クーガーの失敗

 赴任の日から三日ほど経過した。そう。たった三日なのであるが、既にクーガーは後悔していた。

 いくらなんでも急ぎ過ぎた。せめてもう一人連れてくるべきだったと。


 そんなクーガの叫びが帝国風の建物の調理室にこだまする。


『お願い! 通して! 火を! 魚に!』


 拙くも、アハティンサル領の言葉――謂わばアハティンサル語を駆使してまでも、調理の責任者である、ショウブに向けてクーガーは訴えていた。


 そう。クーガーの後悔とは、食生活に関してだった。せめて調理が出来る者を一人ぐらいは連れてくるべきだった、と。

 元々、食べることにあまり関心がないクーガーであったが、戦時でもないのに、三食糧食というのはさすがに耐えられなかったらしい。


 それでも、割と好き嫌いなく提供された料理を口にしていたクーガー。米についても「ほうほう」といいながら玄米を平らげていたのだが、ここで大きな問題に直面してしまったのである。


 それは生魚であった。アハティンサル領にとっては、それは「刺身」という名の立派な料理であったのだが、クーガーにとっては何とも受け入れがたい料理であったのである。


 当然それは避けて食事を終える。これで「刺身」なるものは次から出てこないだろうと考えていたクーガーであったが、そう簡単にはいかなかった。

 不思議なことに。


 これは代官としての試練なのか? と、考え込んでしまったクーガーは珍しくキンモルに相談を持ち掛けた。

 それに対してキンモルはごく普通に、


「……王家に料理人を派遣するように依頼すればよろしいのでは?」


 と、具申した。ちなみにキンモルもまた「刺身」は残すタイプである。決して他人ごとでは無いので、常識的な具申であったのは、それだけ成功確率の高いものを選んだ結果である。


 しかし、クーガーがそれに難色を示した。


「……王家に借りを作るのはなぁ」


 と、ニガレウサヴァ伯領の気風正しく、そういった常識的な手段を選ぶことを嫌がったのである。

 そう言われるとキンモルもまたニガレウサヴァ伯領出身であるので、重ねてクーガーに訴えることもしなかった。


 キンモル自身は「出されても残せばいいだけなのでは?」と、簡単に考えていたことも大きい。

 しかしクーガーにとっては、この「刺身」を巡っての経緯はすでに勝負になっていたのである。


 つまりクーガーは意固地になっていた。

 ならば正面から、自分の要望を伝えてみせる! と鼻息も荒くショウブに訴えたというわけである。


「そんな悲しいこと言わないでおくれよ。お代官様は、魚だって食べてるじゃないか」


 クーガーに訴えられたショウブは、豪快に笑いながら――そんな風に錯覚しそうになるほど――その訴えをまとも取り合わない。


 調理責任者のショウブという女性は身につけている衣服からはシチリ氏族であることが窺える。しかし人種としては、確実にアハティンサル領の民では無かった。


 何しろその肌は黒い。頭髪も縮れ毛で、顔の造作も肉感的だ。割とあっさりとした顔立ちの者が多いアハティンサル領の民に比べれば実に目立つ。その上、彼女は身体も大きかった。センホ氏族もかくや、といった具合である。


 彼女の存在に気付いたクーガーは、驚きはしたものの、それ以上の反応は見せなかった。こういった人種が帝国と神聖国の向こう、つまりずっと南方に位置する海邦国家に居を構えていることは聞き及んでいたからである。


 王国では会う事も少ないが、新年の挨拶などで湖の王宮に顔を出していたクーガーはそれを知っていたのだ。


 むしろ、ショウブを奇異な目で見ていたのはキンモルの方で、


「大丈夫なのでしょうか?」


 と、クーガーに注意を促していた。見慣れぬ存在を警戒するという自然な反応だったとも言える。

 それに対してクーガーは、


「害意も無いし怖がる必要は無いよ」


 と、短く答えた。

 しかしながらその時のクーガーは、追い詰められた表情で冷や汗を浮かべており、キンモルはそれを指摘したのだが、それは人種の違いが理由では無かった。


「ただ……似てないか? 雰囲気がさ。その……母上に」


 そう言われて、キンモルの眼鏡も曇ってしまった。

 この場合、クーガーが「母上」と呼ぶのはニガレウサヴァ伯爵夫人の事である。未だに二人にとっては恐怖の対象ではあるのだ。


 そんな理由で、最初からクーガーにとっては不利な戦いを強いられることになっているのだが、それでも王家に頼るのは嫌だし、「刺身」を残すという選択肢を選べないあたり、立派にわがままではあるのだろう。


『思う! 美味しい! 魚料理! 好き! しかし肉も!』

『あっはっは。何を言いたいかは、何となく伝わる辺りが凄い!』


 そういった無謀な戦いで、クーガーのアハティンサル語習得速度が尋常でなくなっているのは、確かに良い面ではあるのだろう。

 ショウブもその辺りについては太鼓判を押しているわけだが、だからと言って「刺身」を食卓に出さないことについては受け入れないのである。


 戦況の不利を悟ったキンモルが、いち早く覚えた『ヘーダを呼べ』という言葉を駆使して、今日もいよいよ戦いが始まった。


 実はこういったやり取りはずっと続いており、クーガーがアハティンサル領に来てからやったことといえば、食事の改善要求だけだったりするのだ。

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