シスターが大好きな悪魔くんと忘却薬

七瀬雹

シスターが大好きな悪魔くんと忘却薬

 近年まれに見る豪雪が降った翌日。

 

 まだふってる雪のせいで、世界は真っ白に染まっていた。僕の黒い髪にも雪がつもっている。何度払ってもつもるので、とうとう僕は雪を払うのをやめた。歩き疲れた足は痛い。体もくたくただ。子供が歩いて良い距離じゃない。でも、がんばった。がんばるしかなかった。


 僕の名前はシュマ・ルートスだった。

 僕の名前は今日から、ただのシュマになる。

 母さんは「<おおきな町>は、村よりも寛容だから。あなたのほんとうの姿を見ても、あなたに酷い事をしたりしないわ」と最後に僕に言ってくれた。

 

<おおきな町>の人は寛容。母さんに言わせればそれは他人に興味がないってだけらしいけど。

 

 でも、母さんは最後の最後に、窮地に陥ってたせいで頭がうまく働かなかったんじゃないかなと想う。


 僕みたいな子供がたった一人で、知らない町で、どうやって生きていけって言うんだろう。それに僕はフツウの子供じゃない。

 

 きっとこの頭に生えているものを見たら、そして憤慨した時の僕の変色した瞳を見たら、きっと、この町の人達も、僕のことを殺そうとするはずだ。

 

 怒ると僕の黒目は赤色の目に、白目は黒色になってしまう。どこからどう見ても化け物だ。

 

 

 だから僕は怒っちゃいけない。絶対に。

 



<おおきな町>は建物が現代的だった。

<ちいさな村>にあるような藁葺わらぶき屋根の家なんてない。ぜんぶ、レンガで出来てて、窓はガラスだ。

 

 僕は周りを見回す。僕と離れ離れになった母さんのことを想うと今にも意識がなくなりそうだ。

 

 

 

……冷え切った空気を肺に吸い込む。<ちいさな村>はまだ冬でも暖かかったから、コートではなくて薄い生地のマントを着て、<おおきな町>に来てしまったことを後悔した。


(でも、しかたなかったんだ)

(逃げてくるには、ゆっくりコートを選ぶなんてできなかったし)

(母さんが僕を逃がしてくれなかったら、僕は……ぼくは……)



 思い出しただけで涙がこぼれそうになるけど、ぐっとこらえる。我慢する。泣いちゃ駄目だ。

『世界は残酷なのよ』

『泣いている人、苦しんでいる人が居たらね、世界はすぐにその人を獲物に選んで、牙をむく』

『覚えておくのよ、可愛い私のシュマ。――どんなときでも、強くありなさい』

 いつも母さんが言っていた。

 

 だけど僕は負けそうだった。

 

 

 もういっそ、凍え死んでしまおうか。

 そうしたらいつか、天国ってところで母さんと再会できないかな。

 

……分かっている。僕と同じで人間じゃない母さんは死んだんだ。<大きな橋>のところで、あのあと、村の自警団どもに、殴られて、蹴られて、刺されて、死んだんだ。


 血はドクドク出たかな?

 たぶんそうだ。

 もう確かめることはできないけど。

 

 

「……ッ」

 震えていた。寒いのは苦手だ。僕は暖かいところに住んでいたから。

 通行人たちは歩いている。僕はふと足を止める。

 ほんとうにどうしたら良いんだろう。

 

 目からなにか出てきた。涙だ。

 

 その時。

 

 

「大丈夫!?」


 声をかけられた。少女の声。


「迷子ですか?」

「…………」

 眼の前に立っていたのは、大人びて見えるけど、たぶん12歳くらいの女の子だった。黒髪が長くて、サラサラしている。おこうの匂いがする。

 どう見ても人間だ。

 黒いワンピースを着ているけど、手と顔以外は露出がないとはいえ、寒そうな格好だ。でも平気そうにしている。

 

 僕はフードをまぶかに被った。ツノを隠すために。

 


●  ●  ●  ●  ●


 

「ぼく、迷子じゃ、ありません」

「そうなんですか? でも……。おうちはどこですか?」

「……なくなりました」

 嘘は言っていない。

 

「そうなんですか……孤児の子ということですか……?」


 その時、彼女は急に僕の手を繋いできた。

 暖かい彼女の手。ぽかぽかしている。

 僕はうなずく。父さんはだいぶ前に旅に出て行方不明だし、母さんも死んだはずだ。孤児って言葉は、ある意味では間違ってはないから。

 

