第4話

 待ち合わせなんてするのは何年振りだろう。少なくとも中学生の頃は学外で誰かと遊ぶ、なんてことはなかった。


 昨日よりも街中は人が多く、色彩は豊かに見えた。中でも若いカップルが多く目につく。ララリアの街並みはヨーロピアンを基調にしたもので、時たまテレビの撮影などが来ることもあった。私にとってはもう見飽きた風景だけど、これらに価値を見出す連中もいる。


 人が多いから刺々しい言い方になっている自覚はあった。表情に出なければいいのだが。


 陽菜はただでさえ臆病で繊細だから、私が不機嫌だったら一目で見抜いてしまうだろう。それは好ましくない。上手く説明できないけど、今日は辛気臭さとは無縁でいたかった。日曜日にはっちゃけたいという願望が、こんな人間にもあるのだろうか。

 それとも、別種の期待感か。


 待ち合わせていたのはシアター前の大通りだった。噴水を中心に小高い広場になっていて、小規模の公園みたいな空間だ。ちょうど昼時だからか、ちょうど直線で結べる位置のベンチでは、カップルが手作りのお弁当を睦まじく摘み合っていた。


「ほらぁ、まーくん、あーん」

「あ~ん……」

「おいしー?」

「おいしげっほがっほげほっげほっ!!!」


 マキちゃんの一件がなければ、今ごろはああいうことをしていたのかなと想像する。


 容姿に取り立てて自信はなかったけど、悲観するほどでもないと思っている。幸運なことにこれまで生きてきた中で容姿について悪く言われたことはなかった。


 もしかすると大ポカさえやらかさなければ、恋人も友達もいる、そんな普通の人生が送れたのかもしれない。


 けれど、別の世界に生きる自分を思い浮かべるのは難しい。こうして陽菜を待っている自分と、集団に混じって笑っている自分とでは途方もない懸隔が存在する。ここにいる私が向こう側に干渉できないように、向こう側の私もここにいる私など知る由もない。


 だからこういう経緯でここにいることには意味がある。そう考えたかった。


 感傷的になっていると、通りの最果てに陽菜の姿を見つけた。


 よたよたと頼りなげに歩いてくる。人ごみに慣れていないのが丸わかりで、麻薬常習犯のように目が据わっていた。


 陽菜のことだから制服をそのまま着てくるようなことは仕出かすと睨んでいたのだが、予想に反して服装は華やかだった。春風に溶け込むような桜色のワンピースに、パンプスみたいな白いスニーカーを履いている。明度の低い黒いロングを絶妙に中和して、まあ、なんだ、結構可愛かった。ファッション雑誌をコピペしただけの私が馬鹿みたいだ。


「どうも」


 駆け寄って声をかける。放っておいたらぶっ倒れて心無い人に連れ去られてしまいそうだった。


「平気? なんか顔色悪いけど」

「あ……はぃ。問題ない、です」


 声が尻すぼみに消える。問題しかなかった。この体たらくで体育の時間はどうするつもりなのだろう。死んでしまうのではないか。


「少し休む?」


 いきなり休憩というのもどうかと思うが、しかし陽菜は息をするのも汲々とした様子で、これを連れ回すのは流石に躊躇われた。ちょうど近場に喫茶店があったので、そこで上映までの時間を潰すことにした。


「いらっしゃいませー」


 こういう店に入ったことがないのだろう。オーダーで陽菜が挙動不審になっていたので、とりあえずカフェラテ二つを注文してあげた。汚い部屋にカフェオレの残骸が打ち捨ててあったので苦手ではないと思う。


 大学生くらいと思しき店員のお姉さんは、何故だか微笑ましげにこちらを見ていた。何となく気恥ずかしさを覚えて、風通しのいい場所を目指すことにする。


 割合混雑した中を掻き分けて、窓際の席を確保。少し熱くなった頬をいい感じに冷ましてくれる。


 腰を落ち着けた陽菜は、砂漠で干からびる寸前で救出された遭難者みたいになっていた。ただでさえ酷い猫背がもうエビの有様だ。ニートの社会復帰に付き合っているみたいで、思わず苦笑が漏れる。


「もしかして、こういうところ初めて?」


 コクコク。首の動きに合わせて髪がバッサバサなびいていた。


 胸の奥に流れていた川が、緩やかに流れているのを感じる。長い時間をかけて削り取られ奇形化した何かが、激しさに脅かされない流れだ。悪くないと思う自分がいた。


 カフェラテが運ばれてきた。一口飲んだがまだ苦い。角砂糖を手繰り寄せると並々注いだ。「うわぁ……」陽菜でさえドン引きしていた。


 何となくムカついたので少し意地悪な質問をしてやる。


「陽菜は映画って観る?」

「え?」

「映画」


 絶対に観ないだろうなという確信めいたものがあった。けれど映画に誘ったことから私が映画好きなのではないかと思い込んで、困り果てるのはわかっていた。そんな反応を見て楽しみたいという嗜虐心があった。


