わすれちゃいましょうぜんぶ
帰りの車。行きは浮かなかった陽菜の表情も、今はどこか晴れやかに見える。
相変わらず葉子とゆかいな仲間たちはポーカーの役をそろえることに余念がなく、前列は苛烈を極めた駆け引きが繰り広げられていた。
奴らの目はお互いが握る手札にのみ注がれ、私たちがひっそりと手をつないでいようが気づく気配すらない。実は気づいていて無視しているだけとも考えられるが、葉子は妙に物分かりのいい時があるので、しばらく邪魔されることはないだろう。
景色が流れていき、緑色から灰色へ。それは夏休みから文化祭準備期間へと遷移していくのを暗示しているようだ。
「……題材とか決まったの?」
「はい」
陽菜はゆっくりとこちらを振り向く。相変わらず柔らかい印象を受ける端正な顔立ち。琥珀色の瞳が、濁った輝きを湛えて私の顔を映し出している。
この少女が私の恋人で、そう遠くない未来には家族となるのだ。実感とともに羞恥が去来するけれど、不快じゃなかった。
タイヤが石でも噛んだのか、車内が大きく揺れた。誰もが姿勢制御に気を取られる一瞬。陽菜は機敏な動きで身を寄せてきた。
触れる。
「……見られたら、どうするの」
「ふふっ、どうもしません」
私は進行方向へ目をやるが、葉子たちはカードを拾い集めるのに必死で、運転席の老人も微塵も関心のなさそうに船を漕いでいた。
バックミラーに映り込む私の顔が赤いけれど、見つかっていないだろうか。
「ゆずりは、嫌がりませんでした」
「ん、まあ、うん」
「ですから、題材は決まったんです。ゆずりはがわたしを拒絶しないってわかりましたから」
エンジンの鈍重な音が心地よく響き渡り、眠気を誘う揺れとともにリムジンは私たちの生活へと戻っていく。
「そっか」
「はい」
陽菜は微笑んだから、私も笑い返した。
それでいいやと思った。
「おや、何やら意味深に笑みを交わす二人が」
「よ、葉子。そんなことよりカード集めなさいよ。スペードのキングがない」
「そりゃ大変だ。キングフォームになれないじゃん。いやでも、末路を考えたらそっちのほうが幸せになるのかな。投げやりにパーティーやって終わりそうだけど」
「なんの話よ」
「気を付けなよしずま。淫乱院さんのように、封印したつもりで支配されないようにね」
「だからなんの話よ!?」
「ではここにいるわたくしは何ですの?」
「デコイです」
「なるほどー!」
「えぇ……」
※※ ※
「天野さん、放課後はいかが?」
登校日。キバが特徴的の太った生徒が声をかけてくる。
「……」
「天野さん? 具合が悪いのですか?」
「……え、ああ、うん」
「ゆ、ゆずりは。あの、帰りましょう……?」
「陽菜。うん、そうだね。絵の進捗がよかったらさ、帰りにカラオケでもいかない?」
「あ! は、はい! たのしみです、あの、得点が出せるようになってきたので……」
「陽菜は飲み込みが早いからね。この調子だったら九十点台も夢じゃないよ」
太った生徒の一団が何か声をかけてきたが、返事をするのはすこぶる面倒だった。
別に陽菜とそういう関係になったからと言って、日常生活が激変するわけでもない。
もとより友人と呼ぶには距離が近すぎたこともある。互いの手が空いていればつないだりしていたから、現実に形式が追い付いたといったほうが的確だろう。
強いて言えば陽菜は絵を描くようになった。
「夏休みが終わっちゃえば、もう文化祭、ですから」
どんな絵を出展するのか尋ねても、陽菜は微笑むだけだ。
一度回り込んで後ろから見てやろうと思ったが、想像を絶する動きで隠されしまった。その後もぐるぐるしながら奮闘したものの、頑なな態度を崩さなかったため諦めた。
「文化祭当日のおたのしみ、です」
そういたずら気にいう陽菜が少し大人びて見えたのは私の気のせいだろうか。
「……あのさ」
「はい?」
「陽菜って、元カレとかいたことあるの?」
「え、気になるんですか!?」
「ち、近いよ……?」
なぜか目を輝かしながら詰め寄ってくる。満面の笑みはさながら地上の太陽のようで、私は自分の呼吸音を強く意識してしまった。
「あ、え、すみません。その、ゆずりは、わたしのこと好きなんだなって思って、喜びのあまり」
