第5話

 ララリアからバスに乗って渋谷まで、そこからメトロに揺られて東京駅。


 表参道で人がどっと乗って来たので思わず戻しそうになった。将来、毎日のように満員電車で圧縮されると考えたら暗澹たる気分が込み上げる。こんな社会不適合者に未来はあるのだろうか。


 迷路とはいかないものの、それなりに広い東京駅に迷いながらも、何とか東海道の乗り口を見つけることができた。インストールさせられたスマホアプリを提示してから改札を通る。昨日今日でよくもまあ席が取れたものだ。


 静岡行きのこだま号を待ちながら、何となしにLINEを開く。陽菜からの連絡はない。代わりに葉子から『夜は焼肉っしょ!』と送られてきている。これ、誘われているのかな。頬の内側を舌でつんつんしていると、『で、来る? 淫乱院さんの実家でバーベキュー。五時に校門。送り迎えはなんとリムジンです』当たっていた。葉子が誘うなど珍しい。


「ごめん、無理」

「なして」

「今から実家帰る」

「天野って実家あったんだ」

 私を植物だと思っているのか。

「どこなん?」

「静岡」

「お土産よろしくぅ」

「なにもないよ」

「じゃあカロリーメイト」


 このまま延々と意味のないラリーを重ねるのは無駄に思えた。別にわざわざスマホの画面を触ってまで、葉子と話したいとは思わない。あいつも周りに大勢の人がいて、その人たちはきっといい人だ。私が葉子の立場だったらきっと天野楪なんて相手にしないだろうし、きっと存在すら知らないはずだ。


 つまり私には葉子にそうさせるだけの何かがあって、それを満たすため一面的に求められていることになる。


「……そういうの、ほんとに勘弁」


 考えなきゃよかった。気も、頭も、お腹も、全部重たい。全身を巡る血液が水銀になってしまったようだ。


 葉子が私を求めても、私は葉子なんていらない。


 タイミングよく電車が滑り込んできた。慣性で逆巻く風が前髪を乱してしまい、見栄えが悪いので直さなくてはならなくなった。舌打ちすべきか嘆息か迷って、結果として舌打ちを選んだ。髪に触る。吐瀉物を掃除するような、排泄物を拭き取るような、食べ残しを片付けるような、この行いは私にとってそれらと同義だ。


 新幹線にトイレが付属していてよかった。一時間半も手が洗えないのでは気が狂ってしまっていただろうから。


 何度目かの手洗いを終えたら、ふと手の平に目が留まった。これまで散々薬品に浸していたのは陽菜に握りしめられた方の手だった。汚いものたちと一緒に、あの温もりまで洗い流してしまったように感じる。


 席に戻る。急いでスマホを取り出して、LINEの通知を確認した。


「……よっしゃ」


 隣に誰も座っていないのは幸いだった。変な目で見られてこの気分に水を差されるのはごめんだ。


「今はもう新幹線ですか」


 簡潔極まりなくて、ぶっきらぼうと感じても仕方のない一文だ。でも、その裏で陽菜が試行錯誤を繰り返している姿がまざまざと浮かび上がる。小さく笑いながら、入念に洗って綺麗になった指先で画面をなぞった。スマホの稼働する熱は、人肌のそれと似ていた。


「うん。新幹線だよ。富士山の写真でも送ろうか?」

「お願いします」


 返信にはちょっと時間がかかった。本当はいらないのだろうけど、建前上いると言った感じがありありと伝わってくる。


「お土産いる? 静岡何もないけど」

「大丈夫です。お気遣いなく」

「わかった」


 そうしてラリーは終わった。楽しみにしていた番組が終わったような、残された静けさが妙に耳に響く。


 窓に頭を預けながら、陽菜の線引きはどこだろうなと考える。


 例えば、あの子は周囲の目をそこまで気にしない。自分と外界の間に薄い膜みたいなものを張っていて、だいたいの干渉はそこで緩和されて彼女の意識に届かない。何度も言うが、それでも引きこもっていたのは、薄膜を貫く暴力的な批判が彼女を臓物ごとぶち抜いたからだ。あくまで想像の域を出ないが。