「えーっと、あの……ゾンビ、とか」

「ゾンビって言っても色々あるよね。古きよきロメロの土葬されていた死体がよみがえるパターンとか、最近だったらファイナルエクスプレスだったっけ、ウィルスに感染して全力疾走してくるのとか。私、ゾンビスクールとか好きなんだよね。内容は普通だったけど、PVの女の子の頭皮ごと抉れるシーンがなんか、こう、癖になっちゃってさ」

「……う、うす」


 体育会系の返事が返ってきた。私はたまらず吹き出した。陽菜は目を丸くする。


「ごめん、嘘。私も映画なんか観ないし、ルームメイトが借りてきたやつを横からチラ見するくらいだよ」

「それにしては、その、詳しい」

「スマホは凄いね。さっぱりわからん状態でもあれこれ教えてくれるんだから」


 画面にゾンビ映画愛好家が集う掲示板を表示させた。最新の書き込みには、さっき傾けたウンチクと寸分たがわぬ内容が書いてある。陽菜はふっと頬を綻ばせた。


「ゆ、ゆずりはも、そういうこと、するんですね」


 つい釣られて笑ってしまいそうな笑顔だった。だからつい気が緩んでしまう。


「あんまりしたことないかな」

「え?」

「私友達いないから」


 葉子が浮かぶけど、あいつは何となく違う位置に立っている気がする。淫乱院櫻子には悪いが、友達というより、同盟とかそういうニュアンスが近いだろう。


 陽菜は食い気味に身を乗り出してくる。


「じゃ、じゃあ、その、わたしが」

「んー、なんというか、そうなるわけだね」


 ゆいいつの友達。認めるのはくすぐったかったが、否定するのは自分の幼さを肯定するようで癪だった。


 それに陽菜からしてみてもこういう表現を好むのではないか。何となく、唯一とかただ一つとかそういう言葉が好きそうな印象を抱いていた。


「……友達」

「そうだね。フレンドフレンド」


 窓から見渡せる街路に、知っている顔が歩いていた。去年のクラスメイトで、付き合いとして何度か遊んだ程度の仲だ。


 私と陽菜が構築する関係を友人と呼称するのは間違っている気がする。あのクラスメイトが自らの友人と接する際、こうして何度も確認作業みたいな手間をかけはしないだろう。それがごく当たり前の友情というものなのだと思う。


 カフェラテをふぅふぅしながらチビチビ飲む陽菜を見遣った。私はこうしている自分達を表す単語を知らなかった。同盟とも違う、同志なんて高尚なものじゃない。恋人なんて論外だ。


 ただ、お互いがお互いを同種の生物だと確信しているのは疑いようもなかった。だからこそ陽菜は、その内向的な性格にも関わらず、こんなにも早く私との距離を詰めたのだ。だからこそ私は、その排他的な性向にも関わらず、陽菜の接近を許したのだ。


 故にこの席は風通しがよかった。人いきれで吐き気を催す心配はない。


「……と、ところで」

「ん?」

 陽菜が問いかけてくる。カップの中は空になっていた。

「何の映画を観るんですか?」

「恋愛だって。正反対の二人が結ばれて、最後は幸せな家族を築き上げてエンド」


 SNSで評判のよかったものを選んだ。女二人で恋愛映画を観るというのも些か無味乾燥の感が否めないけど、無難な内容なので失敗することはないと思う。


 ただ陽菜はすこし切なげな顔をした。瞬きをするとまた挙動不審にキョロキョロしていたので、ひょっとしたら見間違いだったのかもしれない。


 ※ ※ ※


 私が手招きすると、陽菜は怯えたようについてきた。そこまで大きくないシアターの、後ろから二番目の席だ。ララリアまで来てわざわざ映画なんて観ようとは思わないのか、上映数分前にも関わらず割りあい閑散としていた。


 表の賑わいとは別世界だ。陽菜も席に座ると、安心したように息を吐いた。カフェから劇場に移動する最中も、彼女はとても消耗していた。これで絵の才能がなかったら生きていられなかったんじゃないかと心配になる。


