おまえがしね
『自殺教唆罪
自殺の決意を抱かせる事によって人を自殺させた場合に自殺教唆罪となる。
この自殺の決意は自殺者の自由な意思決定に基づくものでなければならず、行為者が脅迫などの心理的・物理的強制を与えた事によって、自殺する以外に道がないと思わせたような場合には、その決意は自由な意思決定とは言えず、自殺教唆ではなく殺人となる。
また、意思能力がなく、自殺の意味を理解していない者に自殺の方法を教えて自殺させたような場合にも、自殺者の決意は自由な意思決定とは言えず、殺人となる』
その日は前夜から厚い雲が張って、うっすら明るくなる頃には滝のような土砂降りが降り注いだ。残暑明けやらぬ気候で蒸し暑かったので、おめでたい日なのに生徒たちの表情にはいら立ちが募っていた。
クラスの出し物が何なのかはあずかり知らぬところだ。シフト表があったということは食事処もどきでもやるつもりなのか。どちらにせよ私の目的は陽菜だけだった。
陽菜はとうとうどんな絵を描いたのか教えてくれなかった。彼女らしからぬ強情さで、いやおうなく期待が高まる。
もしかしたら何か私に対するメッセージのようなものが含まれているとも考えられる。
そんなロマンチシズムに浸るあたり、私もそれなりに浮かれているのだろう。
陽菜は美術部のほうにいるらしかった。なんでも来賓客の中には作品について質問を求める好事家も大勢いるようなので、それらに対応できるよう待機しているとのこと。
とはいえ、美術部に属しているというだけで文化祭を潰されるのを理不尽だと理解できる知能はあったみたいで、ピークとされる昼過ぎを超えたら解放される模様。
つまり私はそれまで暇だった。
私一人で見に行ってもよかったのだが、提案したとたん陽菜がわかりやすく不機嫌になった。「ゆずりはと見たいです」うるんだ瞳でわがままを言われると、私は断ることができない。
適当な出店で焼きそばを買う。お嬢様学校といえども、メニューは雑多だ。
貴族らしくバウムクーヘンやらパウンドケーキやらフィナンシェやらを提供するクラスもあれば、庶民勢力の強いクラスからはオタフクソースの香りが漂ってきた。
適当に腹を満たしたら眠たくなってきた。陽菜と恋人になってから、頭を使う機会は格段に減った。抑えがなくなったぶん、これまで下にあった原始的欲求の数々が噴出しだしたのだ。
クラスの面々には適当に言いつくろい部屋まで戻ることにした。万全の調子で陽菜の絵を見るため、昼頃まで眠っていよう。
「……あの」
耳慣れぬ声に振り向かなければよかった。
眠かったから判断力が鈍っていたことが一つ、先日の生徒会で警戒心が薄れていたことが二つ、そして三つめは、理屈を超えた宿命的な予感が鋭さを伴って胸中を貫いたからだ。
「やっぱりだ。ゆずちゃん、変わらないね」
枯れ木が人の形で動いているのかと思った。
それほど、目の前の人物からは生気が感じられなかった。
こけた頬は肌荒れが酷く、せっかく整った可憐な面貌を台無しにしている。
トリートメントやリンスとは程遠い頭髪が、縮れて瞼にのしかかっている。
黒々としたすだれの奥から、眼光だけは
彼女は、闇の中をさまよう幽鬼のようだ。
ただそこまで落魄してもなお、瞬時に彼女が三船蒔苗であるとわかった。
「今暇なの?」
「……まあ」
「あっちにフリースペースあった。人少ないよ。休もう? 一緒に」
「……」
「どうしたの、いやなの?」
「ううん」
一緒。象徴的な単語でありながら、発する人間が違うとこうも受ける印象が異なるものなのか。驚きを隠せなかった。
有体に言えば不快だった。
三船蒔苗の示すフリースペースとは、屋上だった。
人目を掻い潜って階段をぐんぐん上がっていき、立ち入り禁止のチェーンなどどこ吹く風で飛び越える。
気は進まなかったが、私はそのあとに続いた。
楪がどんな顔をするのか想像する。
表情に乏しいあの娘が、わたしの前では百面相を見せてくれることが大好きだった。ちょっと触れればすぐに赤くなってしまうことも魅力的だし、愛しそうな目つきでわたしの横顔を盗み見る時なんて、もうそのまま抱きしめたくなってしまう。
わたしが楪のことを好きだとは、正直告白されるまで気づいていなかった。ただ好きとか嫌いとかそういう感情を超えた次元で、わたしは楪を欲していたのだから。
