜辺で寝てたんだ、私。いや、打ち上げられてたって言ったほうがいいのかな。とにかく、その前の、六歳ぐらいより前の記憶がなんにもないの」

「その白浪ってやつ以外は、か」

「そう。お父さんの顔も、お母さんの顔も、友達の顔も。そもそもいたのかどうかもわからない。覚えてるのは、その白浪って人が、私になにか、伝えようとしてくれてたってことだけ。その時の印象はなんていうのか、すごく、温かくて、安心できる感じだった。

声は、言葉は全く思い出せないけど、間違いない。私は、この人を知ってて、この人はきっと、私の大事な人」

メメの表情が柔らかくなった。この子の過去を想像すると、きっと相当苦労してここまで大きくなったんだろう。

俺や伊緒奈が経験したそれよりも、きっと過酷な――。それでも、白浪という奴の微かな記憶を支えに頑張ってきたに違いない。伊緒奈がこの子と仲良くしたというのも、わかる気がする。

「決めた。俺も白浪って奴に会いに行こう」

メメがこちらを見る。笑い出しそうな、泣き出しそうな顔で目を見開いている。

「だからメメ、力を貸してくれ。今日もそうだったけど、相手は大勢だし、変な力を持ってるかもしれない。俺一人じゃどうしようもない」

「変な力ってなにそれ、私のこと?」

いや、そういうわけじゃ、と慌てて訂正しようとする俺に、メメはクスクスと笑い、それから満面の笑みをこちらに向けた。

「もともと私のためだったけど、これからは伊緒奈さんのためにも、がんばる。よろしくね、えーと……そういえばおにいさん、名前は?」

粟森あわもり

「それはわかるよ、伊緒奈さんと一緒でしょ。ふふ、珍しい苗字だよね。最初聞いたときお酒みたいって思った」

「よく言われる」

「下の名前は?」

「タケル」

「タケルか……ポピュラーで、それにとっても強そうな名前」

「それもよく言われる」

 メメはすっと立ち上がり、まっすぐ俺を見つめて言った。

「昨日は――そして今日も、私を助けてくれてありがとう。これからよろしくね、タケル」

「おい、なんで伊緒奈はさん付けで俺は呼び捨てなんだよ」

「だめ?」

「別にいいけど」

「いちゃついてるとこ悪いんだけどよお……お二人さん……」

突然呼びかけられ、メメと揃って「うわあ!」と驚嘆の声を上げてしまった。

見るとウズムシのおっさんが目を覚まし、両手をナマコに挟まれたまま、半開きの目で踏切からこちらを見ている。

「なに、まだやる気!?」メメは素早く両手指を十字に構え、臨戦態勢に入った。

「勘弁してくれ……俺はもう暑くて戦う気力なんか残ってねえよ。

それよりお前ら……白浪さんに会わせてやろうか……?」

思わぬ提案にメメの構えが緩んだ。

これまでの会話を聞かれていたらしい。しかしそうか、こいつはバベルの会員で白浪に命令されて動いているのだとしたら、利用しない手はない。だが……怪しすぎる。

「あんたバベルの会員なんだろ? やけに気前がいいじゃないか」俺は慎重に問いただした。

「バベルねえ……別に俺は信者じゃねえよ。ずっと白浪さんに世話になってるってだけで、あの人のやり方には賛成でも反対でもない……そこのお嬢ちゃんを追い回してたのだって、命令されたからやってただけだ……でもそれもしくじっちまった。戻ったところで、多分俺は消される」

「消されるって……やっぱり白浪は……」

「ああ、あの人はやべえぜ。俺はこれまで何も考えずついてきたが、近々なにか大きなことを企んでる。会員も増えてきた今、これまでみたいに信者を増やしてSNSでバズって、ってだけじゃないことをな」

「大きなこと?」

「まあなんだ、俺も聞かされたわけじゃない、なんとなく最近の動きを見てる限りだが、まあ……テロリズムだよなあ……」

「白浪さんはそんなことしない」メメが口を挟んだ。

「会ったこともねぇお前になにがわかるんだよお……」おっさんも喧嘩腰で答える。ひとまずここは俺が話を進めるしかなさそうだ。

「待て待て、消されるってあんた、それじゃ白浪に会えたとしてもただじゃ済まないだろ」

「まあ穏便には会えないだろうなあ……でももういいだろ、どうでも……目が覚めたよ」

「……は?」男の的を射ない回答に、呆気にとられる。

その瞬間、電話の着信音がした。

「……左の内ポケットだ、悪いが出て耳に当ててくれよ……」

男は固定された両手に悲しげに目をやり、軽く肩をすくめた。

仕方なく俺は男のジャケットからスマートフォンを取り出し、通話ボタンを押して男の耳に当てた。男が通話を始める。

「……ども。……ええ、はい、病院で追い詰めたんすけどね、逃げられちゃって。……そうっすねぇ昨日お伝えしたみたいにナマコをばばばっと……あ、いや、特には、昨日見た能力ぐらいで……もちろん。この街のどこかに隠れてるみたいだから、必ず……。いつもこっちの好きなようにさせてもらって悪いっすね……。はい、じゃあ……」