 どこかムーディーなライトも落ちて、劇場内は暗闇に沈む。


 白状すると、これは失敗だったと後悔し始めていた。というのも、私は昔から映画を観ていると眠たくなってしまった。画面の向こうの出来事はどこまでいっても私たちとは無関係で、登場人物が死のうが幸せになろうが、やってくる明日は変わらないと考えてしまう。そんなことをしているのなら、寝ていた方がマシだった。


 つまらない人間なのだろう、多分。達観しているくせに、精神年齢は幼いと来た。まるで救いようのない生き物だ。


 陽菜へプリントを届けた日、ウィンドウに映り込んだ自分の仏頂面を思い返した。いつまで経っても黒く染めない、肩まで伸びてきた茶髪を想った。


 陽菜はどうなのだろう。


 薄い暗がりのなか、その横顔を見る。緩やかな輪郭を辿る人形のような顔立ちを、見る。


 映画は観ない。情報の散乱した部屋にはDVDはおろか、フィクションの類さえなかった。言い訳するようにゲーム機が置いてあったけど、触れると指に埃の層が生まれるほど放置されていた。


 表情はなく、特徴的な色の瞳はただ一点スクリーンにだけ注がれている。


 質問をする暇もなく、ビデオカメラを被ったスーツの男がぬるぬるダンスをし始める。私は入口で買ったジンジャーエールを飲んだ。ズゾゾとストローが破廉恥な音を立てたけど、それを咎める者は誰もいなかった。


 スクリーンに映像が投影される。舞台は片田舎。季節は初冬。銀杏の葉がまだ生い茂る中、面の良い俳優がポケットに手を突っ込んで歩いている。


 単調なストーリーだった。受験、就職、恋愛、家族、金、友人、部活。若者が抱えそうな悩みをクローズアップし、それに寄り添う形で話が展開されていく。役者たちは真に迫った演技で捻じれた心中を吐露し、その悩みを解決するのではなく、理解して共感することこそが解決策として用意されている。私でも知っているような知名度のある役者を起用したこと以外、大して見どころがあるわけでもなかった。思い返せばSNSでの宣伝も、出演者を全面的に売り出していた。


 それでも陽菜は食い入るように観ていた。その横顔は画面の光に照らされて、案外表情豊かなのだと知らされる。私がどこかで見たことがあると切り捨てた中にも、陽菜は何かしらの刺激を得ているのかもしれない。


 羨ましさと形容し難いものがとぐろを巻いたけど、一呼吸挟めばすぅっと消えていた。


 ジンジャーエールはなくなっていた。


 物語も終盤に突入する。流れはよく覚えていないけど、ようやく夢が叶いそうだった主人公だったけれど、折悪しく不幸な事故によってヒロインが危篤状態に陥ってしまった。彼女の下へ向かえば夢を断念することになってしまうが、中盤辺りにあった鬱屈が晴れるシーンで、ヒロインから投げかけられた言葉を思い出した。


 自分と他人の間で揺れ動いていた主人公は、結局情を捨てることが出来なかった。


 Buck number手がける主題歌の流れる中、街中を疾走する俳優。背景には作中に登場した施設が映し出され、これまでの足跡をたどるような演出になっている。洟をすするような音が聞こえた。陽菜でも、もちろん私でもなかった。


 集中医療室へ運び込まれる前に間に合う主人公。もうここからは語るまでもないだろう。危険な手術になりそうでヒロインが強くいることが必要だったのだけど、主人公の応援によって生き残ることができた。すすり泣きの音が聞こえた。私はアクビを噛み殺すのに精一杯だった。


 ラストシーン。夢をかなぐり捨てた主人公は、どうやら周囲の期待を裏切ったことになったらしい。家族とも友人とも疎遠になって、積み上げてきた様々なものを失ってしまう。


 それでも隣にはヒロインがいた。二人ははにかみながら手を繋いで、また銀杏の中を歩いていく――


「おう」


 それが正直な感想だった。どうしてこう、私には共感性とか感受性とかそういうものが欠けているのだろう。他人から逃げていたからまともに育っていないのだ。自己解決。


「悲しい、結末でしたね」


 連れ立ってシアターを後にすると、陽菜がぽつりと漏らした。


「そうかな。普通にハッピーエンドの類だと思うけど」


「で、も。家族とは離ればなれになってしまったわけですし、これから生きていくにしても、昔との繋がりがなくなってしまう、じゃないですか。それは……悲しいことだと思います」


