第6話
焼肉屋の帰り。車内は焦げとアルコールの臭気に満ちている。窓を開けたかったけど、いい具合に温まった空気を逃がしたくはなかった。
「ねえお母さん」
「あー?」
「……私ってさ」
「おう」
案外自分が赤面症なんだと気づかされる。何か意見しようとしたら、途端に顔が熱くなる。
「どこか、良い所、ある?」
「どしたの? 好きな男でも出来た?」
「え、いや、そんなんじゃないけど」
「お? これは……ふむ」
母は車の窓から外を見た。後部座席には私と母が、運転席に座る父はいつも通り無言で、目が虚ろで、心がない人に似ている。
顔立ちは私にそっくりだ。
「……楪のいいところ」
「そんな悩むかー」
「……あー、あったあった」
弁解するみたいに手を叩くけれど、それはそれで傷口を広げるだけなので止めて欲しい。
「で、いいところって?」
「責任感が強すぎるところ、かなー」
「……」
「いや、これって悪いところにもつながるからさ、ちょい迷った」
「なんで?」
「いや」
母は少し笑う。いつものとは毛色の違う、見透かすような笑み。
「あんた、我慢して人を好きになろうとしないじゃん」
赤信号。
「そんなことないよ」
「あります」
ぴしゃりと断言されて、少し気圧されてしまう。語勢が強かったのもある、身を乗り出してきたから物理的に退かざるを得なかったのもある。けれど一番の理由は、母の眼差しが私を責め立てるようだったから。
「あのね、楪。あんたは私たちのこと嫌いなのかもしれないけど、私はあんたのことを愛してるの。親として、人として」
「……」
「自分勝手って思うかもしれないけど、私としてはあんたに幸せになって欲しいわけ」
「でも」
「楪、逃げちゃ駄目」
車が急ブレーキをかけた。私が母の胸倉をつかんだからだ。
でもそれは儀礼的に動いたという方が強くて、実際、襟元にシワを作る私の握力は、簡単に振り払えるほど弱かった。鋭い呼吸が狭いスペースで角逐し合う。母の息には年月を感じて、そこからアルコールとかニコチンとか、私が知らないものを見出すことができる。
反面、陽菜のことはもっと知りたいと思うくせに、母が抱える知らないものには、嫌悪感しか湧かない。
「そのままでいたら、あんた自分が生きていることにさえ罪悪感覚えると思う。そのまま、自殺する。なんでそんな苦しんでんのかわかんないし、きっと私には、詳しく話してくれないんだろうけど……」
「黙れよ」
「……」
「わかったような口を利くな」
「あんたこそ、自己陶酔もいい加減にしたら? あんたが不幸になったら、ここに傷付く人がいるんだよ」
「……」
「楪、こっち見なさい」
「…………わかってる」
わかっている。私の体温で温められつつあるスマートフォンも、電源ボタンを押せば出逢える画面も、私がもう理解したからこそ、踏み出せた一歩だ。
だからこそ、こうして決別の証が欲しかった。
車が走り出す。繊細な父はこの空気に耐えられなくなったのか、黙って運転席の窓を開けた。鼻をつまみたくなるような臭いの渦が夜空へ溶けていく。
「楪」
母の声は穏やかだ。さっきまでの剣幕なんて、悪臭と一緒に逃げてしまったみたいに。
「あんたのこと好きな人もいる。そのことは分かって欲しかった。だからね、ちょっと無理させて帰って来てもらったの」
「ふーん」
「興味なさそうだね」
「うん。私クズだから」
「あー、確かに」
そうだ。私はクズだ。
けれどその意味合いはこれまでとは少し異なっていて、だからこそ私はすこし笑っているのだろう。
夜の街並みは車から見ると光の線みたいだ。光陰矢のごとしで、気が付けば高校二年が本格的に幕を開ける。人生の岐路に近づいていく。子供が大人になっていき、多くのことを受け入れ、また多くのことを切り捨てる。
