treasure.3 家族と、幼馴染と、盗賊と

 ——フライパンの上で、鮭のムニエルが、香ばしい音と香りを奏でている。

 わたしはキッチンをせわしなく動き回っている。棚から白いお皿を三枚取り出して、それぞれにサラダを盛り付ける。

「お姉ちゃーん、まだー?」

「もうちょっと待ってー!」

 茶色の椅子に腰をかけてわたしを急かすのは、弟の攻大こうだい。六年生になってから、ますますご飯の量が増え始めた。野球部に入っているから、やっぱりお腹が空くのかな。プロ野球選手のサイン入りボールを持ち歩くほどの野球好きなんだよね。

 ちょうどいい焼き色になったムニエルを、サラダのとなりに盛り付ける。うん、我ながら美味しそう!

「攻大、できたムニエル、持っていってくれる?」

「はーい」

「ただいまー。おお、今日はムニエルか!」

 攻大の返事にかぶさるようにして、リビングの扉が開いた。スーツ姿のお父さんが現れる。

「おかえり、お父さん。ちょうど着替え終わったら、コンソメスープが温まってる頃合いだよ」

「ハハハ! グッドタイミング! さすが父さんの娘だな!」

 お父さんは上機嫌でリビングを出た。階段を上がる足音が、少しずつ小さくなっていく。

 コンソメスープを温めながら、わたしはドキドキしていた。イタズラがバレないかどうかハラハラする時みたいに。


 ……アモルのこと、見つからないよね?

 部屋で着替えてくるだけだもん、まさか屋根の上を見たりしないはず……


 わたし、アモルに聞いたんだよ。「夕ご飯、食べる?」って。

 だけどアモルは首を横に動かして「いらない」とだけ言ったんだ。

「俺のことを何て説明するつもりだ」

「えっと、友達の友達、みたいな」

「それで怪しまれずにいられるのは、最初の一回だけだ。これから常に、お前を見張れる場所にいないといけないのに、家族に疑われたらやりにくい。俺の存在は隠し通せ」

「でも、それじゃあ、アモルはどこに——」

 わたしの言葉をさえぎって、アモルは俊敏なジャンプで屋根にのぼっていった。

 あわててベランダに出たわたしは、アモルに呼びかける。高いところに行ったのか、アモルの姿は見えない。

「そんなところ、雨が降ったらどうするの!?」

「野宿も、食い物がないのも慣れている。だからお前はいつも通りにしてろ。俺にかまうな。俺がいることを絶対にバラすなよ」

 それ以降は、わたしが何を言っても、アモルは答えてくれなかった。だからわたしは諦めて、夕ご飯づくりに取りかかったの。


 コンソメスープと、炊き立てごはんを運び終えたところで、お父さんが戻ってきた。

「おおー! 今日もうまそうだなー!」

 上機嫌なお父さんを見て、わたしは心の中で、ホッと息を吐きだす。このようすだと、アモルのことはバレていないみたい。

 お誕生日席にお父さんが座る。わたしと攻大は向かい合うようにして席に着く。

「いただきまーす!」

 わたしたちの食卓は、三人がそろってから始まるんだ。

 コンソメスープを口に入れるわたしの横で、お父さんと攻大が話をしている。

「今度の休み、どこかに出かけるか! 攻大、行きたいところあるか?」

「バッティングセンター!」

「ハハハ、お前は根っからの野球少年だな! でもそれじゃあ、昼ご飯はお姉ちゃんの好きな場所にしなきゃダメだなあ。守里、何が食べたい?」

 お父さんの満面の笑みが、急にわたしに向けられる。カップを置いたわたしは、小さくほほ笑んで答えた。

「なんでもいいよ」

 わたしの返事を聞いたお父さんは、きゅっと眉間にシワを寄せる。何かを言いたそうにしていたけれど、わたしはわざと無視をして、サラダを口に運ぶ。

「姉ちゃんがなんでもいいなら、おれ、ハンバーグ食べたい!」

 無邪気な声で攻大が言ってくれたおかげで、わたしとお父さんの間に流れていた、重たい空気が吹き飛ばされた。

 食事が終わると、わたしたちはそれぞれの家事をする。わたしは夕ご飯の後片付け。攻大は洗濯物をたたむ(わたしの下着だけは触らないでもらってる)。お父さんは洗濯物を干す。わたしたちは、三人で協力して家のことを支えているんだ。