「……」

「ゆずりは?」


 陽菜は背中を折って顔を覗き込んでくる。綺麗な子だな、とぼんやり思った。外見的な意味でも、そうでなくとも。


 こうして二人で出かけている事実に、今さらながらほんのわずか薄汚い愉悦が現れる。


「昔との繋がりがなくたって、まあ人は今しか生きれないわけだし、それは慰め以上の意味を持たないと思うな」

「……そうでしょうか」


 彼女が存外頑固なのはもう知れたことだったけど、今回は今までのそれとは毛色が違うように思えた。


「その、わたしたちは、昔から続いて生きてきて、だからこそ、その、わたしがわたしであれるというか」

「まあ、そういう考えもあるよね」

「ゆずりは、過去が苦手ですか?」

 足が止まった。

「なんでそう思うの?」

「いつ、もは、その、なんというか、ゆるりとしてるんですけど、今は何だか、必死な感じがした……ので」


 私が視線を注いでいると陽菜は肩を縮めた。罪悪感と共に、落胆が胸の内に広がっていく。そこには幾らかの自己嫌悪も混じっていて、気付けば半ば強引に話を切り替えていた。


「夕飯はどうする?」

「え?」


 陽は既に傾き、街並みはハチミツのような暖色の海に沈んでいる。


 陽菜は急に遷移した話に戸惑いながらも、「え、と」口ごもって答えを紡ごうとしている。成長が早い。初対面からまだ一週間くらいしか経っていないけど、対人のブランクを埋めようと四苦八苦するその姿勢で、罪悪感は更に径を増した。


「陽菜は好きな食べ物とかないの?」

「……うぅ」


 ゴミ袋の中にはコンビニ弁当くらいしか見当たらなかったから、きっと食べ物に対する関心は薄いのだとわかっていたけれど、それでもビビリな私はそれを問わずにはいられなかった。考える隙を与えたくない。


 昼間味わった連帯感に似た感覚が、伸びる影みたいに圧延されて薄らいでいくのを、他人事のようにぼんやりと眺めていた。


「食べたいものないなら、私が決めるけど」

「そ、その」

「それとも一緒に食べるのは嫌だった? 他に予定とかあるかな。だったら私が押し付けがましかったってことで終わるけど」


 ごめんね。内心で謝りながら畳み掛けるけど、当の私にさえどうしてこんな気分になっているのかわからない。それは遠目からなら視認できるけど、いざ手にして矯めつ眇めつ眺めようとすれば途端に霧散してしまう。


 あらゆる意味が消え去って、そこに踏み込まれたくない一心で舌を動かしている。

 陽菜と目があった。


 ふっと、強張った表情が解けた。


「怖がらなくて、いいんですよ?」

「ごめん、なに言ってるのかさっぱり」

「わたしは……ゆずりはのことほとんど知りませんけど、それでも、知っていけたらいいなと思っています」

「素晴らしいフレンドシップだ。で、食べたいものリクエストは」


 軽やかな足音を残して、陽菜が前方に回り込む。その立ち位置からだと、伸びた影が私のものと重なって、より闇が広がっていく。


 彼女の笑顔を見ていると、手が伸ばされた。指と指の間が温かくなった。絡み合っている。公衆の面前で手を握り合う女を、一般開放の方々はどういう目で見るのだろうかと不安になるけれど、陽菜はそんなこと眼中にないみたいだ。ただ一点、私だけを見ている。


 怖がる、とこいつは言った。私は怖がっているのか。


「ゆずりはの友達です」


 その笑顔に打ちのめされた。


 隘路へ流れ込んでしまった私は、そこで器に収まってしまったのだ。


 どうして今日という日を設けたのか、答えは既に出ていた。その答えの下でクエスチョンの矢印を一方的に向け続けるのは私が厭っていた姿勢そのものだ。友達になりたいと提案したのは私である。じゃあ陽菜からさえ逃げるのは、かけたハシゴを外すのと一緒だ。


 私は陽菜を割りと気に入っている。


 付き合いは浅いから、軽薄だとそしられても致し方ない。それはわかっているのだけど、理屈が通じない領域で気に入ってしまっているのだからどうしろというのか。


 ごめんマキちゃん。


 本当にごめん、私どうしようもないね。


 君のことを不幸にしておいて、酷く限定的だけど、当の本人は他人を求めていると来た。ふざけんなって思うよね。ぶっ殺したいって思うよね。


 私もだよ。


 君に殺されても仕方ない。きっと私の行き先は地獄だ。第八地獄の底で、永遠に劫火に焼かれ続けるんだ。そうしないと人を不幸にした収まりがつかない。


 でもね、マキちゃん。この娘だって問題を抱えていて、きっと私の行動次第で今後の人生が決まってしまう。私が怖がって逃げだしたら、この娘はもっと不幸になっちゃう。


 それもまた、許されない罪だよね。


 私は君を言い訳に持ち出すような、人でなしだ。


 ごめんね。


 ごめん。


 天才画家というからには指先が変形していると思ったけど、案外そうではなくて、普通の女の子みたいにすべすべした弾力を返してくれた。カップルが気味悪そうに私たちを一瞥していくけど、不思議なことに気にならなかった。