こうして過ぎ去って行く風景の中にも、マキちゃんはいたのだろうか。
「もしもし、陽菜?」
「うん。ちゃんと明日帰るから」
「え、平気だよ。うち意外と裕福だから。こんな不景気なのにね」
「……うん、それでね」
「私も、打ち明けたいことがあるんだ」
「佐藤葉子って、知ってるよね。私、あいつから流体って呼ばれたんだ。干渉しないように生きているからだって。言い得て妙だよね」
「うん」
「それが生まれたワケ、陽菜に知って欲しい」
「じゃあね、また明日」
※ ※ ※
四月の二週目。わたしの扉は呆気なく開かれた。
「この絵さ、なんていうんだろ、いいねって思った」
天野楪というその少女の外見はララリアでは割あい派手な部類に入った。茶色い髪に、目立たない程度に抑えられたマニキュア、薄い唇は色つきのリップが塗られている。わたしは自分とこういう人種とは接点がないと考えていたので、少なからず驚かされた。
学校へ来いとその娘は言うので、ならばわたしも重たい腰を上げなければならなかった。どの道ララリアへ在籍し続けるためには、遅かれ早かれここから出なければならない。そういう意味合いも兼ねて、わたしはこの出逢いが祝福されたものなのだと確信した。
長かった髪をばっさり切ってから登校すると、前の方の席に楪はいた。
締め切り前の前美術部長みたいな顔をして、大儀そうに教科書を仕舞っている。ほんの少しだけ残っていた疑念もすっかり氷解し、わたしは挨拶をしようとその子の前に立った。楪が顔をあげる。瞳に力はなく、目頭からクマが伸びていた。
恥ずかしがり屋なのか、瞳が左右に動く。その度、黒目が花に留まろうとするハチのように揺れる。精神が不安定なんだとすぐにわかった。
「おはよう」
すると楪は挨拶を投げかけてくる。家から眺める池に、おっかなびっくり石を投じるような、慎重なものだった。
わたしは突っかかりながらも挨拶を返した。微熱がじんわりと胸の中に広がっていく。きっと狭苦しいであろう楪の世界に、わたしがいることが何よりも嬉しかった。思わずニコニコしてしまい、不審な目を向けられるくらいには。
ただ、横からちょっと変わった子が入って来て、その場はお流れになった。わたしはまた話したいという意思を伝えたけれど、楪は体力がないみたいで、昼休みになるや否やわたしを避けるようにさっさと食堂へ行ってしまった。
「よう、海原さん」
教室でパンをもそもそしていると、目の前にあの変わった子が座ってきた。楪は葉子と呼んでいた。「あ、ごめん。座っていい?」とはいえ彼女はもう椅子を持って来ていたので、わたしは頷かざるを得なかった。
茶色い髪をした人がこっちを睨んでいるので思わず竦んでしまったが、葉子さんが拝むように両手を合わせると、鼻を鳴らして去っていった。近くに金色の楯ロールという凄い髪型の人がいた。
なんというか、目立つ人たちだ。
「天野は?」
「……え?」
「いや、天野。お昼一緒してるかと思ったんだが」
「あ……あまのさん、行っちゃい、ました」
「えー、あのヘタレ」
忌憚ない物言いから気心の置けない間柄にあることはすぐにわかった。だとしたら葉子さんは楪がどういうものを抱えているのか知っているのかもしれない。そう踏んだわたしは必死に言葉を探した。
「あまのさん……って、どういう人、ですか?」
「こっちは興味津々なわけね」
頷く。葉子さんは晴れやかな笑みを浮かべた。
「どういう人って言っても……まあ、見ての通りだよ」
「み、てわからないから、聞いてるんです。教えてください」
「意外と押し強いな君……。うーん、なんだろ、ちょっと変な言い方になるけど、精神的な自傷癖があるな。言っちゃえばメンヘラ」
「メン……?」
