第9話

 確かに私の腹積もりがどうあれ、結果的に海原さんが不登校になるまで追いつめられたのなら、それは貶したということになるのでしょう。


 ですが誤解しないでいただきたいのは、私自身彼女の作品のファンだということです。決して貶めようだとかそういう俗物的な感情のもとに放たれた発言ではないということを、どうかご留意ください。


 あれは去年の夏休みのことでした。


 我がララリア美術部は伝統的に、夏になると神奈川の仙石原へ合宿に行くことになっていました。神奈川の景勝地の一つに数えられているので、おそらく天野さんもご存知かと。そう、すすきが一面に広がっている牧歌的なところです。そこへ淫乱院家の抱えるロッジに三泊四日を過ごし、最低でも一作を仕上げることになっていました。


 マイクロバスに揺られながら期待に胸を高鳴らせていたのを、今でも思い出せます。何度も申し上げた通り、私が美術を志したのは海原さんの作品に胸を打たれたからです。


 彼女はバスの後部座席で誰とも話すことなくぼんやりと景色を眺めていました。今より随分髪が長く不気味な容姿だったことも理由なのでしょうか、彼女に話しかけようとする人は多くありませんでした。


 というのも、彼女は既に確然とした実績をあげている人間です。いうなればララリア美術部きっての麒麟児だった彼女は、先生から深い愛情を注がれていました。


 ……それはお褒めくださっているのですか?


 天野さんの仰る通り私はニカイドウとして活動していますが、画壇や美術部での評価は天と地の差です。履いて捨てるほど存在する画家の中で、ほんの少しだけ背が高いだけに過ぎません。性格的にはむしろイラストレーターに近いのでしょう。古色蒼然とした気風の強い二種の世界では、格調高いものが評価される傾向にありますから。


 そういう事情もあって、厳格が服を着て歩いていると専らの評判だった先生の期待を背負っている現実は、みなが遠巻きにするには十分だったのでしょう。また、作品の邪魔をするなという先生からの妨害もあって、私も簡単に話すことはできませんでした。


 ですが合宿中の目的はあくまで一作を仕上げることであり、それ以外は比較的自由がありました。極端なことを言えば、初日で作品を仕上げてしまえば二日間遊び呆けても問題ないのです。私は海原さんの拘束が解かれる時間帯が来るはずだと、かねてより考えていました。


 ええ、ミーハー……とのそしりを受けても致し方ないことです。お恥ずかしながら。


 さて、ロッジについてすぐに行われたことは部屋の割り当てでした。


 むろん、海原さんは姫君のように扱われ、前もって個室が与えられることになっていました。すすき畑を一望できる最上階の部屋です。防音加工も施され、何かを創るにはもってこいの一室でしょう。


 ロッジがそこまでの規模を誇るのか? ――ええ、小規模の旅館と称しても差し支えないでしょう。


 淫乱院家の財力は並々ならぬもので、ロッジといえども四階建ての大きなものでしたので。一階のロビーには特別寮に勝るとも劣らない立派な食堂があり、またお風呂は眺望の利く露天風呂でした。櫻子さんが仰っていましたが、ここで星空に包まれながらする湯浴みは格別だそうです。実際そうでした。


 割り当てられた部屋に荷物を置いてから、私たちはそれぞれ繰り出して作品の構想を練る時間を与えられました。


 私とてそこまで不純ではありません。まず自分が何を描くかについてのみ思考を巡らせました。


 避暑地の名に恥じぬ涼やかな風に揺れるすすきを検めながら想像をはためかせていると、ふと先生に連れられて移動する海原さんの姿が見えました。先生から吐き戻しそうになる量のおためごかしを浴びせかけられながら、海原さんは落ち着きなく視線を彷徨わせます。こうして振りかえっているから言えることですが、きっと海原さんは先生のことを嫌っていたのでしょう。


 彼女たちはそのまま風景を見下ろし、一、二言何やら言い交すと、その場にキャンバスを立てました。先ほど私が海原さんを姫君と比喩したのは、パレットを用意したり顔料を整えたりする先生が卑屈な従者のように見えたからです。

 

 これは悪趣味な推測ですが、長らく有力者を輩出していないララリアの部活の格をあげるために必死だったのでしょう。


 もしかすると侮辱になるかもしれませんが、海原さんのような言葉の代償に力を得たような方は、いつだって弱者の思惑でしか動くことができないのは、歴史が証明しています。


 私の海原さんへの憧れの中に、気の毒な感情が混じり始めました。彼女は神輿として担がれ、今後の画家人生でも永遠にララリア美術部の影がついて回ることを考えると、果たして海原さんは真に自分らしい作品を描くことができるのでしょうか、と。