「陽菜の友達だ」

「はい」


 そのまま歩き出す。陽菜といると久しぶりを随分と経験する。待ち合わせるのも、手を繋いだまま歩くのも、友達ができるのも、全部彼女が持って来てくれた事柄だった。


 救われているのは、もしかすると私なのかもしれない。


 ふざけた考えはすぐに噛み潰した。舌先に血の味が滲んで、少し涙が浮かんだ。


「それでなに食べるの?」

「え、その話、まだ……」

「嫌ならいいけど」

「あ、えーっと……その、ラーメン?」


 どうして疑問形なのだろう。


 口角が吊り上っていて、表情筋の使い方を久しぶりに実感したような気がした。

 これもまた久しぶりだ。


 ※ ※ ※


 家に帰って来い。電話口のお母さんは厳かに告げた。


「ゴールデンウィークでしょ? 出来のいい娘の顔が久々に見たい」

「そんなこと言ったって……休み明けたらもうテスト期間だしさ」

「全部帰って来いって言ってるわけじゃないわよ。二日か三日ぐらい。五月入ったら帰って来なさいよ。もう新幹線予約してあるから、メール確認して受け取っておくこと。約束ね。破ったら仕送りやめるから」

「……そもそも約束ってお互いに納得しないと成立しないんだけど」

「まあ理屈っぽい。お父さんに似たのかしらね」


 一方的に用件だけ放り投げて早々に電話を切ってしまう。私は舌打ちと溜め息とで迷ったけど、慣れ親しんだ後者に頼ろうと決めた。


「はぁぁぁぁ……」

「やめてよ景気悪いな」


 ルームメイトは鋭くねめつけてくる。これから学校へ向かうべく制服に着替えているのに、手にはいつものエセ科学雑誌が開かれていた。科学者になりたいのか都市伝説が好きなのかどっちだろう。


 今日はゴールデンウィーク前最後の登校日だった。我が麗しき母君は、私が学生らしく遊びの予定などを入れているなどと考えなかったのかと疑問が湧く。家族の前でも猫を被っていたけれど、もしかして通じていなかったのか。だとするとこれまでの演技も全部見抜かれていることになってしまう。そうなると私は随分な道化だ。


 考え続けると無限にマイナス方向に転がって行きそうなので、諦めて放課後の予定を立てる。コロコロのバッグは押入れに仕舞ってあるので引っ張り出して……いや、思い返せば私物などほとんどない。新幹線の時間つぶしのための文庫本が一、二冊あれば事足りた。


 引っ張り出したキャリーバッグを再び押し込んでから鞄を握った。ルームメイトはベッドへ寝転んでソシャゲの日課をこなしていた。


「だいぶ時間食ったな」

「は? 早くない?」

「遅いくらい」

「あっそ」


 興味がないなら何故訊いたのだろう。


 曲がりなりにも名門校の端くれであるララリアじゃ遅刻など御法度である。頭髪の染色を見逃す一方で、時間にルーズな者は社会不適合者の如く非難される。そうなると私のみならず陽菜にまで累が及ぶ可能性があった。


 走るのは苦手なんだけどなぁ。朝っぱらから電話をかけてきた自己中心的な母に責任転嫁しながら、私は駆け足で寮を出た。寮母が広島弁でなにか言っていたけど無視した。


 体育で習ったうろ覚えのリズムで爪先が軽快に地面を蹴り出す。よほど熱心な生徒以外はまだ部屋で寝転んでいるか、遅めの朝食と洒落込んでいるのだろう。ララリア敷地内はひと気がなかった。


 足が温まり意識しないでも一定のリズムを刻みだす。周囲に誰の目もないのを確かめ、ポケットからスマホを取り出した。時刻確認のためだ。


 授業開始が九時。一般寮から本校舎まで五分程度。そして現時刻は八時。


 特別寮は裏町の割と奥まったところにあって、往復するとそれなりに時間を食うことは前述した通り。本来ならば余裕を持って七時半には出たかった。例えまだ温度が一桁だろうが運動すると汗ばむものだ。