「あ、ごめんごめん。心の容態が良くない人の中で、面倒な方向に拗らせてる奴ら。なまじっか珍妙に頭いいから、わけわかんない風に自己完して手に負えない」
その説明ならわたしも当てはまるなと思った。
理解されないというのは孤独だと思うけど、二人並んだら安心感へ裏返っていく。楪もわたしと同じだということで、運命だとする心持ちがますます膨れ上がった。
「あまのさん、と、友達、ですか?」
「あ? どうだろ」
「気にかけているようでしたので」
「んー……」
葉子さんはパンの袋を破くと、一口噛み砕いた。
「友達……じゃ、ないな」
「じゃあ」
「なんというか、ほっとけないのよ。一年の頃にしずまにそっくりだからさ」
「しずま?」
「ああ、私のカキタ……レ……ぅ、違う、フレンドだ。フレンド。ちぇけら」
言葉が尻すぼみに消えていく。楪はまるで悪人のように扱っていたけど、そんな悪い人じゃなさそうだ。捉えどころのない態度はきっと照れ隠しが婉曲的に現れているだけだろうし、憎まれ口を叩くのだって自信のなさを誤魔化すための落し蓋みたいなものに相違ない。
ところでカキタレってなんだろう。
わたしがこう分析していると、葉子さんはかなり強引に話をまとめあげた。
「ともかくだ。天野を何とかしてねってこと。海原さんにとっても悪い話じゃないと思うんだけど」
「は、はぃ……」
首肯する。どういう経緯でわたしと楪を噛みあわせたとか、そういうのは些末事に過ぎない。せっかく見つけた同類なのだから、見殺しになどするはずがないのだった。
そういうことを思い出しながら、わたしは楪が来るのを待っていた。昨日電話で伝えた通り、部屋はすっかり綺麗になっている。物言いから察するに楪の部屋は物が少ないから、前は嫌そうな顔をしていたのが印象的だった。つまり結構傷付いた。
だから今回はしっかりと反省を活かしたのだ。楪に嫌われたくないし、こうして親しくしていく以上、互いに不快感や余所余所しさなんてあっちゃいけないと思っている。気心を知り合った……そう、いうなれば家族のような関係性を築いていきたい。当人に明かしたら、きっと「友情が重たい」と苦笑いされるだろうけど。
けど重たいに関しては楪だって人のことを笑う資格なんてないだろう。あの子は家族の大切な時間よりもわたしを優先したのだ。それは取りも直さず、優先順位に組み込める距離まで近づけたということに他ならない。
それにあの子はわたしと同じだ。なにがと聞かれたら返答に窮するけど、同じなものは同じなのだから、こればかりは言葉でなく感覚じゃないと理解してもらうことは難しいだろう。それでいいと思う。理解してもらうことだけが、社会に参画することだけが、幸せの形じゃない。
ともすれば緩みそうになる頬を何とか引き締めながらウロウロしていると、求めていたインターホンが福音のごとく響き渡る。反射的に背筋がピンと伸びてうっかり転びそうになった。
「よっす」
大儀そうに片手を上げる楪は、なんだか垢抜けたように見えた。
「本当に綺麗になってる」
「片付け、苦労しました」
「まーあんだけ散らかってたらね。骨も折れるよ」
わたしが用意したクッションに座った楪は、ガサゴソと鞄を漁り始める。「はい、お土産」差し出してきた進物には、お茶の葉クッキーとあった。「それさ、一枚一枚違った場所に穴空いてるんだよね。パッケージの水玉に腹ペコあおむしみたいなの隠れてるじゃん。そいつが食い破った跡」何故か得意げだ。
更にジュースまで買ってきたと言うので、しばらく二人でクッキーを堪能することになった。名の通り抹茶みたいな風味のするクッキーをぱりぱりもそもそと賞味。紙コップにファンタメロンを注ぐけど、どう考えてもミスマッチだった。
「……私さ」
空くようになった窓を見ながら、楪がぽつりと切り出す。
