シー・キュー・カンバー
初谷京作
第1話 居酒屋前
現在――八月
鳩尾に蹴りを食らった。肺が一瞬硬直し、心臓が浮き上がる。
朦朧とした意識の中で、痛みよりも先に湧き上がる意識。
「俺はなぜ、こんなところでくすぶっているんだ」
俺、
夏空が鬱陶しいほど青々とした昼下がり。競馬場横の芝生広場に特設された、大人が20人乗れば窮屈に見えるほどの小さなステージで、俺は小さくうずくまっている。広場を囲むように植わった木々から聞こえるセミの大合唱と、集まった人々、特に子どもたちのはしゃぎ声が聞こえる。そこに入る大音量の明るい声。
「やったー! サイクロンキックで、シラミ怪人をやっつけたー! ありがとうー、クリーンマーン! 」
アナウンスの声は、さっき裏で話してた大学生アルバイトの女の子だ。全然俺が本気で痛がってることなんか気づいてないみたいな感じ。そりゃそうだよな。ここでキックされてやられるのは台本通りだもん。さて、シラミ怪人はさっさと退場しますか。
腹の痛みと猛暑で呼吸困難になりながら、ひとまず上手の袖を目指す。ステージの真ん前まで近づいて見ていた子どもたちからは、「なんか怪人すげー顔してた!」「サイクロンキック入ったとき、ボクッて音してた!」と無邪気な声。そうだよ、だいぶ痛いんだ、気づいてくれてありがとな。持久走をしていて沿道からの声援で案外力が出るように、そんな些細な言葉でも元気をもらえる。
退場際にちらっと後方を見ると、その子どもたちはみなクリーンマンのアフターパフォーマンスに釘付けで、もう誰もこっちを見ていなかった。
舞台袖を抜けステージ裏の仮設テントに入ると、すでに退場した怪人2人が、上半身だけアクタースーツを脱いでパイプ椅子に腰掛けている。
「よ、お疲れさん」と、小柄でハゲ頭の痩身のおじさんが、こちらにペットボトルのお茶を投げてくれた。俺は、ども、と言って受け取る。おじさんはダミ声の早口で、常にニコニコした人だ。縁が白い、明らかに伊達とわかるメガネをしている。伊達眼鏡のおじさん、名前はなんと言っただろうか、打ち合わせで少し話したけど、スーツアクターをして結構長いらしい。いくつぐらいなんだろうか。
もう一人の男はおじさんの奥に腰掛けてはいるが、こちらには興味なさげにスマホを見ている。大学生の短期バイトの子だろう。俺は気にせずパイプ椅子に腰掛ける。呼吸はもどってきたけれど、まだ腹のあたりに違和感があった。何気なく受け取ったペットボトルに口をつけると同時に、伊達眼鏡さんに話しかけられた。
「タケルくん、だっけ。リハのときからずっと思ってたけど、君動きのキレがいいね〜羨ましいよ。演劇とかもやってるんだっけ」
「まあ学生のときに少しやってたぐらいでして。あとは空手やってたのがでかいですかね」
息苦しい。今やられてはけてきたばかりなんだから、あとにしてくれないだろうか。よほど奥の学生と会話が続かなく、俺がはけるまで気まずかったと見える。
「なるほど空手か〜。俺もね、こんな仕事してるもんだから、最近キックボクシングとか行ってんのよ。タケルくんもどう? キックボクシング」
「いいっすね、キックボクシング。でもどっちかっていうと演技のほうしたくて」
「あーそうなんだねえ。でもこの仕事だとセリフとかもないしねえ」
アハハ、と適当に流してお茶を飲む。
あれ。さっきの焦燥感はどこ行ったんだろう。
俺はなぜ、こんなところでくすぶっているんだ、って、あんなに痛烈に思っていたのに。
もっとパッとしたキャラクターになりたい。特別な技を使えるようになりたい。
正義のヒーローになってみたい。小さいときからなぜかそう思っていた。
でもそれはありふれた憧れだった。受験、就活を通じて、自分の社会での立ち位置が何となく分かると、別に何者にならなくてもいいという感覚が大きくなってくる。
