056 ウィラー大臣

「お前ってウィラーか?」


 邸宅への侵入は簡単だった。金はいっぱいあるだろうに、どうせ襲われないと思って設備に掛ける費用をケチっているのだろう。

 月の光る窓辺で、革張りのソファに座ってくつろぐ様子の中年男性に、後ろ側から声をかけると、奴は随分驚いたようだった。


「何者だ」


 こちらを振り向かないままに訊く。


 でっぷりと、というには少し足りないか。広い肩幅を見据えつつ、ついた脂肪をそぎ落としたいな、と思う。


「お前は王国とつながっているのか?」

「お前は」

「早く答えろよ」


 正直言って、ここで委縮しない様なら殺してもいいと思った。

 殺されることをわからないような馬鹿ならば、殺したところで誰もおかしくは思わないだろう。


「わかった、言おう」


 ただしかし、大昔から続く名家の純血だという奴はさすがに聡明で。


「確かに我は皇帝アトラスと内通している。だがしかし、そのことが何だというんだ?」


 開き直りやがった。


「お前はそのことで、この国の皇女に何をした」

「ああ。彼の計画がうまくいくように、少しの小細工と大きめの策略を巡らせた」

「ならばそれをやめてもらおう」

「は」


 実際に計画の内容とかを聞くつもりはなかった。聞いてもわからないというのも事実だし、それ以上に首を突っ込みたくなかった。ここで変に根掘り葉掘り聞くと、王国の時のように盛大な面倒ごとに巻き込まれそうだな、と思ったからだ。


「皇女様は今謹慎処分を食らって幽閉中なんだろ? その処分はなんでも無期限だとか」

「彼女は手に負えない駒だ」

「手に負えない独楽ならば解き放ってしまえ」

「その独楽ではなかろう」

「こまけ―ことは気にすんなっつーの。で? どーすんだよ。皇女様を解放すんの? しないの?」


 しなければ、この男の魂は肉体から解放される。

 それもなかなか秀逸な表現かもしれないな。


「今ここで貴様に——名前も知らない馬の骨に殺されるか、至上の皇帝アトラスに殺されるかを選べと」

「お前、アトラスをそんな風に思ってんだ」

「閣下のお手を汚すわけにいかんだろう」

「あ?」

「殺せ」


 言われたとおり、手を振った。


裁縫形態さいほうけいたい、第三十四番。悪事千里あくじせんり暗殺不知あんさつしられず——」


 降り降ろそうとしたところで、本能的な衝動がその動作を止めた。


「ッ」


 大急ぎで飛び退る。ゴム底が床と擦れて焦げ臭く香った。


「何をしに来た」


 目の前には、初老の男が杖を突いて真っ直ぐに立つ。


 殺される、と。

 さっき、思わずそう思った。


「思わず思ったとは、粋な言い方をするな」


 くつ、と笑いを漏らすのは。


「アトラス様! いらっしゃったんですか!」

「いかにも我だ」


 皇帝アトラスだった。


「本当に何をしに来た」


 僕が立ち上がれないままに訊くと、


「やれやれ、馬鹿な部下を持つと苦労するものだ」


 アトラスはウィラーの方に杖を向けた。


「小僧」

「はっ」

「そこな小娘を許せ。あやつは我が手駒だ」

「しかし、王様」

「お前よりも優秀な駒を、お前の代わりに殺して何の得がある。手を出すな、命が惜しければな」

「……」


 苦虫を噛み潰したような顔、というのだろうか。気分の悪そうな顔をしたウィラーは引き下がる。

 アトラスは、僕の方へ体の向きを変える。


「小娘」

「何だ」

「好きに生きろ。お前は興味深い」

「言われなくてもそうするに決まってんだろ。口出ししてくんな、くそじじい」


 舌を出してやると、アトラスは苦笑いをして見せた。


「えらそうだな」

「けっ」

「では、失敬」


 皇帝の姿がかき消えると、ウィラーは腰が抜けた様子でソファに座り込んでいた。さっきと体勢が変わっていない。


「じゃあ、大臣さん。さっきの件、よろしくな」


 聞いているんだかいないんだか。手ごたえのない大臣を目の端に写しながら、やしきを後にする。


♰♰♰リゼのノートより♰♰♰

形態けいたい三十四番:悪事千里あくじせんり暗殺不知あんさつしられず

 悪事が千里を走ろうとも、暗殺をしている側の様子が知られることはない、という意味。実際にその通りであり、またわかったとしても〖糸〗を敵に回すのが怖すぎて、誰も公表もしないし口に出すこともしない。

 業を終えた後は、〖糸〗がやった署名を対象の血で書き表す。

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