「友達を不幸にしたんだ」
不意に楪が彼女らしからぬ行動に出た意味が腑に落ちた。
指先がほんのわずか震えていて、苦笑とも微笑ともつかない表情ながら、目が忙しなく泳いでいる。葉子さんが楪を放っておけないと評したのは、水島しずまさんと似ているという理由だけではない気がした。
葉子さんも楪も、本質的には臆病な女の子なのだ。
そして、わたしも。
安心できる。
「マキちゃんって言うんだ、その子。今だったら発達障害とかそういうのかな。ちょっと周りと遅れてる子で、でも成績の面だったらなんの問題もなくて、多分時代が時代なら変わった子で終われてたと思う」
言葉を重ねながら、想いを整理しているのがわかる。
基本的に楪はよく喋るという印象だった。ある時はおもねるように、またある時は本心をひた隠しにするように。
でもそれは本心からの言葉じゃない。彼女の本性はむしろ無口なのだ。
だから語彙の少ない楪本体が必死に言葉を探しているのだと考えると、胸の奥底に温かいものが溜まっていく。思わず衝動に身を任せたくなってしまう。
「この髪、染めてるわけじゃないんだ。地毛。ちょっと前の代でイングランドだったかな……その辺りの血が混じって、以来天野家はこんな色をしていますってやつ」
楪は肩口まで伸びた自らの茶髪をすくった。それは汚物に触れるような表情だった。
「小学生って、良くも悪くも素直でしょ? ガイジンってそりゃからかわれたよ。嫌だったなぁ……」
「ゆずりは、は……その、綺麗、ですよ?」
「いま言うことかな? ……うん、まあ、嬉しい。顔に自信ないから」
それは単に彼女が人との関わりを避けていたからだと分析する。あるいは見る目がない。だからこそわたしが楪の顔立ちを褒められたのだと思うと、ささやかな優越感に浸ることができた。
「まあその頃から人嫌いだったわけだけど、マキちゃんは全然そういうこと言わないんだよね。むしろ私と同じでさ、表面には出ないけど確かに避けられてたんだ。だから仲良くしてた。それであだ名がマキちゃん係だった」
「……」
「……で、まあ、そのマキちゃんが大きな失敗しちゃったんだよね。大勢の人に迷惑かけた。といっても小学校のクラス規模の話だよ?」
頷く。自嘲する口調の時の楪は、いつも以上に繊細だ。言葉でふれれば怖がってしまう。だからわたしはなるべく頷くようにしていた。
「非難囂々で、なんていうかもう、無残で。先生も仕方ないって風に諦めてて、じゃあこれは人間の正体なんだって思って、それで……えっと、失望したのかな」
楪は荒い呼吸を鎮めるように紙コップのファンタを一気に飲み干した。既に傾きつつある日が、室内を茜色に染め上げる。それは目じりに滲んだ液体をつまびらかにしてしまう。今にも泣きだしそうな楪は、不謹慎ながら今までの中で一番可愛らしかった。
「……怖かった」
既に声には嗚咽が混じっている。面を正面に保つことも厳しそうで、うつむいて、正座した膝の上で握りこぶしが二つ作られる。
「マキちゃんを庇いたかったけど、それで私とみんなとの違いが浮き彫りにされるのが、怖かった。マキちゃんが私を恨んでるんじゃないかって怖かった。またみんなと違うって思われるのが怖かった。お腹がむずむずするんだ、落ち着かなくなる、人が多いと、みんながこっち見てるようで、そんなことないのに、私になんか誰も興味ないのに、でもみんなが私を責めてるみたいで……いつも、いつも」
感情的な動きで顔が上げられた。頬に伝うものは明らかだった。
「……怖かったよぉ」
泣き顔の楪。弱い楪。一人じゃ生きられない楪。怖がりな楪。
わたしに逃げ込んできてくれた楪。
すべて愛しいと感じた。