もともとかっこいい役に憧れて始めた演劇も、学生時代にセリフ読みで方方からダメ出しを受けたおかげで、「向いてないんだな」ということがはっきりわかった。それでも演じることは好きだったから、セリフのないスーツアクターを始めてみた。それだけの話だ。小さい頃から空手をしていたおかげで、体幹の基礎があるのも大きかった。でも伊達眼鏡さんみたいのを見てると、ずっとこの仕事をすることにも不安を覚える。実際に食えてはないから、俺は夜に居酒屋のアルバイトもしている。
気づいたらパフォーマンスが終了していたようで、ステージからメインキャストとガイド役の女子大生の子がぞろぞろと降りてきた。
俺達怪人役の三人は、無言でテントの隅に椅子を移動させる。
そこから特に会話はなかった。あとは給与を受け取って帰るだけだ。
アルバイトを終えて仮設テントを出ると、日がだいぶ傾いていた。といっても、夏の盛りだ、まだまだ明るい。競馬も最終レースが終わったようで、芝生の向こうに、観覧席のある建物から駅に向かってぞろぞろと歩いていく人の列が見える。
何気なくスマホを手に取ると、
伊緒奈は俺の妹だ。メッセージチャットには、クリーンマンがにこにこの笑顔で、「じゃあな!」と言っているスタンプが送られてきている。ステージ上からは気づかなかったが、見に来てくれていたらしい。
強烈なキックを食らったことを思い出し、煽られているのかとも思ったが、伊緒奈に限ってそんなことはしない。おそらく、「お疲れ!」というスタンプを打ちたかったのだろう。俺からも「ありがとう」とは打たず、スタンプを返した。
あの日から二週間、伊緒奈とのチャットはスタンプでしか会話をしていない。
仲が悪いとか、あいつのことが嫌いだからとかではもちろんない。伊緒奈はとてもいい奴だ。俺なんかよりも、ずっと。
伊緒奈は二十二歳。俺の四つ年下の妹だが、血は繋がっていない。
伊緒奈は大学を卒業したばかりで、小説家のたまごだ。
そして伊緒奈は、二週間前から――アレに遭遇し、路上で気を失った日から――言葉を理解することができなくなっていた。
***
二週間前
居酒屋でのアルバイトの際、俺は深夜二時頃に帰宅することが多い。俺がアルバイトしている居酒屋は個人経営で、小柄な五十代の店長と俺の二人で店を回している。退勤してまかないをいただき、店長とだべってから帰るのがお決まりの流れだ。ただこの日は、店長が焼酎の発注がうまくいかないとかで、注文サイトと数時間にらめっこしており、帰るのが朝の四時近くになってしまった。店長は「悪いね」と一言だけ、しかし申し訳無さそうに言い、しっかり日給に多めの残業代をつけてくれた。不器用だが、悪い人ではないのだ。
友人から譲り受けたボロのロードバイクにまたがった俺は、居酒屋のある繁華街を抜け、家へと向かう。家とバイト先を直線距離で結んだとき、ちょうど駅前の交差点が真ん中、俺はバイト帰りに必ずそこを通る。駅と言っても市内を東西に走るローカル線で、繁華街からは離れているし、交差点も片側二車線の、少し大きいぐらいものだ。深夜の人通りの少ない交差点は、ちょっとした異世界間があって好きだった。
普段は帰らない時間帯。その日の駅前は、不気味なほど静まりかえっていた。
まるで街がまるごと深海に沈んでしまったような、異様な静寂。
交差点の手前にある高架橋に侵入する。そのとき、高架下の暗がりに何かが横たわっているのが見えた。速度を落とし、ゆっくりと近づいてみる。自転車のライトで照らされたそれは、人だった。酔っぱらいかホームレスか。不気味だし素通りしてもよかったが、俺が助けなかったことでなにかあっては寝覚めが悪い、と勇気を出して、声をかけてみることにした。
横たわるそれに近づく。まず女性だということがわかる。肩を叩こうか、そう思いながら自転車のライトに照らされたその人の服装、顔を見て、俺は息を呑んだ。
伊緒奈だった。
深夜のボーっとした頭に走る、驚きと悪寒。
伊緒奈、なぜこんなところに、なぜ……まさか、死――。
いや、息はある。ゆっくりではあるが、呼吸を感じる。気を失ってるのだろうか。自転車のライトの中なんとか目を凝らしたが、伊緒奈の体に目立った外傷はなかった。
ひとまず病院に、と思った瞬間、それは鳴り響いた。
――――――――――――――――――!!!!
