第7話

 楪の唇が頭から離れない。


 筆は握ったり離したりを繰り返しているのに、ゴールデンウィーク二日目に見た楪の面差しはいつまでも明滅し続け、徐々に存在感を増しつつある。


「うぅぅぅ」


 勉強に誘ってくれたことは嬉しい。これは偽りない感情だ。


 わたしは勉強が不得意だから足を引っ張るかもしれない。これもまた嘘じゃない。


 問題はわたしが楪の唇ばかり眺めてしまうかもしれない危険性にある。初恋が誰だったのか、そもそも恋というものをしたことがあるのかさえ覚えていないけれど、この衝動が大多数から背を向けるものだという自覚はあった。


 だってわたしは女だ。この身体は女性ホルモンの分泌によって縁どられたもので、それは楪だって同じなはず。


「……うぅぅ」


 そこは思考の焦点を置くべき部分ではなくて、問題なのは同じグループの子に対してそんな感情を向けている部分だ。わたしがやろうとしていることは、すなわち妹や弟にキスしようとしているのとなんら変わらない。


 ゆずりはと、キス。


「……ゆずりは、ゆずりは、ゆずりは」


 わたしは楪をどう思っているんだろう。


 恋なのだろうか。


 楪という少女が弱いことは一目でわかった。繊細で臆病で、でも背負ったものを投げ出せない優しいアンビバレントは、わたしをある方向へ動かすための原動力になっていた。いつしか楪をそこから解放してあげたいと考えるようになった。


 そしてあの日。楪は初めてわたしに縋ってくれた。


 運命だと思う。誰しも人生に一度は運命が巡ってくるのだと、お父さんは白い歯を覗かせ笑っていた。それが楪であり、楪にとってそれがわたしでありたい。


 だけど運命と恋とを結びつけるのは安直だと感じる。大袈裟な表現を使えば、共に天を戴く同志みたいな存在だって運命と呼んでもいいのではないか。劉備だって諸葛亮と出会わなければ勇名を轟かせてなどいなかっただろうし、彼らは同性だから恋に発展することなどなかったはずだ。


 同性、だから?


「……わたし」


 指先が唇に触れていたことに気付いた。


 なんの参考にもならない。わたしと楪だって同性で、それでこういう感情で悶々としているわけだから、彼らの間にそういうのがなかったと何故言い切れるのか。


「だめ、だめだと思います」


 これ以上このことについて考えるのは危険だ。うっかり衝動の手綱を手放してしまい、いまある関係を粉々に砕いてしまったらどうする。考えるだけで冬が極まったようだ。


 地面をナメクジみたいに這いながら、洗面所まで行く。


 寮母さんが丹精込めて拭いてくれた鏡に、自分の顔が映り込む。


 わたしの欲目を抜いても、楪は美人だと思う。あまり自分を着飾ることに興味がないのだろうけど、お洒落であるとは言い難い。それでも確かに顔立ちは整っている。クールな美人という俗っぽい表現があるけれど、わたしにとってそれは楪を指し示す言葉だった。


 それに比べて自分の顔はどうだ。これまでちゃんと見たことがなかったが、自信なさげに下ばかり向いている。可愛いのかどうかも定かじゃない。


「……笑顔」


 そういえば葉子さんはよく笑う。あの人の周りにいつも人がいるのは、そういうことに起因するのではないかと思う。


 ということは、笑顔とは人に好感を与えるロジックだ。考えてみればいつも仏頂面の人間よりも、どんな状況でも笑顔を絶やさない人の方が好人物として語られるケースが多い。


「そういうことなら」


 笑顔を作った方が、もしもの時、楪に拒まれずに済む。


「……やる。やります」


 鏡のなかのわたしに対して宣戦布告。


 結局思考を止められていないじゃないかと気付いた時には、既に日付が変わっていた。


 ※ ※ ※


 放課後になった途端慌ただしく出ていく連中をこれまではどこかで見下していたけれど、まさか自分がその立場に回るとは夢にも思わなかった。人生万事塞翁が馬である。


 正直言えば授業にも身が入らなかった。私の性質上視線には敏感なのだが、そのセンサーが陽菜からの熱線をずっと感知していたのだ。折に触れてチラチラ目配せするレベルじゃなくて、もはや凝視だった。


