第5話
******
優香さんの家に帰宅して、彼女が夕飯の準備をしている間、わたしは居間で待たされていた。
対面では理沙ちゃんが、しいかわグッズで遊んでいる。
料理の匂いがたゆたってきて、子どもが遊んでいて……もし、これが結婚生活だったならば、毎日仕事から帰ってきたら、この光景があるんだろうな。
「ねーねー香菜江おねーさんも一緒に遊ぼうよ」
「うん、いいよ。いつもママとはどんなことして遊んでいるの?」
「んっとねー、しいかわのビデオ一緒に見たり、しいかわのトランプしたりしてる!」
「そんなに好きなら、また今度、しいかわ買ってきてあげるね」
わたしがそう言うと、理沙ちゃんははしゃいでくれる。無邪気で天真爛漫で、一緒に遊んでいるだけで心が洗われていく。わたしは別段子どもが好きってわけではなかったはずだが、理沙ちゃんは優香さんの娘さんなので、特別に可愛がれる気がする。
すると、わたしたちの間に、お皿を持った優香さんが突然現れて理沙ちゃんを一喝する。
「あんまり香菜江さんを困らせないの、理沙。しいかわ、いっぱいあるでしょ? ママ以外にねだったら、ダメよ?」
優香さん、おっとりとしているのに、叱るときはきちんと叱るようだ。メリハリがあるし、母親としての素質も一級品である。そのギャップに、
「え~。別におねだりしてないのに!」
理沙ちゃんは、キッチンに戻っていく優香さんの背中を
わたしは、そんな理沙ちゃんの耳に、こっそり
「大丈夫だよ、買ってきてあげるから。ママには内緒にしといてね」
「わーい! 香菜江おねーさん好き!」
「もう。香菜江さんったら。理沙に甘いんだから……」
遠くから、優香さんのやれやれ、といった溜め息が届いてきた。
会話、聞こえたわけではないだろうが、理沙ちゃんが喜んでいたので察したのだろう。
憧れの夫婦生活を
幸いにも、理沙ちゃんはずっとニコニコしているし、わたしの頬が
「ほらほら、ご飯よ。テーブル周り片付けてね、理沙」
「はーい」
理沙ちゃんは一転して行儀よく、テキパキとテーブル周りを綺麗にし始める。教育、きちんと行き届いているみたいだ。優香さんは女手一つなのに、家事も育児も完璧にこなしていた。
食事は華やかに進み、すぐさま終わってしまう。食べるのが早かったわけではないのに、談笑しながらだとあっという間だ。
夕飯が済んで食休みをしていると、理沙ちゃんはいつの間にか寝息を立て始めていた。
「もう、理沙ったら。お風呂もまだなのに。今日は香菜江さんと遊べたから、たくさんはしゃいで疲れちゃったのね」
優香さんは、薄い掛け布団を取り出して、理沙ちゃんにかけてあげながら優しげに微笑む。娘を見守る母親の姿は、温かみに溢れた美しさがあった。
「理沙ちゃん、ゆっくり休ませてあげてください。わたしは、騒がしくならないように退散しましょう」
「待って。隣の部屋なら、話し声でも起きないだろうから。もうちょっと、いてくれないかしら」
優香さんって、やっぱり天然の魔性の女だ。「もうちょっといてくれない?」って
隣の部屋は、扉を半開きにしておけば、理沙ちゃんを見守りながらお喋りすることができそうだ。
明かりは居間から漏れている光のみ。薄暗い中、テーブルで優香さんとふたり向かい合う雰囲気は、夫婦そのものといっても過言ではない。
優香さんは紅茶を差し出してくれる。しばらく無言だったので、互いに紅茶を
「理沙も、やっぱり親が二人いたほうが安心なのかしらねぇ。今日は、香菜江さんのことを親のように
優香さんが、ぽつりとこぼす。
達観したように言う彼女には、どこかしら
「あの、その……失礼なことお聞きするかもしれないですが、理沙ちゃんはお父さんのこと知らない感じでしょうか」
告白したわけではないのに、心臓がドキドキする。昔の相手のことを聞くだけで、わたしの胸は鋭利な刃物を突きつけられているかのような感覚に
優香さんは、ほんの
「ええ、理沙は産まれてからずっと、私一人で育ててきたから。でも、幼稚園に行くと、みんなご両親がいるのよねぇ。周りと違って、寂しい思いをさせちゃっているかもしれないわ」
それは難しい問題だ。
わたしが優香さんと結ばれたとして、両親がふたりとも女ならば、周りと違うことには変わりはない。今の御時世、同性婚も珍しくなくなってきたとはいえ、まだまだ一般的ではないし。理沙ちゃんが、そこをどう