 また他にも、陽菜は見かけに寄らず大股で歩み寄ってくる。――きた。


 それはどうしてだろう。彼女が愛情とか友情とかに飢えているのは見ればわかる。羊を自分に見立て、自分と同じ属性の人間を見つけようとしていたことも、天野楪がその捜査網に引っかかったことも、わかる。


 だから卑屈な私はこういうことを考えてしまう。


 ……葉子でもいいのかなぁ。


 葉子も多分、あの絵をいいと感じると思う。


 あの日、プリントを届けに行ったのが葉子だとしたら。こうして陽菜とLINEしているのは葉子だったのかもしれない。手を握ったのが私じゃなくて、あの飄々としたクズだった世界があるのだとしたら、


 それは、


「やだな」


 はっきりと縁どられたのは、単純な独占欲だった。


 窓に映り込む自分の顔はいつも通り仏頂面で、どんな秘密を抱え込んでいるのか見当もつかない。


 私がわけのわからない理由で嫉妬している自覚はあった。葉子と陽菜という組み合わせは事実無根の被害妄想でしかなくて、実際には上手くいかないかもしれない。ありもしないことに気を煩わせるのは愚かでしかないはずなのに、ここから見える景色みたく簡単に通り過ぎてはくれなかった。


 ふたたびLINEを開くと、トップに海原陽菜とある。彼女の画面の一番上にも、私の名前が映し出されているのか気になって仕方ない。


 私が覚えている限りでは陽菜が私の他に親しい人はいない。二階堂深月なども候補に挙がるけれど、あんな一幕の後で呑気にメッセージを送り合うほど二人が図太い性格だとは思えなかった。


 ちゃんと根拠もある推測で、だから正解なはずだ。なんなら陽菜に尋ねてみればいい。スクリーンショットとの撮り方を教えればありのままを送ってくれるだろう。だけど私はそうしない。そうする勇気はどこにもなかった。


 もう富士山が眺望できる辺りまで来ていた。新幹線の旅も終盤だ。


 建前だけど、陽菜は欲しいと言っていたんだ。私は頭が悪いから、そういう機微に気付くことができない。


 口実を飲み込み、それを撮影した。


 ※ ※ ※


 久々に踏んだ実家の玄関には、他人の家の香りが漂っていた。


 隔世の感というものだろうか。リビングに置かれていたテレビは薄い最新型になっていたし、ガタガタやかましかった洗濯機も業者に修理を依頼したみたいで、すっかり物わかりがよくなっていた。


 家に大した思い入れがあったわけじゃないけど、それでも二階にある私の部屋からも聞こえる洗濯機の騒音とか、画質の悪い型落ちテレビとか、そういう所に実家という感覚が染みついていたのだなと実感させられる。


 いずれにせよ、息苦しいことには変わりがなかった。


 リビングでソファーに腰かけ、部屋を見回す。父の喫煙で心なしか黄ばんでいた壁紙も新しくなっていた。


 テレビでは見覚えのないバラエティが放送している。学生寮ではテレビを見るためにわざわざ共同の食堂まで行かなくちゃいけない。放送されているラインナップが様変わりしていることなど欠片も知らなかった。


「ふぇぁはははは! 神の恵みをありがたく受けとれぇ……」


 母は私に茶を点ててくれる。暇な時間がもったいないので茶道教室へ通うことにしたのだという。一口飲んでみたが、味が濃くて苦いくらいしか感想が出てこなかった。もちろんそんなことはおくびにも出さず、「ありがと」と笑みを浮かべておく。