 そういう経緯もあってか、私個人も非常に意識してしまっている。急いで立ち上がろうとして、机に膝をぶつけてしまうくらいには。


 ガコンと大きな音が鳴って、教室中の視線が私に注がれた。篠突く雨みたいなそれから逃れて、抜き足差し足陽菜の下へ。


 うつむきながら荷物をまとめていた彼女が顔を上げると、琥珀色の温もりに包まれるように緊張がほぐれて行った。


「じゃ、どっちでしようか」

「……」

「陽菜?」

「はっ」


 陽菜は口が半開きのまま、私の顔へ視線を注いでいる。


「えーっと、なにかな。顔にハエでもとまってる?」

「あああぁぁあいえいえ、そんなことはないです、です」

「そ、そう」


 教室の照明が暖色なので気付かなかったが、陽菜の頬はうっすらと赤らんでいた。


 なんというか、むずむずする。それが何を意味しているのか頭が勝手に考え始めるより早く、私は話の穂を継いだ。


「じゃ、陽菜の所でいい? 私の部屋でもいいんだけど、一般寮だからルームメイトがいるし」

「ルぅムメイト……ですか」

「うん」


 何故そこに反応するのだろう。顔ばかり見ていた視線が下向きに、身体のラインを滑る。そうして陽菜はまた顔を赤らめた。前々からよくわからない子だったが、いつの間にか難易度が急上昇してしまったようだ。


 弛緩した空気が間延びして話題が行方不明になりそうなので、話は強引に切り替えた。


「お菓子とか買っていく?」

「お菓子……」

「定番らしいよね、勉強会でお菓子。やったことないからわからないけど」

「……じゃ、じゃあ、寄っていきましょうか」


 ひとしきり私のラインを往復した陽菜の眼差しは、興味をなくしたのかそっぽを向いてしまった。明らかに不自然な角度で横を向いているので、陽菜の顔がどんな色をしているのかさえわからない。


 横を向きながら歩くという奇行の結果、「あばっ」柱の角で額を打ち付けていた。


 ※ ※ ※


 湿布と菓子類が入ったビニール袋を片手に、特別寮への道を行く。


 五月の初週もたけなわで、これから徐々に雨が増えていくのだろう。空には分厚い雲が張っていて、まだ四時を回ったくらいだというのに薄暗かった。しかしながら気温は右肩上がりなので、そろそろカーディガンを脱いでも問題はなさそうだ。


 それでも暖房の利いた室内よりはいくらか肌寒いので、陽菜も頭を冷やせたようだ。湿布の上から額を抑え、私の隣を歩いていた。


 さっきまであんなに狼狽していたのが嘘のように落ち着き払っているので、物足りない気持ちが込み上げてくる。私は心持ち早口になりながら尋ねた。


「陽菜って勉強会とかしたことある?」

「……へ? あ、ない、ですけど」

「そっか」

「あの、どうして、そんな質問」

「あー……なんでだろう。うーん、気にしないで?」

「気になります」


 陽菜は毅然と遮った。墓穴を掘ったと後悔する。こうなると陽菜は簡単に引き下がってくれないのだと、最近になってようやくわかってきた。


 重苦しい無言の催促に圧されるけど、無い袖は振れなかった。私にだって答えのわからないものをどうやって説明しろというのだろう。今度は私が横を向いて逃げる番だった。


 そこで偶然見かけたものに足を止めた。「ゆずりは?」陽菜が振りかえって、そして気付いたようだ。開きかけた口を重苦しげに閉じた。


 二階堂深月だ。画材店から大荷物を持って出てきたところだった。制服姿のまま、邪魔な鞄はリュックサックみたいに背負っている。彼女はモデルみたいな体系だけど筋肉質ではないので、表情は思わしくなかった。


 私たちと二階堂深月はちょうど、河川を隔てた位置関係にある。人道上の理由のもと手伝いに行こうとしても、それは容易なことではなかった。向こう側へ渡るには、進むにせよ戻るにせよそれなりの距離を求められる。


 もう特別寮も近かったから、私たちが到着する頃には二階堂深月は帰宅を済ませるだろう。助けにいっても意味がないどころか、馬鹿を晒すだけだ。


 そういうわけで、私たちは立ち止まって、先に進む彼女を見送った。


 我ながら冷徹な理由で動かなかった私だけど、陽菜はどう思っていたのだろう。


 文化祭の日取りは、夏休みが明けてからすぐだった。


 絵画一枚を仕上げるのにどれくらい要するのかわからないけれど、少なくとも一朝一夕で為し遂げるものじゃないと思う。たった一枚を描くために人生を捧げた画家が存在していたって納得できる世界だ。


