第5話

「こほん」


 しずかになった店の中に,ホームズさんの咳払いの音が大きく響いた。

 私と,瑠璃さんは顔を上げホームズさんに視線をやる。

 ホームズさんは、紅茶を一口飲んでから,こちらに話しかけてきた。


「はじめまして、アイリ。

 僕は,シャーロック・ホームズ。

 どうそよろしく」

「きょ、きょうしゅくです。よろしくおねがいいたします」


 ホームズさんは、私に向かって右手を差し出す。

 私は恐る恐る彼の手を握る.

 私と同じように、体温の有る,普通の人間のようで、小説の中から出てきた人間だとは思えなかった.


「先ほど、ラピスさんと話していたんだが、僕はどうやら、記憶を盗まれてしまったらしい」


 ホームズさんは、他人事のように言った。

 私の頭の中に、真っ赤なクエスチョンマークがたくさん浮かんだ。

 記憶を盗まれる?

 どういうこと?

 それに気づいたのか,瑠璃さんが説明をしてくれた。


「さっき言ったように,あの本棚の本たちは登場人物がいなくなってるの」


 瑠璃さんは,指輪振って,本棚から本を一つ持ってくる。

 私の膝に本が置かれる。

『白雪姫』


「開いてみて』


 瑠璃さんに促されて,私は本を開く。


『昔々あるところに,とても美しい______がいました』


 たぶん,女王様と書かれていたであろう部分に,不自然な空白がある。

 鏡に問いかけている場面も,毒林檎の場面もやっぱり不自然な場面がある。


「その本は,女王様がいなくなってるのよ。

 彼女,今ハワイでバカンス中よ」


 瑠璃さんは少し微笑み,本を閉じる。


「私は,こういう本を登場人物がいない本を管理するのがお仕事なの。

 そして,いなくなる原因は,だいたい3つ」


 瑠璃さんは,マニキュアで爪が赤く彩られた親指,人差し指,指を立てた。


「1つ目は,その本が読まれなくなった時。

 もう何百年を前に書かれた,誰にも読まれなくなった本とか,もう誰にも読めない字で書かれた本とか,そういう本は,登場人物たちがバラバラに本から出ちゃうの。

 戻す方法は,魔法で押し込む感じね」


 瑠璃さんは,中指を折る。


「2つ目は,登場人物の子達が退屈になった時。

 1つ目の方は意識と関係なしに,勝手にバラバラにされるの。

 でも2つ目は,登場人物たちが自分の意思で出て行くの。

 さっきの女王様みたいにね。

 これは,登場人物の子が納得したら帰ってくることが多いわね。

 こっちはさっきと違って,登場人物の意志がないと戻すことはできないの」


 人差し指を折る。


「3つ目,これが1番多いものね。

 魔法使いに盗まれること。

 物語の登場人物を独り占めしたい,そんな自分勝手な魔法使いにね。

 これは,その魔法使いしか,元に戻すことはできないの」


 瑠璃さんは親指を折る。

 そしてクッキーをもしゃもしゃしているホームズさんを見る。


「貴方がそんな風になったのは,きっとアタシの同族が原因なの。

 本当にごめんなさい」


 私のときと同じように,ホームズさんの方に向き合って瑠璃さんは頭を下げる。


「いや、別に貴女がわるいわけじゃないんだ。謝らなくていい,顔を上げてくれ」


 慌てたようにクッキーを飲み込んでから、ホームズさんが言う。

 そして,ホームズさんは私達の方を見て質問を投げかけてきた。


「それよりも僕が今覚えていることは、自分の名前しかないんだ。

 僕について,色々教えてほしい」


 その言葉に瑠璃さんは驚いたように声を上げた。


「嘘でしょ,名前だけなの?

 それ以外のことはなんにも覚えてないの?

 住んでいた場所も?

 職業も?

 好きな食べ物も?

 年齢も?」


 瑠璃さんは鉄砲のようにどんどんと質問を投げかけていく。

 ホームズさんは,若干引きながら質問に答えていく。


「名前だけだ,本当に名前しか覚えていないんだ。

 それ以外は、まるで。

 まるで、まるで霧がかかったようで何も思い出せないんだ」


 困ったように眉を下げながら,ホームズさんは言った。

 瑠璃さんはとても困ったような顔をしながらコーヒーを飲み干した。


「どうして、名前しか覚えていないの。

 普通盗み出すのであれば、すべて覚えていないとなんの意味もないのに。

 なんで,どういう理由で,消したの?

 どうして?」


 瑠璃さんは立ち上がって,イライラしたようにお店の中をぐるぐると歩き回る。

 私は紅茶を飲みながら,クッキーを食べる。

 ホームズさんも,モシャモシャとクッキーを食べている。

 瑠璃さんは,イライラと歩き回っていたが、突然思いついたように


「あっ!」


 と叫んで立ち止まった。


 瑠璃さんはすごい速さで、奥の部屋に駆け込んで消えていく。


 ガチャ、ドカッガチャガッシャーン


 そして,大きな物音を立て,部屋からまたすごい速さで出てくる。


「愛梨!アタシ、ちょっとホームズ君をもとに戻す方法に心当たりがあるの!

 だから,ちょっと,お店をたのんでもいいかしら~?いや,よろしくたのんだわよ~」


 瑠璃さんは,こっちの意見を一切聞かず,これまたすごい速さでお店から出ていった。

 私はあまりの驚きに,魔法使いなのに箒で飛ばないんだな,なんてくだらないことを考えてしまった。

 驚いたまま,少しの間ぼーっとする。

 横から,ホームズさんに服の裾を軽く引っ張られる。

 ハッとして、ホームズ君の方に向く。


 片手で私の服の裾をつまみ、もう片方の手でジンジャークッキーを私に差し出す。

 すごく無表情。

 自分の記憶がほとんどないことを1ミリも心配していないような顔。

 ただただ、むしゃむしゃと、クッキーを食べている。

 ホームズさんの空っぽのカップに紅茶を注ぐ。

 私も、黙って、クッキーを食べる。

 二人で黙ってモシャモシャとクッキーを食べるという不思議な時間が流れる。


 私は、大好きな小説の名探偵が隣で無表情でクッキーを食べている。

 この状況が不思議すぎて少し笑ってしまう。

 古書店で,クッキーを食べているだけの時間がただただ,流れた。

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