 人のために走っている自分を俯瞰すると、なんとも言えない気持ちに支配される。衛星写真で国境を眺めているような、干潮時の波打ち際にくるぶしを浸しているような、そんな二極の狭間でふらふらと揺れている気がする。


 それとは別種の不安も浮かんできた。我ながらどうかと思うが、私は陽菜の連絡先を知らなかった。だからこうして必死こいて急いでいても、行き違いになってしまう可能性もある。そうなった時の道化っぷりを想像すると、そこらの石垣に頭をぶつけて心でしまいそうだ。


 追い風に吹かれるように足が速くなる。クズが青春してるな。冷然とした言葉を突き刺して来たのは、今しがたすれ違ったもう一人の私だろうか。もう角を曲がってしまったので、背後を振り返っても人子一人いなかった。


 日頃の運動不足が祟った。特別寮に到着する頃には、自力で立っていられないほど困憊していた。スマホで時刻を確認すると、もう四十分を超えていた。


「……いや、なにしてんの私」


 いや、本当に、意味がわからない。計画性皆無の衝動的な思いつきで動いた結果、得られたのは多分遅刻するという未来だった。


 合理性も理論性にも欠ける、馬鹿の行動だ。


 天野楪が変質していっているのを如実に感じた。体内に砂鉄か何かを混ぜられてしまったのか、ある方位へ向けて積極的になっている。ただすり抜ける流体じゃない。指向性を持って流れを逆流する、いうなれば水銀に似たようなものへ。


 移ろいに対する所感を確かめようとしたけど、口元が僅かに緩んで答えを教えてくれた。


 視線を右手に乗せた。グーパーと開いて閉じて、記憶の中にある感触を再現しようと試みる。繊細で臆病な女の子かと思っていたのに、案外押しも我も強かった天才画家は、遠慮会釈もどこ吹く風でずかずかと踏み込んできた。


 けれどそれが出来るのなら、陽菜は一度や二度の挫折で崩れることはなかった。だからきっと、踏み込ませるように彼女を招いたのは私の言葉だ。学校へおいでよ、友達になろうよ。あるいはそれは、脆弱な私の心が発した悲鳴のようなものだったのかもしれない。


 自己嫌悪の黒が滲む。思えば私はいつだて自己嫌悪ばかりだ。その癖葉子を真似てかつかみどころのないように振る舞っている。真に臆病なのは誰だ。


「はぁ……」


 癖付いた溜め息も直さなきゃ。いよいよ遅刻間際になってしまったので、私は本校の方へ爪先を向けた。


「ゆ、ずりは?」

「あ……」


 手垢まみれの表現だけど、胸のベルが鳴るというのはこういう状況を指すのかも。


 陽菜がいた。少し暖かくなってきたので、藍色のブレザーを脱いでカーディガンを着ている。まだ洗濯糊の残滓のついたワイシャツが、清澄な日差しに打たれて純白に輝いていた。


 手を差し伸べられた気分になった。遅刻しそうだ、いつもこんな遅くに出ているのか、LINEを交換しよう……感情の激流に押し流されて、そんな諸々は用をなさなくなる。


「ぉはよ」

「へ?」

「おはよって言った」


 陽菜はしばし口を閉ざしていたけど、やがてくすぐったそうにはにかむ。


「おはよう」


 今すぐ返事するのは困難を極めている。よってお茶を濁すように頬をぽりぽり掻いた。


「……迎えに、来てくれたんです、か?」

「ん」


 頷く。陽菜のそれとは違って若干無愛想になってしまった。


「まあ、なんだ、友達だし」

「……!」


 感極まったような声が聞こえたけれど、私は爪先に目をやっていたから陽菜がどんな表情を浮かべたのはあずかり知らぬことだし、またそれを追及する必要もない。どちらにせよ、私には真正面から向き合うだけの度胸が足りていないのだった。



 滑り込む形で間に合った。教師は「二人ともいつも早いのにね」と苦笑いしていた。


 一限目の間、私はうつむいたまま死んでいた。慣れない疾走ともう一つの理由で心臓が正常に動作していなかったのだ。酸欠気味のまま意識を取り戻すと、授業終了のチャイムが鳴り終わった塩梅だった。


 陽菜は大事なかったのかと気になって、教室を見回した。「あれ?」しかし窓際後方二列目は、あの日と同じくぽっかり空いている。更に回旋すると、葉子が淫乱院櫻子とトランプで遊んでいる。目が合うと絡まれそうだから急いで視線を戻す。


