わたしがしねばよかった
物心ついた時から絵が上手かった。幼稚園で金賞を取ったことがあるくらいだ。
中でも模写は群を抜いていて、お父さんはよく「写真みたいだ」と笑っていたのを思い出す。お母さんは真剣にわたしを将来絵に携わらせようと考えていたようだ。とにかく描いた傍から褒めてもらえるものだから、わたしの技術はどんどん高まって行った。
機能不全家庭が半ば常識と化してきた社会の中で、海原家はずいぶん穏和な一家だったと思う。お父さんもお母さん両人が、人格・収入ともに安定していたのが理由だったのか。ともかくいつも笑い声が絶えなかった。温かかった。
週に一度はどこかへ出かけた。バックミラー辺りに擦り傷のあるハイエースに、大きなキャンバスと絵筆一式を詰め込んで。
「いい加減修理したいなぁ」
「すればいいじゃない」
「そんなことしたら陽菜が絵、描けないだろ。ダメだろ」
「よくわからない腕時計とか全部売れば、もう一台買えるんじゃないの?」
「勘弁してくれ」
そんなことを毎回していたのを思い出す。お母さんは笑っていた。わたしも意味はよくわからなかったけど、きっと面白いんだと思い、空気にあてられ笑っていた。
遊園地に行ってジェットコースターを描いた。観覧車を描いた。長年の傷でチャックの露出した着ぐるみのキャストも模写をした。遊園地が催した「ちちのひ~おとうさんをかこう!」みたいなものに参加して、見事金賞に輝いた。
子ども科学館へも行ったし、牧場で動く動物を描いてみたりした。悠然とした風に吹かれながら絶えず動く被写体を描くのは、わたしの筆先に刺激を与え、更に磨きをかけてくれた。
わたしの子ども時代はこうして絵と共にあった。厳密に言えば、絵と結び付けられた家族と共にあった。
楪も感じている通り、今のわたしは吃音症を患っている。それだけじゃない。きっと精査していけば、叩けば出てくる埃のように社会不適合者の証拠が次々出土するのだろう。
もちろん、輝かしい子ども時代はそうだったわけじゃない。頭や感性は前からズレていたかもしれないけれど、それでも対人に恐怖を感じるような内向性とはかけ離れていた。信じられないかもしれないが、知らない人に声をかけることだってできたのだ。
それがどうしてこんなにも矮小に縮んでいってしまったのか、それは一つの事件が皮切りになっている。
千葉県の辺りでとある事件があった。今でも調べれば出てくると思う。当時はそれなりに大事件として誌面を騒がせたから。
平たく言えばわたしは誘拐されたのだ。それも並大抵の誘拐ではない。一家揃って攫われたのだから、もはや拉致という言葉の方が相応しいだろう。賑やかな夕食を囲っていると、突如として窓が割れ、筒みたいなものが投げ込まれた。
その筒から煙が凄まじい勢いで吹き出し、辺り一帯を包み込んだことまでは覚えている。多分、睡眠ガスとかそういう類のものだったのだろう。
わたしが目を覚ますと暗い部屋にいた。手足は縛られていて身動きがとれなかった。口から鼻にかけてガムテープみたいなものが張られていて、辛うじて呼吸が出来るような状態だった。
部屋は薄暗く底冷えする地下室と聞いて思い浮かべるイメージそのものだった。壁紙さえ貼られていない、コンクリートがむき出しの寒々しい一室だ。
中央には背もたれが向かい合う形で二脚の椅子が並べられていた。もう想像がついただろう。わたしと同じように拘束された両親がそこに座らせられていたのだ。
二人とも意識はないみたいだった。
わたしは何とか二人を起こしてこの場から脱出しようと試みたが、しかし何者かもそう簡単に抜け出せるようにはしないだろう。
わたしを縛り上げるロープは柱と結ばれていて、いくらもがいても血が滲むだけだった。口をふさがれた状態で大声を上げるのは困難だった。
痛みのあまり滲んだ涙が渇くくらいになって、ドアが数度ノックされた。
「起きていますか?」
間延びした、とてもこの状況に似つかわしくない呑気な声だった。
ゆっくりとドアが開き、現れたのは化粧気のない女だ。
