第9話 呼称

 週末を控えた金曜日の放課後、俺と美月は生徒会室にお邪魔していた。月曜日に図書室を出禁になってから、結局毎日、ここで試験勉強をさせて貰っているのだ。


「あのぅ、今いいですか?」


 俺が苦手箇所の強化に取り組んでいると、隣の席で問題集を解いていた和久田が話し掛けてきた。


「うん、いいよ。どこか判らないの?」

「ここなんですけど、どうしてもしっくり来なくて…」 

「ああ、ここは使えそうな構文がいくつかあって迷っちゃうよね。でもほら、ここを見れば…」

「あ、なるほど、着眼点を変えれば良かったんですね。とすれば、ここは…うん、これで大丈夫です! ありがとうございます!」 

「いやいや、大したことはしてないから」

「そんなことありません、本当に助かりました! お兄さんは教え上手ですね♪」

「うん? お兄さんって俺のこと?」

「はい。だって、美月さんのお兄さんですから」

「いや、確かにそうだけど、それでお兄さんってのは…」

「あ、分かりました。それって『君に兄と呼ばれる筋合いは無い!』ってやつですよね。すごーい、生で聞いたの初めてです」

「言ってないし、君、美月とお付き合いしてないでしょ?!」


 そもそも妹の交際相手にそんなことを言う兄が本当にいるとは思えないけれど…。   

 和久田のノリにゲンナリしている俺の向かい側では、美月と洞口先輩がくすくす笑っていた。兄と違い、妹は些かも気にしていないようだ。


「ねえ、ひまりちゃん、ここに妹さんもいることだし、お兄さんじゃなくて名前で呼んであげたら?」

「うーん、でも、クラスのみんなもお兄さんって呼んでますし…」

「え、マジ?」

「はい。“天乃さんのお兄さん”とか、“首席さまのお兄さん”って呼んでる人もいます」

「あはは、陽翔、同級生のお母さんみたいになってる」

「俺、保護者じゃないんだけど…」


 今や学園一の有名人となった美月の兄なのは間違いないとは言え、まさか15歳にして、決して名前で呼ばれることの無い、親の悲哀を味わうことになるとは思わなかった。

 俺が思わぬ情報に更にゲンナリしていると、少し離れた所から和久田に声が掛かった。


「ひまり、お前だけでも名前で呼んでやれ」


 声の方向に目をやれば、神崎会長が物憂げな面持ちをこちらに向けていた。いつも涼しげな表情で飄々としているこの人でも、こんな顔をすることがあるのかと少々驚いた。


「あー、なるほど、そうですよね。それでは、これからは天乃くんと呼ばせて貰います」

「うん、そうしてくれると有難いよ。それにしても、和久田って随分素直に会長の言うことを聞くんだね」

「あー、それはですね…」

「ひまり、余計なことは言わなくていい」

「はーい、分かりました」


 和久田は神崎会長の口止めに応えながら、手元のノートにさらさらとシャーペンを走らせた。


(後で教えてあげますね)

(了解、よろしく)


 応えを返してから顔を上げると、神崎会長が物憂げな面持ちのまま遠くを見つめる姿が目に入った。


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