ウーとけたたましく響く、サイレンのような、地鳴りのような轟音。
体中がビリビリする。音の発された方向――高架橋を抜け、駅前のスクランブル交差点のあたりを見る。
交差点の真上、駅前にぽっかりと空いたその空間に、横長の飛行船のようななにかがあった。
ちょうど交差点をすっぽり覆い隠すような、あまりにも巨大な影。
楕円形に見えたその影は、俺から見て左の端がゆっくり持ち上がったかと思うと、今度は右の端が交差点の真ん中に叩きつけられたように見えた。その勢いのまま、なにかはぐうんと上昇していく。
駅前はマンションや歩道橋があり、夜明け前の薄暗さは、交差点により深い影をつくっていた。その影を抜け、巨大ななにかは上昇する。なにかの口先が、目が、口元が、腹が、胸びれが、胴が、尾びれが、順に朝日に照らされた。
その体全体は、アスファルトを塗り固めたような灰色で、腹には純白の線が縦に延びている。
「クジラだ」
そう思った瞬間、またさっきのサイレンのような、地鳴りのような、轟音。
そこからどうなったのか、覚えていない。
その日、確か伊緒奈は、小説の取材をするとかで外出していたはずだ。
高校の時から小説を書いていた伊緒奈は、大学でも文学サークルに入り、活動を続けていた。読書会や本屋巡りなどをするほか、自分たちで書いた本を出版することもあったらしい。大学三年生のときに伊緒奈は部長もしており、かなりサークルの活動に性を出していた。サークルそのものが好きなようでよく家でも話をしていたが、それ以上に、伊緒奈は小説が好きだった。将来は小説家になると豪語していたし、実際に賞に向けての応募もしていたようだ。俺は小説のことはよくわからないが、文章を書くために調べ物をしたり、取材に出向く伊緒奈はいつも目を輝かせていた。
大学四年生のときには流石に少しは就活もしていたようだが、気づいたらやめていた。曰く、「私が小説家にならない意味がわからない」のだそうだ。
大学を卒業し、小説家を目指して執筆活動に勤しんでいた、そんなときだった。
伊緒奈はどこかを怪我していたわけではないし、病気になったというわけでもない。
医師からの説明はこうだった。
伊緒奈は今、言葉が理解できない状態にある。
声でも、文字でも、あるいはどのような記号においても、それを正しく認識、または発信することができない。
普段我々が言葉を理解できるのは、例えば「ペン」という言葉と、「細長く、文字を書くためのもの」という概念が、頭の中で紐づいているからだ。
しかし伊緒奈は、今その紐づけがぐちゃぐちゃになっているか、あるいは分断されている。
だから、「ペン」と言われても「赤く、甘く、シャクシャクとした食べ物」という概念に結びつくかもしれないし、「細長く、文字を書くためのもの」について語ろうとしても、「りんご」と発音してしまう。しかもその結びつきは一時的であり、全くランダムなため、意味を持たないというのだ。
原因不明。わかっているのは、伊緒奈が言葉を全く理解できず、発信することもできないということ。そして当然、小説など書けるはずもないということだった。
そこからしばらくは目も当てられない状態だった。