「私はシスターのリトです」

「りと」

 シスター。宗教関係者か。嫌な予感がする。

「暖かいココアをご馳走しますよ。詳しいお話を院長先生にしたら、もしかしたら、教会が泊めてくれるかもしれないし、ひょっとしたら養護院に連絡して、新しいおうちを……」


「けっこうです」



 僕は断ったのに、シスター・リトはしつこかった。シスターじゃなくてセールスでもするほうが向いてるんじゃないかと思うほど、執拗に僕に教会に来てココアを飲むように勧めてくる。

 

「泣いている子を放っておくなんてことはできませんから!」

 とんだお人好しだなと思う。

 でも、もう良いかもしれない。

 

 僕が悪魔だっていう正体がバレたら、この人かインチョウってやつが僕を殺す。そしたら天国でだいすきな母さんにまた会えるかもしれない。

 

 悪魔に天国なんてないって人間は言うけど、母さんは「死んだ生き物は動物も、人も、悪魔も、竜も、みんな一度は天国に行くのよ」と言ってくれた。天国で裁判を受けて、悪い人は黄泉の国で、さまよい続ける。

 

 それが本当かは疑わしいけど、僕も頭がうまく回らなくなっていた。

 

 とにかく僕は死を望んでいる。彼女だってじきにそうなる。

 


●  ●  ●  ●  ●



「このココアはとても美味しいんですよ。スーパーで大安売りしていて、院長が好きなので買ってきたんです。院長は甘いものがだいすきな、優しいおじいちゃん先生です」

「この教会には、他に誰が居るの?」


「いえ、院長と私だけです。前はスリアンナというシスターの中年女性や、シスター・ブラザーが他にも居たのですが、スリアンナは腰痛で病院に入院中で……、他の方は、よその教会に派遣されました」


「そうなんだ」

「どうしたのですか?」

「シスター・リトは、とても大人びた喋り方をするね」

「ふふ。こう見えてもう12歳ですから」



「……そうなんだ。……ぼくは、そろそろ9歳」

「ココアとっても美味しいですよ。飲んでみて下さい。きっと、元気が出るはずです。悲しい時や、落ち込んだ時は、私はココアを飲むんですよ。そしたら、すっごく身体が元気になります」


「なにそれ……」

「身体に栄養が不足していると、しょんぼりしちゃいますけど、お腹がいっぱいになれば、ちょっぴりは人間、元気がでるものですよ!」


 にこにこするけど、じつは僕は悪魔なんだけど……。

……ココアの甘い香りが、僕の鼻腔をくすぐる。美味しそうだ。飲みたいな……。



「あと、このお菓子も良ければどうぞ! 知り合いのパン屋さんがいっぱい割引してくれた砂糖がけラスクです。なんと驚きの5割引! 割れてるけど、おいしいですよ」


 かなり砕け散ってるラスクが入った袋も差し出してくれた。

 いいな。食べたい。お腹がすいた……。

 胃は食べ物を求めて、きりきりしている。思わず、つばを飲み込む。



「……もらえない」

「どうしてですか? 遠慮せずに食べて下さい!」

 さあさあ! と笑顔でラスクとココアの乗ったテーブルを、どうぞ、と手で示される。でも……。

 

「僕は、悪魔だから」

 ついに言ってしまった。

 

「…………。……え?」

「人間は悪魔が大嫌いだから」

「……えっ」

「だから、僕のこと、殺そうとするんでしょ?」

「なにを……まさか……」

「…………」


 フードを外した。どうしてそんな事をしてしまったのか自分でも分からない。

 

 悪魔のツノが露出されているはずだ。人でない事の証明。



 うつむいた顔を上げたら、シスター・リトは泣いていた。

 僕のせいだ。この年上の女の子を怯えさせてしまったのかもしれない。

 

 そう思った。そしたら、シスター・リトは僕を抱き寄せて、ぎゅっと強く強く抱きしめてきた。

 

「今までどんな暮らしをしてきたのか、想像がつきます」

「…………」

「もしかして、あなたは、東地方の……どこかの村の住人だったのではないですか?」

「そう、です……」

「この町ではそんなことはありません。万物をお作りになった翼の生えた炎の神さまは、人も、竜も、悪魔も、自然も、動物も、すべての子を愛しているのです」

「…………」


 宗教のことはよく分からないけれど、僕は涙がぼろぼろとあふれてきた。「おかあさん……」

 

