第8話

 テスト終わりに蔓延する独特の空気は比較的好きだった。


 なんせみんな自分の結果に一喜一憂して、私のことに構っている余裕はない。それに私は勉強が不得意ではないので、そこまで悲観的になる必要がないと好条件が揃っている。いい感じに一人で自尊心が満たせるのだから素晴らしい。


 全教科平均点を上回って、得意教科は学年順位が一桁に食い込むという快挙を果たした。高校二年ということで進路もちらほら考え始める時期だ。もしかしたら私も大学へ進むかもしれないから、その際は有利に働くだろう。もしかしたら推薦枠を勝ち取れるかも。


 都合の良い事を考えながら陽菜の下へ向かった。


「どうだった?」

「お、思っていたよりは……」


 陽菜は恥ずかしがりながら返却された答案と、テスト結果をまとめた一枚を見せてくる。


「ゆずりはのおかげです」

「そんなことないよ」


 競争意識の強化という名目で、結果の用紙にはそれぞれの科目の学年順位も明記される。陽菜は大体の科目で上位に食い込んでいた。付け焼刃と言ってもいい勉強量なのに、凄まじい記憶力だ。


「陽菜、ちょっと頭出して?」

「え?」

「いいから」


 きょとんとする陽菜を手招き。武士の介錯みたいに差し出された頭に、ゆっくりと手を添える。ビクンと大きな反応があったが、それが私の手が離れることにつながると思ったのだろう。陽菜は自分の膝を見つめたまま手の動きを受け入れていた。


「頑張ったね。偉いよ」


 私の手に合わせて、陽菜は風に吹かれる灌木のようにゆらゆら揺れる。瞳は呆然としたような、あるいは恍惚としたような色を宿したまま、緩やかに頬の気温が上昇していった。


 陽菜の家族になにがあったかは知らないし、向こうから話そうという姿勢を見せない限り、言及しないのが礼儀であると信ずる。けれど少なからず私に対して家族的な意味合いを見出しているのは疑いようもないから、その辺りを応えていってあげるのが、文化祭までもう時間のない中、陽菜に絵を描かせるための私なりの役割だと思う。


 そして小学生のまだ捻くれていない頃。テストで高得点を獲得した私に対して、母はよくこうして褒めてくれていた。今だから言えるけど、やっぱり頑張りが認められるというのは嬉しい。モチベーションにつながるし、何より自己肯定感や承認欲求はこういう所で育まれていくものなのだと思う。


 そこでトドゼルガ達の会話が耳に入ってきた。


「テストも終わり、解放感もひとしおと申しますか。まるで澄み渡る秋晴れの朝の下、セイロンティーを飲んで目を覚ますかのような……そんな爽やかさを感じますわね」

「ええ、仰る通り。未だ成熟の道程を歩みつつあるわたくしたちにとって、定期考査とは少々荷が勝ちすぎているものと言えますわ」

「世間がこんなものなら、世間並にしなくてはやっていけないと漱石は語りましたが、まさしくその通り。わたくしたちにも滋養が必要と考えます」


「そういえば裏町にからおけ……? なるものが存在すると。なんでも、世間と親しんだ方々にとっては日常的な施設だそうですわね。これからわたくしたちも赴いてみませんこと? これから国を牽引すべきわたくしたちが、人々の気持ちを解せぬのでは笑われてしまいますわ」


 ふーん、と思った。


「カラオケ行こうよ」

「へぇっ!?」


 陽菜の足元で爆発でも起こったのか、彼女は垂直に跳ね上がった。膝が机の裏にぶつかって大きな音が鳴る。トドゼルガの一派が私たちを見たので会釈をすると、「愛らしいこと」柔和に微笑まれた。奴らも私たちの性質を理解したのか、誘われることはなかったので安心する。


