第10話
「……デートかな?」
陽菜の喜びようは、まさしくデートの約束を取り付けることができたと説明されても納得してしまうほどだった。
私は逡巡するも、まあいいやとスマホをベッドへ放る。別にあの子の友情がピンクに変色しようが構わないという投げやりな思いがあった。どの道私が陽菜に依存している事実に変わりない。
何はともあれ渡りに船だったのは確かだ。ぼうとしていたらマキちゃんへの懸念と二階堂深月への言葉にならない感情が混じりあい、居た堪れない気持ちに追いやられてしまう。
実体のないものに拘泥することは底なしの沼に沈んでいくようなもので、誰も幸せになれやしないということは、度重なる発作で身に染みていた。
その夜は数日ぶりによく寝付けた。夢さえ見ない深い眠りだった。瞼を閉じても尚飛び込んでくる朝日で目を覚ますと、時刻はまだ六時を回ってすぐだった。ルームメイトの唸るような寝息が聞こえてくる。
財布片手に物音を立てないよう部屋を後にし、寮の前の自販機でカフェラテを買った。キャッチコピーがクリーミーな甘いひと時にも関わらず、私の味覚にとっては苦い時間だ。舌打ちしてラッパ飲みすると、「あ」そいつは水島しずまだった。
「……おはよう」
「え、あ、うん。おはよう」
たどたどしい挨拶を言い交しながら彼女の装いを検める。
上下は黒に赤のラインが走ったジャージ。首にはタオル。手にはSFの万能デバイスみたいなデザインの時計が巻かれている。
「ランニングでも始めるの?」
「いや、あたしリレーの選手だって。同じクラスじゃない」
体育祭では各クラスから数人リレーの選手を抜擢することになっていた。マキちゃん襲来に思い悩んで外界からの刺激をシャットアウトしていたから、多分聞き逃していたのだろう。別に聴いていた所で私にはそう関係のない話だ。
朝日で洗い流されたように清潔な敷地内を一とおり見回す。彼女らも選出されたのだろう、ランニングに精を出す人影が結構認められた。電線にとまってやかましくさえずっていた小鳥が飛び去っていった。
「そっか。頑張ってね。応援はするから」
「うん」
軽い柔軟で膝を慣らした後、安定したラップで足音を刻む。結構堂に入っていたので感心して過ぎ行く背中を眺めていると、踵を返してこっちに戻ってきた。
「忘れ物?」
「あんたに」
「私に?」
眉根を寄せる。水島しずまは少し身を竦ませたが、気を取り直して切り出した。
「天野さ、海原と仲良いわよね」
「うん、まあ、そうなんだろうね」
「伝言なんだけど」
「直接伝えればいいのに」
「あたし、多分海原とは反りが合わないと思うから。天野は葉子曰くベストマッチらしいし」
知人にそう評されている事実に照れが生まれ、私は電線の方へ目を逸らした。「あんたも結構わかりやすいわね」水島しずまが吹き出す。軽く睨むとまたたじろいだ。こいつもわかりやすい部類は入ると思う。
「お姉ちゃんが言ってたんだけど、海原が画家やっていた時期に懇意になった人がいるんだって」
「陽菜は今も画家だよ」
「なんでそこでキレるのよ……。まあいいや、その人が文化祭にまたやって来るって」
私が思い出したものは引き寄せの法則という眉唾ものの話だった。二階堂深月の『告解』からマキちゃんが前とは異なる存在感を放って私の中に居座っていたのは前述の通りだ。もしかするとそれが、偶然を必然に変えてしまったのかもしれない。
あるいは私はマキちゃんと対峙せねばならない宿命に産まれたのかもしれない。
そんな非科学的な妄想が生まれた。
「その人の名前は?」
「三船
「……娘さんの名前は?」
頭に募る焦燥感とは裏腹に、私の心臓は水平線まで凪いでいた。
「三船蒔苗」
※ ※ ※
校門前の守衛さんに自分の名前を伝えると、彼は面倒くさそうな態度を隠そうともせず大きな門扉を開けてくれた。ララリアの校門はいつ向かい合っても巨大で、ドラゴンクエストの住人になったのかと錯覚してしまいそうだ。
バス停のベンチに座ってスマホを起動する。陽菜から何か通知が送られてきていないか期待するが、アプリは沈黙を保ったままだったので気落ちしてしまった。