 二階堂深月がなにやら張り切っていたと噂していた連中がいたが、あるいは今からでも既に遅すぎる域にはいるのかもしれない。


 陽菜は進退窮まっていて、文化祭までに合格水準を超える絵を描かなければおしまいだ。


 勉強は私一人でも出来るし、学年上位とはいかないが中間辺りに収まれる自信はある。それに陽菜が特別推薦なことを鑑みれば、今日の勉強会は無意味どころか、陽菜から吟味の時間を奪い取るというマイナスの作用しか期待できそうになかった。


 昨晩誘いをかけた際、少し渋っていたことを思い出した。直前に聞こえた何かを仕舞い込むような音は、もしかして画材を片付けていたのではないか。


 役に立たないどころか足を引っ張ってしまった。授業中に注がれた視線の正体とは敵意だったのではないかと、もはや侮辱に相当する考えまで浮かんでくる。足元がぐらつく。マキちゃんが戻ってくる。


 いや。頭を振る。


 なにも勉強会という形にしなくともよい。


 私は……私は、ただ単に陽菜と一緒にいたかっただけだ。だからその場にいる口実は、ゴールデンウィークで告げた通り愚痴を聞くだとか精神的なケアとかでもいい。陽菜がどうしてあの羊を描いたのか、そこに想像力を働かせれば、私の存在は決して負担にはならないはずだ。


 そう考えると、少しずつ不安が薄れていくのがわかった。


「陽菜、行こうか」

「え、あ、はい」


 軽く深呼吸。私の動揺を、どうやら陽菜は勘付いていないようだった。現実の時間は全く経過していなかった。


 しかし、二階堂深月の背中はもう見えなくなっていた。


「……あのさ」

「は、い?」

「今日泊まっていっていい?」

「へぇっ!?」


 陽菜がゼンマイ式の玩具のように跳ねる。またどこかにぶつけないか心配だ。

 その後は、ガクガク。顔が信号みたく赤くなったり青くなったりを繰り返していた。


「ゆずっ、りはっ、それって、どっいうこどっ、ですかぁっ!」

「お、落ち着きなよ。はい深呼吸」

「う、ううううすっ! ……すー、はー、すー、はー」


 ただでさえ体力のない陽菜をこれ以上刺激しちゃいけないので、河川の手すりに腰かけて人心地ついてもらうことにした。反応が過剰な天才画家さんは胸元に手を添えてラマーズめいた深呼吸を繰り返す。私より幾分か豊かな胸が、呼吸に合わせて浅く上下する。


 雲間から夕焼けが鋭く差すくらいになって、ようやっと陽菜は面を上げた。幼さの抜けきらない可愛らしい顔立ちには幾らか朱が残っていた。


「……ゆずりは、もしかして、ですけど。わたしのため、ですか?」


 なにがだ。陽菜の言動を思い返せば小休止を設けたことは「ありがとう」と簡潔に伝える。それ以外に心当たりはない。


「えーっと、ごめん。話が把握できないや」

「ゆ、ゆぅずりはが……その、あの、泊まっていってくれると言うのは、ルームメイトっ、と申し上げました、わたしのことを気遣ってくれてのことでしょうか」

「うぅん……?」


 泊まっていくことが陽菜への気遣いという繋がりは理解できるし、欣喜雀躍するほど嬉しいけど、どうしてそこでルームメイトの存在が出てくるのか謎だ。


「どういう、ことかな?」

「で、ですからっ……、ルームメイトさんが、その、ゆずりはと同じ部屋で暮らしているので、それを閑却しえない問題としたわたしが……でもそれは、その、ただのワガママでしかないんですけど、でも、その、友達っ、だから」


 怪訝な表情を隠せない私とは対照的に、陽菜は矢継ぎ早に言葉をつなごうとする。

 目にはいつになく力がこもっていた。なにがなんだかわからないけど、とりあえずこのまま喋り散らさせると酸欠でぶっ倒れそうだ。


「うんうんうん、なんだろう、うぃーあーフレンズ。いえーい」

「い、いぇーい」


 気の抜けるようなハイタッチ。力のない音が閑散とした通りに響き渡る。


 自分よりも焦る人が近くにいると却って冷静になっていくというのは本当みたいで、さっきまでの情緒不安定は雲散霧消していた。


 私は嘆息する。それは決して悪意に依るものではないと断言できた。何故なら、口の端で少し笑っている。


「……陽菜」

「は、はいっ!」

「さっきの質問だけどさ」

「……?」

「私も勉強会とかしたことなかったから、陽菜も同じで会って欲しかったんだと思う」


 気恥ずかしくて陽菜の方を向いているのがムズ痒い。私も赤面症のケがあるから、面の容態が心懸かりだ。誤魔化すために舌先で頬の内側をツンツンと小突きながら、「それだけだから。もう行こうか」その場を立ち去ろうと促す。