頭の中で言葉紡がれないと、感情も混沌とするのだろうか。ベッドの伊緒奈は、感情がなく、虚ろな表情をしていた。
なんという理不尽だろう。今まであれだけ小説を愛し、言葉を愛し、その豊かさに心動かしていた伊緒奈が、なぜこんな目に合わないといけないのか。俺は泣きたかったし、怒りたかった。でも伊緒奈が混乱している中で、俺が冷静さを欠くわけにはいかないと思った。なんとか伊緒奈と意思疎通をする方法はないだろうか。
筆談も試したが、やはり文字が意味をなさない。伊緒奈の脳と手とが別々に動いているようだ。色々試して、辛うじて意思疎通ができたのは絵だった。絵しりとりはできなかったが、絵の意味は理解できるようで、チャット上での絵文字だけやりとりはできた。
会話と呼ぶにはあまりに不便で、物足りなく、寂しいものだった。それでも伊緒奈は画面を見ながら、ぽろぽろと涙を流していた。
***
現在
居酒屋のアルバイトが終わり、帰り支度をする。二十三時きっかりにタイムカードを切った。
アルバイト先の居酒屋はテーブルが五個並んでいるだけのこじんまりとしたつくりで、普段は店長一人で営業している。客足は日によってまちまちだが、今日は常連客が一組来ただけ。店長としてはアルバイトを早く帰らせたかっただろうが、まかないは食ってけと言ってくれた。いつまで続けるかわからないが、バイトを辞めたとしてもたまには顔を出しに来たいものだ。
店長に挨拶をし、その日出たゴミ袋を両手に店の裏口から出た。
人通りのある道から奥に入った、薄汚い路地。虫の死骸が溜まった電灯が、時折チカチカと点滅している。アルバイトをしているときには気が紛れ心が平穏だったが、一人になった途端、どす黒い感情が栓を抜いたように湧いてきた。
伊緒奈が言葉を失ってから二週間。退院はしたが、原因は未だ不明。有効な治療法は見つかっていない。
なぜ伊緒奈なんだ。なぜ、なぜ、なぜ、なぜ……。思考がぐるぐる回る。なんて不条理なんだ。世の理不尽さに、ぶつけようのない怒りがこみ上げてくる。
「ああいたいた、タケルくんタケルくん」
突然背後から声をかけられ、ふと我に返る。振り向くと店長が裏口からこちらに手招きしていた。
「どうしました」
「いやね、今お客さんが一人入ってきたんだけど、どうも飲みに来たっていうかタケルくんに用があるみたいで……店の前で待ってるからって、すぐ出てっちゃったよ。なんか小さい女の子だったよ」
女の子? 伊緒奈……ではないはずだ。あいつは小さくはないし、なにより今は口をきけない。思わず「はあ」と気のない返事をしてしまう。
「まあとにかく入口の方まで回ってみてよ。お疲れ」
お疲れ様です、と返して俺は裏口横のゴミ箱に袋を投げ入れる。そしてそのまま、そばに止めてあったチャリを押して店の入口に向かった。
居酒屋の入口には確かに人影があったが、どう見ても女の子ではない。ぼったくりバーのキャッチか何かだろうか、よれよれのワイシャツにスーツをまとった、しかしガタイのいい男が、三人こちらを向いて立っている。なぜか三人とも目出し帽をかぶっており、見るからに怪しい。
しかしよく見ると男たちの前、つまり、こちらに背を向けるようにして立っている人がいた。あれは――子ども?