「お父さんは?」

「あー、なんかシステムエラー起こったんだって。メンテナンスに駆り出されてた」


 父はシステムエンジニアをやっていた。忙しい時期と暇な時期との落差が激しくて、自律神経がやられるのかいつも目が据わっている。私が父について知っているのはそれくらいだった。母といつどこで出逢ったのかとか、そういうのは全く記憶にない。覚えていないだけかもしれない。


 だからこれまた「ふぅん」くらいしか言えなかった。


「大変だね」

「まぁねぇ。でも、お父さんが高給取りだから、あんた良い学校通えてんのよ? 感謝なさい?」

「うん、もちろん。今の私があるのはお母さんとお父さんあってこそだし、だから期待に応えなきゃって思ってる」


 私は鞄からプリントを取り出した。去年のテストをまとめたプリントで、各科目の私の点数が列記してある。母はその数字一つ一つに目を通し、満足げにうんうんと頷いていた。文理問わず平均点は超えていて、得意科目の現文は九十近い数字を叩きだしていた。


「楪は偉いねぇー、ほーれよしよし」

「ちょ、やめてよ」


 子犬にやるみたいに撫でてくる手を払いのける。母は憮然としたが大人しく引き下がり、自分の分の茶を点てにキッチンの方へ戻っていった。


 母がいなくなって、私は小さく息を吐いた。もう部屋に引き上げたいけれど、久闊を叙したのにすぐ引きこもるというのも愛想が悪いだろうという世間体で動くことが出来なかった。


 母が認識している天野楪というのは、思春期で気難しいけどやることはキチンと弁えている出来のいい娘だ。母の想像上に生息する私は、親子の再会に無感動な冷たい人間じゃない。そういう風に振る舞うのが、学費と生活費を賄ってもらっている私の義務だと思う。


 機嫌よく鼻歌を奏でる後ろ姿を見ると、私の半分がこの女で出来ている事実が嘘のように感じる。昔から社交的だったのだろう、高校はもちろん中学時代の友人が遊びに尋ねてくることだって何回もあった。


 こうして捻くれた私と対比すると、橋の下で拾われた子供だと打ち明けられても納得できてしまいそうだ。それがより一層息苦しさに拍車をかける。空気はこちらの方が何倍も澄んでいるはずなのに、陽菜の部屋の方がのびのびと息が出来ていた。


 気を遣わないといけないのは陽菜も母も変わらないはずなのに、両者を隔てる条件はなんなのだろう。考えている内にバラエティが終わって、昼ドラが始まった。陽菜と観た映画と同じ脚本家だと気づいたが、心底どうでもよかった。


「疲れた表情してる」

 ハッと顔を上げる。いつの間にか戻って来ていた母が頬をつんつん突いていた。

「お父さん帰ってきたら起こすから、部屋でちょっと寝てきたら?」

「いや、別に……私は」

「もー、リラックスするための帰省なのに、そこで疲れが増えてちゃ本末転倒でしょ? 部屋はそのままで、掃除だけしてあるから。ゆっくり休んできなさいな」


 それだけ言うと母は私をソファーから押しのけた。卓袱台みたいなテーブルにカップを置いて横になる。私がどうすべきか考えあぐねていると、軽薄に手を振って「ほらほら、休息も戦士の戦いだぞ」と急かした。


「……じゃあ、少し寝てくる」

「ん、あいよー。今夜は焼肉だからお楽しみに。村瀬ホールの方の飯田さんとこ、あんた好きだったでしょ?」

「あー、うん」


 焼肉か、と思った。葉子といい、運命の神様はどうしても私に焼肉を食わせたいみたい。階段を昇りながら腹を摘んでみるけど、皮膚をつねるみたいな形になってすこぶる痛かった。痩せすぎとよく言われる。