薄いフレームのメガネや、長さの合っていない袖からうだつの上がらない雰囲気が醸し出されていた。そこまで優れた人間だとは思えなかった。それが逆に言い知れない不安感を逆なでした。
「あ、おはよう。海原陽菜ちゃん、だよね?」
どうして名前を知っているのかとか、お前は誰だとかさまざまな疑問が込み上げたが、わたしは頷くことも首を振ることもできなかった。
すると頬に鋭い痛みが走った。叩かれたのだとすぐに気付いた。
「返事して欲しいな。海原陽菜ちゃんだよね」
実体を伴った痛みが恐怖心を加速させた。
返事をしないと殺されるような気さえした。わたしはうまく身動きが取れない首を、何度も何度も縦に振った。するとその女はにっこりと笑った。地味だが整った顔立ちをしていることがわかった。
「よかったー。あのね、お姉さんちょっと心理学研究しててさ、あるデータがとりたかったの。ごめんね?」
彼女は黙ったので、反応をする必要があると悟った。必死に頷くたび、身体が僅かながら動いてしまい、手首や足首の皮膚が擦り切れる痛みが走った。
「うーん、でも厳密には心理学とは違うかも。まあいいや」
わたしの目線に合うよう屈みこんでいた女は立ち上がり、両手を広げて両親の椅子を示した。タイミングを合わせるようにスポットライトが二人を照らした。
「えーっと、まずこの二人はもう死んでいます」
世界全体が停止したのかと錯覚をした。
頭の回転が止まるのを自覚するという奇妙な感覚を得る。呆然としていると爪先が顎へ飛んできて、口の中に血の味が滲む。
我
に返った
。返って
しまった
わたしを
認めて、女は
身振り手振り話を
続ける。
「九相図ってあるじゃない? 坊さんから性欲なくすために、美人の死体が腐っていくところを微に入り細を穿って描いた絵。あれやってみようと思ってさ。君たち絵に描いたような幸せ美男美女家族だから、お手頃かなって。あ、絵と絵でかかってるね。おもしろ」
女はわたしの頭上辺りに鍵を挿した後、身体を軽く押した。どういう仕組みか背の辺りがひっくり返る。奥の小部屋へとつながるギミックが隠されていたようだ。
小部屋からはちょうど両親の様子が確認できるようになっていた。九相図。美人の死体が腐っていく。
まさかと最悪の想像が脳裏を貫いた。女はニヤニヤとしたままわたしを見ている。
「点滴があるから栄養失調で死ぬことはないよ。室温も適切に保ってあるから安心して」
女は出て行った。鍵をかける音が静かに、しかし重苦しい響きとしてわたしの下へ届いた。
取り乱す余裕さえなく、これから待ち受ける定めに現実感が失われた。壁に頭を叩きつけてみる。
確かな痛みは、これが覚めない悪夢であることを厳かに告げていた。
恐らく一晩経ったと思しきタイミングで、小部屋の壁が外され、そこから伸びた手に点滴を注射された。
ストローのような管を伝って、半透明の液体が足首から静脈へ流れ込んで来ている。まるで毒を流し込まれているようだった。
始めはまだ両親が生きているものだと思っていた。女を出し抜くタイミングを見計らって、警察を呼び、わたしをここから連れ出してくれるものだと期待していたのだ。
それは理論的に導かれる現実の認識から逃れるための妄想だったが、しかし数時間はそれにすがることができていた。わたしの眼精は両親の腕に浮かび上がったまだら模様を死斑として捉えていたにも関わらず。
少し意識を失い、やがてぴちゃんぴちゃんという水音で目を覚ました。
両親の足元が何やら光を弾いていたことがわかった。赤黒い、少し粘性を持った、嫌な感じの液体だ。
それはお父さんの腹から垂れているものだった。白いティーシャツのわき腹付近が黒々と染まり、水を吸い過ぎた雑巾から一滴ずつ滴るように、ぴちゃん、と鳴る。
同時に下腹部へ違和感が訪れる。今思えば高カロリーの静脈点滴を流し込まれたことによる反応だったのだが、その時のわたしは吐き気と混同してしまっていた。喉元まで熱が込み上げたが、口元を強固に覆うガムテープに阻まれて吐き出すことができない。
消化しかかった食べ物だったものが舌の上を滑り、繊細な感覚を刺激する。
吐き出せない以上、口内に溜めていては呼吸ができないので、わたしは自らの吐瀉物を飲み込むしかなかった。
屈辱と悲しみと嫌悪と憎しみはあっという間に幼い心の喫水線を上回り、わけもわからず涙が零れた。
下腹部から起こった腐敗は、死後三十時間を超えたあたりで全身へ広がり始める。まず縛られていた手首から先がうっ血し、落ちた。
ぽとりという呆気ない音がした。お母さんの右手首はわたしの方へ向けられていた。断面図から数本の血管が垂れ下がり、その先から間断なく血液が流れ出ていた。嗚咽は更に大きくなり、呼吸困難による酸欠で何度も意識を失った。
時間感覚が消失した。今が今日なのか昨日なのか区別がつかなくなって、思考することが段々と億劫になる。
糞尿はそのまませざるを得なかった。下着から凄まじい悪臭が漂って、ガムテープの間と呼吸器の間を縫って侵入してくる。
わたしは目先の感情を処理することよりも、何とか吐き気を堪える術を学ばねばならなかった。
エコノミークラス症候群で膝が痛み出した。
屈伸をするくらいのスペースは確保されていたので、小刻みな運動を繰り返して激痛をやり過ごした。
身体を動かすたびにお尻から太ももにかけてぐちょりとした感触が伝わる。
それに対して何かを感じるより早く、わたしは楽しかった日々のことを思い出さなければならない。
そうしないと何か致命的なものが根元から折れてしまいそうだった。
両親の腐敗は大分進んでいた。
ときおり視界の端をハエらしき羽虫がかすめるようになった。臭気は何も自分の排泄物のみならず、両親からも発せられているものだった。
長い間身体を洗っていない動物のような、あるいは夏場の生ゴミのような、そんな臭い。もう胃は空っぽだったから、込み上げるものは胃液しかなかった。
くらくらする。まるでスクランブル交差点の真ん中に、熱中症のまま立ち尽くしているようだ。
腐敗がお母さんの首の筋肉にまで達したのか、渇いた柔軟剤をスリッパで踏んだ時のような音を立てて、顔がこちらへ向けられた。スポットライトは依然として照らされたままで、一度も消されていなかった。
女が評した通り、お母さんは娘のわたしから見ても美しかったと思う。すっと切れた目には少し低い鼻先が却って愛嬌を添えていた。唇はふっくらとしていて瑞々しく、笑うと左の笑窪だけ現れるのが妙に印象的だった。
だから左目が零れたそれは、お母さんの面貌とは一致しなかった。
皮膚は醜く爛れていて、腐った野菜と大して差がない。
体内からのガスで顔全体が膨れ上がっている。ところどころ膨張に耐え切れなかった皮膚が裂けて、艶やかな表情筋が覗いていた。
唇の一部が欠損し、歯茎が露出している。歯周病を思わせる状態にあって、今や歯を固定することも難しそうな容態だ。
死にたいと
猛烈に願った。
壁に頭を打ち付け続ければ死ねるかもしれない。そんなわたしの動きを見越したように、また壁が開かれて、女の手が伸びて、わたしをがんじがらめに固定する。
お父さんのジーンズもろとも、ムカデが突き出てくるのを認めた時、わたしは狂おしいほど頭部への刺激に憧れた。
死ぬということはなんと素晴らしいのだろうと考えた。そして未だ生きている自分が惨めに思えて、わたしを置いて行った両親が憎らしく感じ始めた。
この感情が湧き出た瞬間、わたしは社会に順応する能力を完全に喪ったのだと思う。
お父さんのティーシャツが始めは白かったなんて、説明しても誰一人信じないだろう。
くずくずの肉に塗れたそれは、高級なソーセージを包むオブラートのように見えた。はち切れんばかりの肉を何とか包み込んでいるのだ。
ガスによって二人はもはや両親ではなくなっていた。ただの融解しかかった肉の塊でしかなくなっていた。
わたしは落ち着きがなく全身をがくがく痙攣させながら、何度も死のうと試みていた。いや、もう死ぬことさえもどうでもよかったのかもしれない。
ただ動いていたかった。そこに理由が介在する余地はない。動いている間だけ、何かから解放されているような気がした。
これは今でも治らない。わたしは多動症を患っている。じっとしていることが苦痛なのだ。このことが原因だった。
地獄の終わりは唐突に訪れた。
乗り込んできた警察の人たちによって、汚物まみれのわたしは拾い上げられた。よく覚えていないけれど、口元のガムテープが剥がされた瞬間、喉が壊れそうな絶叫をあげたらしい。
女は死んだらしかった。ワープロで百二十枚にも渡るレポートを書き上げ、自室で首を吊っているのが発見されたらしい。
おかしくなっていたわたしは親戚にも忌避されて、何とか復帰施設みたいなところへ入れられた、らしい。らしいというのはこの頃の記憶はないからだ。そこでわたしがどういう風に正気を取り戻せたのかはわからない。
ただ、広い空間を異様に怖がったこと、屈伸運動へ異様な執着があったこと、固形物が喉を通らなかったこと、眠ろうとすると泣きだしてしまうから軽い睡眠薬に頼らざるを得なかったこと、そして言葉を上手く発音できなくなっていたということ。そんな状態にあったらしかった。
自分が海原陽菜だと思い出せるようになるころには、わたしは小学校高学年くらいになっていた。
ただ、やっぱり学校で集団生活を送ることは困難だった。ふとした拍子で叫び出してしまい、およそ授業にならないからだ。
体重が十五キロも落ちていた。元からやせ気味だった体格が、骨がうっすらと浮かぶほどになっていた。
わたしは一人だった。施設にいた折、頭髪を引き千切ろうとする衝動があったようなので、頭は修行僧みたいにツルツルに丸められていた。鏡に映る自分が別人のように思えた。尋常じゃない眼差しをしていた。
現実逃避の手段が早急に求められ、すぐに絵に行きついた。
いつの間にか画壇の人たちに認められて、わたしは天才画家としてもてはやされるようになっていた。
信じられないくらいのお金が入ってきた。わたしを忌避した親戚たちが甘やかしてくれるようになった。
けれどわたしにとって絵画とは、幼少期の猿真似でしかなかった。
海原陽菜はもう死んだのだ。
今のここにいるわたしは、彼女が成長した姿を模しただけの物体でしかない。
※ ※ ※
私は我が身が浅ましく卑賤なもののように感じ、この場にとどまることに羞恥を覚えた。
陽菜の話は想像を遥かに超えていた。彼女が語る言葉は現実に起こった出来事ではなく、悪趣味なスプラッタ映画のあらすじを諳んじているように聞こえる。
何より恐ろしいのは、陽菜の表情がいつもとそう変わらなかったということだ。彼女は陰惨という言葉すら生ぬるいこの経験を、既に消化してしまっているのだ。
陽菜の部屋に、だんだんと私の形跡が残るようになっていた。例えば彼女はゴミ出しが億劫みたいで、気付いたらゴミ袋がうず高く積まれている。
これらを処分するのは私だ。
他にも、陽菜はよく私に泊まっていくように頼む。だから洗面台の戸棚には私用の歯ブラシが突き刺さっている。
これほど陽菜に密着していたにも関わらず、その奥に潜む闇をまるで推し量ることができなかった。
両親と何らかのいざこざがあるか、悪くても病気や事故で死に別れているという常識的なラインに存在する事象であるとタカを括っていたのだ。
これまでの行いが走馬灯のように脳裏を駆け巡った。
私は陽菜に向かって親の愚痴を吐かなかったか、私は自らが世界で一番不幸だと陶酔し、腐り果てる肉親を目の当たりにした彼女の前で、あろうことか悲劇の人であるかのように振る舞わなかったか。
悪辣の浅瀬にくるぶしまで浸した程度で、私は陽菜と同等の存在になれたように錯覚していた。彼女の全てを理解できるのはこの世界でただ一人私だけなのだと、精神障碍者の誇大妄想にも等しい思い込みをしていた。
なんという恥知らずなのだろう。世間を知らない子供そのものだ。自分の悲劇に陶酔し、周りから目を背け続ける、手の付けようもないクズだ。
自責の念から逃れられない私を見ても、陽菜は諦めたように笑っているだけだった。
その笑顔に至るまで、どれほどの激痛があったのかを想像しようとして、でも人から逃げてきた私に他人の痛みなど思い描けるはずがなくて、歯がゆさと罪悪感が両肩に圧し掛かる。