だからわたしは彼女の手をとった。あの日と同じくぞっとするほど冷たい。今日はマニキュアを塗っていない華奢な指先を祈るように握り込む。わたしの体温が、楪の一部になればいい。
楪の顔に火が付いた。突然急所を触られたように飛び上がって、わたしと距離を取ろうとする。逃がすものかとこちらへ引き寄せた。肩まで伸びたさらさらの茶髪が胸の中に収まる。柑橘系のシャンプーを使っているのか、柚っぽい香りがする。名前と一緒だと笑みがこぼれた。
「……」
楪は話しだそうとした決意も忘れたように、しばらく呆然としていた。
怯えさせないように注意しながら、綺麗な茶髪を撫でる。指と指の間を滑る手触りは心地いい。
それは破城鎚となって、楪の防波堤を木端微塵に粉砕した。
嗚咽が漏れだす。泣き慣れていないのだろう、楪の嗚咽は工場の掘削に似た甲高い悲鳴と似ていた。
確かに楪の行動は褒められたものじゃないし、あるいは責められるのも当然なのかもしれない。同調圧力に屈したとそしりを受けるのも、やむなきことだ。
でもそんな善悪の可否はわたしにとってはどうでもいいことだった。大局的に見た天野楪が善人であろうが悪人であろうが、楪であることには変わりはない。大事なのはそこで、それ以外は切り捨ててしまっても構わない部分だ。
映画のことを思い出した。全てかなぐり捨ててヒロインを選んだ主人公。セレクトがあの映画だったことは、果たして偶然なのか。
運命、運命。運命、運命、運命。
「……」
「……」
どのくらい時間が経っただろう。外はすっかり暗くなっていた。
「……陽菜」
胸の中で声が漏れる。吐息がちょっぴりくすぐったい。
「なん、ですか?」
「……なんでもない」
柔らかく緩む楪の唇が、薄暗闇の中映えて見える。
胸の奥で埋火みたく揺らめく衝動を、楪も抱えていてくれればいいなと思った。
※ ※ ※
テスト期間が憂鬱とよく言われるが、それは趣味や遊びが封じられるからだと思う。
趣味がない私としては、何も考えずやるべきことを与えられるのでむしろ気が楽な期間だった。ただじっとしているのもそれはそれで苦痛なのだ。
ノートを見返し、要点をルーズリーフへ書き写していく。描き終えたらそれを隠して暗唱してみる。出来ていたら次のページへ、そうでなければもう一周。
二年も序盤なので範囲は狭く、比較的難易度は低い。陽が傾く頃にはあらかた暗記を終えていた。もっともただ暗記しただけで実用の段階には至っていないので、明日には半分以上忘れているだろう。
散らかったルーズリーフの始末を終えると、気が抜けたのか陽菜のことを思い出した。そういえばあの娘の学力に詳しくない。気温の高低差について知らなかったことからそこまで賢くはなさそうだけど、どうだろう。
「……友達だし」
普通だよ普通と言い聞かせながら、スマホ片手にベッドへ寝転ぶ。
LINE経由で電話をかけた。私からは初めてだなと考えながら、少し早まる拍動に耳を澄ませる。
間延びした数十秒が終わり、くぐもった陽菜の声が聞こえた。
「……ゆずりは?」
「あ、もしもし陽菜? いま、時間平気かな」
「もちろん、です」
電話口の向こうではガサゴソ物音が聞こえる。急いで何かを仕舞い込むような音だった。もしかして目の前の用事よりも私を優先してくれたのかも。そう考えると胸の火照りはより一層温度を増す。
「あの、さ……」
なんと言えばいいのだろう。一緒に勉強をしよう? でもそれは脈絡がなくて不自然な気がする。いやそれは気負い過ぎだろう。友達なのだからもっと気楽に誘っても問題ないはずだ。でも友人関係と単純化しても色々な形があるわけで、中には慎重さを要する間柄があってもおかしくはないけど……。
頭と思考がぐるぐるし、勉強で疲れた頭がオーバーヒート気味に放熱する。目の前がくらくらしてきた。
