treasure.8 正しい人には言えないよ
——月曜日。
三時間目の数学の授業を、わたしは左から右に聞き流している。重たい灰色の空をながめながら、心の中で自問自答する。
アモルは守ってくれる。こんなワガママなわたしを。
……でも、このままでいいの?
きっと、よくない。
わたしが、どれだけいけない子なのかを隠したまま、ただ守ってもらうだけで——
「宝月! 聞いてるのか?」
先生の鋭い声がとんできて、わたしは問題回答を打ち切る。あわてて「はい!」と立ち上がった。
黒板に書かれた方程式を解かなきゃいけないみたいだ。
ど、ど、ど、どうしよう……! まったく聞いてなかった……!
みんながこっちを見ている。勇翔くんと静葉ちゃんは心配そうな顔だ。
冷や汗をかくわたしの机に、すーっと一枚のメモが伸びてきた。メモの出どころを横目で見ると、隣の席のアモルが差し出したものだった。
そこに書いてあったのは——
「Xが6、Yが9……?」
「よろしい。分かってるならいいが、授業中によそ見するなよー」
くるりと黒板に向き直った先生は、再び板書を始めた。
よ、良かったぁ……
ホッと胸をなでおろしたわたしは、席についてすぐに、ノートのはしっこに文字を書く。
『ありがとう』
『別に』
アモルから返ってきたのは、ぶっきらぼうな返事だけ。
だからますます分からない。どうしてアモルは、わたしを助けてくれるのか。
プチピンチだった数学が終わってすぐ、わたしの席に静葉ちゃんがやってきた。
隣の席のアモルはいない。先生に呼び出されてどこかに行っちゃった。
「大丈夫? 守里ちゃん、最近元気がないみたい」
「平気平気。ちょっとボーっとしちゃっててさ」
わたしは右手をヒラヒラさせながら、「ははは」と笑ってみせる。だけど、静葉ちゃんの不安げな表情は、全然柔らかくならない。
「そうだ、静葉ちゃんが遊園地に行くのって、今週末だっけ? もう何に乗るか決めた?」
気まずくなったわたしは、スマホで遊園地のホームページを開いてみる。マスコットキャラクターの可愛いウサギ——ラビパちゃんがピョコピョコはねている。丸いほっぺたが可愛いんだよね。
「愛らしいよね、ラビパちゃん」
わたしのスマホをのぞき込んだ静葉ちゃんが、穏やかにほほ笑んだ。
「ラビパちゃんのグッズ、何か買ってこようか?」
わたしの心臓が、ドクンと大きく動いた。
『お母さん! わたし、これが欲しい! 買ってきて!』
テレビ電話をするわたし。画面の向こうにいるお母さんへ、無邪気に本を見せるわたし。
ああ……! わたしの罪が、頭の中で暴れ回る……!
目の前が真っ暗になる。そのままわたしはイスから落ちた。静葉ちゃんがわたしを呼ぶ声。クラスのみんながあわてている。
「守里!」
中でも一番大きく聞こえてきたのは、勇翔くんの声だった。
最後に聞こえたのも、勇翔くんの「しっかりしろ!」という言葉だった。
*
——ゆっくり目を開けると、白い天井がわたしを見下ろしていた。
あれ? ここって……?
というか、わたし、なんでベッドにいるんだろう——
「守里!」
右耳に大きな声が入りこんできた。わたしは身体をねかせたまま、顔だけを右に向ける。
あせりと驚きの入り混じった表情の勇翔くんが、わたしをのぞき込んできた。
「大丈夫か⁉︎」
「うん……どうして……」
「守里が気を失ったから、俺が保健室に運んできたんだよ。どこか痛かったのか?」
「ありがとう。もう大丈夫だよ」
わたしはコクリとうなずいた。痛いわけでも、具合が悪いわけでもない……それは本当だから。
わたしの身体が、自分の罪から逃げようとしただけ。
「なあ、守里」
平気だと言ってみせたのに、勇翔くんの全身は張りつめたままだ。
「今日、いっしょに帰れないか?」
「えっ……」
「守里とちゃんと話したいから」
「でも、剣道の練習は?」
「大丈夫だよ。それにあいつ……羽陽は日直だろ? だったら、わざわざあいつを待たなくても、俺といっしょでいいだろ?」
勇翔くんの黒い瞳は真っ直ぐだ。犯人を追いつめるには、このくらい強い目線が必要なんだろう。
反対にわたしは、目を左右に泳がせてしまう。
どうしよう。
下校中にファントムに襲われるかもしれない。
だけど、勇翔くんになんて言うの? 正直に「盗賊にねらわれてる」なんて言えないし……
「……守里」
勇翔くんの両手が、わたしの右手を包んだ。勇翔くんの顔が、限界までのばした糸のように張りつめている。見ているだけでわたしの胸までしめつけられてしまう。
「……うん」
わたしがうなずくと、勇翔くんの力が抜けるのが分かった。
休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴って、勇翔くんは保健室を出て行った。
……寄り道しないで帰れば、大丈夫だよね。
一日だけ、この帰り道だけだから——
*
放課後までの時間を保健室で過ごしたわたしは、迎えにきてくれた勇翔くんといっしょに学校を出た。
いつもの通学路のはずなのに、映画みたいな緊張感がある。空がコンクリートみたいに硬い灰色だからなのか、わたしがファントムを警戒しているからか、半歩前を歩く勇翔くんの背中がピリピリしているからか、理由は分からない。
わたしのカバンを持ってくれている勇翔くんは、なかなか話し始めない。かといって、わたしから口を開いたら、余計なことを言ってしまいそうだから、何もできずにいる。