 わたしは炊飯器を開ける。わざと残しておいた、お茶碗一杯分のご飯。わたしはそれを、空いているお皿に盛り付けた。そのとなりにムニエルをそえる。わたしの分、食べずにとっておいたんだよね。

 空っぽになった釜と一緒に、三人分の食器を洗う。ピカピカになった食器をふきんで拭いて、もとの場所にしまう。

 わたしは、チラっととなりの部屋を見た。お父さんと攻大の目は、洗濯物に向いている。


 ……今なら大丈夫。


 ご飯とムニエルを盛り付けたばかりのお皿と箸を持って、わたしは、そろりそろりと歩き出す。足音を出さないように。食事をこぼさないように。

 リビングを出たわたしは、階段をのぼって、まっすぐに自分の部屋に入る。お皿を机に置いてから、わたしはカラカラと窓を開けて、ベランダに出た。

「アモル、いる?」

 わたしが声をかけると、「何だ」と、ぶっきらぼうな声が返ってきた。相変わらず姿は見えない。

「ちょっと降りてこられる? お父さんも攻大も、しばらく二階には来ないから」

 わたしの呼びかけが終わって数秒後、黒い影がしゅっとベランダに降りてきた。


 ……本当に身のこなしが軽いなあ。まるで鳥みたい。


「なんだ、人をじろじろ見て。何の用だ」

 アモルの眉が真ん中に寄ったのを見て、わたしはハッと我にかえった。机に置いたご飯と箸を差し出す。

「これ、食べて」

 アモルは目を丸くして「……は?」とだけ言った。

「だから、ちゃんと食べなきゃダメだって言ってるの!」

「……俺は泥棒なんだろ。泥棒に親切にしていいのか?」

「そ、それは……でも、助けてもらったのは本当だし」

 わたしは目をふせる。


 もちろん、泥棒は絶対にダメ。

 だけど、わたしを助けてくれたのに、何のお礼もしないのは、もやもやする。


 わたしたちは、しばらく黙っていた。まるで我慢比べみたいに。

「……分かった」

 アモルの指がお皿に触れたのを感じて、わたしはパッと顔を上げる。

 ベランダに腰を下ろしたアモルは、右手に持った箸を見て首をかしげる。

「……これ、どうやって使うんだ」

「え? 箸、使ったことないの?」

 コクリとうなずいたアモルから箸を受け取って、わたしは動かしてみせる。

「こうやって、料理をはさんで持ち上げるの」

「……」

 わたしから箸を受け取ったアモルは、それで一口サイズにムニエルを切って、つかんでみせた。

「初めてなのに、上手だね」

「……」

 アモルはもぐもぐと口を動かしている。ひとくち食べるのに、こんなに時間がかかるのかなって、不安になるくらい。

「……どう? おいしい?」

「……分からない」

「分からない?」

 わたしは心の中で「ズコー!」と盛大に転がった。おいしいかどうかが分からないってどういうこと⁉︎

「誰かの手料理を食べたのなんて、もう何年も前だから」

 アモルの海のような目が、ゆらっと揺れた。少し細くなった瞳に、前髪の影がおおい被さる。


 ああ。これ以上、深く聞いちゃいけないんだ。


 話題を変えなくちゃいけないって思ったわたしは、本棚から一冊の本を取り出した。

 ページを開くと、青銅でできた剣や、透き通るガラス玉、木で造られたグライダー模型の写真が出てくる。

「何の本だ?」

「宝物の写真集。お母さんがくれたの」

「そこの棚にあるものも、母親から貰ったんだろ。お前の母親はどんな人間なんだ? 世界中を旅しているのか」

 アモルの質問に、わたしの肩がビクッとはねる。

 のりでくっつけたみたいに、わたしのくちびるは仲良しになっている。だけどさっき、アモルの中の、入っちゃいけないところに踏み込んだバツは受けなきゃいけない。だからわたしは、くちびるをお別れさせる。

「……お母さん、行方不明なの」

 ムニエルを食べていたアモルの手が止まる。

「わたしのお母さんは、写真家として海外で暮らしていたの。写真を撮りながら、ボランティア活動していたんだ。だけど三年前、爆発事故に巻き込まれて……行方が分からなくなった」

 わたしの視界が振動しているのが分かる。さっき、アモルの瞳が揺れていたのと、同じようになっているんだろう。わたしは目を閉じる。これ以上、わたしの中を見せるのが怖いんだ。