 学校で行動を共にする場合、大抵は向こうから近寄ってくるのだが、いつも通りのそれがないともどかしさを覚えてしまう。


「保健室かな」


 休日の陽菜を思い出す。あの有様なら力尽きてベッドで横になりたいと感じてもおかしくはない。もしそうだとしたら責任の一端は私にもある。そういう口実で教室を後にした。


 休み明けにテストを控えているとはいえども、連休前に学内は浮足立っているように見えた。和気藹々と連休の予定を立てている集団を目の当たりにしても、胃に感じる重みが減っている。これは成長なのか惑ったけど、堂々巡りになりそうだったから考えるのをやめた。


 しかし代わりに浮かんできたのは母の宣告で、鬱屈に肩もろとも押し潰されてしまいそうになる。この年代の娘というのは往々にして放っておいてもらいたいものだと、うちの母はわからないのか。もしかしてアホなのか。親がアホだから私もアホなのか。


 帰りたくないと喚き散らせたらスッキリするかな。あそこにいるくらいなら寮でルームメイトとしかつめらしい表情を突き付けあわせている方がマシだ。


「……ですから、もうあまり猶予はありません」


 足を止めた。角の向こう、視聴覚室とか理科室がすし詰めになっている区画の方から、なにやら聞き覚えのある声が響いてきた。


「海原さん、今朝の通知は目にしましたか?」

「……は、はい」

「でしたら、遅刻まがいのことをしている余裕などないとお判りになるはずです。あれから、新作は描かれましたか?」

「……う、ゅ」


 私は探偵みたく身を隠した。


 その構図は、二階堂深月が陽菜を詰問しているように映る。飛び出して行こうと心が逸るが、深呼吸でそれを抑え込んだ。


 二階堂深月は続ける。珍しく焦りを孕んだ口調で、まくしたてるように。


「海原さんの絵は……大よそ素晴らしい出来です。天賦の才を持つ海原さんなら、今からでも合格ラインを軽く超えられる作品を描けるはずです。わかってください、もう進級さえ危ういんですよ?」


 え、うそ。喉元まで出かかった言葉を飲み下し、代わりにその意味について考える。


 特別寮に住んでいるということは、特別推薦でララリアの土を踏んだということだ。その進級条件はいわずもがな、推薦された分野で形に残る成果をあげること。特別寮は外観こそ華々しいが、その裏では熾烈な生存競争が絶えず繰り広げられている。これについてこられない生徒は力不足と見做され、容赦なく留年、才能が潰えたようなら退学の憂き目に遭う。


 私が最初の方に抱いた懸念が形を成そうとしている、ということだ。


 陽菜はたぶん、一人ぼっちの教室に耐えられないだろう。目覚ましい成長を遂げたとはいえ、今二階堂深月に説得されている陽菜は、当初のそれよりも病状が悪化しているように思えた。


 もしかすると、私といる時だけなのかな。


 頭を振った。今はそんなことを考える時じゃない。


「ともかく、通知の内容を再読し、今後の身の振り方を熟考するように。美術部部長ではなく、一海原陽菜ファンとしては、このまま身を持ち崩して欲しくはありません」

「……」

「お願いです。念頭に置き、今すぐ動き出してください」


 あらかた伝え終わったのか、二階堂深月は踵を返した。苛立たしげな心持ちが足取りに出ている。鉄面皮の下では狂おしい激情が渦巻いているのだろう、下手くそな隠れ方をする傍観者に気が付いた気配はなかった。


 陽菜は呆然と立ち尽くしている。表情は苦々しく、後悔しているようにも、二階堂深月を憎んでいるようにも執れる。


 それにしても合点がいった。陽菜はそこそこな優等生だ。学校に復帰してから欠席はおろか、遅刻さえしたことがない。だからこそ寮を出る時間を早めに設定していた。


 登校で合流できたのは、二階堂深月の言っていた通知とやらを読んでいたからなのだ。なんというか、皮肉な巡り合わせだった。


 陽菜は微動だにしない。性悪なメドゥーサに魅入られてしまったかのように、その場で立ち尽くしている。


 窓の位置が東向きにあったので、朝の陽光が影を縁取る。リノリウムの無機質な色合いの上に投げ出されたそれはとても短く、小さくて、今にも崩れ去ってしまいそうだ。夕陽に焼かれた長くて底の見えない影とは似ても似つかない。


 なんとかしなきゃ。やり方はわからないし思いつかないけど、何とかしてあげなくちゃ。


 合理性も理論性にも欠ける、馬鹿の行動だ。


 でも天野楪って基本的に思い込みの激しいアホなんだから、それがお似合いだろう。


 半ば焦燥感に蹴飛ばされるように、私は物陰から出てきた。陽菜が面を上げる。こちらの存在に気付いたようだ。笑いかける。陽菜は不器用に笑顔を作ろうとしたけど、目じりに浮かぶ液体は、何よりも雄弁に胸中を語っている。その姿勢にマグマよりも熱いものが込み上げて、抱き締めてしまいたくなる。