「あの……ゆずりは? 大丈夫、ですか?」
「ああ、うん。ちょっとテスト勉強に没頭し過ぎたみたい」
そこで閃きが電撃となってほとばしった。
「そうだ。陽菜は、勉強とかしてるの?」
「えっ? あ……どうでしょう」
「もしっ! ……ごほん。もしよかったら、一緒に勉強とかしない? 私こう見えても成績は良いし、陽菜の役に立てると思う! ……思う」
身を乗り出して電話する私を、ルームメイトは奇異な目で見ていた。
「いいん、ですか? あの、わたし、そこまで……勉強できるわけじゃ。ゆずりはの、足引っ張るかも……」
「平気、だから。教えるのだって勉強になると思うし」
「で、でも……」
「あ、もしかして嫌……だった? ごめん、無理強いさせるところだった。いや、その、陽菜にも陽菜なりの事情があると思うし、学校に在籍するってことで絵に集中しなくちゃいけないから、そういうマクロな観点からするとテスト勉強なんて歯牙にかけてる暇なんてないよね。うん、ごめん」
「ゆずりは、その、早くて、聞き取れないです」
「あっ、ごめん……」
吹き出すような笑い声が聞こえる。横目で見やると、ルームメイトが雑誌で顔を隠してプルプル震えていた。軽く睨み据えたがどこ吹く風で、それどころか油を注ぐだけだった。
あらゆる意味で赤面しながら続ける。
「その……陽菜も陽菜なりの考えがあると思うから、ごめん。今回はなしってことで」
これは取りも直さず敗走に他ならなかったが、しかしこのまま電波がつながっていると、この正体不明な焦りまで伝わってしまいそうだった。指先を赤い受話器のアイコンまで伸ばそうとすると「あ、待ってください……!」切迫した陽菜の声で留められた。
再び耳にスマホを戻す。「なにニヤニヤしてんのよ」また笑われたけどもう気にしないことにしよう。今は陽菜に集中したい。
電話口の乱れた呼気を切り裂いて、陽菜はどこか毅然と言った。
「あの、来てもらって、構いません。いえ、むしろ来てください。ゆずりはに会いたい、です。お話ししたいです」
「……、……! ぅん……」
「明日の、放課後で、いいですか?」
「うん、うん!」
また久しぶりだ。歓喜に打ち震えるだなんて文字の世界にしか存在しない現象だと思っていたけど、何事も実在するからこそ言語たり得るのだなとわかる。
全身が震えて奥歯と奥歯が耳障りな音を立てる。スマホを持つ手に上手く力が入らないので、うっかり落として画面を割ってしまうかも。それなのに自分でも気持ち悪い笑みを象っているのがわかってしまう。脳が忙しさのあまりボイコットを起こしそうだった。
穏やかな息遣いが耳に触れる。陽菜も笑ってくれたのがわかった。
「楽しみにしています、ね」
「私も」
「それじゃあ、その……」
「あー……うん」
私はスマホから顔を離した。通話終了のアイコンに触れようとするが、さっきとは打って変わって指先が言うことを聞かない。まるで画面と反発する磁力が、電波が断たれるのを拒んでいるみたいだった。
通話時間のカウントは着々と増え続けている。まだ電話が切られていない。無機質な画面の奥に潜む陽菜を想像すると、私は狂ったチンパンジーみたいな奇声を上げながらベッドで転げまわりたくなった。
「ゆずりは」
陽菜の声がしたので急いで電話に耳を当てた。
「……優しいです、とっても」
「そう、かな。優しいのは、無理に付き合ってくれる陽菜だと思うけど」
「ふふっ」陽菜が笑う。何かおかしなことを言っただろうか。
「おやすみなさい」
その声はどこか大人びていて、図らずも私は虚を突かれることになってしまった。血液が顔面に押し寄せて熱を持ち、その一方で脳はこの期を逃すまいと急ピッチで返事の文言を作成している。上は大火事で下は洪水だ。どうしよう、わけわからない。
