第3話

 休日は人と会わなくていいから楽だ。


 幸いにもルームメイトも私と同じようなスタンスの人間で、お互いに不干渉を貫いていた。今は向かいのベッドで変な雑誌を読んでいる。見出しはコペンハーゲン解釈に基づく並列世界論。文系なのでちんぷんかんぷんだ。


 私は無趣味の部類に入る。ユーチューブでよくわからない動画を見ることはあるが、それだって時間つぶしの域を出ない。じゃあ休日は何をしているのかというと、寝転んでぼんやりと天井を眺めているのだった。


「……」


 そうしていると、暇を持て余した脳みそがなにかを考えようと動き出す。そして浮かんできたのは陽菜のことだった。


 彼女は自分の絵を散々扱き下ろしていた。そうすることが自衛の一環であるように。


 豪奢な額縁に入れて飾っているくらいだから、何か思い入れのある一枚なのだろう。じゃあ予防線を引こうとしていたのか。私がお世辞を口にしたと考えて、真実を知った際のダメージを軽減するために。


 しかし、それでは陽菜が学校に来た説明がつかない。見知らぬ人間から少し誘われた程度で復帰できるほど、不登校とは浅い問題ではないはずだ。つまり私の評を心からの言葉だと解釈したのは間違いない。


 じゃあなんで?


「ぅうむ」


 私は傍らに投げ出してあったスマホを取り上げた。Googleの検索エンジンを起動して、海原陽菜と打ち込む。瞬きより早く何十万件もヒットした。Wikipediaで専門の記事まで作成されている。ララリアの特別寮に住んでいるという実績は、やっぱりとんでもない。


 そのまま指をスクロールさせ、陽菜の絵を何枚か表示した。


「……すごいな」


 美術に造詣のゾの字もない私が見ても、美術館に展示されるような作品群と遜色のない出来だとわかる。儚げながら力強い輪郭、幻想的な筆の運び、淡い色使いはフェルメールのそれらと勝るとも劣らない。陽菜の琥珀色の瞳と同じく、じっと眺めていると吸い込まれそうだった。


 更に検索ページを進めると、過去に取引された美術品の値段を記載しているサイトに行きつく。サイト内検索に陽菜の名前を打ち込んだ。最安値は、

「……二千万ですか」


 一介の学生に過ぎない私からしてみれば想像もつかない額だ。こんな単位の金が定期的に入ってくるのだとしたら、そりゃ他人との距離を測るために奢ろうとするだろう。それはそれで一種の悲劇であるように思えた。


 もしかして、そういう部分に自己嫌悪を感じているのだろうか。あるいは、見るからに自信が欠けていそうだから、自分には過ぎたものだと謙遜しているのか。


 更に巡っていくと、どうやら画集が販売しているようだ。全部で三冊。芸術系にしては珍しく重版がかかったほどらしい。逆にそんなレベルの有名人を知らないってのはどうなんだ天野楪。


 私はサイフの中身を確認していた。基本的に散財はしないので、諭吉がお二人鎮座しておられる。画集の値段を検めれば、三千円前後。


「あれ? どこか行くの?」


 上着を羽織った私にルームメイトが問いかけてくる。


「本買ってくる」

「あっそ」

「うん」


 興味ないなら何で訊いてきたのだろう。


 ※ ※ ※


 四月も下旬に突入すると、そろそろ温かさの兆しが見えてくる時分だ。


 茶色から緑へ息を吹き返した木々を見遣りながら、私の足は裏手の街まで向かう。休日だから一般開放さていて、絢爛なララリアの背景から浮かび上がっている組み合わせをいくつも見かけた。


 取りあえず本屋へ入る。いくつかコーナーを巡りながら、写真集とか置いてある一角を見つけ出した。だがそこへ立ち入るにはいささか私にはハードルが高かった。


「なるほど、なるほど……」


 というのも、葉子の取り巻きである縦ロールがそこにいたからだ。漫画のキャラみたいなですわ口調を素で使いこなしているから只者ではないのだろうけれど、如何せんどこか間抜けっぽい感じは拭えない。ページをめくるたびに頬を赤くしてフンフン頷いていたのがそうさせるのかも。


 見つかると絡まれるかもしれない。そう睨んだ私は抜き足差し足で離れようとした。しかし却ってそれが目立ってしまったのか、くりんとした二つの目がこちらを向く。


「あら。葉子のお友達ですの?」


 彼女はにっこりとほほ笑み、読み止しの本を丁寧に棚へ戻した。ちらっと見えたタイトルは『少女百合全集』。確かな音として戦慄が駆け抜けた。


「お初にお目にかかります、淫乱院櫻子さくらこと申しますわ。以後お見知りおきを」


 スカートの裾を摘みあげる古風な仕草で、女は淫乱院櫻子と名乗った。淫乱院ということは、旧財閥の流れを組む由緒正しき名家だ。戦後の財閥解体に際して分割された三菱派閥の一つが成長したのだと習った。生粋のお嬢様である。