 なんでそんな言葉が漏れたのか分からない。明らかにシスター・リトは僕の母親じゃない。けど、涙は止まらない。


「あなたも大変でしたね、……あなたの、お名前は?」

「ぼく、シュマです。……シスターさん」

「私のことはリトと呼んで下さい。今日から、私がシュマくんのお姉ちゃんになります。院長がなにを言っても私が説得してみせます。だからもう、シュマくんは泣かないで」

「……どうして、リトお姉ちゃんは、やさしくしてくれるの?」

「……私も、色々あって、教会に来ることになったのですが、その時院長やスリアンナが私にしてくれた数々の親切を、誰かにしてあげたいからです」



 まっすぐな瞳で言われた。

 

「シュマくん。シュマくんは、もうひとりじゃありませんよ」

「……うん……」

 彼女が笑顔になる。

 

 その日から、僕は教会にしばらく寝床を世話して貰うようになった。

 

 あれから僕の人生には、たくさんの人間が入り込んでくるようになったけど、その中心にはいつだってシスター・リトが居た。

 

 

●  ●  ●  ●  ●



 あれから10年が経ち、僕は19歳になった。

 ツノを隠さずに歩けるこの町は、ほんとうに良い町だ。……ときどき、誘拐事件があるとか失踪したとかは、聞くけれど。

 

「リトー!」

 背後からシスターに呼びかける。僕の手には大きな花束。

「……わあ、シュマくん! 綺麗なお花ですね」

 あんたのほうが綺麗だろというのは、ふたりの関係を壊しそうなので言わないでおく。

 

「あげる」

 工芸細工こうげいざいくの職人として仕事をして得たお金で、リトに何か贈り物をするのは初めてかもしれない。

 バラと、ユリと、よく分からない派手で豪華絢爛な色とりどりの花がぎっしり詰め込まれた花束の重みはすごかったけど、ひょっとしたらもう少し、おとなしいお花をあげたら良かったかも。

 

 やたらと豪華な花束は、まるで婚姻のプロポーズの日にあげるようなものになってしまった。

 花屋がやたらと色々勧めてきて、セールストークが上手すぎたのもあるけど。

 

 これでは、好きなのが丸わかりなんじゃ……? と思った。

 

 だけどリトは「えっ、良いんですか! ありがとうございます。私、実はとてもお花が好きなんです。大切に飾りますね!」と嬉しそうに言ってくれるだけだった。

 

 とくに深い意味は感じ取らなかったらしい。

 

 

「喜んでくれて嬉しい」

「いや、やっぱり花瓶にささずに、早めに薔薇ばらをドライフラワーにしておけば、この花束を永久に持っておくことができるのでは……?」

 リトが何か小声でぶつぶつ言っている。


「まだ枯れるまで時間あるから、飾っといてよ」

「それもそうですね!」

 あはは、と笑って言った瞬間に、よく見知った顔がのこのことシスターに近寄ってきた。中年男性だ。


「あら、ヒギンズさん。お久しぶりです」

 リトが言う。

 眼の前には金髪のイケメンなおっさん、もといヒギンズ氏。

 

「やあシスター、また会えてうれしいよ。……わ、どうしたんだい、その花」

「実はシュマくんがくれたんですよ」

「そうかい。シスターにぴったりの可愛い花だね」

「あははは! もう、ヒギンズさん、――に怒られますよ」


 この人が誰なのか詮索をしたことがあるけど、リトは曖昧にはぐらかすだけだった。

 

 思わず憎悪の目で睨みつけてしまうけど、ふたりともこっちには全然意識を向けていない。楽しい談笑って感じでべらべらと喋ってる。

 

「…………。……ッ」

 もう帰ろうかな、そう思った時。リトが満面の笑顔でヒギンズとかいうおっさんに……でも顔が美形で、女遊びしてそうなおっさんに、別れの挨拶として手をふった。

 


「…………」

 リトは、その時、婦人と紳士みたいな二人組――「メリーを知りませんか? メリーを……!」と泣きながら言っている二人組を見て、憂鬱そうな顔をした。

 

「どうしたの?」

「いえ……」


 いつもこうだ。

 シスター・リトは誰にでも分け隔てなく優しくて、明るくて、素敵な女性ひとだけど、皆に愛されていても、ときどき、すごく悲しそうな顔をする。

 

 まるで、世界で一人ぼっちみたいな顔。

 まるで、寂しくて、絶望していて、世の中ぜんぶから見捨てられたみたいな顔をする。

 

 どうしてだか、僕には話してくれない。

 なんでだろう。

 僕じゃ力不足? それとも僕は、リトの人生のモブなの?

