第2話 忘れていたこと

あれから三年が経った。受験も終わり、中学校に登校する必要もなくなっていた。


それでも、朝早くに起きて、近所のランニングコースに走りに行くという日常は変わらなかった。大好きな野球を辞めていたとしても…


時は流れ入学式の日になった。高田は進学先である県立鳥ヶ浦高等学校に向かう。自宅の最寄り駅から三駅、駅を出てから大体十分ほど歩けば校門に着く。地元そう遠くないからか、中学で見知った顔も多い。


「よっ!」


不意に声をかけられて少しびっくりはしたが、気取られないよう


「おう」


とダルさを含んだ声で応える。声の主は入学式だというのに大きなカバンを持っていた。


「なぁ、高田。お前春休み何してたんだ?連絡したのにあんまり返事しねーしよ」


「あまり返さなくてすまんな、俺は特に何もしてない。強いて言うなら、朝起きてランニングしてたくらいだな。沢渡は?」


「俺はこの高校の練習に参加してたんだ。思ったよりレベルが高くてな、入部するのが楽しみだぜ。」


沢渡敦、彼は同じ中学、同じシニアリーグで野球をした仲だ。


そうこうしてるうちに校舎が近づいていた。二人は校舎に入り、自分の名前が書かれた靴箱を探す。靴を靴箱にしまい、カバンから上履きを出して履く。


「高田、俺はB組だから。じゃあな!」


沢渡は小走りで去っていった。


A組の教室に入る。自分の机を探しながらキョロキョロしていると、よく知っている顔が目に入った。春休みの間に一度会っていたのだが、その時は、小学生の頃に比べ、髪も伸び、身長も高くなっていたからか、一瞬気が付かなかったほどだ。そう、園田である。


特に話すこともなく、園田の横を通り抜け、自分の席に座る。彼女の席は自分の右斜め前。気まずい…


春休みに彼女と再会したときに、高田は野球をやめたことを伝えていた。その時の彼女は泣いていたように思う。高田もずっと下を向いていた。


彼女とは手紙でやり取りをしていた。お互い携帯電話などは持っていなかったからだ。野球をやっていたころは返事も書いていたが、野球をやめたころから返事を書くのをやめていた。


それでも、ひと月に一通のペースで手紙は送られてきていた。手紙には驚いたことや、体験した事など、日常に関することが多く書かれていた。野球も続けているようだった。中学三年生の春が過ぎたころからは、見ることすらしなかった。


担任の先生がやってきて、少し話した後、一年生は講堂に移動した。校長先生の長い話が終わり、各教科の先生が紹介されていた。紹介が終わった後は、教室に戻り、ホームルームがあった。改めて担任の先生が自己紹介をしていた。


「改めて自己紹介するよ。僕はこのクラスの担任になった、島田 洋平 趣味は読書かな?一年間よろしく!」


担任は明るい声で言った。


「じゃあ、次は前の人から自己紹介していこう!名前と趣味だけでいいからね!一言もあれば

言ってもいいから!」


担任はそう言うと前から見て左の一番前の席の生徒を指さした。生徒たちは順番に自己紹介していく。担任は生徒が自己紹介していくたびに一言返していた。


園田の番がくる。園田は立ち上がると自己紹介を始めた。


「園田紗香です。趣味は野球です!」。


「へー、野球が趣味なんて、女の子じゃ珍しいね!観戦とかするのかい?」


「いえ、観戦もしますが、する方が好きです!」


昔と変わらない元気な声で応えていた。


「はい、じゃあ次!」


高田の番が近づいてくる。野球をやめてからは、趣味と言えるようなことは無かった。別のスポーツをやってみたりしたが、受験も近かったためか、長続きはしなかった。


高田の番が来た。高田は立ち上がり、口を開く。


「高田憲弘、趣味はありません。」


そう言って椅子に座る。


「趣味は無いのかい。高校生活でいい趣味が見つかるといいね!」


担任はそう言うと次の人を見た。


斜め前の席に座る園田の後姿は悲しそうにしているように見えた。


自己紹介も終わり、今日は解散となった。明日はオリエンテーションや部活紹介があるようだ。何部に入るとか決めていなかったので、紹介を見て決めてもいいだろう。心機一転新しいことを始めてもいい。そう思いながら靴箱に向かう。