 だって、お母さんが事故に巻き込まれたのは……わたしのせいだから。


「守里ー、いる?」

 隣の家の窓がガラガラ開いたのと同時に、ハリのある男の子の声が聞こえてきた。その子の部屋とわたしの部屋は、ベランダ越しにお話しできるくらいに近いんだ。だから、小さい時から仲良くしているんだけど——

 わたしがあわてて目を開けて、ベランダに出た時には、もう遅かった。

 向かいの部屋の男の子は、目を点にしている。さわやかな短い髪を、夜の風がなでていた。Tシャツからはほどよく鍛えられた筋肉が顔を出し、部屋からは竹刀がのぞいている。

 男の子の丸い瞳は、アモルに惜しみなく注がれている。アモルはそれを、いっさい動じないで受け止めている。わたしは両手をバタバタさせながら、どうにか言葉をひねりだす。

「あ、あの、勇翔ゆうとくん! その、この子はね、えっとね」

 アモルを見てポカンとしている男の子――流星ながれぼし勇翔くんは、あたふたするわたしと、一ミリも動かないアモルを交互に見る。ホリが深くて、和風の剣士さんみたいな大人の顔立ちの勇翔くんだけど、今は年相応に間の抜けた表情をしている。

「守里、その人、誰?」


 そうだよね! もちろん聞いてくるよね! 聞かない方がおかしいよね!

 どどど、どうしよう! まさか盗賊だって言うわけにいかないし……!


「あのね、この子はそのー、遠い親戚の子で! 事情があって、わたしの家に来ることになったの!」

「ふーん……」

「そ、それより、何かご用事?」

 アモルから話題をそらすために、わたしは勇翔くんの言葉を待たずにたずねた。

「体育祭のパネル。何の絵がいいかって、クラスのみんなに聞いてるところなんだって。それで、守里には俺から聞いておいてって言われたから」

「そうだったんだ。わたし、何でもいいよ」

 ベランダのフェンスに腕をのせている勇翔くんは、いっしゅんだけ、さみしそうな顔つきになる。その後すぐに、和やかな表情にもどった。

「守里、クッキー食べる? ゴールデンウィークのおみやげに、おじさんがくれたんだ」

「ううん。もうお腹いっぱいだから。ありがとう」

 わたしは、にっこりとほほ笑んだはずだ。それなのに、勇翔くんは笑い返してくれなかった。


 ……どうしてだろう。

 わたし、ケンキョにしているはずなのに。「これがしたい」「あれが欲しい」って、ワガママを言わないでいるのに。

 みんな痛い顔をする。お父さんも、勇翔くんも。


「……分かった。おやすみ、守里」

「うん。おやすみ」

 勇翔くんの眉と目尻が下がる。切なげな顔は大人びていて、勇翔くんの部屋の窓とカーテンが閉まるまで、わたしは幼馴染から目を離せずにいた。

「……なあ」

 チェロのような声で、わたしは我に返った。隣に立っていたアモルが、すっとお皿を差し出した。

 空っぽになったお皿を。

「全部食べてくれたんだ、よかった」

「……変な女だ、宝月守里」

 せっかく安心したわたしの胸を、アモルはザワザワとさせてきた。

「変? わたし、変な人間じゃないよ」

「自分は無欲でいるくせに、他人の欲は満たそうとする」

「そんなんじゃ——」

「この食事だって、どうせ自分の分を減らしたんだろう」

 真実というナイフを突きつけられたわたしは、拳をにぎってうつむく。

「……それが、わたしのバツなの。いけないことをしたから、これ以上ワガママにならないし、誰かのことは助けたいの。普通だよ。泥棒よりは」

 わたしは口の電源をオフにした。


 ワガママをやめたのに、みんなみんな、つらそうな顔をしてくる。

 それに悩んでいるのを、アモルに見透かされた気がして。

 ……盗賊に言われたのが、ムッとしちゃったんだ。


 床をける音がした。わたしが顔を上げると、屋根の上に飛び乗るアモルの背中が、一瞬だけ見えた。

 夜の空にアモルの黒いフードが溶け込んでいた。月が雲におおいかぶさって、星だけがまだらに残っている、暗い空。

 外の重たい景色を後ろに、わたしは部屋の中に入る。窓とカーテンを閉じて、ふうっと息をはきだす。

「……なんか、落ち着かないな」

 今日はたいへんなことがあったから、身体がまだ興奮しているのかも。


 わたしは学校かばんの中から、ひとくちチョコレートを取り出す。口に入れたとたん、舌が喜んでいるのが分かった。

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