 

 

「ふう……」

 呆れたような溜息をリトがついた。

「ほんと何、どうしたの?」

「いえ、馬鹿げた考えが頭をかすめただけです」

「なにそれ。歯の妖精が枕の下にコインを置いてくれるって大人なのにまだ信じてたとか?」


「実は」



 リトが話し始めたのは、誘拐事件についてだった。

 

「この町では失踪しっそう事件が数多く起きているのは知っていますね? シュマくん」

「ああ、うん。まあね。それが……?」

「その大半は、自らゆくえをくらましたり、ちょっと家出をしている人です。けれど……。最近、誘拐事件を目撃している人々が多くて……」

「…………? うん」

「とにかく、犯人は不明ですが、町のごろつきを雇っている犯人が居るという事だけは分かっていて……」

「……で? 話しが見えないんだけど、リト」


「……今から言うことは、きっと気のせいです」

「うん」

「でも、あり得る訳がないのですが、院長が、事件の当日にだけ姿を消しているのです」


……いけ好かない、宗教狂いの爺さんだとは思ってたけど、親切そうな外面だけは良い腹黒い爺さんだとは思ってたけど、まさか、というのが感想だった。



「偶然じゃない?」

「それが、不穏な会話を盗み聞きしてしまって」

「え」

「院長が、教会本部に寄進したいという話で、でも、教会にはそんなに多くのお金は無いんです。ときどき寄付があるくらいで、……私が帳簿をつけているので分かります。けれど」

「けれど?」

「1000万ジュエルを、教会本部に寄進すると」

「…………!」

 その瞬間、その言葉よりも、<トンカチをもった、いかにもごろつき>といった男がリトに一直線に近寄ってくるのが気になった。

<トンカチのごろつき>だけじゃなくて、<ナイフやバットを持ったごろつき達>も、リトに近寄る。いや、僕を見ている……?

 

「そして、院長は、……」

「リトッ! 危ない!」


 後ろから、トンカチの男にリトが殴られた。

 そして僕は、ごろつき達にリトが連れ去られていく間、他のナイフを持った男に腹を刺されかけた。

 

「――ッ!」

 

 ごろつき達と戦闘になって、僕は彼らと揉み合いになった。馬乗りになってきた男のナイフ。ギリギリで、その男の手を掴んで、防戦する。

 

 最終的に、息も絶え絶えで彼らに勝利すると、リトはすでに連れ去られた後だった。

 

「おい! リトはどこに居る! あのシスターの女をどこへ連れて行った!」


「言えねえな……」

「誰の差し金だ!」

「言えねえな……」

「チッ……」

 ドカッと腹を殴りつけて、顔を殴った。

「はやく答えろ! それとも死にたい!?」


「……誰の差し金かは言えねえ。が、あの女は――」



●  ●  ●  ●  ●



(頭が痛いです。ここはどこでしょう……。私、どうして……ああ、確かシュマくんが、「危ない!」って言ってたかしら……。ひょっとして、お花の鉢でも落ちてきた?)



「傷は治ったか。さすがは高級魔法薬だな。高い金を払ったことはある」

「……院長!?」


 眼の前に居たのは院長だった。今年で65歳になる、あの教会の運営者。そして私の義父みたいな保護者だった人……。

 


●  ●  ●  ●  ●



「ど、どうして貴方がここに」

「分かりきった事を聞くのだな」

 院長は鼻で笑った。

「今更愚か者ぶるなよ」


「……ということはやはり……?」

「そうだ。私が……誘拐事件の……いや、話すと長くなるな、止めておこう。少なくともお前は私を嗅ぎ回りすぎた」


「……なっ」


「忠実な犬のように可愛いお前を、私は娘のように思い育ててきた。……だが、私はもうお前を必要と思わない。私はさらなる高みに登る必要があるからな」


「……ッ」


「これを飲め。安心しろ、ただの忘却薬だ」

「うぐっ……!」

 おそろしい力で、院長がシスター・リトの首を締める。そして、ボトルの中身を飲ませようとする。65歳になろうかと思われる男は、老体らしさのかけらもない筋力と、強靭な肉体を持っていた。

 

「お前は外国に売り飛ばされ、雑巾のように扱われ、死ぬ」

「…………!」

 忘却薬が流し込まれる。

 

「――両親を殺され、幼い頃から大人のように振る舞い、なにひとつ楽しいことなどない人生を送ってきたお前は、憐れなシスターだったな」

「…………!!」

 忘却薬が彼女の食道に、胃に、すべり込む。

 

(私は確かに、両親を何者かに殺された。不幸の星のもとに生まれてしまったのかもしれない。それでも、私は……!)