「……ごめん、なんて言ったらいいのかわからない」
「……何か、言ってもらいたいわけじゃないですから」
「でも」
私は陽菜の友達だから。そう続けようとして、その資格が自分にあるのか怪しく思う。真直ぐ向き合うことが難しくなった。膝の上で両手が拳を作っているのがわかった。
「ゆずりは、やっぱり、優しいです」
反射的に面を上げる。
「陽菜はそればっかり言うね」
「本当のこと、じゃないですか」
「私には陽菜のことがわからないよ」
「どうしてですか?」
「どうしてって……だって私は陽菜の気持ちが想像できない。嫌でも親を思い出すのに絵にすがろうとしたことも、全部わからないよ。
それで、なんで羊を描いたのかもわからなくなった。陽菜と一緒になれない私には、陽菜の隣にいる意味があるのかな」
言葉を一言紡ぐたびに、目頭が段々と熱を帯びていく。これでは立場が逆だ。本当に泣きたいのは陽菜なはずなのに、どうして私が泣きそうになっている。こんな無様はあってはならないと理性が押しとどめようとするけど、嗚咽は堰を切ったように止まらなかった。
これまで手の平にあったと思いあがっていたのは幻想で、実際には砂をすくったように指と指の合間からすり抜けていくだけだったのだ。マキちゃんが想起する。また取りこぼす。今度こそ流体は死に絶える。
「不幸に
「え?」
「……わたしの不幸も、ゆずりはの不幸も、おんなじです。だからわたしはゆずりはと一緒にいたいし、傍にいて欲しいです」
この娘は何を言っているのだろう。
「それは理論的に破綻している。転んで擦りむくことと、暴漢にナイフで刺されることを同列に語れるはずがない」
「ゆずりはは理屈っぽいですね」
陽菜は口元に指を宛がい、クスリと笑う。
その唇はさっきまで血と肉について語っていたものだった。
しかし今は私の性質について話している。彼女は一度死んだと言った。自分には何もないのだと言った。
私は真っ当に生きていくことを許されないと感じていた。
結果的にマキちゃんを切り捨てた身で、一人で幸せになることは非情であり薄情だ。だから命が終わるその時まで、一人で苦しみ続けるのが義務だと考えていた。
それはつまるところ、死だ。人は生まれたからには幸せになりたいと考える。だからこそ修練に励むのだし、優れたパートナーを探すのだし、社会の上を目指すのだ。それを放棄し、自制することは果たして生きていると言えるのだろうか。
私は今の今まで海原陽菜の真意を読み違えていたことを自覚した。家族という埋めがたい穴を補填しようと私を求めていたのかと思った。けれどそうではない。陽菜が必要としたのは死人で、求めていたのは共に墓穴へ入ることだった。
それは字義通りの死ではない。
私たちが歩むこんにちは社会というカテゴリーの中で生きる生命で、その細胞群たる我々は活かすために働かねばならない。社会を衰えさせる細胞は癌性と見做され、排除される。そういう人たちがさまざまな場所で白眼視と差別を受けていることを、知識だけでは知っている。
彼らはもう、ビルゲイツが如き栄光を手にすることは不可能だろう。人間も時間も才能も能力も行動も何もかもが有限で、その大多数を損じてしまった彼らは、芳醇な社会から滴る汁を貪るように舐めながら、何とか永らえるしかない。
先の死と、合致する。
退廃の彼方。明日への希望も、将来への期待も、自分への信頼も、切り離された世界。健康な世界から難色を示される地の底の監獄。
陽菜は死人として、私は罪人として。
つまりはそういうことだったのだ。
陽菜が文化祭に提出する絵で苦戦していた理由がわかった。
やる気もなくずるずると机に向かっていても大した成果を出せないように、陽菜の目的は私が出現した時点で達成されていたのだ。
彼女にとって絵画とは、死んだ自分を真似ていたに過ぎないのだから。
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