fragile

王子

fragile

 栄養が行き渡り男性の片鱗を見せる体格、旺盛な食欲と可処分エネルギーの差として上乗せされた脂肪。思春期特有の一時的なぽっちゃり体型。それがS先輩の印象だった。

 野球部で問題を起こし飛ばされてきた顧問はテニスのテの字も知らず生徒に丸投げ、目の上のたんこぶ達が引退した後、S先輩達は二面のクレイコートを占領し、一年生の走り込みや筋トレを禁じ、球拾い要員として直立不動で待機する苦役に従事させていた。

 夏休み明け、中学生活一度きりの文化祭に向けて校内はのんびり動き出した。文化祭とは名ばかりで保護者向けの学習発表会が主だった。おまけみたいに、体育館を会場にダンスやらバンド演奏やら映画上映やらを披露する有志を募っていた。クラスの女子が隣は全員でダンスをやるらしいと聞きつけ興奮気味に担任に掛け合い、少数の反対派を同調圧力の暴力で黙らせて、自学級を付け焼き刃の踊り子部隊にするべく放課後の練習スケジュールまで組みだした。踏みにじられた『有志』の意味、立ち位置決めのくじで押し付けられた最前列、顔も知らない生徒や親の前で踊らされる約束された羞恥地獄。いっそ文化祭など潰れてしまえと心から呪った。

 S先輩がステージに立つらしいと知ったのは、人気アニメの主題歌で踊る罰ゲームが不本意ながら様になってきた頃だった。昼休み、忍ぶように教室を抜け出したS先輩をつけた者がいたとか。体育館でステージプログラムのリハが行われた日だった。

 深入りするほど興味はなかった。班の展示準備は終わっていないし、振り付けの間違いで恥を上塗りしないようダンス練習もしなければならない。S先輩の噂は義務感の波に押し流され記憶の片隅に追いやられたまま、文化祭当日を迎えた。

 体育館のステージはクラス全員をおさめるには狭く、前三列までフロアに降ろされた。パイプ椅子の観客席とは目と鼻の先だった。単調なステップと意味の分からない両腕の反復動作。リーダーの女子が考案した振り付け。なんであいつが最前列に立たないのか。観客から目を逸らす。視界の端に薄ら笑い。失笑したいのはこちらだ。

 観たことも興味すらも無いアニメの主題歌はフルコーラスを終え、無関心を隠そうともしない気怠げな拍手が虚しく響く。自分の席に逃げ帰る。ステージでは他のクラスの演し物が始まっていた。

 帰りたい、帰りたい。一度きりの文化祭だの思い出作りだのどうでもよかった。

 一階、三年生の学年ホール。立ち並んだ有孔ボード。総合学習の成果が模造紙で貼り出されている。テーマは環境。太陽から降り注ぐ紫外線、オゾン層が赤子をあやすように地球を包んでいる。鷲掴みにするとオゾン層はぐしゃりと歪み、爪を立てて引き裂けばビリビリと悲鳴が上がる。階段を駆け上がると国際理解の展示が並ぶ。S先輩の字で『互いを尊重することが大切です』と白々しく書かれた模造紙をボードごと蹴り倒す。『基本的人権の尊重』を泥だらけのテニスシューズで踏みにじる。何度も何度も踵を打ち付けてボードを叩き割る。最上階、模造紙展示の側で車イスや白杖が本来の持ち主を待ち侘びている。ガラス窓まで車イスを転がし持ち上げようとして、断念する。こんなものさえ支えられないなんて。部活で体作りができていれば。窓から顔を出すと体育館が見えた。戻るつもりなんて無かった。手には起爆スイッチ。仕掛けた火薬は忌々しい何もかもを丸ごと消し飛ばしてくれるはずだ。あっ、と思ったときにはもう遅かった。汗で滑ったスイッチは自暴自棄の手から逃げ出して下降を始めていた。縋り付くように窓から身を乗り出す。体は真っ逆さまになり、何も掴めず、全身が重力の渦に吸い込まれていく。

 がくんと首が落ち、スピーカーから垂れ流される大音量の雑音が耳に飛び込んできた。居眠りしている間にクラス単位の演し物から個人の演目へと移っていた。

 下手くそな『サウダージ』の熱唱を終えた男子が自慢げにけ、ステージ脇の小階段に次の演者の背中が見えた。水色の体操着トレーナー、原色青の長ズボン、寸胴体型。マイクを持って壇上に立ったのは、S先輩だった。

 聞き覚えのあるイントロ。独りの夜道で雪がちらつき始めたような心細さを抱かせる。Every エヴリー  Littleリトル Thingシングのバラードに小太りの男子。物珍しさに会場の空気が揺らいだ。

 ステージに上がる目立ちたがり達は全校生徒の暇つぶしになっていた。大して上手くもないパフォーマンスを冷笑と共に眺める娯楽。ときおり、身内ノリの茶化す歓声が上がって。

 S先輩は観客席に仕込んだ仲間に手を振るでもなく、照れ隠しに笑いを誘う小細工をするでもなく、マイクを両手でぎゅっと握って俯き歌い出しの一点をじっと待っていた。皆も第一声を待ち侘びている。どんな素っ頓狂な声で音を外してくれるのかと既に笑いを堪えているようでもあった。S先輩の出で立ちと女性シンガーのラブバラードの組み合わせ。それだけで十分に愉快な想像を掻き立てていた。

 二十秒ほどの前奏が終わる。S先輩のブレス音。

 ――いつもそう 単純で

 会場全体が一つの生き物になったみたいに息を呑んだ。隣とひそやかに話す声も、押し殺された笑い声もぴたりと止んだ。マイクをとおして届いたのは明らかに女声だった。始めは女性のボーカルが入った音源を流しているのではと疑った。誰もが耳をそばだて、S先輩の口の動きを注視した。Bメロでようやく聴衆は気付き始める。女声に聞こえる伸びやかな波の中に、ちらと混じる掠れ声。S先輩の喉からもたらされる音だと、確信は増幅していった。

 ステージ上のS先輩は変わらずマイクを両手で握りしめていた。高い音をとるとき、苦しそうに眉間に皺を寄せ、軽い猫背を作る。絞り出した声に生じるわずかな掠れは、感傷的な曲調に驚くほど似合っていた。しかめた顔も、歌詞の痛みに耐えているようにすら見えた。

 もう誰も半笑いで聞いてなどいなかった。S先輩の声を逃すことなく拾い集める受信装置になっていた。歌い手が何かの拍子に壊れてしまわないかと、息を詰めて眼差しを向けていた。最後まで歌いきってくれと祈るように拳を握っていた。

 五分弱の歌唱が終わり、まばらな拍手が起こった。誠実な称賛に、驚きに、戸惑い。脆くて儚げな掠れ声が、まだ耳の奥をざらりと刺激していた。頭を下げてステージから降りるS先輩を、夢から浮上してきたばかりの心地で眺めていた。


 休み明けの部活でS先輩に話しかけたのは、単純に感想を伝えたかったからだった。「歌、良かったですよ」と声を掛ける。S先輩は、迷惑そうに一重瞼で睨めつけると、低い声で「はぁ?」と吐き捨て、不機嫌そうに体を揺らしてコートへと向かった。

 文化祭までひた隠しにされてきた変声直前の歌声は、少年期への訣別だったのかもしれない。あの歌は、もう二度と聴くことができない。

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