(シュマくんや、スリアンナさんや、ヒギンズさんや、パン屋さんや、皆のおかげで笑顔を貰って生きてきたんだ……!)

(私は、誘拐犯なんかに憐れまれるような人生なんて、歩んでいない……!)

 

 最後にシスターが思い出したのは、シュマの笑顔だった。

 

 

(シュマくんは、もし私が居なくなれば、きっと、悲しむ……! ここで、死ぬわけには……!)

 

「だがその間じゅう魔法薬で意識は混濁状態にさせられる。なにも辛いことはないし、今すぐ死ぬわけではない。ああ、私はなんと優しいのだろうな」


「この、ばけもの……、呪われて、地獄へ落ちろ……!」


 ボトルが口から離れた瞬間、最後にシスター・リトがつぶやいたのは、人生で初めてつぶやいた、呪いの言葉だった。

 


●  ●  ●  ●  ●



 ここはどこだろう。

 私は誰だろう。

 次に目を開いた瞬間、そう、シスター・リトは思った。

 

 眼の前にだれか、立っている。

 だれだろう。黒い服を着ている。

 よく知っているような匂いがするけど、どことなく、汗と血の臭いがする。ここは……?

 

 

「ひっ……!」


 座り込んでいるせいで相手の顔が見えなかった。見上げると、そこには顔立ちの綺麗な、白目の部分が真っ黒の、血のように赤い瞳をした、ツノの生えた黒髪の20代くらいの男性が立っていた。


(まるで、悪魔)



「誰? あ、悪魔……?」

 リトが声を上げた。

 


●  ●  ●  ●  ●



「え。リト……? リト、どうしたの?」

「ひっ! 来ないで下さい! 殺さないで!」

「ねえリト、話を……」


 コツン。

 足元に何かがぶつかった。

 よく見るとそれは、小瓶だった。僕はそれを、手に取ると蓋を締め、服のポケットへと入れた。

 

 院長はさっきの戦闘で、馬車の外に倒れているが、森はいやに静かで、夏の夜に鳴く虫の声だけが響いている。

 


「リト、僕を信じて。僕はリトを助けに来たんだよ」

「……あ、貴方は、誰?」

「僕はシュマ。リトの幼馴染だよ」

「……ごめんなさい、私、なにも覚えていなくて。私は、リトという名前なのは、覚えているのですが……。子どもの時のことも、今のことも、何も……」

「大丈夫、良い病院を知ってるから。そこへ行こう」

「……はい」



●  ●  ●  ●  ●



「大丈夫、すぐに記憶は戻りますよ」

 病院の診察室で、先生はそう言った。

「ホントですか!」

 思わず大きな声を出してしまった。

 

 

 この先生は、以前僕が目の色が変わってしまうのを治す薬を欲しいと言ったら、そんなものは無いし、変わってしまう目の色はとても面白くて魅力的だから、気にすることはないと言ってくれた先生だ。

 

「来るのが少し遅かったら大変なことになっていましたが、シュマくんが迷わず病院にシスター・リトを連れてきてくれたから、大事にはなりませんでした」


「は、はい!」

 僕が言う。

「はいっ」

 リトが言う。

 

「ただし服薬は忘れないようにね」


 眼鏡の医者はそう言うと、「次の患者さんどうぞー!」と言った。

 


●  ●  ●  ●  ●



 教会に戻ってきた。すこしずつ記憶を取り戻しつつあるリトは、僕の瞳を見つめる。そこには恐怖はなくて、黒っぽい茶色い瞳は優しい色をしている。

 

 