「――っ!」


 だから背中から抱き着かれた時には、驚きのあまり心臓が止まるかと思った。


 ひと気が無いのが幸いだ。こういう場面を葉子たちやクラスメイトに目撃されたらどうなるのだろう。前者はともかく、後者なら私もろとも登校拒否ぎみになるかもしれない。


 陽菜の体温は私よりずっと高かった。五月の中旬に突入しようという時分だが、まだ薄着では風邪を引いてしまう気候だ。だから早鐘を打つ陽菜の心臓と連動して、どんどん身体が熱くなっていく身体がなおのこと強調される。


「陽菜?」


 陽菜は何も言わないまま、私の背中に湿布をこすり付けていた。


 他人から触れられる経験には乏しい。私の表皮に残っている他人の履歴を辿っていけば、最近は大半が陽菜だろう。男性はもちろんのこと、女性でさえ大して接触はしない。


 もちろん男より女の方が、スキンシップが多いと知っていた。使いどころはないとしていたそんな知識が脳裏をよぎって、より一層陽菜の存在が近くに感じられる。いつか映画を観に行った日のように、薄暗く伸びた私たちの影が重なっていた。無限に続く洞のようなそれは、闇夜へと運ぶ嚮導艦のように思えた。


「……優しい、一緒だ、優しい、一緒だ」


 呪文のように言葉を転がす陽菜が、一体全体何を考えているのか読めないけど。

 まあ笑っているのは間違いなさそうだから別にいいやとうっちゃった。


 ※ ※ ※


 カーテンの向こうでは鋭い雨が降り始めたようなので、陽菜は窓を閉めに立ち上がった。私はチョコシューを一つ摘もうとしたけどもう空になっていたので、差し出した手をどうするべきか悩んでいた。


 一般寮への連絡も済み、帳が降りるまでひたすら机に向かっていた。向かいの陽菜は思っていたより学力があったので、私の出番が来ることは少なかった。喜ぶべきなのか悲しむべきなのかわからなかった私は、ひとまず曖昧な笑みを浮かべておいた。

 部屋には前にはなかった卓袱台のような机が置かれていた。「どうしたの、この机」尋ねたら、「えっと……寮母さんにお願いしたら、夜なのに」どうやら寮母に頼み込んで融通してもらったようだ。


 そして画材道具一式は押入れに仕舞ったと陽菜は自嘲げに言った。やっぱりあの物音は片付けていたものだったのだ。罪悪感が芽生えると同時に、じんわりと温かい血流が全身を駆け巡った。勉強もひと段落で肩から力が抜けていたこともあってか、私は頬がほぐれるのを抑えられなかった。陽菜も応じるようにニコリと笑うので、私は直視することが難しくなってしまった。


「そろそろ終わりにしよっか。陽菜物覚え良いし、これで安泰だと思う」

「はい……ありがとう、ございます」


 遠慮がちに会釈する陽菜は、私の言葉通りの生徒だった。


 白状すれば貯金なしから一年の勉強でララリアに入れるのだから、天野楪はこと勉学だけは才能があると思いあがっていたけど、やっぱり上には上がいる。スポンジみたいに吸収するという例えがあるけど、まさしくその通り。雨の匂いが漂い始めた頃合いには私が教えられている始末だった。


 ただ悔しさはなかった。


 陽菜の些細な仕草が目に留まって、それが普段より弾んでいることが何よりも嬉しかったからだ。流体だの何だと格好つけていたけれど、所詮ガキが強がっていたに過ぎないことを思い知らされる。母は正しかった。友達に無理を言って押しかけて、真向かいに笑い合っているこの有様のどこが流体なのだろうか。


「疲れたねー」

「はい……」


 ノートを鞄に仕舞いこんで、私は後ろへ倒れ込んだ。一般寮の床は大理石みたいな素材だけど、特別寮はフローリングでより家らしさがあった。


 時計へ目をやると、まだ八時を少し回ったくらい。テレビでは月9がこのあとすぐとか流れていて、菅田将暉が熱演を披露している。空を漂う雨雲は大盤振る舞いすることに決めたらしく、雨脚は増す一方だった。