後ろ姿なのでよくわからないが、なにやら黒の短パンに真っ黒なオーバーサイズのフードを被った、中学生ぐらいの背丈の子ども――少女が、三人の男を見上げている。店長が言っていた女の子というのは、あれだろうか。
ひとまず向かって左側の建物の壁にチャリを立てかけ、近づいた。
俺に男たちが気づく。それにつられてか、少女がこちらに振り向いた。「あ」と小さく声を漏らしたかと思うと、少女はこちらに話しかけてきた。
「あなたもしかして、粟森さんですか」
フードを深く被っているせいで顔はよく見えないが、その声は思いの外大人びていた。子どもにしかみえなかったがもう少し年齢が上、十代後半ぐらいだろうか。
「そうだけど……君は、というかその人達は……?」
状況が飲み込めず固まっていると、後ろにいた男たちがこちらに睨みつけてくるのがわかった。嫌な予感がする。
「ああ? 何だてめえ」と低く棘のある声。真ん中のひときわ図体のでかい目出し帽の男がこちらに声をかけてきた。
「いや、俺はなにも……」
「ならとっとと失せろ」
そう言うと男は少女に目線を落とした。
何なんだ一体。なにやら俺が余計な邪魔をしたような雰囲気だが、俺はただ呼ばれたから来ただけだ。意味がわからない。
「お兄さん」と少女はまるで周りの状況が何も見えていないかのように、こちらにまっすぐ声をかけてきた。
「伊緒奈さんに、なにかあったの」
ぐわん、と視界が揺らぐ感覚があった。
「君は……誰だ」と俺が声を発すると同時に、目出し帽の男がこちらに歩み寄ってくる。
「てめえ失せろっつったろ、目障りなんだよ」とドスの利いた声が飛んできた。
俺は怖気づくでもなく、ただ目の前の男どもをじっと見ていた。自分でも驚くほど落ち着いていて、いつもとは何かが違う感覚だ。
伊緒奈のことを知っている少女が、いかにも怪しげな奴らに囲まれている。
「伊緒奈は元気だよ」と俺は返した。嘘は言っていない。この場でそれ以上のことを話すのは難しいと思った。それよりも――。
「俺も一つ聞いていいかな。この人たちは、君の友達?」
冷静に考えれば真っ先に逃げるなり通報するなりするべきなのだが、なぜかこの状況を逃したくなかった。伊緒奈の件で虫の居所が悪かったのもあるが、このときの俺は明らかにおかしかった。
「いやなこと聞くねお兄さん」男の向こう側から、少女の声が聞こえる。
「私、友達なんていないよ」
男がいきなり胸ぐらに右手を伸ばしてきた。俺はとっさに手を払う。
「っ!」と舌打ちする男。怒らせたようだ。今度は肩を掴まれ、顔を横にぐっと近づけてきた。タバコと香水の混じった最悪な臭いがする。
なぜこんな理不尽が、この世にはあるのだろうか。
俺は路上で暴力をふるったことはないし、酔ったとしても人に迷惑をかけたことはない。でもヒーローショーのアルバイトで鳩尾に深く飛び蹴りを食らってから、妙に反抗的な気分になっていた。
理不尽、不条理、脅威、厄災。そんなもの知らない。
俺だって、抗いたい。
不意打ちのつもりだろう。男が左手で平手打ちをかましてきた。
それを右手で受け、払う。
「あ? なんだこいつ」男がキレた。ムキになると人は無言で距離を詰めてくるものだ。俺の首に両手を伸ばしてきた、首を絞めるつもりだろう。喧嘩慣れしてるのだろうが、素人だ。
首根っこを掴まれたときは力まず、体が水になったイメージで力を抜く。そして相手に体を近づけ、そのまま相手の肘に自分の肘を乗せ、体重をかけて下に落とす。
「うお、この……!」男の手が首から離れた。
ここまでは護身術だ。空手を習っていたときに、散々基本として教え込まれた。本当はここで逃げるのが正しいのだけれど、思い切り、蹴りを入れてしまった。