だから恋人になれたことはすごくうれしい。唇と唇を触れ合わせると、楪は肩をビクッと震わせる。楪と見た恋愛映画みたいに舌と舌を絡ませ合うと、それもなくなる。後はわたしに寄り掛かるみたいになって、なんだかいつも以上にか弱くはかなげになるのだ。
その他にもうれしいことはある。楪はなんやかんや言って社交的の部類に入るので、クラスメイトに話しかけられたらそれなりの反応を返していた。それがわたしと交際を始めてからは、すっかりなくなった。
楪がわたしだけの楪になってくれた喜びもあるし、何よりあのつっけんどんな対応こそが素の楪だと思う。そういう地金を晒して楽になってくれれば、もっとわたしに近づいてきてくれる。幸せな循環が生まれつつあった。
学校を卒業した後はどうするのだろうと考える。あの様子なら具体的な青写真もなさそうだから、わたしについてきてほしい。自画自賛的だが、それなりの画家をやっていたのだ。倹約さえすれば食べていけるだけの蓄えはあった。卒業すればそれらの資産のほとんどが完全にわたしのものになる。
そういう幸せな未来図を羽ばたかせながら、わたしは義務的に暗記した内容を説明していた。来客は一様に渋面を浮かべる。
「海原陽菜も、枯れたなぁ。あんな自己満足みたいな絵は描かなかったはずだが」
「どんな分野でも、若い芽はついえやすいものだよ。生物学的な観点からすれば、一番抵抗力がないんだからね。良いものと悪いものを区別する審美眼が育っていない。だから悪いものを摂取し、持ち味を殺してしまう」
好きに言えばいい。この絵を楪に見てもらえば、もう絵画に対する未練などない。欲しかったものは楪で、海原陽菜ブランドはその過程で偶然築き上げられた副産物だ。それがどうなろうが、楪風に言わせれば、興味もないしどうだっていい。
先生に何か言われたが忘れた。やる気がなくなっちゃったんだね。そんな感じの内容だっただろうか。わたし個人に関心を払っていない風に捉えていたけど、そんな人が美術部の中では一番正解に近いというのも皮肉な話だ。
自由になったわたしは楪を迎えに行くことにした。
すっかりおなじみになったLINEを開き、どこにいるのかを尋ねる。
「え……?」
いつもの楪なら五分以内には返事をくれるはずなのに、今日はまだ沈黙が貫かれていた。既読さえつかないまま、画面は不気味な沈黙を保っている。
途方に暮れかかるわたしの眼前を、担架を背負った保険医が走り抜けていった。そういえば周囲を見回すと、心なしか騒がしくなっているように感じる。
虫の知らせというものだろうか。胸騒ぎがした。人の流れを観察すると、中庭の方向へ進んでいっているようだ。
何かあったのか。もしかすると楪が何かに巻き込まれたのかもしれない。不安を消すために、歩を向けようとしたその時。
わたしの前に二階堂さんが現れた。
「……うみ、はら、さん」
なぜだかわからないけれど、二階堂さんは泣きそうになっている。
いや、もう涙の先端は
わたしは彼女の動機を探ろうとして、すぐに思い至る。
酷評ばかり受けたわたしとは裏腹に、二階堂さんは画壇から直々に展覧会の案件が持ち込まれていた。
個人展は画家として箔のようなものだと聞く。
わたしと楪の目の前にふらりと現れた二階堂さんはいつだって真剣に芸術と向き合っていた。
「え、えっと、おめ、でとう……ございます」
わたしが微笑むと、その緩んだ頬へ鋭い一打が叩き込まれた。周囲の騒然がわたしたちにも向けられた。甲高い音が人々の間を縫っていった。
「に、かいどう、さん……」
「あ、貴女はっ!」
わたしは立ち上がりながら驚いた。二階堂さんはこれまでにないほど取り乱していたからだ。瞳孔は落ち着きなく震え、荒い息遣いをまき散らしている。
「なんでっ、ですか!
やろうと思えば、もっとできたはずでしょう!
海原陽菜の才能はその程度のものなのですか、いいえ、違います。貴女は意図的に手を抜いたのです。芸術を、美術を侮辱したかったから!
これまで自分を束縛してきた絵画という
どうして二階堂さんが逆上したのか、わたしにはわからなかった。
端正な顔をぐちゃぐちゃにしながら、二階堂さんは口角泡を飛ばし続ける。
「そこまで絵画に打ち込むのが滑稽に見えますか! そうでしょうね、貴女はできて当然で、どうしてできないのかがわからなかったから!