結局気の利いた挨拶は出来ず、そのまま電話が切れてしまった。機会を取り逃したことになるけど、マキちゃんの時のように寂寞が押し寄せることはない。
「……明日」
むしろ祭りの後みたく、浮ついた残滓が空気中を漂い、それに充てられた意識が遠くへいってしまう。具体的には特別寮の辺りまで。
「明日ぁ……」
「ねえ天野」
「わひゃっ」
魂が肉体へ戻った時には、ルームメイトがこちらのベッドまで椅子を寄せてきていた。基本的に不干渉の条約が結ばれていたので、私たちの部屋はベッドがそれぞれ両端に置かれている。不仲な兄妹さながら間にカーテンが引かれたりはしていない。
微熱が休息に冷却されていく。私は目を眇めながら、
「……なに?」
「なに、とはご挨拶ね」
「現実でそんな言い回しする人初めて見た」
壁際まで退く。さっきまでの反応を思えば悪趣味極まりない質問を飛ばしてくるに決まっている。
同類としてそういう野次馬根性とは無縁の人だと捉えていたので、少なからず軽蔑の情が湧くのは避けられないことだった。
「なんか用? 勉強教えるのとかは嫌だけど」
「違うわよ。あんたに教わるほど落ちぶれてないっての」
「じゃなに?」
「天野も笑うんだと思って」
こいつも母みたいなこと言いやがる。辟易して嘆息しそうになり、寸でのところで押しとどめる。代わりに半眼を向けてやった。
「人のことをロボットみたいに言わないでよ」
「だって、いっつも景気悪い顔してるじゃない。それが急に表情豊かになったら不気味に思って当然でしょ?」
一理あった。私も葉子が何の前触れもなく無言になったら驚く、まではないにしても疑いの目で見てしまうはずだ。
というか、こいつが物申すレベルで顔が緩んでいたのか。もしかすると気付かぬうちに街中や校内でも間抜け面を晒していたかもしれない。そう考えると、やっぱりベッドでのた打ち回りたくなる。
「また笑ってるし」
「はぁっ!?」
「夜中に大きな声出すなうるさいくらえ」
枕を投げつけられた。
「人って変わるのねー。あいつもまともになんないかなぁー」
ルームメイトは自分の領土へ帰国すると、聞こえよがしにそんなことを言いだした。
返事してほしいのかな。面倒だなぁ。
意志の弱い逡巡が生じた末、私は黙っていることにした。関わってきたのは向こうからで、あまつさえ私は枕攻撃を食らっている。シカトして責められる謂れはないはずだ。
どうやらその選択は間違いじゃなかったようで、ルームメイトはこちらに一瞥さえくれなかった。独白が大きいだけみたいだ。
私は枕を抱きかかえながら、壁伝いに布団へもぐりこんだ。自分の口臭はわからない。歯磨きは怠ったことがないし刺激臭のするものは滅多に食べないから臭くはないはず。
暗闇のなか、私はどんな顔をしているのだろうか。
「……私って」
そんなに変わったのか。
自分の頬に触れたりしてみるが、以前との違いは実感できない。マキちゃんに捉われ続けることは償いにならないと理解したが、だからといって長年貫いた流体が変質する道理もない。私は依然として天野楪を演じ続けているつもりだった。
そのはずなのだが。
「陽菜」
名前を舌先で転がすと、胸の奥まったところがじんわりと温かくなる。それは少しずつ円を広げていき、やがて長年降り積もった雪原を溶かしていくのだろうか。
少し前の私ならきっとそれを罪と呼んだけれど、今は。
……陽菜となら悪くないかな。
心の中で呟いただけなのに、視界がグラつくほどの赤面が飛んできた。
少なくとも今日勉強した内容はすっぽり抜け落ちているだろう。溜め息と共に、私は目を閉じた。
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