靴箱で隣のクラスの沢渡と会った。沢渡は急いでいるようで、軽い挨拶を交わしたら、さっさと行ってしまった。初日から野球部の練習に参加するようだ。


特にやることもないのでまっすぐ家に帰る。その日は日課にしているトレーニングをして寝た。


次の日も起きては日課にしているランニングをして、シャワーを浴びる。今日はオリエンテーションだけで授業は無いのでカバンは軽い。ゆっくりシャワーを浴びたせいか遅刻しそうだったので、走って駅まで向かう。せっかくシャワーを浴びたのにまた汗だくだな、とか思いながら電車に乗り込む。


春だというのに噴き出る汗をタオルで拭っていると、昨日のことを思い出す。悲しそうな園田の後姿だ。顔は見えなかったけど、あまり想像したくない。そんなことを考えていると、学校の最寄り駅に着いた。遅れそうなので、ここからダッシュである。


ギリギリ間に合った。走っていると何も考えなくていいから、陸上部もありだな…なんて思いながら教室に向かう。自分以外の生徒は全員着席していた。注目され、少し恥ずかしかったが、何もなかったかのように自分の席へ向かう。途中園田と目が合ったが、何も話さない。自分から目を背けてしまった。


オリエンテーションも終わり、部活紹介の時間になった。一年生は講堂に集められた。壇上でいろんな部活が紹介を順番に行っていた。運動部は実績をアピールしたり、文化部は演劇部だと演劇風に、漫才部だと漫才風に紹介していてなかなか面白かった。


野球部の紹介もあった。去年は夏の県大会ベスト八まで行ったらしい。強豪とは行かないまでも、県内では中堅クラスではあるようだ。ベスト八まで行けば公立校としては上出来だろう。


この後一週間は見学期間らしい。気になる部活に体験入部できるのだ。決めかねていたからいろんな部を見学できるのはありがたい。


部活見学も終わりホームルームの時間になった。担任の号令でその日は解散になった。


校舎を出て校門近くまで出てみた。アニメやドラマのように新入生を取り合う先輩達!みたいなことは無かった。新入生が気になる部活のところに行く方式のようだ。


朝気になった、陸上部のいる校庭に向かった。早速何人かは先輩の話を聞いていた。話を聞いている新入生に混ざる。女の先輩がこっちを見て、


「君、体操服持ってきた?」。


と、聞いてきた。


……忘れていた。そういえば、急いでいたから忘れてたね、カバンが軽いわけだ


「いえ、忘れました。」


「じゃあ君は見学ね!ほかの子たちは更衣室で着替えてきて。あっちにあるから。」


先輩は更衣室の方向を指さす。その方向を見ると、野球部の説明を笑顔で聞く園田の姿が見え

た。


先輩達が説明しながら走っているのを、ボーっと体育座りをしながら眺めていた。何も頭に入ってこない。過去の約束のことがずっと頭の中でぐるぐる回る。園田はずっと前を向いている。なのに


俺は?


その日は一日何も考えることができなかった。校庭で活動する部活はやめよう。仕方ない、仕方ないと自分に言い聞かせながら家に帰った。


あれから三か月が経った。結局部活には入らなかった。中学時代のうわさを聞きつけ、野球部が勧誘しに来たこともあったが、断った。あまり園田と顔を合わせたくない、というか、野球部で頑張ってる姿を見るのが辛かった。


俺は逃げたのだ。


三か月も経てば気が合う友人もできるもので、学生生活はそこそこ充実していた。


休日に出かけたりもするようになった。元々友達も多かったが、野球関連の人が多かったため、野球を辞めてからは一人でいることが多かった。変に気を使われるのが嫌だった。


土日は練習ばかりで、野球を辞めてからは一人だったので、あまり出かけることは無かったが、友人と出かけるのはこんなに楽しかったのかと、自分がいかに小さい世界で生きてきたのかを理解した。


