Day04 アクアリウム

 水族館巡りが大好きな長靴頭の滑川なめかわさんは、ネットの情報を頼りにようやく辿り着いた目的地の前にいる。

「名前だけ聞くとコンセプトカフェみたいだけど、こうして見ると隠れ家バー、だよね?」

 高いビル群が立ち並ぶ区画にひっそりと存在している、倉庫のような建物がそれである。黒塗りの壁はリフォーム塗装のようで、ドア前の郵便受けはブリキ製で半円の洋型が置いてある。わざと開けている蓋はこのこの施設のチラシ。一枚手に取り、ドアを開けて中に入る。室内は足元や手元が見えるくらいの薄暗い照明で、受付に人はおらず、自動券売機が置いてあった。

「えっと、ここで券を買えばいいのかな?」

 券売機は現金のみ使えるらしく、画面の明かりで財布を照らし、ギリギリの手持ち金で何とか足りた。券売機から出てきたのは海のような写真が特殊紙に印刷されたチケット。

「何も、描かれていない?」

「ようこそ」

「わあ!」

 滑川さんはどこから現れたのか分からない目の前の人に驚いて後ろに飛び退ける。生き物に餌をやっていたであろう、バケツ頭の中身がいっぱいに入った餌を見てスタッフだろうと思った。

「驚かせてしまってすみません。私はここの管理人をしている、潮田しおたと言います。中へご案内します」

 その声だけで眠れそうな、優しく低く、深い声は、目の前の突き当たりで曲がり見えなくなってしまった。滑川さんは慌てて後を追うように付いていくと、建物の外観からは想像もつかないような、大きな水槽が一つあり、その中には海外の海の一区画をそのまま持ってきたようなサンゴ礁と海を再現したオブジェクトがあった。四方には六人ほど座れそうなベンチが置かれ、この水槽をどの方角からでも鑑賞できるようになっている。

「どうぞお好きな席で、心ゆくまでお楽しみください。注意書きはこちらのボードに書いてありますので、ご一読ください。私はこの子らの世話をしていますので、何かあればこちらの携帯電話でお申し付けください」

 滑川さんに渡されたのはPHSと呼ばれる通話機能しか備わっていない電話機と注意書きが書かれたボード。

(うわー懐かしい。お父さんから壊れたこれをもらって、よく玩具にしてたっけ)

 それからボードに書かれていることを黙読する。スマートフォンの使用禁止、写真撮影の禁止、騒音の禁止、食事の禁止、餌やりの禁止、水槽への接触禁止。

(まあ、黙って静かに鑑賞しろ、ってことだよね?)

 滑川さん以外に人はいない。鞄を自分の脇に置き、先ほど手に取ったチラシとチケットを仕舞って水槽に集中する。おそらく全部熱帯魚だろう。カクレクマノミ、エンゼルフィッシュ、ベタ、ナンヨウハギ、イヌザメ……。有名な魚から滑川さんが知らない魚もいた。

「悠々と泳ぐ魚たちは時間なんて知らないんだろうな」

 しばらく眺めて堪能した後、滑川さんは先ほど手渡されたPHSを使って潮田さんを呼ぶ。頭上に張り巡らされた鉄の足場にいた潮田さんは、ゆっくりと階段を下りて滑川さんの元に来る。

「如何なさいましたか?」

「すみません、色々と質問したいことが浮かんで……。お聞きしてもいいですか?」

「何なりと」

 紳士な振る舞いだが服装はつなぎ。似合わないなあ、と思いつつ滑川さんは質問を訊ねる。

「ここは、どういう施設なんですか?」

「名目は民営水族館ですが、私が現実逃避をするために作りました。私は長年システムエンジニアをしておりましたが、数年前の退職を機に働くことを辞めました」

「お仕事、大変だったんですか?」

「ええ。公共系のシステム開発に努めていましたが、それはもう扱いが酷くて――。結局心の病に罹ってしまって、休職から退職、そして今に至ります」

「それは……。お仕事、お疲れ様でした」

 滑川さんは潮田さんに労いの言葉を贈る。潮田さんは何も言わず、ただ水槽を眺めている。

「そういえば、この施設に名前はあるんですか? ネットで調べても出てこなかったので」

「名称は『潮田熱帯水族館』で登録していますが、気に入らないので公開していないです。生憎、私にネーミングセンスはないので、名前はどこにも載せていません」

 滑川さんは鞄から入り口で手に取ったチラシを見てみると、確かに建物の名称はどこにもなかった。

「よかったら、貴方がこの場所に名前を付けて頂けませんか?」

「え、どうして初対面の私なんか」

「鞄に付いているキーホルダー、ルリスズメダイですよね? そんなマイナーな魚を連れている人に、悪い人はいないと思いましてね」

 潮田さんはルリスズメダイのキーホルダーを指して、心を少しだけ許したかのように依頼する。

「え、ええ⁉ じゃ、じゃあ、うーん……」

 滑川さんは断れず、流れでこの施設の名前を考える。ふと、目の前に見えたイソギンチャクとカクレクマノミが目に留まり、段々と別のものに見えてきた。

「イソギンチャクの触手、なんだか高層ビルっぽいなー。……あ」

「何か良い名前、思い付きましたか?」

「良い、かどうかは分からないですけど、『カクレアクアリウム』なんて名前はどうでしょうか?」

「ほう。それはどうして?」

「うーんと……あのイソギンチャクとカクレクマノミを見ていて、イソギンチャクがこの一帯のビル、カクレクマノミがこの施設みたいだなー、って思ったんです。――どう、でしょうか?」

 滑川さんは自信のない声で様子を窺う。潮田さんはその名前を大層気に入ったのか、滑川さんの両手を取ってお礼を述べる。

「とても良いですね! 気に入りました。貴方が次来るまでには、その名称に変えましょう」

「は、はわわ……」

 それから滑川さんと潮田さんはしばらく雑談を楽しむ。滑川さんが退館する時には、すでに月は昇り、星は瞬いていた。

 

 カクレアクアリウム、という海洋生物の小さな展示施設。バケツ頭と長靴頭の潮田さん夫婦が営む施設の名前の由来は、カクレクマノミのように高いビルに囲まれていることから、とそこに訪れた人々は言う。


 終

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