第21話 鉄棒(後編)
「補助板?」
「ほら、あるだろう? 正式名称は知らないけど、鉄棒の前に設置してそれを駆け上がれば勢いがついて逆上がりできるようになる、あの傾斜の付いた大きな板」
「ああ、たしかに見たことはありますね。……ん?」
板になる?
俺が?
どういうこと?
そうやって頭にハテナを浮かべていると、先輩は鉄棒の前に移動。
もぞもぞと靴を脱ぐと、その上に足を乗せ、準備万端といった様子でこちらを見た。
しかしなぜ靴を脱いだんだ?
まさか黒い靴下を見せびらかそうとしたわけではないだろうし……。
「さあ、キミも鉄棒の前に来てくれ」
わけが分からないが、呼ばれてしまっては仕方が無い。
素直にナギサ先輩の前に移動し、鉄棒を挟んで互いに向かい合う。
「よしっ! では逆上がりを始めるぞ!」
意気込むナギサ先輩は鉄棒を両手でぎゅっと握りしめた。
そして、右足を伸ばして俺のふとももに乗せる。
「今度は左足だ」
宣言通り左足も俺のふとももに置くナギサ先輩。
両足が地面から離れ、木にぶら下がるナマケモノ状態ではあったが、意外とその体勢は安定している。
そして必死の表情で鉄棒を握りしめた彼女は、俺の身体に乗せた両足をじりじりと上昇させていく。
なるほど。勢いをつけて逆上がりをするのは初めから諦め、俺をよじ登ることで足を高く上げるつもりか。
少ない労力で最大の成果を上げられそうな、良い作戦だと思う。
ただ……俺の身体を這い上がってくる彼女の足の感触がけっこう……いや別にどうこう言うわけでは無いけれど……。
俺が反応に困っているあいだも、ナギサ先輩の足はずりずりと俺の身体を這い上がってくる。
別に補助板扱いが嫌というわけではないが、もう少し勢いよく駆け上がれないものだろうか。
補助板をこんなにのろくさと進む人は、彼女以外にいないと思う。
「よいしょ、よいしょ」
「…………」
「よいしょ、よいしょ」
「これ、もはや逆上がりとは違う競技ですよね」
「たしかに」
さすがに先輩にも自覚はあったようで、俺の身体に両足をちょこんと乗せたまま頷いた。
「後輩よじ登りとか、そんな感じだ。ちなみにくすぐったくはないかい?」
彼女の足は、ちょうど俺のお腹のあたりにまで上がってきていた。
正直にいえば、彼女の足が身体を這い上がってくる感覚は、筆舌に尽くしがたいほど甘美だ。
すごくぞわぞわするけれど、でも抗いがたいなにかがある、そんな感じ。
いろんな意味で理性が吹き飛びそう。
「それを聞くのは、意地悪だと思います」
そう答えると、ナギサ先輩にも俺が言いたいことが伝わったようだ。
「す、すまない」
短く答えてから、再び先輩の足が俺の身体を登り始める。
「よいしょ、よいしょ……よいしょ!」
そしてとうとう、先輩の足が俺の胸のあたりまでやってきた。
補助板としての俺の役割は終わりだが、ナギサ先輩の逆上がりチャレンジはここから始まるのだ。
「あともう一息ですよ先輩。最後は俺の身体を蹴って、その反動で回転してください。遠慮せずに思い切りやっちゃっていいですから」
「ああ、感謝する。ではいくぞ! よいしょっ! よいしょっ!」
「ぐうっ! ぐうっ!」
胸に衝撃を受け、変な声が出た。
反動をつけたまでは良かったが、結局回り切れず先輩の足が勢いそのままに戻ってきたのだ。
まさかこの位置からでも回りきれないとは……。
「ご、ごめんね! 大丈夫!?」
「大丈夫ですけど……どうしましょうか」
先輩の両足は俺の胸に戻ってきているので、再チャレンジは可能だ。
でも再チャレンジしても、両足の襲撃を再び食らうだけの結果に終わりそうな気がする。
かなりの攻撃力だったし、できれば避けたかった。
そして俺のそんな弱気な考えは、ナギサ先輩にも伝わったらしい。
「……私の足を掴んで、鉄棒の向こう側まで押しやってくれないかな。それならさっきみたいな事態にはならないだろうし」
もはやそうなると逆上がりと言っていいのか疑問ではあったが、先輩の頼みだ、素直に従おう。
……攻撃を食らわずに済みそうだしな。
「分かりました。では失礼して」
一応断りを入れてから先輩の足にそっと手を添え、軽く握る。
「……ふぃ!?」
「先輩? どうかしましたか?」
「い、いや、なんとなく、足首をつかまれるものかと思っていたから……」
「ああ」
たしかに俺がつかんだのは、先輩のふとももだった。
ふとももの裏側を軽く掴んだのだ。
「でも足首だと、先輩を回転させづらいじゃないですか。太ももなら、先輩を最短距離で回転させられそうなので」
「そ、そっか。うん、そうかもしれないね。いま大切なのは逆上がりすることだからね。うんうんうん」
なにやら無理に自分を納得させている様子にも見えたが、きっと緊張しているせいだろう。
ナギサ先輩をプレッシャーから解放するためにも、さっさと逆上がりを達成してもらうことにしよう。
「じゃあ押しますね。よいしょぉー!」
掛け声とともに、ナギサ先輩の両足を思いっきり鉄棒の向こう側へと押しやる。
これはさすがにいったな。
――そう思ったのに。
「……あっ」
小さな声が聞こえ、同時に先輩の足がこちらに戻ってくるのが分かった。
これでもダメだと!?