 間断ない雨音が却って静寂を色濃くさせる。


「陽菜ってドラマとか観るの?」

「……えーっと、わかりません」

「わかった」


 自分でもどうなのかわからないほど興味がないということだ。


「ゆずりは、観るんですか?」

「いやー……テレビ自体あんまり」

「わたしもです」


 ちょっと聞き取りづらいほどに早口だった。何か返事を期待するような眼差しまでしている。舌先で頬をつんつんしながら疲れた頭を回す。


「あー……同じ、だね」

「はい、同じです」

「……」

「……」

「同じだねー」

「はい!」


 元気のいい返事に苦笑を浮かべた。


 さっき抱き着かれた一幕も、陽菜はやたらと私と同じであることを自己暗示みたく連呼していたのを思い出す。羊の額縁が巡り合わせたわけだから、そのことを再確認して安心したいのかな。


 陽菜はニコニコしながら赤面という器用なことをしていた。情報社会とは別の時空にありそうなその笑みを眺めやりながら考える。


 振りかえれば陽菜は私と何かを共有することに対し、強いこだわりを示すことが多かった。暗い廊下での絵画に共感したことへの指摘、友達という関係性への執着、私が優しい人だという譲らない主張などから、そのことが裏付けられる。


 じゃあどうして近しい人格を求めているのか、それが解せない。


 私は海原陽菜が社会的に色々問題を抱えるまでに至った経緯をまるで知らない。かつて踏み込んではならないと自分自身を御したけれど、事ここに至って勉強お泊り会を設けるまでになった。


 一度火が付いた好奇心はすぐに歯止めが利かなくなる。陽菜のことを知りたい。陽菜の過去に触れたい。――陽菜にもっと近づきたい。


「ゆ、ゆずりは」

「えっ? あぁ、うん。なに?」


 危ない。うっかり声が裏返るところだった。


「寝床……とか、あの、着替え……とか」

「そのことか。平気、さっき服取りに戻った時、ついでに毛布も押し込んできたから。寝る所はその辺でいいよ」


 静岡までの旅で大活躍した鞄を掲げる。妊婦さんみたくパンパンになっていた。


 部屋を見回せばベッドは一つしかないし、陽菜が来客用の布団まで用意しているはずがない。お泊りというのは私が急に言いだしたことなのだから、勉強机の用意は出来ても布団は流石にないだろう。


 ところが陽菜は首を横へ振った。


「風邪引いちゃいます」

「毛布あるし」

「引いちゃいます!」

「うお、おぉ……」


 そんな声を大にして言うってことは、意外にも用意があるのか。


 正直ありがたかった。女の子の常として、私も寒がりの部類に入る。だからいつも気温とか体温を意識していたのだ。


「あ、お布団あるんだ。ありがと、助かるよ」

「ぁう、いえ……」

「え、ないの?」

「ぅう……その、あの、えっと」


 そんなうつむかれてもごもごされても、私としては反応に困るんだけどなぁ。


 ともあれ陽菜の反応の限り、布団は期待できなさそうだ。しかしこの娘は分かりづらいだけで無意味な行動をすることはない。読み辛い深奥に何かしらの理由が潜んでいるはずなのだ。


 ちょっと考え、思い至った。特別寮の備え付けだから大きいのだと思うけれど、いやでも、それは。


「……ベッド?」

「………………はい」


 今の陽菜を冷水に浸せば温泉卵が作れそうだ。フィクションだったら頭から湯気が出ていると思う。


「いや、ですか?」

「いいとか嫌というより、なんで?」

「……ぅむ、めいと」

「ごめん、もっかい」

「ルームメイト、さんは、あの、同じ、部屋で、寝泊り、普通、なので……」


 陽菜は神父さまへ懺悔するような口調で訥々と明かす。いくら頭の悪い私でも、それが意味するところは読み取れた。


 放課後直後を思い出す。陽菜はルームメイトに謎の反応を見せていた。


 それが腑に落ちた瞬間、散らばった情報が磁石のように接合を始める。何故陽菜が私の身体のラインを目でなぞったのか、何故陽菜がお泊りという単語を強く意識したのか。


 とんとん拍子に辻褄が合い始め、それが描き出した真相を目の当たりにしてしまった。


 赤面を免れない。私と陽菜を冷水に浸けたらたちまち沸騰しそうだ。


「……そ、そうなんだ」

「……うす」


 嫉妬だ。


 私も新幹線でした、嫉妬である。


「いやでも、ルームメイトとそこまで仲良くないし、むしろ互いに無関心って前にも」


 おどけるように言うと、陽菜は珍しく流暢に反駁してきた。


「ですがルームメイトさんがゆずりはと同じ寝息を吸っていることは変わりありませんし、同じ湯船に浸かっていることは確定です! わ、わたしは、ゆずりはと同じ部屋でお勉強しかしていません!」