体勢が低くなった男の顔面に、立ち上がる勢いに任せての膝蹴り。
ぼぐっという音がして、男が後ろ向きにひっくり返る。
後ろの二人は一瞬唖然としたようだが、即座に「こいつ!」と叫び、距離を詰めてきた。相手が向かってくるならこちらはそれ以上のスピードで詰めればいい。
体を歩道脇の壁に寄せ、向かって左のやつに接近、右足をふっと上げ、膝を起点にさっと足を返して、そのまま相手の側頭へ。下段を経由しての上段回し蹴り。これが試合で決まるとかなり気持ちいいのだが、実戦でもそれは同じようだ。左の男を壁に叩きつけた。
壁に向かう形になった俺の背後に、最後の一人。羽交い締めが来るかな、と思ったので頭を思いっきり後ろに振る。「ぶおっ」といううめき声とともに後頭部にぐしゃっと嫌な感触がした。ちょうどよく真後ろに立った男の前歯と
ヒリヒリする後頭部をさすりながら、あたりを見渡す。見知らぬ男が一、二、三。地面に倒れている。こういう場合は警察に通報したらいいのだろうか。でも俺も罪に問われそうだし、どうしたものか。
「おにいさんこそ、何者?」
振り返ると、先程の黒フードを被った少女がこちらを向いていた。さっきまで危機的状況だっただろうに、妙に冷静で、しかし儚げな声だ。フードのせいで顔はよく見えないが、俺が倒した男たちをじろじろ眺めながら話しかけてきた。
「こいつらチンピラだけど、それなりにストリートファイトには慣れてる人たちだと思うよ。お兄さん、空手家かなにか?」
「いや別に、空手は昔やってただけだ」
「ふーん」
ずいぶん無遠慮な口ぶりだ。最近の若い子はこうなのだろうか。
「君いくつ? 子どもがこんな夜中に一人で出歩いてたら危ないと思うけど」
「十八。大丈夫、私は捕まらないから」
自分を最強とでも思っているかのような口ぶり。伊緒奈を知っている口ぶりだったが、なんだこいつ、イキリ中学生か?
「まだ終わりじゃないよ」少女の声に緊張が走った。
「まだ奴らが来る」
奴ら? と言いかけたとき、少女の後ろの路地から人がわらわらとでてきた。さっき倒した目出し帽と同じ風貌の男が、また何人かこちらに近づいてくる。
「さっきこいつが後ろ手に何かを起動させるのが見えた。多分だけど、発信機でしょ。仲間が周りにいたんじゃない?」と少女が、倒れた男を指さして言う。確かに、男の手には四角い機会が握られている。倒されそうになったら仲間を呼ぶなんて、ゴキブリか何かかよ。最近のチンピラは洒落臭い真似をする。
「おいおい、俺流石にそんな人数相手にできないぞ」
「逃げたらいいでしょ」
「俺はチャリがあるけど、お前はどうする、ニケツしても追いつかれるし……」
「私はもともとあの人達に用があるからいいの。早く逃げなよ」
「どう見ても話が通じる奴らじゃないだろ」
「……知ってるよ、そんなこと」
少女はこちらに背を向けたまま、頑として動こうとしない。
何かよほどの事情があるのだろうか。それにしても周りには巨漢が二十人はいる。この少女にどうにかできる相手じゃない。
「いいから逃げるぞ」と、俺は少女の手首を掴む。
掴んだ。少女の手首を掴んだのだが、どういうわけだ。この感触は……。
「触らないで!!」少女が叫んだ。
こちらに振り返り、中腰で両腕をこちらに突き出している。
パーカーの奥で大きく見開かれた眼には、鬼気迫るものがあった。
両手の人差し指で十字架をつくり、こちらに向けている。
いやいや十字架って。俺を吸血鬼か何かだと思っているのか? イキリ中学生というより厨二病だったみたいだ。この手の子どもはたまにヒーローショーでも見かけるが、できれば関わりたくはない。
「おい、そんなこと言ってる場合じゃないだろ。冷静に状況をよく見ろ、お前、あいつらになにされるかわかんないぞ」