通話が終わり、男はふーっと大きく息をついた。

これは……まさか……。

「ねえおじさん、今の電話の相手って……」メメが恐る恐る尋ねる。

「あ? 白浪さんだが……?」男はなんでもないような顔で答える。

「嘘」

「ほんとだよ……着信見てみろ」

そう言われて俺がスマートフォンの画面に目をやると、そこには確かに「白浪 蓮司」と着信履歴があった。思わずメメと目を見合わせる。

「かけ直してよタケル、早く!」メメは目を見開き、興奮気味に俺に詰め寄った。

「今かけ直したらわけわからないだろ。なんでこの男のスマートフォンをメメが持ってるんだってなるじゃないか」

「いや、それはそうだけど、白浪さんが……」

「一旦落ち着けって。その前に、まだ確認しなきゃいけないことがある」

俺は男の方へ向き直り、問いただした。

「おいおっさん。あんた白浪にメメの能力を隠しただろ。白浪の命令でメメの能力を暴こうと近づいたはずのあんたが、なんでそんな真似したんだ」

男は俺の質問にとぼけた顔で答えた。

「……いい加減疲れたんだよ……ただただ命令を聞いて組織拡大に務めて来たが、このまま終わっちまうのかと思うとなあ……。今回の仕事は、二週間前から組織を嗅ぎ回ってる変わったお嬢ちゃんの能力を暴くこと。そしたら会ってびっくり、俺と同じ力を持ってるじゃねえか……初めて骨のあるやつとやれて思ったんだ……ああ、俺の力はこのためにあったんだってな……。

そしたらもう命令聞いてただ生きるのとかどうでもよくなっちまって……もっとやりてえのよ俺は、強いやつと、思いっきりさあ……お前らとなら、白浪さんとだってやれるかも知れねえ……」

暑さにやられているわけではないと思いたいが、おっさんは節目がちにずっとくだをまいている。

「お前らだけじゃ手がかりもねえし、白浪さんに会えねえだろ……俺はバベルの内部事情をよく知ってる。それなりに穏便に白浪さんに近づけるかも知れねえぜ……俺が白浪さんとやるのはその後でいい……どうよ? 利害の一致ってやつだろ……?」

男はまるで貼り付けにされた罪人のように膝を折り、両手を上げている。髪は乱れ顔には影が濃く伸びていたが、その目はまっすぐにこちらを見据えていた。

「ふざけんな」メメが口を開いた。

「さっきまで私達を殺そうとしてた奴をそんな簡単に信じられるわけないでしょ。この痴漢!」

「だから俺は痴漢じゃねえって……コピーは馬鹿なんだよ許してくれ……」

「うっさい死ね」

「嫌われてんなあおい……なあ、兄ちゃんはどうだよ……俺と組む気はねえか?」

俺は少し考え、口を開いた。

「一つ聞きたい。白浪の能力って、なんなんだ」

「ちょっとタケル? まさか組むなんて言わないよね」

「ただの情報収集だ。こいつはかなり強い。俺達が二人がかりで落とせたのは正直運もあったと思う。そんなこいつが勝てない相手……メメの大事にしてる人ってことはわかるが、なんというか、何も知らずに会うのは危険な気がする」

メメはいじけたように俯いた。今度は男が口を開く。

「そいつは言えねえ。企業秘密なもんでな。でもまあ、俺と組むってならいくらでも教えてやるぜ」

「それは絶対ありえない」メメが口を挟んだ。

「俺は兄ちゃんと話してんだよ……」男も喧嘩腰で返す。

これでは埒が明かない。一旦俺は男と組むのを諦め、メメをなだめた。


***


結局、男は白浪の能力について明かさなかった。交渉は決裂だ。

男に敵意がないということがわかり、メメは渋々ナマコを解除した。メメが巨大ナマコの回収をすませたあと、男がまた声をかけてきた。

「なあ兄ちゃん、頼みがあんだけどよ……最後に俺を殺してくれねえか……」

「……何言ってんの?」メメが怪訝な顔で男を見る。

「いやほら、俺の腕、丸太ん棒みたいになっちまってんだろ……これ、もう治んねえのよ……でも俺は体の一部さえ残ってりゃあ再生できる……だからすんのさ」

メメは固まったまま難しい顔をしているが、俺には男の言っていることがピンときた。

「お前、正気じゃないな」俺は呆れたように言葉を発したが、正直、虚勢だった。この男のこれまでを想像すると、どんな過酷な生き方をしてきたのかと思わざるを得ない。

俺は男の腰に刺さっている日本刀を抜き、そのまま上段に構えた。男が膝をついて両腕を後ろに回し、首をぐんと前に伸ばす。

メメも状況を察したようで、静かに見守っている。

「そういやおっさん、あんた名前は」

「佐藤」

「佐藤さん、白浪さんにあったらよろしく」

「ああ……じゃあ頼むぜ、タケル……でもちゃんと切れんのか、 結構難しいぜ? やっぱり嫌になったなら、線路に寝かしといてくれてもいいんだぜ……」

「この状況じゃ、もう電車は来ないだろ」俺はホーム脇で脱線した電車を見ながら答える。

「それに、お前を轢いたら、電車に乗った人が可哀想じゃないか」

「やさしいねえ……じゃ、よろしく」

佐藤の首筋に、俺はまっすぐ刀を振り下ろした。

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シー・キュー・カンバー 初谷京作 @kyosaku_shiya

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