待ち合わせの時間はLINEで送られてきた。
水島しずまを送り出した後、私は辺りをうろついた。何ならちょっと走ったりした。そうしなければ背中に張り付いたマキちゃんの幻覚が実体化して、私を頭から噛み砕いてしまいそうだったのだ。
しかし軽い運動をしたことでドーパミンが、また健康的に陽光を浴びてしまったことによってセロトニンが分泌され、より思考に歯止めが利かなくなってしまう。
空回りの末私は部屋に帰りつき、枕へ顔を埋めて全てを聞かなかったことにしようとした。普段は雑音としか感じられないルームメイトの大きな寝息も、今は唯一すがれる藁のように感じていた。
しかしパニック障害めいた過呼吸とか動悸はいつまで経っても訪れず、頭の中で広大無辺の荒野をぼんやり歩き続けるだけだった。
わかりやすく動揺するよりも苦しい時間だ。なんせ果てがないのだから、延々と同じところをループしている心地にさせられる。
そうこうしている内に時間が来てしまった。アラームががなり立て、ルームメイトの寝息が乱れる。枕元に嘆息を残してベッドから這い出た。
「あー……しおりぃ、うるさぁい……」
「誰だよ」
私を友達だと勘違いしているルームメイトを払いのける。
着替え、化粧と髪型を整えてから靴を履いた。心の中は土砂降りとはいかないけど、陽が遮られる程度には曇っていた。
そういえばどこへ行くかまるで聞いていなかった。私は陽菜の趣味を思い出そうとするも、そこで同じく無趣味の人間だと思い出して、少し気が晴れた。春先と比べて空は随分高くなり、夏が近い事を告げていた。
十分ほど待っていると待ち人がやって来た。時間より早いのにいる私の姿を認めて頬を綻ばせるのが見えた。陽菜の前髪にはちゃんとヘアピンがあって、出所不明の安心感で心が満たされた。
「……どうか、しました?」
「ああ、いや」
それらしいことではぐらかし、並んでベンチへ腰かけた。季節が本格的に推移しようとしている。
日が健康的な眩さを帯び始め、陽菜の肌の白さをより強調させる。妖精みたいだなと思うとこちらを向いたので、心臓がドキリと音を立てた。
「あの……どれくらい、待ちました?」
「ええ? ああ、うん。今来たとこ」
「そうですか。よかった……」
陽菜はほっと胸を撫で下ろす。
バスの到着までいくらか時間があった。「リサーチ不足でした」陽菜は困った風に笑う。
「そういえば、どこ行くの?」
「えーっと……これです」
学校へ持ってきているのと同じ鞄から、茶封筒を取り出した。中身はどうやら美術館のチケットのようだ。夕焼けを照らす水平線を背景に、白抜き文字でなんちゃら展と印刷してある。マキちゃんのことが脳裏を過ぎった。
「時々、届くんです」
陽菜の口ぶりはドミノピザやマクドナルドのチラシと同じくらいの感覚だった。
その口調にあてられたからか、自分がまるで動揺していないことに驚いた。咲子さんに連れられたマキちゃんと遭遇したらどうしようとか、そういう対処法はまるで頭にない。これまでの私を振りかえると防衛手段がないことを不安に思うはずなのに。
私は受け取ったチケットをひらひらさせる。
「このチケットってそれなりに値が張りそうだよね」
裏面を見ると¥2000と印刷してあった。二枚で四千円。学生の世界観だと大金だ。
「うーん……そういうの、ちょっとよくわからないです」
「まあ陽菜からしたらそうかも。無趣味だから、千円超える額払うとなると尻込みしちゃうなぁ」
「ゆずりはの家、裕福……でしたよね。お金に驕らないって、いいことだと思います。黄金の奴隷たる勿れ……です」
「陽菜って百田とか読むんだ」
「……出光です」
「いでみつ?」
陽菜はそれきり話を続けようとせず、遠くの木漏れ日をぼんやりながめるような、穏やかな笑みを浮かべていた。その意味を判じかねていると、坂を上るような走行音が聞こえてくる。
私たちは揃って立ち上がった。
今時バスを利用する人は少ないのか、休日の昼間だというのに二人並んで座ることができた。さっさとドアが閉まって、車体が緩やかに動き出す。舗装の荒い路面を踏むたびに、車内が小さく揺れる。
マキちゃんのことを忘れたわけではない。私は今でも変わらず悪人であるし、彼女を見捨てた罪は未来永劫背負っていかなければならないものだという考えは、変わることはないだろう。
しかし、小さな不安が滲む。このままマキちゃんが、ただ記憶の中にとどまるだけの存在になってしまうという不安だ。他の記憶と扱いが均等になって、ふと思い出して感傷に浸る材料になってしまうかもしれない。
自分でも説明がつかない衝動に駆られて、隣の手をそっと掴む。流れる景色を見ていた陽菜は、凄まじい速度で振り向いた。
「ゆ、ゆずっ……!?」
「……えーっと、嫌かな」
「あ、あぁぁ、いえいえいえいえ! もっと、どうぞ……! どうぞ!」
陽菜がどんどん身を詰めてくる。その勢いたるや、雪崩となって私に降りかかろうとしているみたいだ。鼻息が荒かったのでいつかのお泊り会を思い出した。また何かに嫉妬しているのだろうか。私は苦笑した。
美術館と聞いて何だか格調高雅な立派な建物を想像していたが、そこら辺の文化センターと同じような白い直方体がデンと置かれているだけだった。
客は老人の方々が多く、私たちのような若者は校外学習か修学旅行の中学生等くらいだ。受付のお姉さんから奇異と感心の入り混じった眼差しを受ける。見かけによらず豪胆な陽菜は平然としていた。
「陽菜……」
「はい?」
「手」
「はい」
手を持ち上げる。バスを降りてからもずっと繋がれたままだった。
「……その、こういう場は、どうかと思う」
女の子同士なんだし。その言葉は喉奥にしまい込む。
仲良しな学生していても違和感はないとよく聞くが、それだってファストフード店や31アイスクリーム店内での話だろう。こういう静かな場所で繋いだままなのは、明らかに違う意味合いを持つ。
ニュアンスを解した陽菜は少し頬を赤らめながらも、
「ゆ、ゆずりはから……です」
「いや、そうだけどさ」
「わ、わたしは応えました。ですから……今度はわたしが要求してもいいと思います」
「うぬぬ」
確かに筋は通っている。平等かつ公平な友人関係を構築する上で、貸や借りがフラットの状態が望ましいのは言うに及ばず。
それに、私自身もこうしていたかった。手を繋いでいると陽菜のことで頭がいっぱいになり、他の細々とした考えが入る余裕などなくなる。私の頭はいつだって無駄なことを考え過ぎる。その度に転んで怪我をする。阿呆の所業だ。
なにより陽菜がワガママを言うのは珍しい。先のバス内での一件を顧みても、何かしら不安に思うことがあるのは間違いないはずだ。
私は頬を舌先でつんつんしつつ、明後日の方向を見やりながら、振りほどこうとする手から力を抜いた。
「……ほら」
「ん、はい」
途端に沈黙が立ち込めた。何か話そうとするけれど、ララリアの外で陽菜とこういうことをしているという実感が襲い掛かり、口を上手い具合に開けない。空咳に似た音だけが出て、恥ずかしさだけが増していく。
でもうつむき加減で盗み見た陽菜の横顔はとても楽しそうだった。
最初に遊びに出かけた日も、こういう風に打ちのめされたことを思い出す。頭の中を旋回していた言葉が消え失せて、幸せに緩む口元から目が離せなくなってしまう。見上げる形になるから嫌でも陽菜の方が背の高いことを実感させられる。また落ち着かなくなる。
陽菜は私がプレゼントしたヘアピンを、わざわざ付けてきた。もう逃げ出したくなった。
デートという言葉が記憶から顔を出す。昨晩の推測で、記憶の履歴に残っていたようだ。
マキちゃんでは動じなくなっていた心が、閊えのとれた水車のように加速し出す。罪悪感がじんわりと浮き上るけれど、氾濫した感情に蹂躙されて見えなくなる。
陽菜。
「ゆずりは」
「うわひゃっ!?」
不意につつかれた猫のように飛び上がってしまった。突然の大声に、少ない客がこちらを睨んだ。私は愛想笑いを浮かべて頭を垂れた。
「大丈夫、ですか?」
「あうん、平気だから気にしないで。それで、なに?」
「……? えっと、お好きな絵のジャンルなどは、ありますか?」
陽菜が示した先には電光掲示板があった。二又に分岐する道の手前に置いてある。
「あの、今ピックアップされている画家さん、その、様々な技法やジャンルなどを貪欲に取り入れたスタイルが評価された方……でして。ですから、ゆずりはの好みに、合わせたい、です」
「あー」
少し考える。絵についてあらゆることが乏しい私には陽菜の画集しか出てこなかった。二階堂深月がいつくしむようになぞった、夕焼けの一枚だ。
「なんていうか、メランコリック? 情緒的っていうか、叙情的っていうか……ノスタルジーかな? そういう感じが好きかな」
「……」
「陽菜?」
「い、いま」
陽菜は唇を引っ込めて、歯を食いしばっているように見えた。
「二階堂さんのこと、考えましたよね?」
握力が少し強まる。突然の豹変に戸惑っていると、陽菜はこっちを向いた。瞳が少し潤んでいて、泣きそうなのを堪えているみたいだった。
「……ごめん」
何故謝ったのか。まるで浮気がばれたみたいだ。陽菜にとっては浮気なのかな。
「いま、は」
その陽菜は明らかに涙声だった。握力はますます強まって、このままだと私の手はギシギシ鳴りながら粉砕骨折してしまいそうである。
周囲からは狙い澄ましたかのようにひと気が失せていた。元から閑散としていた館内の一角に、私たちだけが残されている。
「わたしと、遊んでいます」
「う、うん」
「ですから……他の人のこと考えないで欲しい、です。ゆずりはだけとじゃないと嫌、です。ゆずりはと一緒で、同じがいいです。わたし、その、えっと、いぃぃまはゆずりはのことばかり考えていて、あの、ゆずりはは美術についてわからないことだからけだと言っていたので、ですからゆずりはを無理やり付きあわせて申し訳ないから、どういう風にしたら喜んでくれるのかって」
「わかった。うん、わかったから落ち着いて? ね?」
「で、でもっ! ゆずりは、二階堂さんとかのこと考えててっ、わたし、のこと嫌いですか? こんな風にゆずりはにベッタリしていて、その、自分じゃなにも出来ないから、気持ち悪いですか? もしかして、あの、ずっと気遣ってくれて……わたっ、わたわたわたしのっ独り相撲でっ!」
「やかましい落ち着け」
「あ、すみませんすみま」
それ以上何も言わせまいと、私は陽菜を強引に引き寄せた。
握力の割に力がないのか簡単にバランスが崩れる。
片手で陽菜の頭を撫でてやって、もう片方の手は背中に回してさする。
激しく波打つ心臓が直に伝わってきた。
「二階堂深月については、うん。ごめん。前にあの子とさ、陽菜の画集を一緒に見たことがあって、その時の絵を思い出してたんだ」
震えながら鼻をすする陽菜。私は合点がいっていた。
カラオケの際に陽菜はお手洗いへ向かい、その間に二階堂深月から侮辱についての経緯を聞いた。
しかしながらいくら腹具合がよくなかったにせよ、あれほど長い話をしている間戻ってこないというのはおかしい。時間を潰せそうなものは全部鞄の中だ。
陽菜はきっと、私と二階堂深月が自分の羊にまつわる話をしていたのを、聞いてしまったのだろう。だから私が二階堂深月について思考することが気に食わないし、際限なく不安を掻きたてられる。
だからバス内で私に迫ったのだ。僅かでも欠けた二人の時間を補填するように。
愛らしいと思った。
「というか気持ち悪いとか嫌いとか、そんな奴とは私そもそも関わらないよ。こうやって遊びに行くとかもってのほかだしさ」
「……ずりは」
「陽菜は、その……私の最低なこと聞いても、受け入れてくれた、よね。うん。凄く嬉しかったからさ。それもあるし、陽菜だし。どんなことしてても、まあ、知ったことじゃないから。陽菜は陽菜だし……ああ、私なに言いたいんだろ」
「はい……」
「信頼して欲しいな。今みたいに突然爆発されても、私としては面食らうだけだから」
胸の中で陽菜が小さく頷くのがわかった。頭を撫でると、くすぐったそうに身をよじる。小さく和やかな笑みが漏れた。
そこである直感が総身を貫いた。どうして陽菜がこんな風に甘えてくるのか。どうして陽菜が私の一番にこだわるのか。家族という言葉には、姉妹以外の解釈もすることができる。
いや、でも、そんな馬鹿な。
「あの……お友達の人、具合が悪いんですか?」
「え?」
そこで声が掛けられた。兄妹だろうか。人の良さそうな少年と、まだ中学生に上がったばかりと思しき女の子がそこにいた。
「南ちゃん、係の人呼んできてくれる?」
「うん」
「ああ、いえ。平気ですから」
走り去ろうとする女の子を呼び止める。少年は念押しに「いや、でも。お顔も赤いですし」困った。こいつは善人に分類される人間だ。私が不得意にする人種である。
焦った私は陽菜の肩を揺さぶる。
「陽菜、歩ける?」
「……は、はいぃ」
「行こう行こう。ノスタルジックなのどっち?」
「右……です」
「すみません。ご心配おかけしました。平気ですので、それじゃ」
少年は何か言おうとしたが、不思議そうに首を傾げるだけで追究しようとしなかった。助かる。なんせ私もキャパオーバー寸前だったから、下手に話しかけられるとうっかり暴発してしまいそうだった。
顔が自覚できるほど熱い。むしろ毛穴から変なエネルギーでも放出されているのか、顔中がちりちりして痛いくらいだった。
依然として陽菜と手は繋がれたままだった。この奇怪千万なエネルギーはきっとそこから流入されてきていて、徐々に私の自意識とか価値観とか、陽菜に対する感情とかを変質させていくに違いない。
それでも離そうとしないのは、私自身とっくにやられてしまっているからなのか。
ドビュッシーの月の光でも流せば様になりそうな館内を、私たちは早足に進んで行った。
※ ※ ※
出不精の二人が早足で歩いて体力が続くはずもない。私たちはコースから外れ、トイレ前のベンチで息を整えていた。
「……すみません、さっきは」
「いや、うん。もういいって」
「ですが」
「あー、却って思い出す方が恥ずかしいから。穏便に済んだからそれで手打ちに」
「……そうですか」
すげない言葉には、拗ねているような調子が宿っていた。
陽菜はさっきからこの様子である。私に意識して欲しいのかそうでないのか、たぶん両方だろう。
私たちはそのまま並んで座りながら、少ない人の往来を眺めていた。美術館と言ったら老人ばかりの印象があったのだが、こうしていると案外多彩な人種が訪れることがわかる。
いかにも老後の道楽として嗜んでいる風の老体もいれば、派手な金髪の頭悪そうな男もいるので驚いた。
私は横目で陽菜を見る。まだ尾を引いているようで顔こそ赤いが、どっしりと据えられた眼差しはどこか遠くを映しているように思えた。
この光景を陽菜は前にも見たのだろう。今とは違う立場で。
画家というものがどういう動きをするのか詳しくないけど、それでも自分の作品を主題にした催しがあったのなら、儀礼的に足を運ぶと思う。
陽菜が明言した通り、二階堂深月が推察したように、後にも先にも本心から描いたのは羊の絵一枚だけだ。だがその絵は、皮肉にも美術部の顧問によって棄却されたのだ。
自分の建前だけを褒めそやされる陽菜は、どういう心境だったのだろうか。
私は陽菜の家族についての好奇心が込み上げた。それは一方的な哀憐と偽善に満ちたものだと自覚していながらも、止めることはできなかった。
あろうことか、陽菜は私の罪を知ったのだから、私にだって陽菜の痛みを受け止める権利があると考え始めていた。
「あ……あ!」
静かな館内に似つかわしくない大声に顔を向ける。
手に冷たい感触が伝わったので、握り返してやる。それだけでその人物が陽菜にとってどういう存在なのかがわかった。
「海原さん……来てくれたのね!」
主婦然とした女性だった。ピンク色をした薄手のカーディガンを羽織って、パーマをかけた髪を昭和の歌手みたいにまとめている。丸い銀縁メガネの下に走るほうれい線は、厚い化粧でも誤魔化しきれていなかった。
胸に名札がぶら下がっている。『館長・
「描かなくなったって聞いてたけど……来てくれたのね。私としても嬉しいわ」
「……はい」
おしろいっぽい香りがきつく漂ってくる。更に強く握られた手は細かく震えていたので、私は目の前の人物がどういう人となりなのかを無視し、敵意を向けていた。
眼鏡越しの目がこちらへ向く。
「お友達?」
「どうも」
ひとまず会釈を返しておいた。彼女は値踏みするような視線をずけずけと私に注ぐ。そこから歓迎の意思を見出すのは難しかった。
「美術部の同級生さん、かしら」
「いえ。特には」
「……海原さんとは、どういう接点で?」
「普通の友達です」
眉間にくっきりとしたシワが刻まれる。私は二階堂深月から伝え聞いた美術部顧問を思い出していた。
彼女はおもねるように声を高くした。
「海原さんがどういう人なのかは、知ってる?」
「ええ。なんか凄い画家だったらしいですよね」
「……え、ええ。そうなのよ。海原さんには才能も、優れた感性もあるの」
「そうなんですか」
陽菜はうつむいたまま何も言わずにいたが、重なった手のひらからじかに胸の内が伝わってくる。
確か陽菜の絵は相当な値打ちで取引されていた。どうしてこの美術館との伝手が生まれたかに想像力を働かせると、なるほど彼女の態度がどういう衝動に立脚しているのか馬鹿でも予想付く。
画家として活動している間、彼女は心底うんざりしていただろうな。私は陽菜を気の毒に思った。
同時に、彼女が家族というものを希求する理由を垣間見たような気がした。
「だから……わかるでしょ?」
表情こそ人当りの良さそうな笑みを浮かべているけれど、瞳は何よりも雄弁に主張していた。海原陽菜は金のなる木だ。若い女の天才画家というだけで話題性もあるし、何よりウケる絵を描ける人材だ。
これは私の人間不信が生み出した曲解なのかもしれない。あるいは陽菜が脅えていたから、単にそういう風に解釈したかっただけとも取れる。善意で動いている可能性がないとも言い切れない。
けれどこの場において、この女は陽菜を金儲けの道具に引き戻そうとする下卑た人間として機能していた。
「陽菜はちょっと前まで引きこもっていました」
うつむき加減の琥珀色が、ちらりと私へ向けられたのがわかった。館長は顔を強張らせた。空気が重く息苦しいものへと変化する中、動けたのは厚顔無恥の私だけだった。
「でも私が迎えに行ったら、何とか描こうって四苦八苦するくらいにはなってくれました。今日も気晴らしとインスピレーションの刺激が目的みたいです」
「で、でも、それは別にあなたじゃなくても」
「画家とか作家とかのクリエイターって……門外漢のイメージでしかないんですけど、いろんなものにがちがちに縛られると早いうちに才能が涸れるものじゃないんですか?」
「……」
「だから私としては、自由にさせてあげて欲しいんですけど」
「そうね」館長は私みたいに溜め息を吐き、一転して諭す口調になった。
「あなたの言うことも一理あるわね。それで、海原さんはどうなの?」
陽菜はびくりと身を震わせた。子供の安直な発想だと信じたかったけれど、これで確信に変わる。この女は俗悪だ。
はっきりと意見を言えない陽菜の性格へ付け込んで、自分の望む答えを引き出そうとしている。陽菜とて馬鹿じゃない。断ったら今後この美術館においてどういう待遇になるのか、及びのつかないはずがない。
しかしながら私は微塵も焦っていなかった。この女は大きな勘違いをしていたからだ。クリエイターという生き物は、飽くなき承認欲求に満ちているという固定観念に縛られているからだ。
陽菜はおずおずと切り出した。
「わたし、は」
「ええ」
「……その」
「海原さん」
陽菜は顔を赤らめながら、私とつながれた手を持ち上げ、示してみせた。
はにかむ笑顔が私に向けられる。
赤面の理由は館長への恐怖ではなく、私に対して恥ずかしかっただけだと理解できた。ほんの爪先ていどの不安も払底され、気を抜けば喜びのあまり抱き締めてしまいそうだった。
「……そう。せっかく楽しかった空気に水を差してごめんなさいね。楽しんでいってちょうだい」
館長の笑みは来客に対するそれへと変わり果てていた。彼女は素早く踵を返し、さも雑事に追われていると言わんばかりに足音高く去っていく。
彼女の認識のなかでは、海原陽菜は俗物に堕したということになっているのだろうか。
私に毒されたせいで、もう商品価値がなくなったと判断したのだろうか。
それは誤りだ。そもそも陽菜は最初から画家として名を上げるために描いていたわけではなかった。
それは崇高な理由なのかもしれないし、ありふれたものなのかもしれない。ただ功名心と無縁であることは間違いないだろう。
執拗に陽菜へ描くことを迫った二階堂深月もわかっていたことを、彼女はわかっていなかった。
館長の背中が見えなくなってから、私は言った。
「ごめん。お得意先潰しちゃったみたいだ」
「え? あ、い、いえ! そんな」
「そうだよね。私を選んでくれたの、陽菜だもんね」
笑いかける。
「ありがと。嬉しかった」
「……はぃ」
かの平清盛は、晩年額に触れさせた氷がたちどころに蒸発してしまう高熱に苦しんだという。さぞ赤い顔をしていたことだろう。今の陽菜に負けない程度には。
というか、私たちは何だか赤くなってばかりだ。まるで付き合いたての初々しい恋人のように。
自分の比喩に気付いて、私は陽菜を見た。相変わらず目線こそ爪先に向けられているが、口元はだらしなく緩んでいる。最初の陽菜から随分な変わりようだ。いや、そうでもないか。彼女は私に対してはいつだってこんな感じだった気がする。
だから自信に従い、好奇心に身を委ねてみることにした。
「陽菜はさ、絵を描くことに興味がなかったの?」
「……え?」
「描きたくて描いていたわけじゃないっていうのはわかった。ゴールデンウィーク中に陽菜から聞かされたし。でもさ、評価されたんだからそれなりに練習はしたし、実際に作品を描いて評議会……かな。まあ、そんな感じの所へ提出したわけだよね?」
陽菜はただ黙って私を見つめていた。そこに拒絶や忌避などは感じられなかった。
二階堂深月から初めて陽菜の絵を見せられた折、彼女が口にした評を振りかえる。
その世界へ行きたいと思わせるような。
ただ陽菜の本意を理解できなかったというだけで、二階堂深月には才能があるし、審美眼も確かなものだろう。そんな彼女の評だから、ある程度的を射ていてもおかしくない。
陽菜は私を求めていた。同性の友人へ向けるには過剰とも言えるものを。羊の絵に共感できた同類なのだから当然だと、以前の私は悔しながら納得した。
しかしそこに至るまでの経緯はまるで想像していない。どうして陽菜が自らの半身とも言える存在を求めたのかという経緯が、完全に欠落しているのである。もしくは気付いていても無意識下の気後れから躊躇っていたのである。
だが手はつながれている。それは鎖と酷似している。私を捕らえて、そう簡単に逃れることはできない。つまりはそういうことだ。
故に私は推論を言うことが出来た。
「もしかしてさ、絵を描き始めたのって、家族が関係することなのかな?」
表情の変化は、海鳴りが波間へ静かに消えていくようなひっそりとしたものだった。
ただそこに
「ゆずりは、優しいです」
「そう、かな」
「はい。その……包装紙が丁寧に剥がされると言いますか……。あの、ゆずりはには、何だかそういう感じがします」
「それだと私ただのスケベみたいだね」
「あっ、えっと、そういう意味じゃ……!」
「わかってるから大丈夫だよ」
というかスケベの度合いなら、添い寝を求めたり頭撫でてもらいたがったりする陽菜の方が高いと思う。口に出すと話が進まないので奥深くに仕舞っておくが。
陽菜は立ち上がった。
「……まず、出ましょうか。ゆずりはの時そうだったように、今度も、わたしの部屋でお話しします」
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