ファントムのことも心配で、周りを観察しているから、当たり障りない話題を考える頭も残っていない。
「……守里」
勇翔くんがやっと口を開くころには、もうお家の前までたどり着いていた。
くるりとふり返った勇翔くんは、何かを決心したような、芯の通った顔つきになっていた。
「守里のお母さんが行方不明になってから、守里が変わったのは分かってるよ。最初は、お母さんがいなくなった不安や悲しみが理由だろうって思ってた。だけど守里は、いつもふさぎ込んで、昔みたいには笑わなくなって、ずっと隠し事をされてるような気持ちになる」
勇翔くんはこぶしをぎゅっとにぎる。
「俺はもう、誰かを守れないのはイヤなんだ」
すっと目をふせた勇翔くんに言うべきセリフを、わたしは見つけられない。
「お兄ちゃん?」
この空気に合わない、キョトンとした声が、わたしの後ろから聞こえてきた。
わたしがふりむくと、ピンクのランドセルを背負った女の子が、トコトコとかけ寄ってきた。
「
「こんにちは! お兄ちゃん、守里お姉ちゃんとデート中?」
「で、デートじゃない! 今、大事な話をしてるから!」
一気に顔が赤くなった勇翔くんを見て、優飛ちゃんはニヤニヤしている。優飛ちゃんの右の頬にある大きな傷あとが、口の角といっしょに上がる。
「お前、まだ小四なのにデートとか、どこで覚えてくるんだよ!」
「えー、今どきデートなんてみーんな知ってるよ。ねえ、守里お姉ちゃん」
「う、うーん、どうかな?」
「守里を困らせるなよ……」
頭を抱える勇翔くんを見て、優飛ちゃんが「はあー」と大きく肩を落とした。
「お兄ちゃん、早くしないと、守里お姉ちゃんを横取りされちゃうよ?」
勇翔くんの表情が固まった。
「これ以上お兄ちゃんのデートをジャマしちゃいけないもんね! アタシ、空気読める子だから! じゃあねー守里お姉ちゃん!」
優飛ちゃんは手を振りながら、お家に入っていった。
……あれは、優飛ちゃんが五歳の時。わたしと勇翔くんが、まだ小学生だった時だ。
勇翔くんと優飛ちゃんは、家族でショッピングモールに出かけていた。フードコートで、お父さんとお母さんが料理を取りに行っている間、勇翔くんたちはテーブルに座って待っていた。
そこで突然、包丁を持った男が暴れ出したんだ。
お客さんを手当たり次第切りつけて回った。こういう人を「通り魔」っていうらしい。
その刃は、優飛ちゃんにも向けられた。
『優飛! ——ぐはっ!』
勇翔くんは優飛ちゃんをかばおうとした。けれど、大人の男の力には勝てず、突き飛ばされてしまう。
『痛い! 痛いよおお!』
優飛ちゃんは右頬を押さえて転げ回った。犯人が切りつけたんだ。ドクドクと流れる血は止まらない。
その後、警察がやってきて男はつかまった。
……何でわたしが、こんなに詳しく知ってるのかって?
私たち家族も現場にいたからだ。幸い……って言ったら、勇翔くんたちに失礼だけど、私たちはターゲットにならなかった。
男に突き飛ばされて倒れる勇翔くんの顔は、今でもハッキリ覚えている。くやしさと、怒りでいっぱいになった、あの表情。
大切な人を守れない辛さを、勇翔くんは知っている。
それが、勇翔くんが竹刀を握った理由で、ウソを見破るようになった訳だ。
「あいつ……羽陽が来てから、守里は特におかしくなってる」
勇翔くんがわたしの肩に手を置いた。わたしの身体がビクンとはねる。
「守里、もしかして、おどされてるんじゃないか。口止めされているとか」
「そ、そんなことないよ」
「何年いっしょにいると思ってるんだよ。守里のウソが分からないような時間じゃない」
わたしの肩に置かれた、勇翔くんの手に力がこもる。
「どんな理由や過去があっても、俺は守里の味方だよ。誰が守里を責めたって、俺だけはそばにいる。守里の悩みはいっしょに受け止める。だからもう、ウソつくのはやめてくれ。大切な人を守れないのは、もうイヤなんだ」
勇翔くんの手と声が、か弱くふるえている。
……吐き出してしまおうか。わたしの罪を。
そうすれば勇翔くんは、きっとわたしにゲンメツする。
『絶対にこのブローチが欲しい! お願いお母さん!』
あんなワガママでお母さんを苦しめた、わたしの罪を知れば。お父さんや攻大から家族を奪った、最低な人間だと知れば。
そうして勇翔くんがわたしをキョゼツすれば、アモルのことだってバレずに済む。
そうだ。わたしが告白すればいいんだ。そうすれば——
「……守里」
勇翔くんがほほ笑んだ。わたしが何を言っても受け止めるよ、と語りかけるみたいに。
……ダメだ。
こんなに優しくて、強くて、正しい人に、罪を打ち明けるのが怖い……!
「ごめんね、勇翔くん」
目の上がぷるぷるゆれているのが分かる。目の前にいる勇翔くんが、どんどんにじんでいく。
「わたし、言えない……!」
勇翔くんの手を振り払ったわたしは、逃げるように家に飛び込んだ。
「守里——!」
勇翔くんの言葉が終わるより前に、わたしは扉を閉め切ってしまう。
その扉に背中を預けたまま、わたしはへなへなと座り込んでしまう。
わたしの周りには、正しい人しかいなくて。
そんなの当たり前だ。罪を犯す人の方が少ないに決まってる。
でも、だからこそ、苦しい。
責められると分かっていて、罪を打ち明けるのが怖い……!
うずくまったまま、わたしは泣き続けた。それは、帰ってきた攻大が玄関のドアを開けるまで、ずっと続いていた。
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