「え、えぇ……」

「ですから。ですからっ! わたしは、ゆずりはのお友達として、関心がないとされるルームメイトさんに後れを取るわけにはいかないんです! 一番がいいんです! 一緒に一番がいいんです!」

「お、重いよ陽菜……」


 いや、私も大概重たい自覚はあるけれど。


 それにしても二の句が継げないとはこういうことか。休みにぼーっとしていたら、実家に隕石が落下したと電話がかかってきた時のようだ。私も混乱しているのか比喩がわけわからない。


 陽菜は机を回り込んでにじり寄ってくる。あからさまに鼻息が荒かったので、私は同性相手に生理的な危機を察知せねばならなかった。いつもはたおやかな光を宿す琥珀色の瞳も、今は猛禽類のそれに見える。迂闊に拒否すると何をされるかわからないという威圧感があった。


「ゆ、ずりはっ、はっ、嫌ですか……? わぁぁわたわたし、気持ち悪いですか……?」

「いやそんなことないけどさ……」


 答えを濁すと、途端に瞳が潤んだ。なんというか、陽菜がここまで感情を露わにするのも珍しいなと冷静に分析する自分がいた。


 陽菜の面積で、一緒という称号がどれだけ重たい価値を持つのかが理解できた、気がする。それに私だってマキちゃんの一件を打ち明け、その所業もろとも友人として受け入れてもらったのだ。そんな立場で陽菜を拒むのは、果たして不誠実じゃあるまいか。


 正直に言えばもの凄く恥ずかしいけれど、それでも私に対してここまで必死になってくれるのは嬉しかった。それを加味すると、やっぱり私も重たいのだろう。


 真正面から陽菜を見るのが何だか照れくさくて、私は所在なさげに頬を掻きながら、


「ん、まあ、なんだろ。私もテスト前に風邪引いたら困るし、万が一ってこともあるし。うん」

「ですです」

「…………………………わかった。一緒に、寝る」

「~~~! はいっ、はいっ!」


 陽菜の笑みは何段階か飛び越して喜色満面へと進化した。いつか見た向日葵の笑顔だ。


 そんな顔をされると、こちらとしても肩肘を張るのがバカらしくなってくる。顔の赤みは引かないけれど、笑い返すくらいの余裕は生まれた。


 既に私の思慮から陽菜の過去に対する疑問はすっぽり抜け落ちていて、一般寮とは違ってジャグジー機能の搭載してある湯船に浸りながら、馬鹿みたいに加速し始める拍動をたしなめるのに精一杯だった。


 ※ ※ ※


 画面の中で首位を独走する陽菜のヨッシー目がけて青甲羅を放った。分割された画面の片割れで爆発が起こり、現実だったら間違いなく死ぬ勢いでカートが宙に舞う。陽菜が唇を尖らせている間にNPCのクッパが一位を奪い去っていった。


 私といえば壁に激突してジュゲムに逆走していると怒られている。何とか立て直そうとしたが、今度はコースから外れてしまった。一位とはもう周回遅れだ。そうこうしている内に陽菜はファイナルラップに突入し、悪趣味にも緑甲羅を投げつけて亀の大王を粉砕しているところだった。


「陽菜、コントローラー交換しようよ」

「え? ……そ、そっちの方が新しいですよ?」

「いいから」


 半ば強引に取り換える。陽菜のコントローラーは当たり前だが持ち手が温かかったので、思わず飛び退きそうになってしまった。


「意味、ないと思います……」

「いいから。いいから。いいから」

「……わかりました」


 不承不承という体で陽菜は私の自分勝手を聞き入れてくれた。キャラクターセレクトを瞬時に終えた私たちは、再び決戦の円環へと舞い降りる。


 忌々しい雲亀風情がレースの開始を告げ、ヨッシーとロゼッタがエンジンを吹かす。軽快にスタートを切った陽菜は有象無象をぐんぐん追い抜き単身首位へ。私はブーストをミスし、スタート地点でぐるぐる回っていた。


「陽菜の完全独走はおかしいと思う。私が超えてやる」

「は、はぁ……」


 陽菜は私が放り投げた青甲羅から難なく立て直し、もう二週目へ突入しているところだった。私はドリフトの加速タイミングを誤って、崖の下にまっさかさまだった。


「なんで?」

「ど、どうしてでしょうね……」

「陽菜、得意なステージばかり選んでない?」

「ステージを選んでるのは、その、ゆずりはです……」


 ゲーム機本体に埃が積もっていたのも関わらず、ブランクを感じさせない陽菜は凄まじい速度でラップを駆け巡っていく。その折々で申し訳なさそうな目が私を撫でていくが、しかし加速する爬虫類はいつまでも止まらなかった。