「えーっと」


 勢いだけで万事うまくいくのは少年漫画の世界だけで、現実では鈍く混乱気味な頭が、一体どう声をかけたらいいのか右往左往していた。


「……LINE、交換しようか」


 スマホを指差しながらスマイルを更ににこやかなものへする。陽菜は虚を突かれたように固まりながらも、何度も頷いてから恐る恐る端末を差し出してきた。


 私のLINEは登録されている友人の数こそ多いけれど、メッセージが飛んでくることはほとんどない。そんな墓標の連なりに、陽菜の名が現れる。画像どころか名前さえ本名そのままだったけれど、他の何よりも重たい価値を持って君臨していた。


 交換。つまり陽菜のスマホには私のデータが存在しているわけで、タイミングさえ合えば離れていても連絡し合うことができる。


 絵を描かなければならないのはわかった。欲を言えば自分からきっかけを生み出したかったが、そんなことを言っている場合ではない。


 描かせたいからといって危機感を煽るだけでは二階堂深月と変わらない。しかし彼女が間違っているとは思えなかった。悲痛な懇願を鑑みるに、心の底から陽菜を案じての行動であるのは疑うべくもない。彼女は何も陽菜を攻撃したいわけじゃないのだ。


 でもそうやって事実を突きつけることは、陽菜を追いつめるだけかもしれない。私はそんなことをしたくなかった。


 だから折衷案として、私という逃げ道を用意した。頭の悪い自分が尽くせる人事だ。


 それがどういう作用を引き起こすのかはまるで知れないけれど、また何もできないまま取りこぼしたくなかった。


 笑みを象る。社交的なそれとは違って、本心から笑おうとするのはとても難しかった。


「なんかあったら、遠慮なく連絡して欲しいな」

「なん、でも……?」

「うん。些細なことでも構わないし、何なら愚痴とかでもいいよ。メッセージ飛ばすのでも、電話……かけてきてもいいから」

「ぁ……ありがとうございます」


 お礼の言葉とは裏腹に、表情は曇っている。二限目開始が近づいているからか、まばらだった人影もすっかり失せていた。


 きっと陽菜は二階堂深月に従って、絵を描こうとするだろう。けれど私の見立てが正しければ、その筆先はなにも造り上げられない。陽菜がもう一度絵と向き合うのは、きっと独力じゃ為し遂げられないことだと思う。


 だからこそ一人で抱え込むんじゃなくて、私に縋って欲しかった。こいつが強引に手を握って来た時のように、暗く薄汚れた後者の片隅で、お前は黒い羊の絵に共感できるのだと指摘された時のように。


 これは彼女を見くびっていることになるのだろうか。私は、陽菜にとってなくてはならない存在でいたいのだろうか。


 だとしたら、二階堂深月に対抗心を抱いていることになる。陽菜に絵を描かせるのはお前ではなくて私なのだと、宣戦布告したようなものだ。どういう感情に立脚するのかを分析すると、何度も再確認した熱量へ行きつく。


 再認した瞬間、顔が熱くなった。こういうのは慣れていない。経験がない。


「教室、戻ろうか。そろそろ始まるから」


 そんな顔をこいつに見せたくはなくて、私は教室へと歩き出した。


「ゆずりは、やっぱり、優しい」


 背中に声が飛んできて、足が止まる。鈴を転がすとはいかないものの、穏やかに耳小骨を揺らす声音だった。


 その声は続ける。私を動揺させる声域を心得ているように、続ける。


「さっきの、お話……ですよね」

「なんのこと?」

「あの、わたしが傷ついているって思ってくれて、だから触れないようにして、でも、ゆずりは、優しいから」


 要領を得ない口ぶりは、しかし大要を言い当てている。また頭がくらくらし始めた。今度は前頭葉が委縮するようで、側頭部がぐるぐるするようで、後頭部が茹だるようで。


 頬の熱さが増した。カーディガンを脱ぎ捨てたい。


「……嬉しかった。その、ですから……ゆずりはに、いっぱい電話します」

「……」

「ゆずりは?」

「…………私、優しくなんかない」


 背後から控えめな笑い声が聞こえる。振りかえって、陽菜はどんな感じで笑うのか確かめたかった。


 けれど取りも直さず赤面を明かすことになるので、できなかった。

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