 患部を抑えてうずくまる陽菜に向き直った。私は若干赤くなっているそこを摩りながら、


「……大丈夫?」

「あ、あのあのあのっ、わたし、その、行ったこと、ないですし……自信もない、です」

「私も行ったことないし、歌なんて音楽の時間でしか歌わないよ。陽菜と一緒」

 その言葉を前にした陽菜はすこし相好を崩した。

「あの、その……ゆずりは、の、故郷の、お友達も」

「独占欲強いなぁ。そんなのいないよ」


 陽菜以外友達はいないと何度も言ったはずなのだが。


 がらんどうのLINEを印籠の如く掲げた。一番高頻度で使用している陽菜とのチャット以外は、おおむね沈黙を保っている。表面上だけ友人だった人間との最後のやり取りは、もう一年以上前だった。


 陽菜の面持ちに温かい安堵が広がっていく。それに笑って答える。


「だから陽菜と行きたいんだけど、駄目かな」

「いえ、そんなことっ、ない、です。はい、行きます」


 そうして連れ立って教室を後にするとき、水島しずまと大富豪で遊んでいた葉子が得意げにサムズアップしてきたが、まあ無視に限る。彼女は満面の笑みで親指を下向きに変えた。私は鼻で笑った。


「そういえばもうすぐ体育祭だね」


 生徒会の腕章をつけた生徒が傍らを駆けて行ったので、ふとそのことを思い出した。行事を控えると生徒会が忙しくなるので、慌ただしく駆けずり回っている役員はララリアの風物詩だ。


「体育祭……」

「うん」


 陽菜は見るからにげんなりする。普段の彼女と画家という属性から運動神経抜群だと思うのは難しい。


「まぁ、陽菜は特別推薦だしやりたくないって言ったら免除してくれるんじゃ」

「……そ、そうでしょうか」

「知らないけど」

「ゆずりはぁ」

「ごめん」


 本当に嫌みたいだ。まあ映画の日とか、復学二日目なんかを思い出すと、致命的なレベルで運動が不得意なのだとわかる。


 そんな一幕を挟みながら外に出ると、出待ちしていたような強い一風が私たちを殴りつけて行った。陽菜は前髪が目に入ったのか、額辺りをなにやらいじくっている。それでも私を待たせないように歩き出そうとするのがいじらしかった。


 お小遣いが入金されたばかりなのでいつもより余裕があった。本校舎からカラオケまでの道のりを脳内で描き出して、その間にどんな店構えがあったのかを思い出す。私が痴呆じゃなければ目当ての店はちゃんとあったので、二度手間にならず済みそうだ。


「陽菜、ちょい寄り道したいな」

「……は、はい」


 陽菜は疑問を隠せない様子ながらも頷いてくれた。


「ゆずりは、忘れ物でもしたんですか?」

「いや、ちょっと」


 言葉を濁すと、陽菜は不服そうに唇を引っ込めた。


 苦々しい視線攻撃を耐え忍びながら、私たちの足はアクセサリーショップへ行きつく。とはいえララリアの敷地にあるような店なので、当然エキゾチックな雰囲気を漂わせる高そうな店だ。ハイソなガラス張りが眩しく映る。


 陽菜は目的を微妙にはき違えたのか、髪型をちらちら見ながらポツリと言った。


「ゆずりはの髪型、今の方がかわいいと思います」

「えっ? ぅあ……うん。ありがと」


 少し熱くなる頬を掻く。そういう不意打ちを難なくこなすので、この娘は卑怯だと思う。


 気後れしながら入店した。店内はラベンダーみたいな香りで満たされていた。さほど広くない内部にちらほらと二年の制服が見える。


 変な風に肝が据わっている陽菜は特に臆する様子もなく、普通に商品を物色し始めた。とはいえ彼女自体アクセサリーなどの小物に興味が薄いのか、手に取ってはすぐに戻すのを繰り返すばかりだ。


 そんな陽菜の横顔をつぶさに観察する。


 肌が白い。鼻はそこまで高くはないけど、それが童顔のような可愛らしさを助長する。上下比べると上唇の方が少し膨れている。それでいてアゴの輪郭はスリムに整っている。琥珀色の瞳は、角度を変えれば黄金のようにも見える。


 だからこそ、もっと長い間見ていたかった。日常の些細な場面で、陽菜らしさを感じられるように。


「これかな」


 陽菜に待っているよう断って、レジを指差した。陽菜は頷くと、とてとてと店先まで出て行った。


 店員にラッピングをお願いする。彼女は少し怪訝な顔をしたが、詮索することがどうでもよくなったのか手際よくリボンを巻いた。品物がプレゼントへドレスアップしていく間、陽菜の後ろ姿を見やった。私と同じで一人が怖いのか、挙動不審にキョロキョロしていた。


「ごめん。待たせた?」

「あ、いいえ」


 ブンブンと首を振る。そのうち頭だけどこかへ飛んで行ってしまいそうだ。


 やっぱり前髪が長い。もう五月も中旬で、つまりは切ってから一か月程度しか経過していないのに、もう伸びていた。


 この中にはヘアピンが入っている。小さな代物だけどそれなりに値が張る物を選んだから、きっと何年かは耐えてくれると思う。


 今さらになって気恥ずかしさが芽生えてきた私は、いささかぶっきらぼうになっていることを自覚しながらも、今しがた購入したそれを差し出す。手の平より少し小さい袋。


「はいこれ」

「……?」

「だから、これ」

「ゆずりはの、では?」

「いいから」


 強引に握らせると、陽菜は少しそれを見つめた後、ゆっくりと封を切った。


「陽菜の前髪長くなってきたみたいだし、絵を描いたりするのにも邪魔かなって」


 陽菜は目の前まで藍色のそれを持ってくると、宝石か何かを鑑定するみたいに矯めつ眇めつ眺めた。


「あ、もちろん、絵を描けって急かしてるわけじゃないのは分かって欲しいな。陽菜には陽菜のペースがあるから、私はそれを尊重するだけだし」

「……」

「ごめん……良かれと思って買ったんだけど、いらなかったら捨ててくれても」

「だ……」

「陽菜?」

「だ、だだだだあぁっきしめて……いい、ですか?」


 陽菜は感極まったように震えていた。頬がこれまでにないほど紅潮して、もう息が荒いどころの騒ぎじゃない。店先から数メートルと離れていないのに、今にも体力が枯渇して倒れてしまいそうだ。


「ゆ、ず……りっはを、抱き締めても……いい、ですか?」


 呂律も上手く回らないまま、陽菜は再度抱擁の許可を求めてくる。


 私は周囲を見回した。店内にいる人たちはみんな商品棚に目を向けているが、ガラス張りなので振り向いた拍子にこちらが見えてしまうこともあるだろう。今は通行人がいなくて風通しがいいが、例えばトドゼルガの一団が通りかからないとも限らない。


 つまりその程度のリスクしかない。鼻先が陽菜の香りを思い出す。


「……おいでよ」

「ゆずっ、~~~~!!」


 許した刹那、視界が柔らかい温もりに沈んだ。


 お泊り会の日のお返しと言わんばかりに、陽菜は私の顔を胸に埋める。荒れ狂う炉心の如き荒々しいビートが耳元を打った。


 大袈裟な表現を使うなら、歓喜に打ち震えるとかそういうイメージ。私の背中に回された手は何だかいやらしく這い回るけれど、しかしそれらはおしなべて距離をなくそうと試みる動きだとわかる。


 ぼうと茹だっていく頭とは別に、果たしてこの行いは友達の範疇なのかと自問する自分がいた。


 どうして周囲を見回したかと言えば、知人に目撃されると厄介なことになると想定できるからだ。もうその時点で抱き合うというのは友人間で行われるものじゃないことは明白だ。それでも容認したのは、何故なのだろう。


「海原さん」


 そこで、冷ややかな声が聞こえた。


 私たちはバッと離れた。まるで何か後ろ暗さを隠蔽しようとするような心境に立脚した動きだった。


 そこにいたのは二階堂深月だった。手にはスケッチブックが、黒と灰色を基調としたシックな私服に着替えていた。


「あ、あのっ、二階堂、さん、これは……」


 目に見えて混乱する陽菜を一瞥し、二階堂深月はとても悲しげな目をした。年季のこもったというのも妙な表現だが、私にはそんな何かに亀裂が走るような光景に見えた。


「絵はお嫌いですか?」


 二階堂深月はスケッチブックをなぞる。いつくしむように、いとおしげに。


「私は、海原さんの絵を愛していました。貴女の指先に何度焦がれたのかわかりません。紡ぎ出す繊細な世界に耽溺しながら幼少期を過ごしました。ララリアへ入学したのも、貴女の隣で絵が描きたいからでした」


 それは陽菜からしてみれば、迷惑極まりない告白だろう。


 なんせ売れた数々の絵は、若い感情が煌めくと評された数々は、全て計算の上で描かれたものだ。そういう意味合いからすれば、二階堂深月の論評は的外れもいいところ。一方的なイメージを押し付け、それとは違う現実を矛盾と喚く阿呆となんら変わりはない。


 けれど私はその一言で切り捨てるのは難しいと感じた。


 二階堂深月が何度も画集を買っていたのを思い出す。ゴールデンウィーク前、他人事なのに泣きそうになりながら叱咤激励していたことが脳裏をよぎる。


 確かに的を射てはいないだろう。


 しかしその感情が間違っていると、どうして言えよう。


「……あのさ」


 だから私は切り出していた。私らしくない提案だとわかっていた。


「これからカラオケ行くんだけど、あんたも来る?」


 陽菜は目を見開いて私を見た。ヘアピンのお蔭で、よく表情が見えるようになっている。


 二階堂深月は戸惑ったように一歩後退したものの、


「……海原さんは、よろしいのですか?」

「え、えっと」


 私と二階堂深月を交互に検めるが、一刻も早く選択権を投げ出したいという焦燥が出ていた。


「どう、ぞ」


 ※ ※ ※


 時間はとりあえず二時間にしておいた。


 私はカラオケというものをダウンタウンの番組でしか知らなかったから、デンモクという分厚いタブレットみたいなもので曲を送信するとは知らなかった。


 二階堂深月は比較的経験があると見える。迷いなくデンモクを手にして、私たちに差し出した。


「何度か来たことあるの?」

「ええ、テレビ撮影の際、芸能人さんたちの付き合いで何度か」


 二階堂深月は口の端に罪悪感をにじませていた。陽菜の部屋に泊まった日を加味すると、こうして遊んでいる時間が絵画に対する冒涜だと感じてしまう人間なのだろう。難儀だなと思った。過度の責任帰属に支配されている辺り、私とそっくりだ。


 陽菜は私たちの話から逃れるようにさっさと曲を入力していた。空も飛べるはず。私は常によって頬を舌先でつんつんしながら頬杖を突いた。


 曲が流れだす。採点機能がデフォルトで搭載されているみたいで、陽菜の歌声は音程のバーから大幅に外れていた。子守歌のような優しい声だけど、緊張も手伝って曲調はガタガタだった。


 七十二点という数字を残して、陽菜は私にマイクを手渡した。陽菜との映画の主題歌だったback numberを送信した後、二階堂深月を一瞥する。彼女はこちらからデンモクを掴むと、タッチペンで操作を始めていた。


 八十三点という良いのか悪いのかわからない結果を背後に、私は二階堂深月へマイクを手渡した。


 予め入力してあったのか、インストルメント化されたカーペンターズのYesterday Once Moreが流れ出す。えーびーしゃらららーってやつだ。ダウィンチのように絵画の才能に富んでいる人間は万に秀でているのか、澄んだ旋律が流麗にバーをなぞっていく様は、プロがカバーした別バージョンかと錯覚させるほどだった。


 九十四点とかいう最高得点を涼しい顔でたたき出した二階堂深月は、少し物怖じした様子で陽菜へマイクを差し出した。陽菜も同様の態度でそれを受け取った。部屋にはもう一本マイクがあったが、彼はぽつんと充電機に突っ立っているだけだった。


 そういう互いの腹を探り合うような周回が一時間くらい続いた。九十四点という晴れ晴れしい点数を強制終了させると、二階堂深月はこりごりしたようにマイクを置いた。


「……海原さん、進捗の程は」


 デンモクを操作していた手が止まる。眉を曇らせて面を上げた陽菜は、長い時間をかけて首を横に振った。二階堂深月は感情を露わにし、額の辺りに両手を添える。腕の隙間から食いしばっている歯が覗いた。


 彼女はそのまま言い含めるように言う。


「ご存じかと思いますが、文化祭には画壇の方々がいらっしゃいます。現時点で最も有力株とされる画家組合の重鎮です。悔しいですが、彼らは半ば海原さんの作品をご覧にいらっしゃるようなものです」


 そんなことを伝えて二階堂深月はどうしたいのだろう、と渇いたまま考える。陽菜がそんなことに拘泥するとは思えない。上の連中にコネを作っておけば後々有利に働くと助言しているつもりなら、それは大きな間違いだ。陽菜はきっと私と似ているから、必要以上の繋がりは拒むだろう。


 その反面、彼女の想いを為し遂げさせてやりたいと応援する気持ちも込み上げてきた。こいつと違って強制こそしないけれど、陽菜の社会的な成功を望んでいるのは変わらない。陽菜には幸せになって欲しいと、いつしか純粋に願うようになっていた。


 だからこの場は静観に徹するつもりでいる。攻撃的な態度の二階堂深月を陽菜の前から追い払うこともできるけれど、それはあくまで私自身の意思でしかない。


 しかし私の落ちつきが長続きするはずもなかった。


「その中には、美術に対して確実な審美眼を持つ三船咲子(みふね さきこ)も含まれています」

「……みふ、ね?」


 二階堂深月が訝しげにこちらを向いた。


「……天野さん、どうかされましたか?」

「あ、ううん。なんでもない」

「そうですか。では話を戻しましょう」


 理路整然とした口ぶりながら、二階堂深月の話はまるで耳に入って来なかった。心臓が嫌な音を立てながら、ここ最近で築き上げられた陽菜との防壁を崩そうとしている。


 三船みふね蒔苗まきな


 その名はもう思い出したくなかった。


 マキちゃんの本名だ。


 その母親の名前を、私は知らない。


 私はマキちゃんの家に上がった時を思い出す。彼女の家はシルクらしい純白の壁紙に、いくつもの額縁がかけられてはいなかったか。加えて母親の風貌だ。上品そうな奥さんと私は称した。


 ララリアで散々薫陶を受けてきた私は、気品とは即ち教養の上に立脚するものだと理解している。画壇がどういう世界かは露ほども知らないけど、無知蒙昧のバカが上に立つケースは少ないと思う。


 そして、三船家は既に引っ越していた。それがもし東京なら、ララリアへは電車かバスで足を運ぶことができるだろう。


 母親の名こそ知らないが、三船咲子の娘が三船蒔苗であるとしても納得できる根拠が存在する。それは私の不安を悪趣味に煽り立てるには十分すぎた。


 もしかすると。一度沈黙したはずの被害妄想が目を覚ます。もしかすると、マキちゃんが文化祭へやってくるかもしれない。


 接触する可能性は低いだろうし、なんなら当日に仮病でも使えば簡単に回避できる。お互い面貌がすっかり変わっていて、すれ違っても気付かないかもしれない。マキちゃんは私など忘れてよれることなく成長し、今では立派な女子高生としてフレキシブルに生きているのかもしれない。


 でも、と芋づる式に妄想が拡大していくのがわかった。やめようと脳へ念じても、それは油を注ぐことにしかならない。


 過去をつまびらかに話して、それでも陽菜は私を受け入れてくれた。しかしそれは私の口というフィルターを通したから何とか呑み込めただけであって、仮にマキちゃんから濾過機を経ない直接の憎悪を浴びたのなら、どうなるのだろう。


 これまでの何もかもを、唾棄すべき汚れとして、私を見放したのなら、どうなるのだ。


 そうなったら私は。


 私は。


 手に感触があって、私は現実に引き戻された。モニターからは歌手グループが賑やかに新曲の宣伝をし、ムーディーな暖色のライトで暖房が利き過ぎの部屋を薄く照らしている。


 二階堂深月の説明は続いていた。まだ来たる文化祭がどれほど重要なものなのかをこんこんと説いている。


 私に手には陽菜の手が重なっていた。冷たさを与えるそれは細かく震えていて、差し迫る現実に対する恐怖が克明に表れているのがわかった。それでも陽菜は二階堂深月の話に耳を傾けて、ゆっくりだけど相槌を返そうと努力している。私をよすがとしながら、向き合おうとしている。


 映画を観に行った際、私の手は冷たかった。恐れていたからだ。


 お泊り会の日、陽菜の手は冷たかった。これもまたすがろうと脅えていたからだ。

 私たちは単体では非常に低温な生き物なのだと直感が突き抜ける。だから互いに寄り添って暖を取らないと、寒風吹きすさぶ社会で生きていくことが出来ない。


 心臓が落ち着くにつれて、脳も冷静さを取り戻していた。


 折よく二階堂深月の話もひと段落つくようで、彼女はドリンクバーのアイスコーヒーを飲み干した。


「ほどなくして体育祭です。そこから範囲の短い定期考査で、夏休みが正念場でしょう。締め切りは夏休み明けから一週間とありません。


 故に私などの非才な者は準備に汲々とせねばなりませんが、海原さんの如き才気煥発な方ならば、今からでも素晴らしい作品を仕上げられるはずだと信じています」


「……は、い」

「お願いします」


 深々と頭をさげる二階堂深月の姿からは、皮膚が総毛立つほどの狂おしい熱意が伝わってくる。世界史で習った殉教者の知識と、二階堂深月の輪郭が合わさって見えてしまった。


 方や信仰を重んじるばかりに非業の死を遂げた者、方や美術に対して一途過ぎるあまり無自覚に他者へ痛苦をもたらす者。テーブルの下でつながれた陽菜の手は汗ばみながら震えていた。私は握り返した。


 陽菜はこちらを一瞥し、軽く微笑む。儚くも存在感を放つその表情に、先ほどとは異なる意味合いで心臓が跳ねた。


 その琥珀を今度は二階堂深月へ注いだ。彼女は苦しげに唇を閉じてから、ひとつ息を吐くのだった。


「……あ、の。お花、摘みに」

「失礼しました。どうぞ」


 言うが早いか陽菜は立ち上がる。私は付いていこうとしたが、彼女にしては動きが機敏で立ち上がろうとしたときには既に扉が閉められた後だった。バタンと音が鳴って、友達の友達という間柄の私たちには気まずさだけが残される。


 無言が数分続いても、陽菜は戻ってくる気配がなかった。鞄は置いたままだし、陽菜は上着を脱いでいたから逃げ帰ったことはないと思う。あの娘はそういう部分が律儀だ。


 かねてより抱えていた疑問がある。今が絶好のタイミングだろう。


「あのさ」

「なんでしょうか」


 メロンソーダをちゅーちゅー吸いながら、極めて自然な風を装い尋ねる。


「前に、美術を侮辱するような絵って言ったよね」

「……まあ」二階堂深月は重苦しさと苦々しさとミックスしたような顔をしていた。


 別にこいつに嫌われようが知った事ではないので、お構いなく続ける。


「陽菜が明言こそしてないけどさ、そのこと気に病んでるみたいなんだ」

「……」


「別に謝れ、なんて言うつもりはないよ。二階堂さんだって二階堂さんなりの考えがあってだってこと、わかるから」


 すると二階堂深月は一直線に私を見据えた。

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