「……え、うそ」

「あ、のー……他のゲーム」

「い、いいやもういい時間だし、明日学校だし、もう寝なきゃだし、うん」

「あ、はい……」


 なにもこれは負け惜しみだけではない。負け惜しみだけではないのだ。


 実際に一般寮の消灯時間はとうに過ぎてそろそろ日付が変わりそうになっていた。それでも点呼を取りに巡回が来たりしないから、特別寮の寮母さんは楽そうだ。


 そこで私たちを取り巻いていた活気は急逝の憂き目に遭った。ただ勝てない事実のみを映し出す液晶から逃れたくて発した提案だったが、それは取りも直さず、同じお布団に包まれて目を閉じるということだ。私からこのことを持ち出したことは、もしかするとそれを待ちわびているように陽菜の耳に響いたのではないかと思い、彼女を覗き見る。


 しかしそこにあるもので呆気にとられた。私に負けず劣らず赤面症を患っている陽菜だから、さぞ熟した果実のように朱を注いでいるものかと睨んでいたのだが、しかし現実は落ち着き払った表情で私を見ているだけだったのだ。


「……どうしたの?」

「あ、いえ」


 声をかけると我に返ったようだ。陽菜は取り繕うように早口で言った。


「そ、の……家族みたいだと、思いまして」

「家族ですか」

「……はい」


 伏し目がちの陽菜から注がれる熱っぽい視線はさすがに慣れたが、しかし今回のそれは普段とは違う属性を持っているように感じられた。


 記憶の片隅で何かのピースがつながる手ごたえを得た。それと連動して、ジャグジーの泡と一緒に溶けたはずの疑問がよみがえる。


 私は至って自然に笑うことができた。


「じゃあ身長的に陽菜がお姉ちゃんかな」

「へ、あ、いえ……ゆずりはの方がしっかりしているので」

「ううん、私がお姉ちゃん欲しいだけ。なんだろ、陽菜って気弱そうに見えて案外押し強いからさ、何か悪い事をしてもきっちり叱ってくれそうだなって」


 もしも今後、マキちゃんを繰り返そうとしたら、迷わず断罪してくれそうだという期待。


 むろん、それは一方的な願望に他ならないので、苦味を無視するように飲み込んでおく。


 すると陽菜はおもむろに片腕を持ち上げた。瞼が強張っているから、多分緊張している。なんだ殴られるのかと身を縮めると、ふと唇が開いた。


「……こ、こらー」

「え?」

「こらー……こらー!」


 もしかして姉になったつもりなのか。陽菜は一人っ子だと確信した。


 反応が芳しくなかった陽菜は途端に力が抜けたようで、へなへなと手をさげた。私を見る目に若干恨めしげなニュアンスが込められているのは気のせいだろうか。


「そ、その、お姉ちゃん……です」

「あー、うん」


 ここで上手い返しを思いつかない自分に軽い自己嫌悪を催しながらも、くずおれる陽菜を慰めるように撫でた。過剰反応が返ってくることもなく、重たい黒の長髪が、色合いに反し指の狭間を軽やかに流れていくのを心地よく眺めていた。


 陽菜はそのままされるがままで、私も指の間の空白を埋めるように彼女を撫で続けた。


 雨はいよいよ土砂降りに突入する。ララリアの石畳は舗装が粗雑なのか、土砂降りに打たれると下の土が泥水となって滲んでくることがあった。比較的お気に入りのローファーで来たことを後悔しながらも、雨音に耳を浸す。


「……もう寝ようか」

「まだ」

「え?」


 退けようとすると手首をがっちり掴まれて引き止められた。陽菜の握力は驚くほど強くて、動かそうと力を加えると痛みが走る。黒いすだれのような前髪に阻まれ瞳の色をうかがうことはできないが、私は彼女がなにかに脅えているという確信を得ていた。