わたしは、自分の妄想を打ち払うかのように首を左右に振った。
いけないいけない。先走って変なことを口に出さないようにせねば。優香さんが、わたしを受け入れてくれるかどうかは、まだ未知数なのだ。いくらなんでも、デート一回目で判断は早い。というか、今日はデート、ってわけでもないし……。わたしが勝手にそう思い込んでいるだけだ。
「優香さんは……お相手見つける気はないんですか?」
「私は、そういうのは全然……。理沙だって、知らない大人の人は驚いちゃうだろうし。香菜江さんは綺麗な女性だから、理沙もすぐ
「理沙ちゃんは、大人の男の人が苦手なんですか?」
「ん~……人見知りけっこうするのよねー。ただ、幼稚園の先生が若い女の人ばかりだから、大人のお姉さんは大好きみたいね」
優香さんがくすくすと笑いながら答える。
わたしだって、大人のお姉さんは好きだ。特に、優香さんみたいなタイプ。理沙ちゃんとは案外気が合うかもしれない。幼稚園児と意気投合してしまうのもどうかと思うが。
「そうなんですか……。優香さんは、それ以外に困ったことないんですか? なんでも相談に乗れますけど」
「うーん。今のところ生活に不満はないわね。香菜江さんのおかげで、こうしてお喋りできるの助かってるし」
「そうですか、それは嬉しいです。優香さんって、綺麗でモテそうだから……。日中、色んな人に声かけられたりしないのかなって心配になりますよ」
「いやね、香菜江さんったら。私は子持ちのおばさんよ。誰も私のことなんて気にしないわ」
優香さんは
「優香さんがおばさんだったら、世界中おばさんだらけですよ……。わたしだったら、優香さんと結婚したら手放すわけないのに」
「香菜江さんこそ、誰からもモテそうじゃない。私だって、香菜江さんとなら幸せな生活を送れそう」
う、いい雰囲気になってきた。
これは、押せる……?
いやいや、勘違いもあるかもしれない。優香さんが完全にフリーだってこと、口に出して言ってもらわないと。
「わ、わたしならお二人を
「あはは、もう、香菜江さんったら。私なら、大丈夫よ。確かに、私はお仕事とかは、たまに頼まれる程度しかしてないけれど……。お金のこととかはちゃんと、振り込んでもらっているし気にしないでいいのに」
「え、あ、そうなんですか。その……まだ、縁が切れてる、ってわけではないんですか」
「……? ああ。
優香さんは、失言した、といわんばかりに口元を手で抑える。
頭を鈍器で殴りつけられたかのような衝撃がわたしを襲う。
優香さんは、やっぱり前の人とまだ関係はあるんだ。辛いこともあったらしい。
けど、その過去を聞く気にはなれなかった。
今ですら、心が壊れそうなほどショックを受けているのに。過去にその人とどんなことをしたのか、とか。どんな辛いことをされたのか、とか。知ってしまったら、発狂しそうだ。
わたし、どれだけ心が狭いのだろうか。
「香菜江さん? 大丈夫? お話付き合わせてしまって、ごめんなさいね」
「あ、い、いえ。それじゃあ、今日はこのへんで……。また、会いにきますね」
わたしはフラフラと立ち上がる。メンタルの弱さに
今日は、もう優香さんとお喋りを続ける気になれなかった。もっと恐ろしい過去話が出てきてしまったら、家を飛び出していってしまいそうだったから。
優香さんは、不安げな表情でわたしを支えてくれ、玄関口まで送ってくれた。
「それでは、また……」
「え、ええ。また、来てくれる、のよね……? 私、何か失礼なこと、しちゃった?」
「あ、そんなことないです。また週末にでも、予定が合えば。都合の良いときに誘ってください」
少しは気丈に振る舞えただろうか。
わたしは、逃げるように自宅へ帰った。
わかっていたことじゃないか。理沙ちゃんがいるんだから、結婚していたことがあるって、知っていたことじゃないか。
優香さんは、そのお相手とまだ接点がある。慰謝料を振り込んでもらっているだけかもしれないが、理沙ちゃんはかわいがられているみたいだし。
ただ、再婚とかする気はないようなので、わたしにチャンスはあるっぽいけど。
……その辺、全部ひっくるめて優香さんのこと、きちんと愛してあげないといけないよなぁ。
それには、自分を
次、会う時までにはメンタルをリセットさせないとね……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます