陽菜さえいれば私は

「ねえ葉子」

「んー?」


 翌日。葉子は話しかけてきた私を珍しげに振り返る。トランプの相手をしていた淫乱院櫻子も、どこか愉快そうな目つきをしていた。


「あのさ、ゴールデンウィークはどこか出かけてたけど、夏休みもどこか行くの?」

「淫乱院さんによります。彼女のさじ加減です」


「あら、わたくしはよろしくてよ? 葉子やしずまと共に当家の保有する山野へレジャーに赴こうと考えていましたの。

 街灯りから離れた自然の中で見上げる星空は絶景ですわ。天体観測のできる展望台も存在しまして、月のクレーターを楽しむことも可能です」


「なに、天野。別人格でも芽生えた?」


 私は視線を窓際へやった。陽菜が落ち着きなく私たちの方をちらちら見ている。葉子はそれだけであらかた理解できたようだ。完成したフルハウスを机に叩き付けながら、


「淫乱院さん、天野さんの他に、海原さんも参加してもよろしいでしょうか」


「ええ、ええ! 構いませんわ! ああ、席を並べる学友たちと共に自然と触れ合い、その妙味を噛み締め、世界に対する理解を深め、絆を育み合う……まさしく青春ではありませんの! 今から待ちきれません!」


 淫乱院櫻子は演技がかった口調で天を仰いだ。陽菜は心配そうな眼差しを私へ注いだが、オーバーリアクションなだけで葉子よりはるかに善性の人だと思う。私は平気だという意図を込めて、苦笑と共に頷いておいた。


 そこへ水島しずまが登校してきたので、さっさと退散することにする。


「じゃあ、天野と海原も参加ってことで」

「うん。よろしく」

「……でも、何だって突然そんな?」


 口調とは裏腹に、葉子の目は笑っていた。こいつは私より頭がいいから、考えていることなどすべてお見通しなのだろう。それでもあえて尋ねるのは、性根が悪いと言うほかない。私は三度手のひらを返した。


 答えを渋っていると水島しずまが近づいてきた。若干頼りなげな目で私と葉子を交互に見る。


 ここで明確な答えを言っておかないと、葉子はなんだかんだと理由をつけて、私たちの参加を拒むかもしれない。


 始まりがこいつであったことを思えば、全て手の平の上ということだってあり得てしまうのが、佐藤葉子の厄介なところである。単純な損得とは別の次元で行動していそうだと、葉子なら納得できてしまう。


 私は詰まる声を何とか押し出しながら、たどたどしく話した。


「……陽菜に」

「海原に?」

「家族、みたいな思い出を与えるのが……っていうか、家族の代わりになるのが、私の役割かなって」


「あらま、同級生に向けて抱く使命感じゃないね」

「うるさい。ともかくそういうことだからよろしく」

「あいよー」


 葉子は手をひらひらさせながら、水島しずまを加えてポーカーを再スタートする。淫乱院櫻子は今度こそ葉子に勝つべく、身を乗り出してカードを手に取っていた。


 陽菜の告白を受けた後、長い沈黙を経てそのまま解散になった。圧倒的な現実を前にしてどういう反応をするべきなのか、人生経験が不足している私にはまるでわからなかったのだ。


 いつものようにベッドに横たわりながら陽菜のことを考えていた。粘着質な罪悪感にまみれて、はっきりと安心が萌しているのがわかる。長らく抱えてきた絵に共感できるのなら誰でもいいのではないかという疑念が、ようやく収束したからだ。


「……」


 自分がこれまでにないほど赤面しているのは、顔がちりちり焼けているのでわかった。そればかりか心臓も不整脈が如きビートを刻んで、ただでさえ不安定な私に揺さぶりをかける。美術館で陽菜と触れ合った際に沸いた感情と、今抱き締めている安心感は似ていた。


「私」


 きっと人間を憎んでいる。忌むべき、唾棄すべき存在として、近づかれることを恐れているのだ。


 それにも関わらずどうして陽菜の申し出を受け入れたのか。どうして陽菜の力になりたいと感じていたのか。


「陽菜のことが好きだ」


 口に出してみれば、思ったより単純明快な理由だった。


 好きだから嫉妬するし、力になりたいと思う。外見の中に自分を潜ませたいからヘアピンをプレゼントしたし、わざわざ二階堂深月をカラオケに誘って陽菜の断片を得たのだ。


 女の子を、とか、そういうのはさほど気にならなかった。むしろ反社会的な方が自分たちに適しているとさえ思える。それに陽菜の独創的な世界にあてはめるのなら、死体同士なのだから、現実の風潮についてなど勘案する必要なんてないのだ。


 あの娘が望むのなら、私は家族にでもなんだってなってやろう。


 そうして誰かを幸せにできるのなら、きっとそれこそ天野楪が生まれてきた意味。マキちゃんが傷ついたことも、ここに至るまでの道のりとして昇華することができるのだから。


 スマホを手に取った。


「また泊まりに行っていい?」


 そうメッセージを送ると、ほどなくして返事が届いた。


「はあ、だいzうbです」


 誤字が酷くて、どれだけ動揺したのかがありありとうかがえた。心が温かくなった。


 ごめんね。マキちゃん。


 ラリーをかわしながら、いよいよ手放そうとする。


 私はマキちゃんのためには生きれないよ。


 さよなら。


 ※ ※ ※


 陽菜の部屋で過ごした休日が明け、今年も体育祭が巡ってきた。


 広々としたグラウンドはサッカーのように人工芝に覆われていて、勢いを増した陽光を健康的に弾いていた。半袖の体操着でいても寒さを感じない。


 六月中旬となると、もう夏の片足を入れた時期だ。気の早いことにもう海開きをした所もあると聞いた。


 昨年度のこの日は何をしていたのか思い出そうとするが、そこだけ抉られたように記憶がない。恐らく無関心だったのだろう。


 クラスメイトたちは浮足立っているが、運動がそこまで得意ではない私にとっては醜態を晒さないか不安で仕方がない。ララリアは公明正大の園なので、むしろ同情的に見られるだろう。それもそれで幼いプライドが傷つくので御免こうむりたい。


 そういう心理に従って、私はすっかり仮病モードへ突入し、どういう口実を用意するのかあれこれ考えを巡らせているのだった。


 よく顔色が悪いと指摘されるのでそれを活かさない手はない。緊張が祟って帰宅を勧められるほど悪化してしまったことにしよう。


 表面上は真面目な私だから、あくまで参加したいという意思を見せれば信じ込ませるのはたやすい。


 方針が固まり、おのずから思考はその次へと移行する。

 さて、仮病をしたとしてどうやって時間を潰そうか。


 寮の天井はぼーっと眺めていられるほど面白みのあるものではないし、読書は何となく気分じゃなかった。


 行き場を失った私が漂着するのは、言うまでもなく海原陽菜だ。彼女とおよそ二か月程度一緒にいたことになるが、彼女も運動を不得手としているのは明白だった。


「……」


 ピノキオをかどわかそうとしている、悪い狼みたいだ。私は自分の行動を自嘲する。


 けれど割合自分勝手なところのある陽菜だ。これまで何度か振り回されたのだから、私が彼女を連れ出してもいいじゃないかという気持ちがある。


 なにより、出来るだけ長い時間陽菜と一緒にいたかった。陽菜の執着する『一緒』に、私も惹かれつつあった。


 特別寮の文化生といえども体育祭への参加は免れないみたいだ。体操服姿の陽菜は干からびた夏野菜のようにシナシナになりながら、我がクラスの陣地に座っていた。人口密度が高いので目も据わっていた。


「陽菜」

「……あ、ゆず、りは」


 陽菜は顔を上げる。隣で談笑していたクラスメイトが一瞥をくれた。睨み返したかったが笑顔を維持するよう努めた。


「まだ開催まで時間あるしさ、ジュースでも買いに行かない?」

「喉、渇いてないです」

「いいじゃん」

「……ここじゃ言い辛いことですか?」


 やはりこの娘は察しがいい。正解と微笑むと、陽菜はゆっくりと立ち上がった。


 しかし膝が崩れる。かねてから運動不足で、緊張もあったのだろう。手を差し出すと、陽菜はおずおずとその手を取った。細い指先はどこか火照っていた。その手を引く。彼女はいつかのようにつんのめりながらついて来た。


 グラウンドから離れ中庭の辺りまで来ると、流石に人の姿も減った。陽菜は胸を撫で下ろす。


「ゆずりは。それで話って」

「このままサボっちゃおうか」

「……え?」


 ポカンと口を開く陽菜。何となく指を突っ込みたくなる。


「陽菜も憂鬱だし、私も参加したくない」

「ですけど……迷惑かかっちゃいますし」

「保健室で仮病を装おうよ。そうすれば無断でいなくなるよりいくらかマシだと思う」


 陽菜の目が怪しみに細まった。


 次いでいつもの考え込む表情に変わる。


 頭の中でカチカチと演算機が回っているのだろうと笑った。だから陽菜との会話はいつも独特のテンポで繰り広げられる。


 やがて答えが導き出されたようで、陽菜は食い気味に言った。


「もしかして、わたしのためですか?」

「どうしてそう思うの?」

「だっ、て……あの、わたしの昔話を打ち明けた、ばかりですし、その、ゆずりはって優しいから、もしかするとわたしの欲求を満たそうと発起したのではないか、と」

「違うよ?」

「へぇ? あ……ちがう、んですか」


 がっくりと肩を落とす陽菜を前に、私は笑いを堪えるのに精一杯だった。


 まあ陽菜の推測は当たっている。確かに陽菜と時間を共有したいと願う根源には、彼女の重たい過去はがっちりと絡んでいた。


 ただ違うというのもまた間違いではない。そこは私由来の成分で象られている。


「体育祭でバトン繋いだりするより、陽菜と話していたかったんだ」


 自覚したとはいえ話すと多少の恥ずかしさがまとわりついてくるものだ。


「ダメかな?」


 私はかゆい頬をポリポリと掻きながら笑った。


 すると「ぐぇ」私の胸の質量が飛び込んできた。陽菜の荒い息遣いが胸の中でこだましている。背中に回された手は痛いくらい私を拘束していた。頭が左右に揺れて、動物の求愛行動みたいに鼻先が何度もこすりつけられる。


 持ちあがった前髪に変わらずヘアピンがついていた。


 私が抱き返すか否かを逡巡している内に陽菜は離れてしまう。少しの名残惜しさが浮遊するが、しかし抱き合っている姿をクラスメイトにでも目撃されれば謂れなき風評が飛び交うかもしれないので深追いは禁物。今さらながら結構な賭けだった。


 際限なく頬をくすぐるピンク色の空気が漂い、若者とは馴染みの薄い性質の沈黙が覆いかぶさった。このままではよくない。私は意識して声量を上げた。


「じゃあ保健室行こうか」

「そ、そうですね!」


 陽菜は何度も私の胸をチラチラ見ながら、また忙しなく頷いた。



 そろそろ老境に差し掛かろうとする保険医は、外面だけはいい私と、元引きこもりだった陽菜の組み合わせを見て、仮病を疑いなく信じ込んだ。


 気温は急上昇し、グラウンドの片隅を陣取る仮設テントの中にいても汗ばむほどだった。


 その後、ララリア建学の精神でもある自主性とかを持ち出して単独行動を勝ち取ることに成功。会話は苦手だが、あれやこれやとそれらしい言葉を並べ立てることは得意だった。


 とはいえ裏手の街には生徒の父兄らで稠密を極めている。自然と私たちの爪先は校内の方へ向いた。いくら一般開放されている日といえども、流石に校内および寮内への立ち入りは厳禁されている。


 万が一に備えて保健室には保険係が待機しているので、私たちの行動範囲はおのずから文化棟に限定された。


 陽菜は引きこもってこそいたが、こうして直接サボタージュするのは初めてなのだろう。いつもより落ち着きなく視線を撒き散らしている。そのせいかまた柱と衝突事故を起こしそうになっていた。


 抱き合った際の動揺が尾を引いているのだろう。陽菜は積極的に責めてくるくせに、いざやり返されるのに弱いという難儀な性格をしていた。


「気を付けなきゃ危ないよ?」

「……ぅ、すみません」


 陽菜は肩を落とす。伸びるのが早い前髪が顔面にどっさり覆いかぶさって、また貞子みたいになっていた。思わず吹き出してしまい、可愛らしく睨まれた。


 しかし。こうして陽菜と校内を歩く機会は少なかった。それについて特別な理由は思い当らないが、何となく衆人環視の目が光る中で並ぶことに、言い知れぬ恐怖があったのかもしれない。


 だからこそ陽菜といる間は、穏やかであれたのかと推測する。


 確かに彼女の一挙手一投足に神経をすり減らしたり、不快感を与えないよう気を張ったりしている部分はあるのだろう。ただそれは、傷つけまいという気遣いから生まれたもので、私を疲れさせる煩雑とは無関係の場所にあった。


 私はいつにも増して縮こまった陽菜を見やりながら、ひとつの思いつきを得ていた。精妙な線を描き出し、繊細な色彩で染め上げる、細い指先。それらが強烈な存在感を放って私の目に飛び込んできた。


 ひと気が失せ、窓から差し込む日差しは静かに埃を弾いていた。響くのは二人分の足跡だけで、黙示録の嵐を生き残ったのが私たちだけなのだという恥ずかしい妄想が浮かんだ。


 つないでみようかな。


 これまで何度か手をつないだ。けれど、それらはいずれも場の流れというか、ともかくそういう意思とかとかけ離れた領域で為し遂げられた行いであると思う。自主的にするのとでは、太陽と月くらい意味合いが異なってくるはずだ。


 陽菜は間違いなく私を嫌っていないと断言することはできた。また身体的な接触に嫌悪感を抱く性質じゃないと、これまでの行いが証明している。


 つまり私がおもむろに細い指先を握りしめたとして、陽菜はまごまごしながらもつなぎ返してくれるだろう。


 いや、でも。かつてマキちゃん用だった被害妄想回路が威勢よく飛び出し活動を再開。陽菜が私に向ける好意は、私が自覚してしまった好意とは毛色が異なる気がする。


 陽菜はどちらかといえば親戚の子どもが叔父や叔母へ向けるような、幼さを含んだ好意なのでは。


 つまり私がそれを利用するということは、姪っ子へ邪まな視線を向けるヘンタイ共と同列に堕すこととなってしまう……。


「あいたっ」

「ゆ、ゆずりはっ!」


 そんなことを考えていたからか、柱の角に頭をぶつけた。陽菜のよりつくりが単純だからか、幸いにもちょっと赤くなる程度で済んだ。


「……」

「……」

「……気を付けないと、だ、ダメ、ですよ?」

「うん……」


 顔から火が出る、を通り越して、もはや明暦の大火が如き有様だった。


 両手で顔を隠すとクスクスと笑い声だけしっかり聞こえてきて、火の手は隅田川を超えた。


 陽菜に勉強を追い越されても悔しさを感じなかったのに。どうやら私のプライドは変なところに居を構えているらしい。


 すっかり優勢に立った陽菜は朗らかに笑った。


「ゆずりは、も、あの、あまりこういうことしない……ですよね?」

「やめて、やめて。恥ずかしい」

「緊張しているの、一緒ですね」


 きっと原因は違うけどね。言いかけた言葉を飲み込んで、何とか苦笑を象った。

 むしろ、いい機会だ。天の配剤とはこのことか。


 私はゆっくりと手を差し出した。


「じゃあ、さ。もう今後こういうミスしないように。なんだろ、こうやって二人で確かめ合っていればさ、不注意とかも減るだろうし」


 言い終わった直後、羞恥やら後悔やら恐怖やらをミックスした感情の波がやって来た。不安定な私は呆気なく波間に消えて、指向性の暴力にもみくちゃにされてわけがわからなくなるのである。


 陽菜は無言だった。どういう顔をしているのか、今の私には到底確認できそうにない。


 二人分の足音だけが厳かに降り積もるなか、クスリと雪解けのような笑みが聞こえた。


「ゆずりは、どうしちゃったんですか?」

「どうもしてない、けど」

「嘘を吐くとき、ゆずりは、そっぽ向く癖があります」

「っ……そうなんだ。じゃあ、なにかあったのんだろうね。あの、心境の変化とか」


 ヘタレな私がもにょもにょと遠回りの道を辿っていると、陽菜は眉を曇らせる。熟考の顔。


「おーい、誰かいるのか?」


 私たちはほぼ同時に飛び上がった。


 何故失念していたのだろう。

 体育祭で人手が必要とはいえ、校内を空にしておくはずがない。


 しかもここは由緒正しきララリア女学院文化棟である。


 重要な文化財があるのではと睨んだ不届き者が、慌ただしさに乗じて窃盗を目論んでいないとも限らない。


「陽菜、こっち」


 いち早く冷静さを取り戻した私は、陽菜の手を取ってそこの教室に入った。


 入れ違いの形で、硬い足跡が階段を昇ってくる。廊下まで出てきた。陽菜は未だ混乱から立ち直れず、呼吸を整えるので精いっぱいだ。


 空き教室は長らく使われていないらしく埃っぽかったが、反面椅子や机が乱雑に積み上がっているということもなかった。仕方なく窓の下に並んで座り込み、やり過ごそうと試みる。


 そこでハッとなる。咄嗟に手をつないでからそのままだ。陽菜は見ているこっちが酔いそうな勢いで視線を撒き散らす。手に対して何か所感があるとは見受けられなかった。単に気付いてないだけかもしれない。


 心臓が否応なく加速していく。メーターはレッドゾーンへ突入し、マシーン全体が軋むようなおたけびを上げている。つまり嬉しさ半分緊張半分だった。


 そうこうしている間に足音は教室前で止まった。扉の開閉なども手抜かりなく元通りにしてあるので、外見上の違和感はないはずだ。


 しかしネズミが教室へ逃げ込んだと推理することは容易なので、入って来られると万事休すである。


「生徒かー? サボりかー?」


 あらゆる意味合いで追いつめられた私だが、その衝動を吐き出すことも叶わず、破裂寸前の炉心の如く危なげな微動を繰り返す。


 つまり拍動に合わせて肩口からビクリと震える。


 たちどころに精神病院の一室と誤解されかねない様相を呈した。


「どうかなさいましたか?」


 怪奇多動症の実態は冷然とした一声で終わりを告げた。立てつけの悪い扉を無理やり開ける音と共に、冷然とした声が現れる。陽菜は膝立ちになった。


「二階堂じゃないか。どうしたんだ」

「美術室にいたことからお察し願います。口にするのはプライドが許しませんので」

「ああ……そういえば、次の試験で夏休み、それ明けたらもう文化祭か」

「新島先生に不参加の許可はとってあります」

「そういうことだったか。頑張れよ、お前は我が校の誇りだからな」

「いえ……私にはおこがましい限りです。その称号は海原さんにこそ相応しいものと」


 窓枠に手をかけて覗いていた陽菜が、ゆっくりと戻ってきた。既に震えは収まっていた。


「本当に海原が好きだなぁ……あいつ、もう描かないだろ」

「描きます」


 遠慮なく降り注ぐ断言。陽菜の握力がほんのわずか強まった。


「天野と遊び呆けていると聞くが」

「天野さんは若者らしく狭い視野で自己完結する方ですが、愚かではありません。私に出来なかったことを、きっと為し遂げてくれるかと」

「……そうか。まあ、なんだ。俺は部外者だから内情はよくわからんが、上手くいくといいな。お前も海原も」

「ええ」


 そうして二階堂深月は美術室へ、巡回していた教師は向かいの階段へと消えていった。


 私はなんとなく、二階堂深月は私たちの存在に気付いていたのではないかと疑った。自分が面と向かって激励することは陽菜にとって逆効果にしかならないから、間に教師を挟んで本心を述懐したのだ。


 もしこの推理が当たっていれば、二階堂深月とは残忍な気性の持ち主なのかもしれない。


 あるいは底抜けの不器用なのか。どちらにせよ、陽菜にとっては酷なことだろう。絵を描くという行いが、かつての自分への逃避行動でしかない以上、それを肯定されるということは、今を生きる海原陽菜を否定することにつながってしまう。


 ふと肩に重みを感じた。陽菜が頭を預けてきたのだ。それは飢えを紛らわすためすがりつくようにも、また心を癒やす行為とも取れた。


 正直なところ、どちらでも構わなかった。


 グラウンドから歓声が聞こえてくる。二階堂深月がイーゼルを交換したのか、少し大きめの物音が鳴った。しかしそれら森羅万象に遍く物音が、まるで水の中で耳を澄ませるかのごとく、別世界の出来事だと感じられた。


「二階堂さんが」


 陽菜は小さく切り出した。「わたし以外の希望を、見つけられれば、いいんですけど」


「それは二階堂深月の課題だよ」

「……ですね。申し訳ない、ですけど。わたしが、彼女にしてあげられることはない、です」


 話の終わりを見計らっていたように、昼休みのチャイムが鳴った。グラウンドの歓声が止んでも、美術室の扉が開く気配はなかった。


 私が立ち上がろうとすると、右手の先に陽菜がいるのを思い出した。さっきまであれほど意識していたにも関わらず、二階堂深月の介入ですっかり忘れてしまっていたようだ。


 今さらのように恥ずかしさがぶり返してきた。陽菜も引き上げられるように立ち上がって、向き合ったまま手をつないでいるという奇妙な構図が出来上がる。


「どうしましょう……?」


 赤い顔のままはにかむ。形式こそ尋ねてきている形だが、どうしたいのかは手に取るようにわかった。


 というのも、私と同じような煩悶を経由しているのだと直感したからだ。押し寄せた喜びの波を見聞しようにも追いつかないので放置して、「じゃあこのままで」と何とか言い切った。笑顔の花が咲いた。


 二階堂深月は生きている。


 きっとこの先、栄転に恵まれるに違いない。彼女は陽菜への信仰とうそぶいたが、その実芸術そのものに魅了されているのだろう。


 情熱なくして、骨身を捧げることなどできない。才能の芽は着々と育って行き、やがて芸術の神の下へ届くはずだ。


 手をつないだまま、私たちは階段を駆け下りた。それは退廃への下り坂であるかのように思えた。


 そう言えば私の当初の目標は、陽菜に絵を描かせて社会へ復帰させることだった。けれど今となっては奈辺にあるやらハッキリしない。


 陽菜が留年して学校をやめることになったら、私も付き添おうと決意している。


 陽菜が社会に嫌気が差して命を絶つようなら、共に飛び降りようと考えている。


 空っぽだった天野楪の中には、今や陽菜でいっぱいだった。


 ※ ※ ※


 不況と嘆かれて久しい我が国だが、それでもあるところには金がある。


 期末テストをつつがなく終え夏休みに突入した私たちは、淫乱院家の持ち物だというスニッカーズみたいなリムジンに揺られながら、一路長野へ向かっていた。


 白樺湖周辺に土地を保有しているらしく、バーベキューを囲ったり釣りを楽しんだりするそうだ。近辺に御小屋之久保遺跡も存在しているので、宿題の『学術的な自由研究』とやらの題材にもうってつけとのこと。


 さて、リムジンは全部で四シート並んでいて、運転席にはいわゆる「爺や」が座り、うつらうつらとハンドルを切っていた。不安は尽きないが繰り出されるアイドリングは見事なもので、長い車体を難なく操っているのだった。


 私たちの前の席では葉子と愉快な仲間達が大三角形を形成し、和気藹々と大富豪に興じていた。最後尾に私と陽菜が並んで座る。彼女は画材一式が詰め込まれた鞄を大事そうに抱えていた。


 絵は遅々として進んでいなかった。私は、建前上進捗は気にしなくてもいいと勧めたけど、「その、ゆずりはと自然に触れると、なにか掴めるかもしれないので」とのことらしい。


 ついキャラに違って小躍りしてしまいそうになったが、寸前で堪えた私の自制心に拍手を送りたい。


 高速道路を下りると、景色から灰色が消え失せた。むせ返るほどの緑色は私のような都会に生息する生き物にとって縁遠いものだ。目の前のデネブアルタイルベガは雄大な自然に目もくれず、マイペースにカードゲームに没頭していた。恐らく去年も見たからだろう。


 陽菜はというと、どこか遠い眼差しで過ぎ行く景色に見入っている。


 幼少期の話を思い出した。


 緑色の線となって背後へ消え去っていく中に、陽菜にとって生きていた頃を見出しているのかもしれない。


 だから私は何も言わないまま、窓に頭をもたれかからせていた。


 トランプの参加を断わるんじゃなかったと後悔し出すが、今さら言い出すのも格好悪いので。退屈をどうにか殺そうと思案を巡らせる。


 そうしているうちに車は速度を落とした。前方を見やれば、何やら広々としたパーキングエリアがあった。緑豊かな景観のなかで、白亜の人工物は浮き上がって見える。


 どうやら淫乱院家の所有地のようで、白樺湖の一辺をまるごと避暑地へとしてしまったようだ。向こう側には背の高いロッジがそびえていた。避暑地と聞いてイメージする、水辺とロッジそのままだ。これらが丸ごと一家の所有物なんてとても信じられない。


 漫画の中でしかお目に描かれないような豪快な金持ちぶりに思わず澄ました横顔を眺めやる。当の本人は連敗を喫しているみたいで、不機嫌そうに頬を脹らませていた。


「えーっと、なんだったかしら。一部屋にみなさんで布団を敷き、枕を並べて眠るのです。なんだったかしら葉子」

「雑魚寝です」

「そう、ザコネですわ! それぞれに部屋を割り与えるよりも風情があるでしょう?」


 というお嬢様の発案によって、寝室はバスケくらいなら楽しめそうな大部屋に決まった。中央に囲炉裏でも設ければ時代劇の舞台にも流用できそうだ。


 それぞれの陣地も無事決まり、私たちは車座になって今後の予定を話し合うことにした。淫乱院家のメイドがしずしずと部屋に入って来て、私たちの前にお茶を並べて回った。ご丁寧にもメイドは和服で、やっぱり時代劇の感が否めない。


「あの、あたし釣りやってみたいなって……」


 水島しずまがおずおずと手を上げる。


「釣り? しずまって釣り好きだったっけ?」

「いや、そんなんじゃないけど……でも、あたしたち都会に住んでるわけだし、女子だし、こういう場でもなければ釣りとかやらないじゃない?」

「なるほど、一理ありますわ。昨年度は葉子さん発案のロケット花火を無差別に白樺湖へ発射していたら日が暮れていましたものね」


「いや、言い出したのしずまだし」

「あっ、あたしはただ、葉子が『クマとか出てこないかな。撃ち殺してやるのに』って言ったから! お願い叶えたら喜んでもらえるかなって……!」

「えっ、あっ、うん……」


 思わぬ一撃に葉子は照れ臭そうにそっぽを向く。


 水島しずまも自らの発言がどういう結果をもたらしたか自覚したようで、非常に居心地悪そうにまごまごしていた。そんな微笑ましい一幕に、淫乱院櫻子が上品に笑う。


「ふふ、ではみなさまで釣りへと興じましょうか」

「いやなんですかその含み在りそうな笑み」

「仲良きことは美しき哉、です。青・春・銀・河スイッチオンですわ」

「ちょいちょいちょい待ちやがれ縦ロール」


 自然な流れで葉子と縦ロールが取っ組み合いを始めてしまう。


 水島しずまに期待の眼差しを送るが、彼女は急に熱でも出たのか赤い顔でうわごとをぶつぶつ連ねているため使い物にならなかった。


「私たちはどうする? このままだと葉子たちの釣りに強制連行されるだろうけど」

 ぼうと成り行きに任せていた陽菜に尋ねた。私はともかく、絵を描くための道具を携えている陽菜は遊びに来たわけではないだろう。

「……へ?」


 急に意識を取り戻したように陽菜は素っ頓狂な声をあげる。寝ていたのか。


「長旅で疲れた? 休む?」

「あ、い、え、ご心配なく」

「そっか、わかった。でも苦しいなら無理せずに言うようにお願い。陽菜に倒れられると私も気が気じゃないから」

「……あはは、ゆずりは、この間から何だか心配性ですね」

「そうかな」


 一瞬、言うべきか言わざるべきかと逡巡が起こった。遠くから蝉の輪唱が聞こえ、日本家屋風の大きな窓からは、枯山水を思わせる庭が見渡せた。鋭いがどこかのどかな夏の日差しを受け、敷石が照り映えている。


 三人衆はしばらく動きそうにない。私はだらしなく畳に身を横たえた。天井はララリアのとも実家のそれとも違う。知らない場所で、隣に陽菜がいるというのは、私をどうしようもなくじれったい気分にさせた。


 結局、迷っている間に取っ組み合いは終わって、私たちはメイド(というより女中)に連れられて桟橋へと向かった。


 道中、陽菜との間には心地の良い無言が横たわっていた。何となく相手の心中を察したからこそ起こる状態だ。機運が熟したという予感があった。さっきの陽菜が何を眺めていたのかを思い出し、それが照れる水島しずまだということに気付いた。


 横目で陽菜をうかがうが、多人数と関わる時はそうであるように、能面のような無表情を保っている。


 こういう部分で、この娘は私よりも強いと思う。関心がないことを率直に示せるのは孤高である。我々は共同体に組み込まれて生まれ、その枠組みで生涯を過ごす。社会のシステムもそうあるように設定されているので、そこからあぶれるというのはとても生き辛くなるのと同義だ。


 私は罪人の分際で村八分を恐れていたから、好奇心旺盛で、人付き合いを好む社会的な人物を演じてきた。そのスタンスを流体と呼称し、液状化していく精神を他人事のように眺めてきたのだ。


 陽菜は違う。彼女は誰よりもつながりを求める癖に、その性質にはどこまでもこだわり尽くす。

 

 それは取りも直さず人と人との関わりを選別するということで、当然あらゆる方面から顰蹙ひんしゃくを買うだろう。


 彼女はそれを恐れてはいないように見えた。復学直後には心無い推論を口にする厚顔無恥な輩も数多くいたが、その一切に気を留めていなかったのだ。


 その全てが天野楪に帰結すると考えると、なんと光栄なことだろう。


 私は自分を無価値だと思っていた。


 三船蒔苗を身勝手な理由で見捨て、今なおその罪業を受けていない唾棄すべき存在であると。


 だからこそ、彼女がいとおしいと感じるのだ。


 空が高い。


 葉子たちが釣竿と餌を借り受けて、陽菜が隣で眠たそうに目をしばたかせている。

 うん。


 決めた。


 その決断を下すと、これまで抱えていた荷物を放り投げたかのように、すっと気持ちが軽やかになった。


 私は何事に関しても難しく考えすぎる。


 これまでの陽菜の態度から察するに、失敗する可能性は限りなく低い。そして成功した場合のデメリットも、私たちを取り巻く環境においては無いに等しいのだ。それでいいじゃないか。


 水辺で水切りに手頃な石を探していると、受付を済ませた葉子が近づいてきた。


「へい御両人。釣竿はいるかい?」

「いるに決まってるじゃん」


 葉子から釣竿をふんだくると、何故か奪い返してきた。態度が悪かったのか。


 反省して恭しく受け取ると、葉子は靴を舐めろと言わんばかりに傲然ごうぜんと胸を張った。なんか頭に来たのでみぞおちをチョップしておいた。


「天野はともかく海原って釣りしたことあんの?」


 まさか葉子から話しかけられるとは想像もしなかったのだろう。陽菜は可哀想なほど肩をびくつかせて、小動物の如く私の背へと隠れた。誤解されがちだが陽菜の吃音症や対人恐怖はまるで治っていない。


「あれー……あの時は会話できたんだけどなぁ……傷付くなぁ」

「あ、いえ……葉子、さんが、嫌な、わけじゃ」

「あの時ってなに?」

「あ、天野が感情むき出しにしてる。こっわ、刺されるわ」

「刺さないよ。私を基地の外の人だと思っているのか」

「うん」


 即答されたので多少は落ち込んだ。


 葉子は松本人志みたくケラケラ笑いながら桟橋の方へ駆けていく。ボートの支度は整ったようで、水島しずまの手引きを受けながら淫乱院櫻子がオレンジ色のライフジャケットを着ていた。


「陽菜って釣りしたことあるの?」


 葉子の質問を引き継いだが、返ってきたのはその答えじゃなかった。

 背中から出てきた陽菜は期待するような眼差しで、


「……そ、の、ゆずりは、感情をむき出しにって」

「う」

「葉子さんと話したこと……嫉妬、してくれたんですか?」

「それは……なんだろ、お互いさまじゃないかな? 陽菜だって私が二階堂深月と会話したこと、気に食わなかったみたいだし」

「時系列的には、ゆずりはの方が先です」

「それはそうだけど」


 陽菜は軽やかに私の前に躍り出て、密やかに美しい花が咲くような笑顔を見せた。


「あの、ゆずりは。ゆずりはを描いても、いいですか?」


 足が止まる。言っている意味がよくわからなかった。さして面白みのない我が面貌へ指を指す。


「描くって、私を? 文化祭の出し物にするってことかな」

「肖像権が適応されますから、そういうのはダメです。その、私個人が描きたい欲求を演繹えんえき的に俯瞰した結果得られた故に起こった情動で」

「小難しい単語並べて誤魔化さない。私を描いてもあまり面白くないと思うけどな」

「そんなことないです!」


 陽菜が上げた大声に、桟橋の三人も振り向く。面々は困惑を露わにするが、葉子だけは事情を理解しているようで口元を抑えてぷるぷると震えていた。


 そんな背後などどこ吹く風で陽菜は力説する。


「その気怠そうな目つきはヴィルヘルム・ハンマースホイの人物画のようで、静寂に沈んだ暗闇のなか、一点だけ妖しい輝きを放つ彼の妻イーダにも匹敵します! でも笑うととても可憐で、わたしにとってソフィー・アンダーソンのキジバトを抱いた少女を上回るほど愛らしく映るんです! それだけじゃありません。ルノワールのように儚く、モイズ・キスリングのようにアンニュイながら、その深奥には慈愛に満ちた陳珮怡が引く輪郭のような、そっけない風を装った温かみ溢れるものが多く埋蔵してあります! 何より、ゆずりはは優しいんです。優しいけど優しくしたらいけないと思い込んで、勝手に自分を傷つけるんです。そういうジャン・オノレ・フラゴナールの読書する少女のような孤独で繊細なところがゆずりはなんです。だから、つまらないなんて言わないでください。わたし怒りますよ!」


「……そ、そんなに描きたいんだ」

「もちろんです!」


 まくし立てた内容の大半は理解できなかったが、陽菜が自分なりに精いっぱい伝えようとしてくれていることは痛いほど感じられた。


 私に対して大分言葉を獲得した陽菜だが、それでも会話のテンポが遅いのは紛れない事実だ。


 そんな陽菜が自分の世界から素敵だと思うものを手繰り寄せ、私を表現する形容詞にしてくれた。胸の中がいっぱいになった。

 被写体になる報酬を、こんなに多くもらってしまっていいのだろうかと不安になる。


「友情ですわね……なんて言えばいいのでかしら葉子」

「てぇてぇ」

「てぇてぇ」


 違うと思う。


「あれって友情っていうか執着じゃないですか……」

「しずまさんも似たようなものではありませんの? 仲良きことは美しき哉、ですわ」

「えっ、あたしそんなんじゃないですって!」

「あーまあ、なんだ。うん、私も別にそんなんじゃないし」

「あっ、ちがっちががががが違うのよ!? あの言葉の綾というか認識の齟齬というか、無視しないでよ葉子ぉー!」


 削岩機の物まねをする水島しずまは、ツーンとそっぽを向いた葉子の周辺をぐるぐるしている。


 そんな賑やかな一幕を満足げに見つめ、淫乱院櫻子はウィンクを寄越してくる。どこで習ったのかサムズアップのオマケ付きだった。


 陽菜が照れ臭そうにまごまごして、私は顔を見せないよう軽い会釈でその場を離れた。


 桟橋でライフジャケットを受け取ってからボートに乗る。ボートと言ってもカヤックを強化したようなもので、操舵役の侍従も含め六人もいると流石に手狭だった。


「さて、この中に釣り経験者はいますかね」


 葉子が挙手するように促すと、応じたのは水島しずまただ一人だった。


「引きこもってた時期に、ニンテンドーのゲームでやったことある」

「素ぅ晴らしい! それなら私も経験がある! じゃあ釣り経験者は二人ってことになるね!」

「悪かったわよ……」


 結局別にレジャー目的だからそこまで本格的にやらなくても良いのではないかということで、各人うろ覚えの知識で釣り糸を垂らすことになった。


 餌はジャイアントワームのなりそこないみたいな奴を覚悟していたのだが、存外イクラだったので拍子抜けだ。


 しかしYoutubeで動画を見ている限りでも、そんな創作物のように次から次へ大漁というのはあり得ない。


 釣りの基本は待つことで、極意もまた待ちである。恰幅のいいユーチューバーがドヤ顔で語っていたので信憑性は抜群だ。


 太陽がてっぺんへ昇っていくに連れ、日差しは勢力を増していく。


 こんな場所に陽菜を置いておいたら道端のミミズみたいに干からびてしまうのではないか。


 実際陽菜は目が据わっていて、浅く揺れる船体に合わせてうつらうつら船を漕いでいた。


 憂慮し出した頃、浜辺の方から近寄ってきたもう一艘が、私たちのボートへクーラーボックスを積んでくれた。


 中には大量のアクエリアスが入っている。すかさず陽菜へ手渡すと、死にかけの老婆みたいな動きで受け取った。


「平気?」

「あついです……」


 アル中もかくや。手の震えに抗ってキャップを取り外した陽菜は、そのまま豪快にラッパ飲みを披露しようとする。


 だが元から小食の女の子がそんな暴挙に耐えられるはずもなく、盛大にむせこんでしまった。湖にいくつもの波紋が起こった。


「戻ろうか」

「え……いえ、その、まだ」

「私も一緒についていくから。私を描きたいんでしょ? だったらここで熱射病くらうのは賢いとは言えないな」

「……ぅう、でも」


 陽菜にしては珍しくふくれっ面で直接不服を伝えてくる。


 こうやってアクティブに行動する機会は今後ないかもしれない。だから私としてもここにいさせてやりたいのは山々だ。


 しかし陽菜がぶっ倒れるまで放置するのも気が咎める。熱中症の後遺症で真っ当な生活を送れなくなった実例があるのだ。


 そこで一つの案が浮かんだ。しかしこれを具申した所で、お前の準備不足だと一蹴されるかもしれない。


 葉子たちは肯定的にせよ否定的にせよ呑んでくれると理解しているが、それでも勇気は必要だった。


 暫時、陽菜とくだらない自尊心が秤にかかり、陽菜の皿が地面をぶち抜いて地殻を木端微塵に打ち砕いた。


「ちょっと葉子」

「あー? なにー?」

「陽菜がヤバいかも。一端戻らせて」

「おー」


 葉子は釣竿をぶらぶらさせながら、淫乱院櫻子を向く。陽菜はおっかなそうに私と葉子を交互に見ていた。


「ヘイ淫乱院さん、構いませんか?」

「まあ! 海原さん体調が優れませんの? これは一大事ですわ! すぐにでも当家専属の医師に掛からねば!」


「医師免許を不当に剥奪された闇医者を特別に雇ったとかそういう経緯ですか?」

「剥奪されるなら相応の理由がありますわ。如何なる事情にせよ信用問題の関係上責任ある立場へ置いておくことはできません」


「正論で返されるとは思わなかったわ」


 淫乱院櫻子は立ち上がり、操縦室で烏龍茶を飲んでいた初老へ戻るよう指示を飛ばす。葉子は気怠そうに首を鳴らし、水島しずまは慌てて引き上げたものだから服に釣り針が引っかかっていた。


 ほどなくして船首はゆっくりと旋回し始めた。民営のロッジに停まるワンボックスから家族が降りてくるのが見えた。


「すみません……」


 陽菜は肩身が狭そうに頭を下げる。


「謝らないでくださいまし。気温の上昇を予測できなかったわたくしの不手際ですわ」

「お腹も減ってきたしちょうどいいタイミングだったから、気にしないでいいわよ」

「ではみなさんでかき氷の実食と致しましょうか。すぐさま用意させますわ」

「ねえしずま。ブルーハワイってなんだろう」

「さあ……着色したソーダじゃないの?」


 さして気に留めた様子もない面々を見渡して、陽菜は少し涙ぐんだ。


 気遣いに触れ、なんらかの感銘を受けたのだろう。そのことに私は少しもやもやしたけれど、まあ後に陽菜は私を描いてくれる。面倒くさい独占欲はその時たっぷり満たせばいい。


「陽菜は気にし過ぎだよ。たぶん葉子はよっぽどのことしない限り怒らない」


 なにより。


「気にし過ぎは、ゆずりはもですよ」


 私は陽菜の笑顔も好きだ。

 遠い青空。お城のような入道雲がそびえていた。

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