第3話 キャッチボール

 園田紗香は上機嫌だった。高田が入部届を出したことを、顧問の先生から聞いていたからだ。辞めた理由も言わず、さらに、避けられていることに少し、いや、かなり腹が立つが、それはそれ。素直にうれしかった。


今日は野球部は休みだったので、部室の掃除をしてから帰る。部室で掃除をしていると、忘れ物を取りに来たのか、沢渡が入ってきた。


「あれ、紗香ちゃん。休みの日も掃除だなんて、いつもありがとうな!」


「いえいえ、選手たちがいい環境で練習できるようにするのが、マネージャーの仕事です。」

園田は笑顔で応えた。


「紗香ちゃん、上機嫌だね。なんかいいことあったの?」


「実はね、顧問の先生から新入部員が入るって聞いたの」


「へー、この時期に珍しいね。どんなやつ?」


「A組の高田君!小学生の時、一緒に野球やってて、またできるのが嬉しくて!」

 沢渡の表情が凍る


「紗香ちゃん、それは本当の話か?」

 沢渡らしくない真剣な面持ちで聞く。


「えっ?」


「紗香ちゃんさっき小学生の時、高田と野球やってたって言ったよな。中学時代の高田をどこまで知ってる?」


「どこまでって…私、中学三年間は海外にいたから、何も知らないの。高田君も教えてくれないし…」

 

沢渡は少し考えた後、


「まぁ、いい。この話をするにはここじゃちょっとな。今日この後暇?落ち着けるところで話そう。」


「今日は掃除したら帰るつもりだったから大丈夫。駅前のカフェとかどうかな?」


「じゃあそうしよう」

 

さっさと掃除を終わらせて、二人は駅前のカフェに向かった。


 駅前にはいろんな店がある。放課後は鳥ヶ浦の生徒が利用してることも多い。二人はメインストリートから少し外れた、路地裏のカフェに入る。


「紗香ちゃんいい店知ってるんだね」


「そうでしょ!ここなら落ち着いて話ができるよね」


 店員に案内され窓際の席に座る。二人は飲み物を注文する。三分ほどで飲み物はやってきた。沢渡は注文したメロンソーダを一口飲むと、口を開いた。


「あいつが野球を辞めた理由はイップスなんだ」


 イップス。それは今まで出来ていたことが急に出来なくなる。野球やゴルフの選手に多い。


 時は高田が中学二年生の夏まで戻る。


高田と沢渡が所属していた、大橋シニアは夏の県大会準決勝まで勝ち進んでいた。二人は二年生ながらもレギュラーで、高田に至っては四番を務めるほどだった。沢渡が速い足を活かしてかき乱し、高田が大きい一発を叩き込む。このチームの得点パターンだった。


試合当日。この試合に勝てば全国大会に王手をかける。


試合が始まる。大橋シニアは序盤から点を重ね、中盤を過ぎたころには大量リードしていた。高田もこの日二本のホームランを放つなど、大活躍していた。


しかし、事件は八回に起こる。


高田が打席に立つ。二球ボール球を見逃した後の三球目だった。ピッチャーの投げたボールが指からすっぽ抜け、高田の頭にぶつかったのだ。


ボールがヘルメットに当たり、大きな音が鳴る。それと同時に高田は地面に崩れ落ちた。


ベンチから選手が駆け寄ってくる。高田はすぐに立ち上がる。心配そうに高田を見つめる選手たちに「大丈夫大丈夫」と言い、一塁に向かう。


しかし、点差も離れていたこともあり、大事を取って高田は交代になった。チームはそのまま勝利し、決勝戦に駒を進めることになった。


先週が雨だったこともあり、大会のスケジュールはカツカツだったため次の日には決勝戦だった。試合後はすぐに帰宅し、明日に備えて休息をとる。


決勝戦当日。少し昨日の疲れが残っていたが、気合を入れ試合会場に向かう。試合会場にはすでに監督も来ていた。目の下に大きなクマが出来ていた。監督も眠れないことがあるんだなと思いつつ、ウォーミングアップを始める。


キャプテンの号令で選手たちが監督の前に集まる。監督は選手の方を向き、


「きき今日勝てば…」


嚙んだ。一番緊張していたのは監督だった。監督は恥ずかしそうにしながら、


「もう行け…」


とだけ言い、選手たちは各々ウォーミングアップに戻っていった。


無理もない。今日勝てば大橋シニア初の全国大会出場である。緊張するなという方が無理な話だ。プレーする自分たちより緊張している監督を見たからか、選手たちの緊張は和らいでいた。


試合前に軽い練習をする。そこで高田は違和感を感じていた。何かがおかしい。もっと言えば、ウォーミングアップのキャッチボールから少しおかしかった。少し緊張しているんだと思うようにした。


試合が始まる。最初の攻撃は大橋シニアからだった。二番の沢渡が上手いヒットを打ち、ツーアウトながら四番の高田に打順が回ってくる。高田は打席に立った。すぐにおかしいことに気が付いた。


心臓が痛い。試合は始まったばかりだというのに、呼吸が早い、冷や汗も止まらない…足も震えていた。おかしいおかしいおかしい。


ピッチャーがボールを投げる。すると耐え難い恐怖が襲ってくる。一回、二回、三回とそれが続いた後、アウトがコールされた。ベンチに帰り、守備の準備をする。監督は大丈夫か?と聞いてきたが、大丈夫ですと答えて守備につく。


高田は外野を守っていたが、この日は何度もエラーした。飛んでくるボールを取ることができなくなっていた。高田のエラーで何点も取られていた。


来るな来るな来るな。そう思いながら守備についていた。打席に立っても何もできなかった。


試合はボロ負けした。攻撃の要である高田が何もできず、守っても点が取られる。これでは勝てるはずがなかった。


チームメイトも明らかにおかしい高田を見て何も言えなかった。


試合後も何回か高田はチームの練習に出てきたが、状況は変わらなかった。


夏休みが始まると同時に、高田は野球を辞めた。


高田は夏休みの間家に引きこもった。小学生の時も今も、大事な時に足を引っ張る。高田の心は折れてしまったのだ。園田と交わした約束すらも破り捨て、殻に閉じこもったのだった。


沢渡が話し終えるころには、メロンソーダの氷は溶けて薄くなっていた。一人、窓の外を眺めながらぬるいメロンソーダを飲む。

園田はというと話を聞き終えるなり、机にお金を置いて、「ごめんっ!」と言い残し、走って店を出て行ってしまった。


家のチャイムが鳴る。宅配便なんかあったかな、と思いながら出る。そこには汗だくの女の子が立っていた。


「高田君っ!キャッチボールしよっ!」


 昔、二人でよく練習したグラウンドに向かって移動する。高田の自転車のかごにはグローブが二つ、ボールが一つ入っていた。野球を辞めたと言っても、道具だけは捨てられず倉庫にしまわれていた。


 グラウンドについた。


「ここ懐かしいね。よく二人で練習したよね」


「そうだな」

 


 夏の日差しが照り付け、自転車を押していただけの高田も汗をかいていた。

 

グローブをつけ、二人は向き直る。ボールを握っているのは園田だ。

 

動悸が激しい、少し足も震えていた。


 園田は真剣な顔で真っすぐ高田を見つめる。


「信じて」


 園田が投げたボールはまっすぐ高田の構えたグローブの中に納まる。


「取れたね」


 園田が笑う。


「うん……うんっ!」


 高田は泣いていた。


二年間取れなかったボールが取れた。もう無理だと諦めていた。殻に閉じこもっていた。


高田は今、殻を破った。


その日はボールが見えなくなるまで、二人はキャッチボールをしていた。

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