 あらゆる衝撃で私がなにも言えないでいると、淫乱院櫻子は笑みを子供のようなそれに変え、更に距離を埋めてきた。「ひっ」ここまでの急な接近を許したのは久々だ。さっき読んでいた本もあいまって、喉から渇いた悲鳴が漏れる。


「ご心配なく、わたくしは単に葉子のお友達のことを知りたいに過ぎません」

「あ、あいつとは別に友達じゃ」

「あらあら、クラスの様子をうかがった際の葉子と同じことを言っています! 仲良しですわね!」


 一瞬、硬質な感情が顔を覗かせた。しかし次の瞬間には跡形もなく、私は現状に最適化されている。色取り取りの背表紙が並ぶ本屋の内装。心なしかさっきよりもくすんで映る。私ははつらつとしたお嬢様に合わせるべく、社交的な笑みを象っていた。


「仲良し、かな。同じことを言っているんなら、きっとそうなんだろうね」

「……あら?」


 淫乱院櫻子はふと首を傾げた。賑やかな外見と違わず表情がコロコロ変わる。


 すると子供が不思議な虫を見つけたように、私を視線でなぞり始める。出会って数分と経っていないのに、触れた部分がレントゲンよろしく透過するような、ざわざわする感覚が腹の底で温度を上げた。


「あ、あの、なにかな」


 苦笑するけど今すぐ逃げ出したい。やっぱりそういう系統の人間なのでは。興味がないから差別する気も起きないけど、当事者になるほど世俗を捨ててはいない。


 つい先日も似たような状況に陥ったなと思い出す。相手がキテレツなお嬢様か、元引きこもりの天才かで随分違った。ともあれ目立つのも冷や汗が出るのも一緒だった。


「うふふ、そう無理をなさらなくてもよろしくてよ? 嫌だと仰るなら、わたくしはすぐに引きますもの」

「……え?」


 しばし、会話の文脈を探すのに苦労する。「うふふ」しかし淫乱院櫻子は笑うばかりで判断材料を零さない。


 戸惑う私に、彼女は笑みの種類を申し訳なさそうな形に変えた。唇に指を添えた上品な笑いだ。


「あらあら、ごめんなさい……わたくしったら。つい癖で?」

「癖って」


 ほぼ初対面の人間をじろじろ眺めるのがそうだと言うのか。淫乱院櫻子は弁明するように続けた。


「お恥ずかしながら……わたくし、みなさまより一つ年上になりまして……」

「そうなん、ですか。とても留年するようには見えませんけど……」

「ああいいえ、敬語など止めてくださいまし」


 くださいましとかリアルで初めて聞いた。ちょっと感動。


「それが、ですね……」


 天真爛漫だった彼女が、ほんの少し口ごもった。私はわずかに身構えた。


「一昨年、ちょっとした事故に遭いましたの。一年近く夢うつつを彷徨い歩き、目を開けると未来でしょう? 神様の悪戯かと思いましたわ」

「それは、そうだろうね」


 胃の中に次々と鉄球を投げ入れられているようだった。そんな話を私に聞かせて、果たしてどういう反応をしてもらいたいのだろう。同情すればいいのか、あるいはなんてことのない風に笑い飛ばせばいいのか。


 困る。私は受け流すだけだ。受け止めることや、受け入れることはできない。そういうのはもうたくさんだ。


 逃げ道を探し、陽菜の真似で視線を乱反射。さっきの百合写真集が置いてあった。女子校併設の本屋であれを扱うのもどうなのかなと思いつつも、話頭の切り替えに動員する。


「そういえば、さっきの本はなんなの? 百合、とか書いてあったけど」

「ああ、あれですか? あれはですね、葉子曰く、少女の友情の指南書だそうなのです!」


 なにやら間違った教育が施されていた。

 責任者に問いただす必要がある。責任者はどこか。


「恐れながらわたくし、友・情! に焦がれていますの。素晴らしいですわよね、あたかも水面で揺れ動く鏡面がごとき情感の数々! 触れれば溶ける綿雪のような、甘くそしてちょっぴり酸っぱい二人の距離感!」