でも、でも……」
二階堂さんは今にもしゃくりあげそうで、叫んでいる内容は文句というより悲鳴に近かった。極め付きはどうしてそんなことをしているのか、まるで理解できないということだ。
二階堂さんの努力が報われた。
ずっと目指していた対象を追い越し、画家として羽化したのに、なぜ悲嘆に暮れなければならないのだろう。
「貴女に憧れたことまで、否定しないでよ!
貴女になりたいって思ったことを嗤わないでよ!
絵しか取り柄がなかったんだよ、でも、貴女はそれで輝いていたんだよ! 眩しいって思ったんだよ!」
ひときわ高い泣き声とともに、二階堂さんがつかみかかってくる。すかさず割って入った先生に止められ、肩を叩かれながらなだめられる。
「海原、海原ぁ!」
「落ち着け二階堂! 海原が何かしたのか!」
そんなに鬼気迫った風に睨まれると、わたしも楪の気持ちが理解できるような気がした。
気が付けば周囲から人が失せていた。みんな中庭のほうへ向かったのだろう。雨音に交じって、救急車のサイレンが耳朶を叩く。そこで急速に楪の存在が大きくなった。
「あ、あの……」
「おい海原! 二階堂が、なんで」
「わたし、ゆずりはと約束していたので……その、迎えに行ってきますね?」
二階堂さんから色が抜け落ちる。感情の一切が消失した顔は、ちょっとおもしろかった。
「あまの、さん……?」
「あ、はい。ゆずりは、です。一緒にわたしの絵を見ようって約束していたので、ゆずりは、変なところで負けず嫌いだったりするので、もしかしたら怒っちゃうかもしれないし」
空っぽのまなざしがわたしを撫でてから、背後に飾られた絵に向けられた。
二匹の羊が、小高い丘で覆いかぶさっている。
腹からは夥しい血液があふれ出ていて、丘の周辺に血の運河を築き上げていた。二匹の臓物は蝶々結びで絡まり合って、二度と離れないようになっていた。
やがてこの二匹は時の流れに従って風化していく。その肉体は大地の養分と化して、彼らの亡骸には一輪の花が咲くのだ。
二階堂さんの目が見開かれる。ゆっくりと。
「海原さん」
力のない、呪詛を吐き出すような声だった。
二階堂さんの
「――気持ち、悪いです。貴女」
まあ、そういう意見もある。
わたしは頭を下げてから、楪を迎えに行くことにした。
せっかくだから中庭を経由していこう。この胸騒ぎは偶然だとは思えない。
※ ※ ※
こんな豪雨で傘もささずに屋上へ出て、あまつさえ手すりに寄り掛かって話をするというのはどうなのだろう。
疑問に思ったが、言う通りにすることが三船蒔苗から解放してもらう近道だと確信する。スマホを確認するともうすぐ昼過ぎに差し掛かろうとしていた。
遠くの校門に向かって急ぐ傘の軍団が目に入る。格式ばったスーツが多いことから、あれが画壇の連中なのだとわかった。
「ゆずちゃん、最近どう?」
その壮絶な風貌には似つかわしくない、穏やかな話題だった。私は少し考えて、
「ぼちぼちかな」
「ふーん、ゆずちゃんって要領いいもんね」
私とは違って。言外にそんな意図が見え隠れして、さっそく辟易してしまいそうになる。記憶のなかにあるマキちゃんと、目の前に存在する三船蒔苗は別人のように思えた。
三船蒔苗は続ける。
「じゃああれかな、ゆずちゃんはリア充なんだ」
「リア充、か」
ネットスラングが平然と口から出てくるようになって、時の経過を感じる。
三船蒔苗の肌はエンバーマーに死化粧を施されたように寒々しい白をしている。
同じ白でもこれほどの差が生まれるのだと驚きを隠せなかった。陽菜が純白ならば、目の前の鬼は白濁だ。
引きこもっていたのだろう。
「私は」
マキちゃんは手すりに背を預けた。防災意識が奨励される昨今でも、落下防止の作なんかはついていない。
耳元で押し付けられるように風が鳴っている。雨脚は強まる一方だ。制服もびしょびしょで、この具合なら一度戻って乾燥機にかけなければシミになってしまうだろう。
「さんざんだよ。高校受験、自分の能力以上にレベルの高いところを受けさせられた。もちろん私は自分に見合った学校を受験するつもりだった。私はゆずちゃんほど頭がよくないからね、相応の人生を計画する必要に迫られた」
「そっか」
「そうなんだよ。それで私は診察の結果、日常生活にはこれと言って支障をきたさない、発達障害を抱えていることが明らかになった」
