027 ねえ

 しばらくの間、ふらふらとその辺りを歩いていた。

 僕にしてはありえなく、くらくらふらふらしていた。


「あー。あー。あー」

 空を見上げて、声を出す。


「ぎゃは」

 少し、嗤ってみる。


「僕は、別に悲しんでなんかいない」

 言い聞かせるように。


 暗示をかけるように。


「僕は! 泣いてなんかないっ!」

 大声を出すと、周囲の鳥が飛び去った。

 髪の毛を大きく振り乱して、体を折り曲げたせいで、手に絡んだ糸が軋んで、枝が何本か落ちた。


「——ッツ」

 いつもしないような動きをしてしまったから、人差し指に糸が食い込んだ。


「いてえ」

 悪態をついて。


 手袋を外してみれば、人差し指には、縦に一本、赤い筋が入っていた。


「……血」

 自分の血が流れるのを見たのは、初めてだった。


「あ。——僕」

 シチューの作り方、聞いてないや。



 糸だけは山のように持っているから、ぐるぐる巻きにして止血した。


 雪谷さちやはもういなくなっただろうか。


「リゼ」

 そうやって、名前を呼んだとしても。


 もうあの人は、応えない。



 死んだから。




 さっきのところまで戻ってきた。研究室の鬼子おにごが付けた足跡もあったけれど、追う気はしなかった。


 雪谷はいないみたいだ。それは僕にとって好都合だった。


幸谷社長マイ・ボスに怒られるな、これ」


 雪谷を獲り逃がしたなんて言ったら、死罪ものだろう。

 まあ、僕にはそんなことはあり得ないけど。


「ねえ、リゼ」

 ころりと転がったくびを手に取る。


「いつものシチューって、どうやって作ってたの?」

 応えない。当たり前だけど。


 頸を隣に置いて、僕は雪の上に座って、隣に喋りかける。


「ねえ、手袋、もらっていい?」

 リゼが、気に入っていた奴だけど。良い?


「ねえ、エフソード、なんていうかな」

 報告に行くの、気が重いよ。


「ねえ、雪って、怖いね」

 こんな季節に貴女が死んだなら、僕は雪を好きにはなれないだろうね。


「ねえ、もう一度、食べたいな」

 もっと、きちんと味わっておけばよかった。貴女の、シチュー。


「ねえ、血が、いつもより臭いよ」

 こんなに、鉄臭かったっけ。思えば、ここまで匂いをしっかり嗅いだことなんて、なかったかもな。


「ねえ、貴女の笑い顔が見たいよ」

 笑い過ぎるほどに笑っていたというのに。貴女はもう、微笑んでくれないの?


「ねえ、何の音も聞こえないよ」

 貴女の声が、聞こえないんだよ。雪が、静かすぎる。


「ねえ、冷たいよ」

 手袋を外したから。雪の冷たさが、心の奥まで凍みる。


「ねえ」

 貴女は、応えない。


「ねえ、どうして死んじゃったの」

 貴女は、応えない。


「ねえ、どうして逝っちゃうの」

 貴女は、応えない。


「ねえ、応えてよ!」

 目から血が流れて止まらない。


「ねえ……どうして死んじゃったの」

 僕は生きているのに、貴女が死んでいるなんて。


「置いてかないでよ」

 いつも通りに、僕に語りかけてほしいのに。


 貴女は、応えない。


 貴女は、応えないけれど。



 ぐっ、と手袋を外した素肌で、涙を拭う。


 唇の端を、天に向ける。


 貴女に、言う。



「僕は、生きてるよ」


 貴女が死んでも、僕は生きているよ。


「生きていかなきゃ、いけないんだよ」

 だって、ここで僕が諦めたら死んだら、貴女は怒るだろ。



さよならgoodbye


 さよなら。


 僕の、大切なお師匠様マスター

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