「シュマくん。あの日は、すみませんでした。怖がったりして」

「良いんだよ。誰でも悪魔は怖いって」

「いえ、ツノは素敵だなとおもうのですが、血まみれだったので、怖いなと……」


「あー、あれね。ちょっと元気の良いチンピラと乱闘になったから、血まみれになっちゃってたけど……。……べつにっ、僕、普段は温厚だからね!?」



「ありがとう」

 手を笑顔でぎゅっと握られた。

「え」

「ありがとう、シュマくん。きっと貴方は今までも、こうやって私のことを、そばで支えてくれたり、守ったり、たくさんしてくれていた気がします」

「……誰にでもする訳じゃないよ」

「それは、ほんとうですか?」

「ほんと」

「前にもそうやって、シュマくんが悪者になろうとしていた事があるような気がします」

「何言ってんの。僕が言いたいのはね、僕は誰かさんみたいに人助けが趣味のド正直な超級善人じゃないって話」

「では、どうして助けたのですか?」

「だいすきだからだよ」

 声が震えた。ついに、言ってしまった。

 

「あ、ありがとうございます。私も大好きな友達だと思っていますよ。記憶はまだ完全には戻らないですが、いつもこうしてふたりで、笑顔でお話していたような気がします」


「ちがうよ」

「えっ? 違うのですか?」

「……僕は、リトのことを、愛してるんだよ」



「へ」

「ほら、鈍いから分かんないかな。……うーん。ええと、キス……したり? 一緒に旅行行ったり? いつか夫婦喧嘩する仲になれたら良いのにな……っていうほうの好き」

 結婚したい。本気で思う。


「つまりそれは……」

「恋愛対象としての好き」

「え、ええええええええええええ!?」

 手を繋いだままシスター・リトが固まった。


「ちょっと、どうしたの……? なにその驚き方……、気づいてたでしょさすがに僕の想いは友達関係のアレじゃないってそろそろ……」

「ま、まさか付き合っていたのですか私達は」

「違うけど。僕の片思いだけど? 万年片思いだよ?」


「えええ」

「花束あげても、好きって言っても、いつか一緒に世界一周しようって言っても、好きなタイプ聞いても、恋愛話聞こうとしても、何しても動じなかったし」


「そ、それは実にすみません」

「愛してる。こんな弱ってる時につけこむようなの、サイテーかもしんないけど、でも、今言わないと、いつまでも言えない気がするから、言わせて。愛してるんだよ、ほんとに」

 握られている手をぎゅっと握りしめた。


 パッと手が離される。

 

「そそそそそそそ、そんな事。私、シスターなので! 神様の妻です!」

「それって世間一般的には未婚って言うんだよね」

「それにそれに、人間だからっ……」

「悪魔とは結婚できない?」

 思わず声が苦く冷たくなってしまう。

 

「……いえ、そうではなくっ……! ていうか付き合ってすら居ないのに、なぜ三段飛ばしでゴールインのお話を私達しているのでしょうか!?」

「どうして駄目なの」

「それは。……ほら、やっぱり、人間だから私……シュマくんと違って……すぐに、……おばあちゃんになって、あと50年もすれば立派なご老人ですし……。人間は弱いからすぐに死んでしまいます。病気もするし、すぐ腰痛で病院に入院するし、骨折するし、けっこう、人間ってもろいんですよ……?」


「僕のこと、キライ……?」

「……あ。……え……っ」

「僕のこと、好きじゃないんだ……?」

「それは……っ!」

「僕は、好きなんだけど、やっぱりリトは……」

「そんな攻め方は卑怯ですっ。ひきょうな、質問、ですよ……!」



(あと一押しかもしれない……!)


 弱ってる時につけこんで、無理矢理、自分に好意を向けさせようと押し問答していたその瞬間。

 

「シスター! 大丈夫だった!?」

 

 おっさんの大声。あのヒギンズとかいう男がのこのこと教会内に入り込んできていた。

 

 

「シスター!」

「ええと、どなたですか……?」

 リトが言う。

「なっ……!」

 その一言に、ヒギンズとかいうイケメンなおっさんはダメージを受けたようだった。ざまあみろ。

 

「やはり、事件の後遺症があるんだね……」

 ヒギンズが言う。

 

「シスター・リトなら僕が誠心誠意そばで見守ってるので、(しゃしゃり出て来なくても)だいじょうぶですよ。彼女は事件で疲れている(し僕が告白していた最中でタイミング最悪な)ので、また今度にして貰えませんか(来世とか)」


 僕が言う。

 

 するとヒギンズがなぜか、おかしそうに笑った。

 そして、「そうだね、今度は子供と妻も連れてくるよ。ありがとう、シスター・リト。おかげで子供の名前がついに決まってね、妻も僕も納得する名前ができたんだ」

 