 マキちゃん事件前から食には興味がなかった。飯田さん夫婦が経営する昔懐かしい焼肉屋も、子供は肉が好きだという風潮で演技したからそう思われているだけだった。


 母の言葉通り、部屋は確かに出て行ったときそのままで保たれていた。埃の堆積もベッドがダニの巣窟になっていることもなく、きちんと手は行き届いているようだ。


「あー……」


 上着と鞄を放り投げてベッドに倒れ込む。芳香剤と洗剤、それと窓際にベッドがあるからかお日様の香りがした。ダニの死臭だと聞いたことがあるけど、果たして真偽のほどはいかに。


「知らない天井だー……」


 ぼやきながら母から解放されたことに胸を撫で下ろす。他人の求める自分を演じることは酷く疲れる。出来るならば一生誰とも会わないで生きていきたいというのが本音だった。


 でも。私はスマホを起動する。LINEの通知が入っていて、陽菜からだった。

 送りつけた富士山の写真に対するコメントだ。「どうして春なのに雪が溶けないんでしょうか。不思議ですね」この子はひょっとしてお勉強が出来ない子なのかもしれない。


 すると、口元が綻んでいる自分に気付く。人から求められたくないくせに、それが陽菜からとなると嬉しい。それって結局のところ、自分に都合の悪いことは受け入れたくないっていうワガママへと通じる。


 その自覚は自己嫌悪を招いて、結果として私はいつだって溜め息ばかり吐く。もし吐息に質量があったのなら、私はとうに窒息死しているだろう。


 そうしているとさっきの疑問がかま首をもたげた。


「私のどこがいいんだろ」


 一応理由は思い当たる。私が羊の絵に共感したからだ。


 だけど、それで納得したくない。それだと他の奴に付け入る隙を与えてしまう。


 焼肉。母からそう言われて葉子を思い出し、またもやもやした感情が心に覆いかぶさった。あいつは何も悪くないのになぁ。掛布団を頭から被って諸々を遮断しようと試みるけれど、内側から湧いて出てきているのだから逆効果もいいところだった。

 いつまで経っても眠気がやって来ず、諦めて身を起こした。


 勉強机の前に立った。天板の上の簡易的な本棚には、ボロボロの参考書が数冊挟まっている。色あせた付箋が、受験勉強の形跡をうかがわせる。


 ガリ勉というわけではなかった。小中ともにテスト前くらいしか勉強しなかったし、それだって周囲がやっていたからという受動的な理由だ。平凡な私がララリアに入るのは苦労したけれど、それだって親から離れたいという一心に依る。


 次いで目が移ったのは本棚。人気のファッション雑誌が春夏秋冬一冊ずつ並んでいるが、いずれも新品同様の状態だった。これも流行に乗っかったというだけの理由しかない。私自身が自分を聞かざることに興味があるわけでは、ない。


 漫画も小説も数えるほどしかあらず、ゲーム機もぬいぐるみも玩具も映画もなにもない。クローゼットを開いた。衣類はララリアへ持って行った分しかない。つまり、私は服さえも必要最低限しか持ち合わせていないのだ。


 この部屋に住んでいた頃、自分は何をして過ごしていたのかを思い出そうとする。けれど健忘症でも発症してしまったのか、何一つとして浮かび上がってこない。


 記憶に残ることなど、なにもしていなかったのだ。


「……あーあ」


 なにがあーあなのか。それすら考えることを打っちゃって、家から出ることにした。


 普段は余計なほど働く頭が、今はゆっくりと休養に浸ってくれていた。過敏症気味な皮膚感覚も遠い所にあって、なかなか心地がいい。子供のころ間違えて祖父の日本酒を飲んだのを思い出す。あの感覚に似ていた。


 靴ひもを結んでいると、トイレから母が出てきて私を見咎めた。


「あれ、どこ行くの?」

「散歩してくる」

「ふーん、お父さん帰ってきたら連絡するから、そんな遠くいかないでね」

「あいよ」


 私は駆けだすように家を出た。すぐ後ろで扉が閉まると、自分の心臓が凄い勢いで鳴っていることに気付いた。


 元々こちらにいた頃から出歩く方じゃなかったので、足取りはすぐに衰えた。財布を開けば諭吉と樋口が一人ずつ、英世が数人肩を寄せ合っていたから、ちょっとした買い物ぐらいは耐えられるだろうけど、別段欲しいものはない。一人でカラオケなどの施設を利用するほど肝が据わっているわけじゃない。そもそもこの街に一人で遊べる施設があるのかさえ知らなかった。