 心持ち優しい音域で話す。


「駄目だよ。もう夜遅いから寝ないと。生活リズム整えるの、大変だよ?」

「いち、一度っ……治せたから、また、できます。ゆずりは、撫でて、撫でて……ゆずりは、ゆずりはぁ」


「……陽菜」


 これは普通じゃないと警鐘が鳴っている。


 誰にだって踏み込まれたくない領域はあるし、その部分を刺激されると安定を損なうのは明々白々だ。私にとってのマキちゃんがそうであるように。


 当たり障りのない人間関係を構築するために、多くの人間はそういう部分を察知すると避けるようになる。私たちは地球上で一番賢い種族とされているが、それでありながらも他人の土壌を丸ごと抱え込むことは困難を極めるだろう。ゆえに日々を生きるのに精一杯な私たちは、お互いの嫌な部分をシカトして付き合うしかない。


 だから流体としての私が――つまり社会と隣接する私が――海原陽菜からこれ以上依存されるのは危険だと訴えていた。このまま彼女を振り払って、さっさと一般寮へ逃げ帰った方がいい。前髪の一房が横にこぼれて、どんな目つきか晒される。泣きそうとも怒りともつかない目つきのまま、鋭い切っ先を私に向けていた。


 どうやらこいつは、私と一緒がいいし、私の一番がいいらしい。


「積極的なくせに甘えんぼだなぁ、陽菜は」


 私は拘束を振り払って、泣きそうな顔ごと胸のなかへ落とし込んだ。


 ふわりと彼女の香りが鼻孔を満たして、得られたのは安心感だった。私は陽菜に近づきたいと考えた。それはとりもなおさず彼女が無遠慮に接近してきた際に考えていたことと類似しているはずだ。


 だって流体だった私は、陽菜という器に閉じ込められているのだから。


 土砂降りなのは外で、この部屋は別世界のように静まり返っている。私はその揺籃で陽菜を抱きしめながら穏やかな笑みを湛えている。他人が怖くてたまらなかった弱い女が、他ならぬ人を引き寄せていることの意味を想う時、どうして私に拒絶の意思があると言えようか。


 他にも根拠は並べられる。新幹線で、私は葉子に嫉妬をした。羊の絵画に感銘を受ける心さえあれば、海原陽菜の隣にいるのは天野楪でなくともいいのではないかと。

 それは陽菜が私のルームメイトへ向けた感情と同じだ。


 また今日の放課後。陽菜から拒絶されるのではと被害妄想をたくましくしていた折、私の観念にマキちゃんが舞い戻ろうとしていた。つまり私は陽菜から追っ払われると不安になり、精神の安定を欠いてしまう状態にあるということだ。


 依存しているのは何も陽菜だけじゃない。矢印が互いを向くことの、なんという幸福だろう。


「陽菜は駄目なお姉ちゃんだなぁ。ロールプレイ的にさ、私妹でしょ? 妹の睡眠時間奪ってまで甘やかしてって……」

「……で、も。ゆずりは、こうして」

「うわ、くすぐったい」


 私は照明のリモコンを握ると、そのままベッドへと倒れた。


 陰影が消滅し、全ての影が真っ暗に混じりあう。その中に私たちのものも含まれていることは、きっと言うまでもないだろう。


「ゆずりは……あの、同じ布団に」

「うん。風邪引くのは嫌だしね」

「た、たた体温も……同じ、ですね」


 掛布団を羽織ると、もはや鼻腔を満たすどころではなくなった。陽菜の香りの中に身体がふよふよと浮遊しているようで、照れ臭くも心地よくもある。私は陽菜の身体に手を這わせて、彼女の手を探し当てることに成功した。


「へっ、あ、の」

「はい声出さない。私、今とんでもなく恥ずかしいから」


 やっぱり陽菜の手は冷たかった。偏った食生活は冷え性を招きやすいとはよく聞く話だが、普段の陽菜は何を食べているのだろう。特別寮はマンションらしさを優先し過ぎるあまり食堂の集まりなどがないらしいから、社会性に欠ける者はどうしてもコンビニエンスになりがちだ。


 だから体温が高いという自覚を得た私が、それを温めてやろうと思う。


 家族というものに異様な執着を見せる陽菜は、きっと何かを喪ったのだ。それがどういうもので、取り返しがつくのか否か判別ができないが、しかしこうして欠落した一部を補おうと私を求めてくれるのは満たされることだった。


 友達を見捨てた最低の女が、罪の意識から逃れるために陽菜へすがり付いたクズが、陽菜にとってかけがえのない価値を持っているということなのだから。


 指と指が絡まり合うと、私と彼女との境界線があいまいになっていくように感じる。


 心地よい心臓のリズムも予定調和の同調を見せて、その感慨がますます深まっていく。もう復帰することができなくなるくらいに。


「おやすみ」

「……はい。おやすみなさい」


 至近距離で見つめ合ううちに、このままキスしたらどうなるんだろうなって思った。

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