 その日の夜。露天風呂から二階へ戻る途中に海原さんとすれ違いました。私の知る限り海原さんはいつだって猫背でした。

 

 さして気に留めたことはなかったのですが、昼間のことが脳裏を過ぎって別の意味を与えていました。すなわち、彼女はあらゆる重責によって気骨が圧し折られたため、あのような姿勢なのではないかという疑念です。


 ずっと待ちわびていた対談の機会にも関わらず、私はそのまま彼女が通り過ぎる様を見送ることしかできませんでした。


 腕は下書きを進めながらも、頭では昼間の一件と先ほどの猫背が奇妙な紐帯で結び付けられ、惑星のように思考の外周を漂っていました。


 私はふと考えを起こして腰を上げました。先ほどの眺望がいいという話からご理解いただけるように、ロッジ周辺はすすき畑が広がっていて、陽が落ちると夜目の利かない鬱蒼とした森の様相を呈するため、先生から深く侵入を禁じられていたので、さほど遠くへは行かないだろうと踏んだのです。


 すすきが月明かりを金色に弾いて、どこかから鈴虫の輪唱が響いていました。現実とは離反した光景のなかに悄然と立ち尽くす海原さんが目に収まった刹那、私の疑念は確信へと変わり、その実感が総身を貫いて勇気を与えてくれました。


「海原さん」


 声をかけると、彼女はゆっくりと振りかえりました。


「二階堂、さん」


 少なからず驚きの念がありました。私にとって海原陽菜とは独自の世界を持ち、世俗に毫も関心のない超然であったので、そんな存在に記憶されているとはまるで慮外だったのです。


 少なからず胸にこみ上げてくるものがありましたが、同時に、自分程度とは違う位相に生きていて欲しかったという願望を、この時初めて自覚しました。


 海原さんは私の言葉を待っていたようですが、様々な感情に打たれた私はその場で呆然とするしかありませんでした。


 どうして話しかけてきたのかを海原さんなりに考えたのでしょうが、推察するだけの材料すら私たちの間には横たわっていません。


 肌寒さすら感じ始めた頃、彼女は小さくてはしっこい会釈だけを残してロッジへと戻って行きました。


 扉を閉める音が小さく響き渡った後、私は先ほどまで海原さんが立っていた位置へ動き、彼女の景色を瞳に収めました。


 しかしながらそれは、何か特別なものがあることもなく、ただ見る角度が少し変わっただけでしかありませんでした。


 風邪を引く前に部屋へ戻り、海原さんの画集を開きました。最初期のものです。しかし、そこに描かれているものが以前よりくすんで見えるようになっていました。私はこういう性質ですから、あらゆる物事を省察し、自分の納得できる領域になければ気が収まらないのです。


 そういう神経質を加味すると、心のしがらみから解き放たれていた海原陽菜という画家がどれほど重要なのかがお分かりいただけるかと思います。


 話が逸れましたね。


 どうして色合いを失ってしまったのか、私は大いに悩みました。

 部屋割りが同じになった者が眠りに落ちて、部屋全体が薄暗闇と鈴虫の声に沈んでも、瞳だけは見慣れぬ天井をしっかりと捉えていました。


 突然ですが天野さん。貴女は自分の主義に反することを納得せねばならなくなった経験が、ありますか? そうですか。


 この夜更かしもそれと同じです。私はただ、海原陽菜には超然としていて、自分の世界に浸る浮世離れした方でいて欲しかったのです。


 憧れを擬人化した彼女は、実を持ち私たちと触れ合える、理解しうる存在であってはならなかったのです。


 故に先生から言われるがまま描いていた姿、そして私風情を把握していたという臆病さは、その信仰を土台から打ち崩すものでした。


 もちろんこの想いが幼稚な願いであることは承知しています。こうして貴女に語り聞かせている今は、ある程度整理を付けた気でいますが、ともすれば彼女への憎しみめいたものが込み上げてくるのは変わりません。彼女は私の価値観に於いて、我が信仰を侮蔑したのですから。


 ですが私は人としての海原さんを気の毒にも思いました。

 私はミッフィーやスヌーピーのようなカートゥーン調の可愛らしい絵柄が好きですし、それらと同類の絵を描き、僭越ながらそれらは人口へ膾炙しています。絵を描く仕事としては最上の幸せと言えるでしょう。


 いくらイメージを損なったとはいえ敬虔なる信徒であった私の内側が変質するまで、まだ随分と猶予がありました。私は海原さんに自分らしい絵を描いてもらおうと発起するのは、極めて自然な流れでしょう。


 作品の〆切りは三日目の夕方でした。朝に行われる先生の訓戒を聞き流した私は、焦燥感に背中を押されて海原さんの下へ向かいました。


 傍らに先生が侍っていたにも関わらず、彼女は私の接近を認めると、これまでにないほどにこやかな表情で間を開けました。

 そしてそのまま自販機へ向かいジュースでも買うような調子で、ロッジの外へと消えていきました。先生の後ろ姿を見送る海原さんの琥珀に、なにやら妬むような光が兆すのが、はっきりと眼へ飛び込んできます。


 なにかあったのかは間違いがありません。しかしそれを分析しようと腰を持ち上げた時、海原さんは既に平生の殻に閉じこもっていました。彼女が私を歓迎していないのは、見ればわかりました。


「……な、んです、か?」


 海原さんは怯えた風に聞いてきました。それは私の胸に痛みを与え、気の毒に思う感情が薄れていくのがわかりました。それを認識していながらも、私は留めようとしませんでした。


「進捗はいかがですか?」

「そ、こそこ、です」

「嘘を吐かないでください」


 身を竦ませる海原さんを見て、胸がすくような心持ちになったのは事実です。しかしその出所は、自らの拠り所を汚された怒りからなのか、あるいはこれまで見上げるしかなかった人間を下に見た際に生じる猥雑な心からなのか、判別ができませんでした。


 私は喋々と続けました。


「貴女はこれまで四十二作の絵を仕上げています。ですが、そのうち貴女が本意で描いたものは果たして何枚あるのですか?」


 海原さんが何も答えないので、愉悦は次第に怒りへと変貌していきました。それが身勝手な憎しみと融合し、更なる攻撃へ私を駆り立てます。


「芸術とは自己表現の一種です。胸に訴えかけるものがなければなりません。ですが、もし貴女が何も考えずに作品を仕立て上げているのなら、それに共感した私は……成程、愚かということになります」

「……はい」

「私は貴女の作品を愛しています。心の底から敬愛して止まないのです。それが裏切られるのは、身勝手ながら臓腑が焼けるのと同義です」

「……」

「貴女は絵画を侮辱しています」


 海原さんは辛そうな顔をしました。ポピュラーな単語ほど、人から人へと口伝するので、内包する意味合いは増えていきます。辛いというこの表情がどれほど多義的だったのか、静かにいきり立っていた私に想像することは困難でした。


 ふと海原さんが笑いました。薄い唇を反らした淋しい笑顔でした。見た者を否応なく寂しい気持ちにさせるような、孤島に佇む笑みでした。


「腐った絵です。人間不信の絵です。一人で閉じこもろうとする――敗走の絵です」


 いつになく愉快な口ぶりで、私は目の前にいるのが海原さんかどうなのか自らの正気を疑いました。


「わたしが絵画を侮辱しているというのなら、はい、きっと、そうなんだと思います。わたしには何もありません。猿真似が上手いだけです」


 それから合宿の終わりまで、海原さんは一人で佇んでいるのを多く見かけました。

 先生は彼女は特別だからと大声で言い、作品を発表させることはありませんでした。


 特権が海原さんから私へ憑依したように、先生は私へ媚を売ることが多くなりました。合宿の最中、他の部員から相談を持ちかけられることが多くなりました。部内は活気づいて、良好な風に変化したということになるのでしょうか。よくわかりません。


 海原さんはその輪に決して混ざろうともしませんでした。


 首吊りがどういう風に執行されるのかご存じでしょうか。複数のボタンがあって、それぞれ一つずつ握ります。どれか一つが足場の開くボタンです。死刑執行というのは非常に精神へ負荷をかけるので、それを軽減するための知恵でしょう。


 自分がキャンバスの前に座る時、手にしていた筆がそのボタンに見える時があります。


 はい。今でも、ずっと。


 ――どうしてこんな話をしたのかって?


 貴女から嫌われることに関心がない。それ以外の理由が必要なのですか?


 私は彼女に懇願することしかできませんし、概してそれらは辻褄の合わない行動です。実を言えば、度重なる督促は海原さんを想って実践していません。ただ、自分のなかにくすぶる信仰の炎が消えないよう、守っているに過ぎないのです。


 海原陽菜の信徒だった私を思い返して、失敗をしてしまった自ら慰めているだけです。


 私は愚かです。


 ※ ※ ※


 描けないというのは理屈じゃない。状況に筋道を立てて筆が進むのであれば画家が持て囃されたりしない。


 以前までどう描いていたのか、まるで思い出せなかった。目の前のキャンバスと同じく頭が真っ白だ。


 パレットの絵の具はだんだん渇きつつあった。水を混ぜたら薄くなるので再び顔料を加えねばならない。繰り返すとどんどん周りの色を侵食していって、最終的にパレットそのものを洗浄する羽目になる。


 わたしの頭の中もそうする必要があるだろう。


 絵画を侮辱していると二階堂さんは静かに憤怒した。その通りだと思う。わたしは絵画を分析したうえで描いていた。そこに情や思い入れなどは一切なかった。


 二階堂さんは真剣に絵画と向き合っている人間だ。一切の妥協も許さず邁進し、現実的な収益まで上げている。そんな彼女からしてみれば、わたしの如き半可通は芸術に命をかけていないということになるのだろう。


 だから許せないのだ。


 元よりわたしに描きたいものなどなかった。重要なのは、絵を描いているという行為だけだったのだから。


「……」


 空になったレモンティーのペットボトルを放り投げ、わたしは楪みたいに溜め息を吐く。あの子とだんだん似てきているようで、何だか感慨深かった。


 このように頭の中は雑然としていて、海馬から知識を取り出すのに苦労させられる。わたしは下書きをしない。これまで適当な位置にランダムな色を落とし、そこを基点として積み上げるまま描いてきた。


 最初の一点すらままならない。わたしは何度目かわからない小休止を挟むことにした。


 そうして手足が自由になると、考えるのは楪のことだった。


 先日のカラオケで、お手洗いから戻ったわたしは二人が話し込んでいるのを目撃した。咄嗟に身を隠して聞こえてきたのは、昨年の合宿のことだった。二階堂さんは沈痛な声で自らを述懐していた。


 そこは大して問題じゃない。わたしと二階堂さんの一幕を明かされて、楪が何を思ったのかが重要だった。


 楪はただ頷くだけだった。彼女の表情はいつだって豊かさに欠ける。その裏側で擦り切れるほど色々なことを考えて、内向きへとぐろを巻いて自傷する性格だ。そんな彼女は外界に攻撃する気概が欠けている。


 自分を取り巻くあらゆる事物に対して穏便な対応をしようと心がける。逃げるがはぐらかすしか出来ないのだ。


 だからそんな彼女が二階堂さんの心境を納得してしまい、あまつさえ共感してしまうかどうかが不安だった。


 二階堂さんが嫌いなわけじゃない。わたしとは相いれなかっただけで、あの人は立派に輝ける人物だ。


 それでも天野楪の繊細は、わたしだけのものであって欲しいという強い欲求があった。


 彼女の内側に広がる螺旋の中にわたしも加わりたい。そこで永遠にたゆたっていたい。そこに異物を加えたくない。


 わたしはスマホを取っていた。ちょうど手頃なイベントもあったし、優しい楪にはあつらえ向きの言付けも傍らに立てかけてあった。


「……もしもし」


 楪は眠たげに応答した。喜びの奔流に身を任せ、わたしは前のめりになって言った。


「あっ、あのっ……! 明日、あそびに……行きませんか?」

「……んー」


 考え込むような声が聞こえる。わたしは息をすることも忘れて、楪の返答を待った。スマホを握る手の平にじんわりと汗が滲んだ。


「うん、いいよ」


 パッと部屋が明るくなったような気がして、わたしは電話に向けて何度も頷いた。

「ただお金があまりないから、そこまで派手には遊べないよ?」


「へ、平気ですっ……その、足りない分は、わたしが」

「いやいやいや」

「えっと、その……チケットが二枚あるので」


 わたしは玄関の方を振りかえる。ガラス戸の向こうには招待状やら優待券やら散乱してある。


 恐らくその中には美術館のチケットが眠ってあるはずだ。まだ精力的に活動していた頃、適当な一枚を寄贈したことで繋がりを持った美術館の人たちが、催しが一新されるたびにチケットを送ってくれるようになっていた。


「陽菜はともかく、私が外出たいって言っても却下されるんじゃないかな」

「そこも平気ですから……! インスピレーションを刺激する目的での、その、視察に付き添いが必要だって言ったら……その、楪も外出許可が下りますから」

「お、おお……うん。そこまでしてくれるなら、じゃあよろしく」

「はい!」


 そうして極めて自然に電話が切られた。残された沈黙は、いつもなら僅かな寂しさを含んだものだったが、今はティンカーベルの鱗粉みたいにきらきらと輝いて見える。


 わたしは行き詰っていたことも忘れてベッドへ倒れ込んだ。際限なくニヤつく頬を何とか抑えながら、枕を抱きしめゴロゴロ転がる。


 楪の残滓がまだ残っているような気がして鼻先を宛がうが、自分の香りしかないのでがっかりした。

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