「話つながってないから、そこで、それでは誤用だよ」
「ゆずちゃんは賢いなぁ。知ってる? そもそも我々が日常的に用いる発達障害というのは、知能に問題のない自閉症として杉山氏が提唱したもので、軽度発達障害と呼称される。これには二種類あって、成長伴って症状が軽微になっていくケースと、成人してからもいつまでも苦しむケースとが存在するの。問題視されているのは後者のケースだね。我が国はいまだ理解が遅いから、自立できる年齢で自立していないのが自己責任とみなされるから」
雨音にまぎれてひっそりとチャイムが鳴り響いた。昼過ぎの合図だ。陽菜はそろそろ七面倒な雑務から解き放たれて私を探しているのだろうか。
スマホを取り出して連絡を確認しようとしたら、素早く伸びた手につかみ取られる。
「あのさ、今私が話してるんだよ?」
「気の毒だとは思うけどさ、発達障害についての講釈を私にしても意味なんかないと思うけど。そんなに詳しいんだったら、持論をかみ砕いて本でも出せばいいんじゃない?」
三船蒔苗の眉間がピクリと揺れた。
彼女は大きく振りかぶると、私のスマホを遠投する。
花壇のほうまで飛んで行った文明の利器は、レンガ造りのふちに激突して粉砕の憂き目にあった。
勢力を増してきた風と、三船蒔苗の荒れた息が満ちる。
「あのさ、三船さん。後で修理代と慰謝料請求していいかな」
「なんで?」
「あれは私のお金で買った、私の所有物だからだよ。大切な人からの連絡を楽しみにしていたのに、それを破壊されて気分を害した」
「私はゆずちゃんって当時のままで呼んでいるから、ゆずちゃんも私のことをマキちゃんって呼ぶべきだ」
「そこじゃなくて」
「うるさい」
低く重たい声が漏れる。
私は久々に嘆息にご登場願った。
ことここに至ってわかったことだが、私は話が通じないと殊の外いら立つようだ。
三船蒔苗は落ち着きなく手すりから背を離すと、放送コードに引っ掛かりそうな罵詈雑言を吐き散らしながら蹴りつける。
老朽化も甚だしい手すりはくわえられる衝撃を受け止めきれず、頼りなげにたわむ。
「なんなの、なんなのゆずちゃん。どうして私がここにやってきたのかわからないの。ゆずちゃんがいるからだよ」
「そんな堂々とストーカーを宣言されても困るな」
「ふざけないでよ。あの日あの時……すべてが終わった日! カレーの、日。
私、なんで笑ったかわかる? ゆずちゃんは助けてくれるって思った。どんな時も私はゆずちゃんと一緒だった。
ゆずちゃんを愛していた、大好きだった、ずっと前から、ずっとずっと犯したかった!」
「そうなんだ」
三船蒔苗とマキちゃんとが重なった。私がどうしてマキちゃんに優しくしていたのか、それをこの少女はまるで理解していない。
ため息が漏れそうになって、強引に喉奥へ押し込む。記念すべき陽菜の作品公開日だというのに、ため息が多くなるのはよくないことだろう。
「そうなんだって……」
三船蒔苗の声音が震えていて、今にも打ち砕かれそうだ。
「こういうこと言いたくないけどさ」
私はそんな目をまっすぐ見つめながら、
「それって、自分の失敗を私に押し付けているだけじゃないかな。君の人生の責任を負ってくれって頼まれても、私には無理だよ」
「なん、で」
「好きな人がいて、その人とずっと一緒にいたいんだ。邪魔されたくない」
「身勝手だ、人のことを不幸にしておいて、自分だけ勝手に幸せになるつもりなんだ!」
「身勝手だって言ってもさ、勝手に救ってくれるって期待した三船さんも人のことを言えないと思うんだけど」
何気なく放ったその一言が、三船蒔苗の大切な何かを打ち砕いた。
彼女はわなわなと下あごを震わせる。
それは悪趣味な骸骨が揺れているようで、私はマキシマムザホルモンのプロモーションビデオを連想した。
「死ねよ」
「なんで私が君のために死なないといけないのかな」
「死ねよ! お前のっ、お前のせいで私の人生台無しだ! 感情がないのか! 心がないのか! あぁ!?」
十数分雨に打たれているから、さすがに寒くなってきた。葉子達に言った仮病が、くしくも現実となりそうだ。
「そんなに生きるのが嫌なら! そんなに考えるのが嫌なら死ねよ! そこから飛び降りてさぁ! 人のこと不幸にして! それを正当化してるくらいなら! 死ねよ! 死ねっ! 死ね!」