 空っぽの部屋にいた時のような閉塞感が空から降ってくるような感じがする。もしかして私って鬱病なんじゃないかと疑念が湧いて出るけど、本当に病んでいるとそんな考えも浮かばないと耳にしたことがあった。


 爪先は右往左往し、見覚えのあるような、無いような、そんな生まれ故郷をあてどなくそぞろ歩く。新春キャンペーンと書かれたのぼりがそこここにあるけど、まるで関心が湧かない。私が子供の頃よりシャッターが増えた商店街を通るけど、寂れたなぁとしか思わなかった。


 不意に我に返って立ち止まった。私は空き地の前に立っていた。


 立て看板には『買収済み』とあって、その一帯に寂しげな結界が張られているような気がした。左右にはちゃんとした一軒家が建っていて、ここだけくり抜かれたように空白だから、そう感じるのかな。


「……引っ越したんだ、マキちゃん」


 小学生の頃の記憶が浮かび上がる。


 当時この近辺で殺人事件が起きて、PTAと学級委員との討議の末、小学生は集団で登下校することになった。


 マキちゃん係だった私は、わざわざ家への道を外れて送り迎えしていた。今以上に視野が狭くて、まだ自分が陰で笑われていることに気付いていなかった頃だ。


 何度かあがったこともあった。マキちゃんのお母さんはなかなか上品な奥さんで、家の中には美術品が結構飾られていたことを思い出す。今思えば、それなりに裕福だったから、マキちゃんはぞんざいな扱いを受けても笑っていられたのかもしれない。これは穿った味方だろうか。


 もしかすると陽菜の絵もそこにあったかもと思ったけど、二階堂深月と観た画集によれば処女作は小学五年くらいなので時期が合わなかった。


 私はその場で立ち尽くしていた。どうするべきか、どういう感情を抱くべきか迷う。


 でも操作している時点で不誠実だ。


 本格的に機を逃してしまった――そういうことなんだろう。


「なんか、私ってマキちゃんのことばっか考えてるなぁ……」


 いつまでも過去に捉われてばかりで、一歩を踏み出そうとしない。自虐的な箱に閉じこもってうじうじ言い訳だけ並べながら大きくなったのだ。それが面白く充実した人間であるはずがない。


 今さらながらその事実に直面して、少なからず傷付く自分がいたことに驚愕を禁じ得なかった。


 というか、なんでそんなこと気にするんだろう。


 私は流体で、他人と干渉しないように気を遣いながら生きる生物で、誰とだって均等な間柄でなくちゃいけない。


 嘘吐け。


 じゃあなんで自分らしさとか言い出したんだ。


 どうして陽菜が自分に懐いた理由を探り出したんだ。


 度を越したヘタレだから向き合えていないだけで、私は既に答えを知っているはずだ。


「わひゃっ」


 スマホの着信音にびっくりした。自分の中にわひゃなんて可愛らしい悲鳴が残っていたことにも驚いた。


 画面を見る。「……うわひゃ」また変な声が漏れた。周囲に人がいないのが幸いだ。


 噂をすれば影とはよく言ったものである。やっぱり古くから語り継がれてきた言葉には使い時があるからなのだろう。


 指先と画面が同極の磁石になったみたいに、通話に出ることにためらいが生じた。知らないうちにペースメーカーでも埋め込まれたのか、指先が受話器のアイコンと触れそうになる度に心臓から落ちつきがなくなる。