どうやら俺は、先輩の逆上がりの下手さ加減を見誤っていたようだ。
しかも今回は、俺の体勢がまずい。
足を押しやるために前傾姿勢になっていて、このままだと顔面に恐怖の2連撃を食らってしまう!
――とはいえここで諦める俺ではない。
素早く両手を前に突き出し、迎撃態勢。
襲い来る足を全力で押し戻すことでナギサ先輩の攻撃を回避しつつ、逆上がりも完遂させるという、一挙両得の作戦だ。
けれど――結論から言うと、その作戦ははっきりと失敗だった。
先輩にも意地があったようで、俺の迎撃ポイントの遥か手前でピタッと静止したのだ。
だが俺の手は止まらない。
先輩の太ももが来ると想定した場所に、俺の手が勢いよく向かう。
けれどいま実際にそこにあるのは――先輩のおしり!
「はっ!」
「ひゃあ!」
結局止まり切れなかった俺の手が、先輩のおしりを思いっきり押してしまった。
そのおかげで、彼女はクルンと鉄棒を回り切れたようだが……さすがにこれは犠牲が大きすぎる。
女性の
失態だ。大失態だ。
「す、すいません先輩! 俺、先輩のおしりを――」
「やった、ついに私はやったんだ! 逆上がりができたぞ!」
だが先輩は何事もなかったように笑顔ではしゃいでいた。
そして俺を見てニッコリと微笑むのだ。
「人生で初めてだよ。私もついに逆上がり達成者の仲間入りだね」
「え、ええ。良かったですね先輩……」
「ふふふ、何を他人事のように言うんだい。キミの補助のおかげだよ」
先輩の優しい言葉に、俺の胸は張り裂けそうだ。
おしりを触れられたことくらい、当然ナギサ先輩だって分かってるはず。
それなのに彼女は、俺に気を遣わせまいと、あえて明るく振る舞ってくれているのだ。
でも――その優しさに甘えるわけにはいけない。
だって俺は、彼女のおしりに触れてしまったのだ。
なかったことにはできない以上、俺はきちんと謝罪する必要がある。
「すみません! 俺、先輩のおしりを思いっきり触ってしまって――」
「まああれだね! 高校2年生で初めて逆上がりができたなんて、自慢にもならないけどね! でも私としては嬉しいんだ! やっぱりできないことができるようになるというのは、いいものだからね!」
「え、ええ、そういうものでしょうね。ところで俺の手が先輩のおしりに触れてしまい、まことに――」
「うーん、そのーあれだー、逆上がりができてうれしーなー、あははー」
「はい、そうですよね。そんな先輩の笑顔を曇らせる報告をすることになって私としても遺憾なのですが、実は俺、先輩のお尻をかなりつよく押してしまい――」
「もうっ!」
先輩がキレた。
真っ赤な顔で、俺を睨みつけてくる。
「ちょっとしつこいんじゃないかなあ、コウちゃん! 私が誤魔化したんだから、気にしなくていいってことじゃないか! それを何度も何度も、手を変え品を変え私のおしりを触ったと報告してきて! こっちだって恥ずかしいよ、さすがに!」
「す、すいません、先輩。てっきり気づいてないのかと」
「気付いたに決まってるじゃないか、私のおしりだぞっ! ひゃあって声まで出たんだから、そりゃ気付いてるよ!」
「いえ、そうではなく、俺の声が聞こえてないのかなって」
「……それだって聞こえてるに決まってるよ。コウちゃんの声だもの」
「俺の?」
「私がコウちゃんの声を、聞き逃したりするはずないじゃないか……」
唇を尖らせ、すねたように言ってくるナギサ先輩。
彼女らしくもない態度に、なんだかドキリとしてしまう。
「えっと……」
俺が言葉に詰まっていると。
「さ! いつまでもぼやぼやしていないで、見回りを続けようか! まだ半分も終わってないし、このままだと日が暮れてしまう!」
「あ、はい」
誤魔化すように声を張り上げ、キビキビ歩き出すナギサ先輩。
とりあえず、謝罪は受け入れてもらえた……のか?
よく分からないが、見回りを再開したナギサ先輩は、それ以降この話題に触れることは無く。
なんにせよ俺は、風紀委員としての初仕事を無事に終えることができたのだった。
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