こんなに激しい言葉を口にしてなお、三船蒔苗は私に掴みかかってこようとはしない。
陽菜がもし三船蒔苗の立場にいたら、きっと私はもう殺されている。首を絞められてか、それとも突き落とされてかは知らないが。
なんとなくむなしい気持ちになった。私にしては珍しく、それがどういうところから沸き上がった感情なのかさっぱりわからなかった。
「そんなに人生が嫌なら、君が死ねばいいよ」
「え」
「私、関心のない人のために死んであげられるほど人間ができてないから、言っても無意味だし。これ以上君がつらい思いをするくらいなら、ここで終わりにしたほうが建設的だと思うな」
「ゆずちゃん……?」
「マキちゃんに興味ないよ、私」
三船蒔苗は凄絶な表情を浮かべ、やがて地面にへたり込んだ。
やがてふらふらと立ち上がる。
私とすれ違う。病院みたいな悪臭が鼻をついた。
どうするのか見守っていると、彼女は向こう側の手すりを乗り越えると、あっけなく落下した。
雨音にまぎれて、小さく水風船が破裂するような音が鳴った。
悲鳴がとどろいた。
見下ろしてみると、真っ赤な血だまりができている。
不運なことに、野次馬の一人と目があった。ささやきが伝播して、私のことを指さす輩まで現れ始める。
その中に、陽菜がいた。
ああ、人込みの中にいても、その柔和な微笑みは黄金に縁どられたように輝いている。あの少女がどんな絵を描いたのだろう。
きっと私たち以外は嫌悪感のあまり顔をしかめてしまうようなものに違いない。
陽菜は私に向けて手を振ってきたので、こちらも微笑しながら振り返した。
人込みから警察という単語があふれ出した。
構うものかと思った。陽菜は悠然と校舎の中へ戻っていったので、合流するべく、私も屋上を後にした。
「ゆずりは」
「ん?」
「あの人、殺しちゃったんですか?」
「んー、まあ、状況だけみたらそうなるかな。厳密には自殺教唆とか、そういうところ」
「……」
「あれ、どうして不機嫌なのかな」
「わかっているくせに、ゆずりはいじわるです」
「あはは。うん、別にそういう感情は一切ないから、そんな不安にならなくてもいいよ」
「……はい」
「そんなことより、陽菜の描いた絵が見たいな」
「ちょっと、画壇の人たちには酷評されちゃいましたけど」
「うん。なんだろうな、私だけが価値をわかっているとか、そういう方が嬉しいかな」
「そういうものですか?」
「陽菜も同じ、いや、一緒でしょ?」
「かもしれません、ふふ」
「やっぱり、笑うとかわいいね」
「え、あ」
「普段は陽菜ばっかりふいうちしてくるから、たまには意趣返ししないとウソだよ」
「ゆずりは、卑怯です」
「そうだね。私は卑怯だ」
「でも、ゆずりはが卑怯でよかったです」
「そうなの?」
「……自殺教唆の刑期って、どれくらいになりますか?」
「ちょっと待って。調べてみる。あ、しまった。スマホ壊されちゃってさ」
「だから、電話通じなかったんですか」
「ごめん」
「では、こうしましょう」
「え?」
「ゆずりはが出てくるまで、わたしは待っています。お金はいっぱいありますから、もう働かなくたって生きていけます」
「それは理想的な環境だね」
「はい。それで、ゆずりはが出てきたら、まずはパスポートを取得しましょう。それで空気の綺麗で、人の少ないところまでお引っ越しするんです」
「……外国語、英語しかできないけど」
「あ、平気です。英語、今は通じないところのほうが少ないですから」
「そういう陽菜は英語喋れるの?」
「ゆずりはがいるので平気です」
「いや、それはどうなの……」
「そこは、えっと……はい。ともかく、ともかくです! そうしたらわたしが描いた絵を一緒に見ましょう!」
「なるほど。素敵なプランだね」
「はい!」
「……」
「……あのさ」
「はい?」
「私は、冷たい人間だと思う?」
「……」
「どうかな」
陽菜はそこで立ち止まった。躍るように翻る。花のように、太陽のように、曇天の世界に差し込んだ、一筋の光のように。
「ゆずりはは、優しいです」
私はしばらく黙った。パトカーのサイレンが聞こえる。近づいてくる強面の教師が見える。制服姿の警察の面々は、手錠を握っている。
私は陽菜に向けて笑った。
「やっぱり、優しいのは陽菜だよ」
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