第21話 過去

 彼女の左腕が俺の右腕に微かに触れてドキッとする。けれどそれも一瞬のこと、すぐに気持ちが落ち着いた。

 俺はテーブルに置かれたマグを手元に引き寄せて淹れ立てのコーヒーに視線を落とし、今思ったことを素直に言葉にした。


「何だか不思議な感じがする」


 美月がマグに唇を付けたまま、こちらにちらりと視線を向けた。彼女の仕草が可愛らしくて思わず頬が緩む。俺は続きを口にした。


「こんなに近くに女の子がいて平気でいられるなんて、昨日までの俺だったら考えられないと思ったんだ」


 俺の言葉を聞いた美月は膝の上にマグを下ろし、中で揺蕩う褐色を見つめた。


「私も、昨日庇って貰った時、貴方の腕の中ですごくホッとしたの。それまでは男の子に近寄るのも無理だったのに、そう思った自分にホントにびっくりした」

「それで逃げちゃったんだ」

「ふふ、ごめんね? どうしていいか分からなくなっちゃって」


 顔を上げて微笑む美月。けれど、その面持ちは俄に翳りを帯びる。

 彼女は再びマグに視線を落とし、やがて静かに口を開いた。


「私ね、小さい頃に、男の人にイタズラされたの」


 唐突に告げられた衝撃的な一言。その耳を疑いたくなる内容に俺は言葉を失い、ただ彼女を見つめることしか出来なかった。

 美月は表情を変えることなく、尚も言葉を紡いだ。


「怖くて体が動かなかった。泣きながら止めてって言ったけどダメだった。痛くても気持ち悪くても、我慢するしかなかった」


 誰の助けを得ることも叶わないまま無情に時は過ぎ、美月は公園の片隅に放置されていたところを近所の人に保護された。大きな怪我は無かったものの、幼い彼女の心は深く傷付いた。


「外に出たらまた酷い目に遭うんじゃないかって、学校にも行けなかった」


 しばらくして、美月は周囲の支援もあって何とか小学校に通い出す。けれど、その時彼女は男性という存在を受け入れられなくなっていた。


「先生とか男子の姿を見たり声を聞いたりしただけで、あの時のことを思い出しちゃってね。みんなにすごく迷惑かけちゃった」


 美月はさらりと言ってのけるが、果たしてその心中は窺い知れない。それ以降、彼女は男性を避け続けることでしか、自らを苛む不安をやり過ごすことが出来なくなった。


 『男嫌いの雨夜美月』とは、薄汚い男の欲に傷付けられた過去を持つ、か弱い一人の少女が見せる仮の姿だったのだ。


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