 覚えてないかもしれないけど、妻が妊娠してブルーになった時から相談に乗ってくれて、ほんとうにありがとうね、とヒギンズは言うと、教会から出ていった。リトがどうしても見送ると言うので、しぶしぶ僕も、町並みを眺めることになった。

 

 

●  ●  ●  ●  ●



(今日は、虫の声がしませんね……)

 夜が来た。

 私は、自分がリトという名前で、リリ・サイラスとトト・サイラスの娘だという事も思い出した。

 いや、思い出してしまった。

……あの日のことを。


『ママァ、パパァ……!』


 トイレから出て、悲鳴が聞こえたので両親がいるリビングに行くと、だいすきな両親は死体になっていた。

 血の海。冷たく固くなっていく両親。うつろな目。


 あの日から、親戚が駆けつけて、泣き続ける私を慰めてくれたけれど、親戚はおじさんが病気になって、手術費用を払えなくなるから私を引き取れなくなった所に救いの手を差し伸べてくださったのが、院長だった。

 

『リト、お前はシスターになりなさい』

『しすたぁ……?』

 両親を何者かに殺害されて心神喪失状態の私に、優しい言葉をかけてくれたのも、院長だった。

『なぜ、世界やかみさまは、我々に過酷な試練をお与えになるか、リト、おまえには分かるか?』

『かみさまはいじわる』

『違うんだよ、リト。かみさまは、おまえを常に見ている。おまえを愛している。けれど、試練を与えなくては、魂が高みに登れないんだ。痛みを知って初めて、人は他者の痛みに寄り添うことができるんだよ、リト』


 そう言ってくれた院長を私は恨んでいたけど、それでも、あれは、子供にかけるのに適切な言葉ではなかったにせよ、それに、子供に宗教教育をするのはどうなのだろうという疑問もあるにせよ、優しい言葉では……あったと思う。


『シスターになりなさい、リト。人を救うのだ。それが神々の意志なのだから』


 院長は、やさしい人だった。すくなくとも、ここ最近までは、やさしい、人だったように見えていた。

 

 私を娘のように愛してくれていると思っていた。それがまさか、あんなに冷酷な人だったなんて、信じられない……。

 


●  ●  ●  ●  ●



「知ってる? 教会の院長してた司祭」

「女と子供をさらってたそうじゃないか」

「莫大な金を持ってたらしいな」

「奴隷売りと繋がっていたそうですよぉ、怖いですなぁ……」

「ねぇねぇ知ってる? 院長やってたあの男って今ね……」


 仕事が終わった夕方に、僕は町の人々が噂するのを横目に、新聞売りから買ってきた新聞を持って、教会へ戻る。


「リトッ、記憶が戻ったってホント!? パン屋のおじさんから聞いたんだけど」


「あ、はい」


「そっか……よかった。じゃあ、この新聞、ここに置いとくからね」

「……こ、これは!」


 リトが目を見開いた。

 

 

「院長が逮捕……!?」

 なんでそんなに驚くのだろう。

「当然だよね。住民げきおこだよ」



「シュマ、あなたが――殺したのでは……!?」

「いや、半殺しにしただけ」

「……え、ええ……! い、いえ、構わないのですが、あんなに血まみれだったので誤解していました! どうりで騎士団が尋問に来ないはずです!」


「今から言う話、聴きたくないかもしれないけど、リトには言っておかないといけないなって思うから言うね。チンピラけしかけて、リトの両親を殺したって、院長最後に言ってたよ。それを聞いたら、僕、ブチギレちゃって、つい、相手が気絶するまでボコボコにしちゃったんだけど」


「そ、そう、です……か」

「殺しちゃったー! って一度は思ったんだけどね。殺せてなかったみたい。今から息の根止めに行ったほうが良いかな……牢屋の中だけどあの人……」

「シュマくん!」


「ごめん冗談だって。とびきり不謹慎なやつ。……ごめん」

「シュマくん……」


 その瞬間、リトが僕に抱きついてきた。

 

 

●  ●  ●  ●  ●



「助けてくれてありがとうございます。本当に、返しきれない恩です」

 私の声は震えている。

 

「何だよそれ。あの日から……僕はずっと救われてるし、おあいこでしょ」


 シュマくんが言う。

 違う、違うの。思わずそう言いそうになる。

 