厨二病の十八歳ははっとした顔をして、両手をバツが悪そうに降ろした。
「……いいから、もう私に関わらないで」
少し考え、俺は踵を返した。
冷静になれてなかったのは俺の方だ。
ここから離れて、警察に通報しよう。そもそも俺には関係のない奴らだ。チンピラに厨二病の少女なんて、どうして関わり合いになろうと思ったんだろう。なぜ伊緒奈のことを聞いてきたのかは気がかりだが、もう付き合っていられない。
あの子になにがあったのかは知らないが、もう勝手に――。
ゴンっ。俺の背後で鈍い音がした。
後ろを見ると目出し帽の男が一人、満足げな顔をして立っている。
手には、金属バット。
「これで小せえのがいなくなったなあ……で、お前は?」と、金属バットの奴が言うと、周りの奴らも同調して、薄気味悪い嫌な笑い声を立てる。
おいおいおい、嘘だろこいつら。何があったか知らないが女の子――そうだまだ子どもだ――子どもに、なんの躊躇もなく金属バットをフルスイングしやがった。
ちらっと視線を右側に向ける。歩道を越えて車道までふっ飛ばされた少女は、倒れて動かない。頭の周辺には、吐瀉物だろうか、白いなにかが飛び散っている。
ひとまず上段ガードをして、臨戦態勢をとった。
ざっと数えて二十人。凶器を持ってる奴もいる。さっきの三人のようにはいかない、俺一人ではどうやってもさばききれないだろう。
でも、引き下がれるわけがない。
こんな理不尽があっていいわけないだろ。
人の心もないようなこんなやつらに、俺がなぜ負けなくちゃならない。
理不尽に飲み込まれてただ死ぬくらいなら、最後まで足掻いて――
「おえっ、いきなりなにすんのー」
むくっと、少女が起きた。まるで寝起きの悪い妹のような、殴られてなんていないような顔をしている。チンピラたちにも想定外のことらしく、どよめきが起こる。
おかしいのはそれだけではなかった。少女の口から出てるあれは……なんだ?
吐瀉物にしてはどろどろしているというか……大きい。口からでたそれは、少女の体を半分隠すぐらいの大きさがある。
「あーさいあく、内蔵出ちゃった……おえっ、こうなると流石にしんどいねえー……」
周囲の混乱などお構いなしに、少女は直立した。口から内蔵と呼ぶそれをぶら下げている。
先程の冷静でとっつきにくかった印象とはだいぶ違う。まるで酔っ払いのように発する言葉が全体的にふわふわして間延びしている。
「おにいさーん、伏せててー。本当は見せたくなかったけど……もう限界だから、片付けちゃう」
少女がすっと両手を前に出し、人差し指をクロスさせて十字の形を作った。
「ナマコ
少女が構えた指の交点から一瞬黒いなにかが現れたかと思うと、次々とチンピラたちを撃ち抜いていった。
握りこぶし大の黒いなにかがチンピラたちの頭に衝突し、倒していく。
まるで機関銃を振り回すように、少女はドドドドドドと、チンピラたちを蹴散らす。チンピラたちも何が起こったか全くわけがわからないという様子で、逃げる暇もない。辛うじて事態を把握した最後の数人がほんの一瞬、情けなく消え入るような声を上げただけだった。まるで伸び切った夏草が草刈り機に整えられるように、ものの数秒で悪漢たちはその場にのされてしまった。
チンピラを倒し終えた少女は息を切らし、フラフラとしている。かなり辛そうだ、大丈夫だろうか。いや、それよりも……。
「お前は、一体……」
少女がおもむろに振り返る。
少女は瞼が半分降りた眠そうな目で、半笑いの口元に内蔵をぶら下げながら、言った。
「私はメメ――
こうして俺は、ナマコ少女に出会った。
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