 でも連絡先を手渡したのも、電話をしてくれと頼んだのは私だ。


「……もっ、しもし」


 今の無様は私だ。声が盛大に裏返って、なんかもうそこの石垣に頭ぶつけて死にたい。


「ゆず、りはですか?」

「うん、うんうん。楪にかけてるんだから楪しか出ないと思うなぁ」

「……。そ、そうです、よね。はい」

「そうそう」


 喉の変なところから声が出て、陽菜はさぞおかしく感じているだろうなぁと妙に冷静な考えがよぎる。


「……えっと、どうしたの? やっぱお土産欲しくなった?」

「あ、いらないです」


 割ときっぱり断られた。男らしい潔さに尻込みしかけるけど、そこは勇気を振り絞って堪えた。


「じゃあ……絵について?」

「はい」


 何となく電話口の向こうでもコクコク首を振っているのだろうとわかった。瞼の裏側に見えた景色で、荒れ狂う理性が少しなだめられる。私は家に向かって歩き出した。こうして話していると、私の内側に広がる空洞に蓋がされる気がした。


「……ゆずりはは、何か趣味とかありますか?」

「ないよ。なんかの病気かってくらい、色々なことに興味がない」

「同じ……だ」

「うん」


 そこで天啓のように葉子のことが浮かび上がってきた。あいつは多趣味な人間だろう。私や陽菜が景観の一部としか見られないものにだって、豊かな感性で様々な感銘を得られる。反感を買うかもしれないという危惧で首根っこを押さえられ、縮こまるしか能のない私と、なんという違いだろう。


 だからこそ、私はそこに安心感を見いだせた。


 陽菜の部屋は溢れ返らんばかりの物に侵食されていたが、その内実は散文的で、ほとんどの物が見向きもされずに打ち捨てられている。まるで何かの欠損をその辺にあったもので強引に補おうとしていたかのように。


 本質的には、私の部屋となんら変わりがなかったのだ。


 私は内心で葉子に謝った。我ながら虫が良い生き物だと自嘲するけど、基本的にクズだから受け入れるしかなかった。


「……わたし、これまで打算で絵を描いてきたんです」

「打算?」


 不意に話が変わった。その奸智に長けた単語は、ほんわかした陽菜と今ひとつ嚙み合わない。


「はい。どんなのがみんな好きなのかが何となくわかったんです。その、設計図を、マスキングペーパーで描写するのと、おんなじでした」

「じゃあ、陽菜は」

「よく、わたしの絵を褒めてくれる人は、瑞々しい感性で織り成す……みたいな風に言ってくれます。でも、わたしはその絵に対してなんの思い入れもないんです。計算して書いているから、そこにわたしらしさが介在するスペースなんて残ってないんです」


 陽菜はいつになく能弁で、しかし口調は淡々とした渇いたものだった。そうしなければ被害が拡大してしまうからだと察しがついた。


「なんで打ち明けてくれたの?」


 私が問うと、陽菜は押し黙る。


 空は嫌味なほど晴れ渡っていたけれど、ゆっくりと過疎化が進行するこの街にひと気が少なくて、街全体が奇妙な空しさに水没しているみたいだった。


 そよぐ風が耳元を撫でると、どこかで空き缶の転がる音がする。小学生の集団が自転車で競走しながら私の傍らを走り去っていく。数少ない憩いの場だったスターバックスは撤退して、いまでは名も知れぬ飲食店が入っていた。


 長い沈黙だった。距離を探るような息遣いが響くばかりで、まだ言葉は降り積もらないみたいだ。私はさっきまでの自罰も忘れてずっとこうしていたいと願っていた。ゆったりと潮騒に包まれるようなこの時間は、随分久しぶりのものだったから。