 あの時の私は、彼があまりにも悲しそうで、寂しそうで……まるで、鏡に写った幼い時の自分を見ているようで、見過ごせなかっただけなの。

 

 あの時の自分を救ってあげたかったし、あの時の自分がして欲しかった事を、しただけなの。

 

 私は、けっして、シュマくんがときどき冗談めかして言うような、「人助けが趣味の清廉潔白な聖人君子」なんかじゃ、ない。どう考えても、買いかぶりすぎだ。

 

 ほんとうの私は、醜い。人助けをし続ければ、いつか、院長が私のことを、ほんとうに家族のように誇らしく思ってくれると思っていただけだ。

 

 それに、私がもしほんのすこしの優しさを分けてあげられたら、もしかしたら、絶望して、失うものが何もなくて、犯罪に走るような人もすこしは思いとどまってくれるんじゃないかって、期待する部分もあった。

 

 

「リト」


 考え事をしていたら、シュマくんが声をかけてきた。

 

 

「こんな事になっちゃったし、この場所に居ると、いつまでも院長のこと思い出すよね」

「そうですね、他の教会か慈善団体に、私は移動したほうが……」

「違う違う! そうじゃなくて、……シスター辞めて、僕と暮らさない?」

「…………!」


 シュマくんが言ったのは、「この教会は次に派遣されてくる新・院長がなんとかする」ということとシュマくんは「見ての通りそんなにお金持ちじゃないけど、定職についてるし、貯金も少しくらいはあるというか……」ということだった。

 

「…………」


 おかしいな、変な流れになってきたぞ、と思った。シュマくんは可愛いし格好いいなと思っていたけど、まさかこんな事を考えていたなんて。予想外すぎて、照れてしまう。顔が真っ赤になりそうだ。

 

 

 オレンジの優しい色をした夏の夕日が、ぽかぽかとステンドグラス越しに私の頬を温める。

 ガラスがきらめく。私の心臓が跳ねる。シュマくんが囁く。

 

「リトが何を抱えてるのか僕には分からないけどさ、もう自由になりなよ」


「それは……」

「好きでシスターやってるなら、その意思を僕は尊重するけどさ……、リトにも、誰かに敷かれた未来じゃない、自分だけの未来を手に入れる権利、あると思うよ、僕は」



●  ●  ●  ●  ●



「え、本当!?」

 僕が言う。

「はい」

 リトが微笑む。照れくさそうだし、少し困った笑顔だ。

 

 

「ほんとの、ほんとに?」

「そうですよ」

「…………!」

「泣かないで、シュマくん」

「だって、さぁ……!」


 

●  ●  ●  ●  ●


 翌週になりました。よく話し合った結果、引っ越しにむけて、荷物を整理することになった私達だったけど……。


「はやく! リトー!」

「待って下さい! お手紙を分別してから……」

 しぶしぶシュマくんがうなずくと、「はやくしてね!」と言う。

 

 そして、お手紙を分別していたら、あまりの量の多さに夕方になってしまった。

 

「リト……もう良いでしょ? 何回も声かけたんだけど……!」

「す、すみません。でも、もう少しだけ……」

「それ、引越し先ですれば良くない?」

「いえ、でも……あとちょっと! あとちょっとですから!」

「これ以上時間かかったらキスするから!」

「なッ……! やれるものならやってみなさい! 私はまだ還俗の手続きをしていないし……だいたい……んむっ!?」


 はむ、と唇がはまれた。唇に残るキスの感触。シュマくんの熱くて柔らかい唇が、私の厚い唇に、押しつけられた感触の名残が、余韻となって残る。


「やれって言ったの、そっちだからね」

「――――!! シュマくんは晩ごはん抜きです!」

「別に僕悪魔だから死なないし。ていうか一日くらい人間でも平気だし」

「じゃあ! ご飯、もう永久に作りませんよ!!」

「ねえ、そんな事いうならもっかいキスを……」

「…………」




「ご、ごめん、リト。もうしないから」

 慌てた口調でシュマくんが言う。


(これがキス……胸がふわふわします)


「まあ、一日一回までなら……」


 私が言う。

 

 

「えっ!?」


 シュマくんの嬉しそうな声。

 

 弾けた花弁みたいな表情。

 

 

 愛おしい気持ちが込み上がってくるのを感じた。

 

 これが、恋か……と私は、初めて、思った。

 

 

 

(完)

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シスターが大好きな悪魔くんと忘却薬 七瀬雹 @nanasehyou

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