ショッピングモールに行き、服を買ったり、ゲーセンでゲームしたり、カラオケで歌ったりした。歌は下手くそだったが楽しかった。けれど、そんな楽しい時間でも、心に刺さった棘の痛みは消えなかった。


授業が終わり、今日は予定がなかったから、気まぐれに、ほんと気まぐれに校庭に出てみた。六月ももう終わる頃だったので、立っているだけでも汗が出てくるほどに暑かった。運動部の皆さんは汗だくになりながら練習している。


沢渡とすれ違った。沢渡は珍しいものを見るような目で見て話しかけてきた。


「お前、こんなところで何してんだよ」


「いや、ただの気まぐれだよ」


「そっか。帰宅部のお前がこんなとこぶらぶらしてるくらいだし、暇なんだろ?練習見て行よ。」


「そんなつもりはないんだけどな…」


「まぁ、次は打撃練習なんだよ。俺のホームラン見て行けよ」


「中学でお前のホームランみたことねぇよ」


実際、沢渡のホームランなど見たことは無い。少なくとも二年の夏までは。


「俺だって成長してるんだぜ?まぁ、見て行け」


そう言うと、沢渡は走って行ってしまった。


練習風景がよく見える場所に移動して、地べたに腰かけた。野球部はバッティング練習をしていた。ピッチャーが投げたボールを打ち返す練習だ。


沢渡が出てきた。沢渡は打席に入ると大きく構えた。ピッチャーがボールを投げた。次の瞬間沢渡はバントした。バットを寝かせて軽くボールに当てるのだ。バットにボールが当たった瞬間一塁に向かってダッシュする。セーフだった。


思わず、


「バッティング練習でバントする奴があるかぁ!」


と、突っ込んでしまった。勢いを弱めて転がすバントは、思いっきりボールを飛ばすホームランとは対極にあたる。ベンチに戻った沢渡は監督に怒られていた。


ふと、別の方向をみると、園田がせわしなく動いていた。一瞬目が合った気がしたが、気のせいだろう。今日は帰ろう。


次の日も、また次の日も野球部の練習を見に来てしまっていた。沢渡はあれからは真面目に練習しているようだった。練習を覗く度、園田と目が合う気がする。逸らしてしまうが…


七月が少し過ぎた日、放課後にまた、野球部の練習を覗いていた。なぜ来てしまうのかは自分でもわからない。園田がこっちに向かって歩いてくる。そして、目の前で止まった。


「ねぇ、日曜日暇ならここに来て」


園田はそれだけ言うと、日時と場所が書かれた紙を渡して去っていった。


日曜日が来る。行こうかギリギリまで悩んでいた。山田第一球場と紙には書かれていた。大

体想像はつく。野球部の試合だろう。


深呼吸をして家を出る。山田第一球場までは結構遠かった。電車を乗り継ぎ、やっとのこと

でたどり着いた。着いた時には両チームの選手はウォーミングアップをしていた。よく見える一塁側の椅子に座った。


試合が始まった。序盤は両者一歩も譲らない展開だった。しかし、中盤にかけて相手のリードが大きくなっていく。


試合も終盤になった。序盤の攻防が見る影もないほどに大差で負けていた。誰もが負けを確

信していたと思う。だけども、


俺は試合から目が離せなかった。それほどまでに選手たちは輝いていた。残酷なことに、三年生はこの大会で負ければ終わりなのだ。


九回裏、最後の攻撃だった。ここで最悪同点に追いつけなければ負けが確定する。選手もマネージャーも関係なく、大声で応援していた。涙を流している選手もいた。九回裏で九対二絶望的だった。


ツーアウトになった。最後の打者で代打沢渡がコールされる。沢渡が先輩に送り出されてい

た。打席に立つ。しかし、結果は三振。沢渡はその場に崩れ落ちた。


野球部の今年の夏は終わったのだ。


俺は思い出したのだ。野球の面白さ、そして、残酷さを。


次の日俺は野球部の顧問の先生に入部届を手渡した。


もう一度始めよう。


止まっていた時は動き出したのだ。

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