「絵を、描きたいと思いました」

「うん」

「寮母さんにお願いして、部屋片付けて……その、パレットに顔料を練って」

「うん」

「……描けませんでした」


 涙の滲んだそれは、わかりやすいほどの懺悔だった。


「筆が、動きませんでした。どういう構図を引けばいいのかわからなくて、すぐに浮かんだのが二階堂さんになんて言えばいいのかってことでした」

「そっか」


 陽菜の中で生じた葛藤が、どういう経路を辿って私に告白するという結論へ行きついたのかは知る由もない。だが苦心に苦心を重ねた末に起こした行動なのだということは火を見るより明らかだった。


 だったら私もそうしなければならない。それが対等というものだ。


 言葉は思ったよりも滑らかに舌先を滑った。


「陽菜に嫉妬した」

「え?」


 声が上擦って本当に想定外だったことがわかる。まあそうだろう。字面だけ追えば話がつながっていない。


「あの絵が自分探しって言われて、ああ、じゃあ私は褒めたから懐かれたんだなって結論付けた。でもそれだったら、別にあの絵に共感できるんだったら他の奴でもいいんだって思って、陽菜に嫉妬した」

「……ゆ、ずりは?」

「それでどうして自分なんだろうっていう明確な根拠が欲しくて、私自分の部屋とか足跡とか辿ってみたんだけど、自分に何もなくって」

「え、え?」

「だから今陽菜がこうやって電話かけてくれたから、ものすごく安心した。いや、単に私がお願いしたからかけてくれたのかな……だとしたらすっごい恥ずかしいな私」

「……」


 陽菜はなにも言わないが、無言というわけではなかった。御し切れていない荒い吐息が耳元に吹きつけられている。なんか風の強い日に外で電話しているみたいな感じ。妙なくすぐったさが背筋を這い上がった。悪い感覚ではなかった。


「あのさ」

「ひゃはいっ!」

「明日帰ることにするよ。私絵に関しては無知だから、役に立たないかもしれないけど、愚痴聞いたりするくらいは出来るから」

「……」

「陽菜?」


 呼びかけるけど何もない。今度は吐息さえなくって、向こうの時間が止まってしまったみたいだった。


「ゆずりは」

「はい」


 ややあってから返答がくる。


「わわわわわぁったしも、ゆずりは、一人で、その、帰ってきて、嬉しいっ! ……ので、ですので、はい、あの、待ってますから。待っていますから、はい、来て、ください」


 句読点を散りばめた断末魔と共に電話が切れた。なにが言いたかったのか正直よくわからなかったけど、喜んでくれたことは十二分に伝わった。思わず笑みが漏れる。一矢報いてやった心地だった。


 そこで私は気づく。


「マキちゃんのこと、思ったより引きずってないな」


 いつもの天野楪なら些細な言葉が身につまされ、際限なく被害妄想が拡大していただろう。マキちゃんが引っ越したのは私が敵に回ったせいで街に居づらくなったから、とか。その末路で大よそ会話が困難になるのに、今は頭も心もクリアな状態だった。


「あんれ? なんか良い事あった?」


 母の声で顔を上げる。玄関口、外行きに着替えた母がスマホを取り出していた。気付けば家に着いていたようだ。車庫の方には父の黒い車があるから、ちょうど私を呼び出そうとしていた所だろう。


「そんな顔してたかな」

「してたしてた。なんか、こう、ニヘラーって」


 なんてことだ。陽菜と通話したままどのくらい歩いたのかわからないけど、だらしのない顔を誰かに晒していたとなると、こう、凹む。

 すると母は快活に笑った。


「いいこった。楪はなんというかなー……いつもムッツリしてるじゃん? 作り笑顔ほんっっとうにヘッタクソだからねぇー」

「……え、うそ?」

「マジマジ、大マジ。すぐ顔に出るじゃん、あんた」


 二階堂深月に端を発する天野楪ポーカーフェイス下手くそ議論に終止符が打たれた瞬間であった。


「まあ、元気になったならいいや。ほら、乗りなよ。もう出るから」


 私はどういう顔をすべきか迷ったけど、母が急かすので、黙って後部座席に乗り込むしかなかった。

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