たまに考えていることを口に出しているのではと思う時がある。
「……うん、いや。陽菜、前より綺麗になったからさ」
「はい!」
「だから……その、前の思い出とか吹っ切れたのかなって思って」
「あぁ……そ、こまで、ですか」
陽菜は恍惚とした面持ちで言った。
少し前に切りそろえた前髪はヘアピンで持ち上げられ、より表情が際立っている。直視できない私は逃げるようにそっぽを向くのだが、そうするたびに直な陽菜がどんな顔を浮かべているのかを想像してしまうので、思うようにいかない。
「ゆずりは」陽菜の腕が強引に肩へ絡みついてくる。抗う間もなく唇を奪われた。
「うれしい。うれしい、です。ゆずりは、ゆずりは、ゆずりは、ゆずりは」
荒い鼻息が胸元にこすりつけられる。時折大きく息を吸って小刻みに体を震わせていた。
「ちょ、見られたらまずいよ」
「文化棟です。人は来ません」
「あの、なんか目つき、怖いよ?」
「わたし、ゆずりはさえいれば平気です。知らない人に見られても構いません。ゆずりはは違いますか? 人が怖いと何度も聞かされました。ですから、怖いのなら関わる必要はないと思います。わたしゆずりはをいじめたりなんかしません」
「そういう問題じゃなくって」
たまにこうして様子がおかしくなるが、それとて付き合う前から起きていたこと。問題にはカウントされないはずだ。
そして陽菜の暴走は、毎回私が折れるという形で収束する。女の子として生を授かり、まさか女の子に押し倒されるとは夢にも思わなかった。
だが、それも陽菜の背後を考えれば不思議と不快に思わない。
寂しいという感覚は私にはおぼろげにしか理解できないが、家族が目の前で溶けたという壮絶な体験をした陽菜にとって、私という存在がどんな役割を果たしているのか。
だから拒む気にはなれなかった。
そうして転げ落ちた末路がどういうものなのか、きっと私は理解している。
海原陽菜は異常だ。本人の意図せぬところで、深く関わった人間を不幸にしていくのだろう。
だがそれでいいと考えている。これは単なる自暴自棄では決してないと断言していい。私という人間を俯瞰すると、今後社会の一員として健康で文化的な最低限度の生活を営むのは不可能だ。陽菜が狂っているように、天野楪も社会性を喪っている。
これは私の愛着と陽菜の執着との一致の他に、そういう打算的な面も含まれている。
陽菜の乱れた息遣いを聞きながら、そのうち殺されるのではないかと苦笑する。なんならそれでもいいやと思った。
両親が溶けていくところを目の当たりにして狂った少女が、後を追うように誰かと心中する。
陽菜がそれを選ぶのなら、私は否定するつもりはない。
いや。白状しよう。
何も考えなくていい、陽菜以外の何にも興味を持たなくていいこの密室が心地いいのだ。
進路にも、
クラスメイトにも、
教師にも、
食べ物にも、
流行にも、
衣服にも、
美容にも、
生理現象にも、
明日にも、
昨日にも、
過去にも、
未来にも。
そしてマキちゃんにも。
私ははじめから全部どうでもよかった。
だからこのままここで思考停止して、陽菜と二人で腐敗していきたい。
誰にも害されることもなく、誰からも見向きされることもなく、健全に生き続ける世界の裏側で、永遠に不干渉なこの部屋で死んでいきたいのだ。
流体であることからやっと解放されたのだ。幸いにも私は陽菜を愛している。
彼女のことを考えるのは、彼女に興味関心を向け続けるのは苦ではない。むしろ陽菜がどうすれば笑ってくれるのかを試行錯誤するのは輝かしいひと時をもたらしてくれる。
だから、この揺籃を脅かす者がいるとすれば、きっと私は殺すことも厭わないだろう。
新学期が始まってから二日ほどした日。
やはり天才と謳われただけあって、絵の進みは快調らしかった。明るい顔で最後の手直しをしている陽菜を眺めていると、私まで頬がほころんでしまう。
夏休み中は第二美術室という名前からして使われていない部屋を陣取っていたが、明けてからは
※ ※ ※
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