 何やら語りに熱が入ってきたようだ。表情は酩酊し、恍惚としている。私はなんかもう色々ほっぽりだして葉子にクレームを入れたくなってきた。


「そして何より、素直になれないその精神! 本当は寂しいのに、本当は辛いのに、本当は見てほしいのに、そう言い出すことのできない、臆病な自尊心と尊大な羞恥心!」

「……」

「斯くの如き、おしなべて耽美である……そうは思いませんこと?」

「うん。そう、だね……?」


 ひとまずクライマックスを乗り越えて落ち着いてくれたようなので何よりだ。よほど力を込めて語ったのか、淫乱院櫻子は肩で息をしていた。こちらに目を配っていた連中は、一部オーディエンスと化していた。淫乱院櫻子に拍手を送る者までいる。なんだこれ。


 ともあれ、今日はこの本屋で買い物はできないだろう。注目を集めすぎたから、商品受け渡しで店員さんに愛想笑いされるかもしれない。


 近くに本屋があったのか記憶を整理していると、背後からツカツカという靴音が響いてきた。樹脂性のソールなのか、音は硬く冷え切っている。教師に怒られる顛末が脳裏をかすめる。そんなオチが付いたらいい物笑いの種だ。


 だがそんな危惧は数秒後に裏切られた。


「櫻子さん、目立ちますよ」


 冴え冴えとした、小さいながらも存在感のある声だった。


「あら、深月みつきではありませんの。ここへは、何を?」

「画集を買いに。最近復学したそうではありませんか、例の天才画家が」

「あらあら……敵に塩を、ですわね」

「微妙に違います」


 淫乱院さんとのやり取りの限り、親しい間柄であるようだ。敬語であるが、それをとがめないということは長い付き合いなのか、それとも陽菜と同じく生来の口調なのか。


「あら?」

「あ……」


 振り返ると、そこにいたのは見覚えのある人物だった。


 髪が長く、寒色照明の下で見ると、それはわずかに青みがかった色合いなのだとわかる。右手にはファンタグレープが握られ、左手の買い物籠には数冊の文庫本が積まれていた。


 なにより意志の強そうな切れ目の瞳。冷たい美人という表現がふさわしい。


「お知り合いですの?」


 淫乱院さんが問う。私はまごついた。微妙なラインで、どう評していいのか対応する言葉が浮かんでこない。口の中に溜まった唾液を飲み下したところで、彼女が口火を切った。


「知り合い、にはなるのでしょうか。海原陽菜が登校してきた前日、部屋の前で根競べをしていた方です」

「……どうも」


 そうして場を立ててもらうことで、私は初めて会釈を返すことができた。

 そう、この人はあの日特別寮で目を合わせた人だ。そしてファンタはあの時もグレープだったように思う。


「初めまして。美術部現部長の、二階堂にかいどう深月みつきです」


 そしてその名は、また別の記憶と合致するのだった。


 ――どうやら今年の文化祭は画壇の方々がいらっしゃるようで

 ――美術部ですか? 何やら二階堂さんが張り切っていますね


 まっこと、合縁奇縁とはこのことか。


 無駄に歯車がかみ合って、同時にがんじがらめにされるイメージに支配される。

 思い切り嘆息できたら楽なのにな、と思った。


 ※ ※ ※


 ララリア女学院の美術部なのだから、それはもう熾烈を極めた部活をしているのかと思いきや、内情はそうでもないらしい。実際は特別寮の人間と一般入学の人間とで別れて活動し、祭典などでも別々のものとして扱われている。


 そういう明確な格差に、どの部内も空気が冷めきっている。


 思えば、ララリア出身の人間が成果を残しているのはよく見かけるけれど、ララリアの部活が成果を挙げた話は聞いたことがなかった。


 二階堂深月は、二年にして美術部の特別寮陣営をまとめ上げる辣腕の持ち主だった。大人びた雰囲気の彼女が私と同学年というのは驚きだったが、何より二階堂というのが現役画家としての二階堂だというのは、もはや言葉も出なかった。


 私でも知っている。謎の覆面画家・ニカイドウ。淡い水彩画を主に手掛け、その絵本のような絵柄はスヌーピーやミッフィーなんかと同系統の人気を築き上げた。ニカイドウの絵はマグカップやノートブックの表紙に起用され、また覆面だということから話題性もあり、何度かボイスオンリーでバラエティに出演したこともある。私が知ったのはそこでだ。


 現在、私は彼女とカフェテリアで優雅なコーヒーブレイクと洒落込んでいた。季節の木々を楽しめるテラス席だ。今は後者前のソメイヨシノが花の残骸を僅かに残すのみだった。淫乱院櫻子は変な部分で空気が読めるのか、さっさと帰ってしまっていた。


「ウフフ、面白い因果関係ですわね」


 謎めいた人だ。葉子はどう手懐けたのだろう。


 二階堂深月は、印象通りブラックのまま飲んでいた。私は苦いのが苦手なので、砂糖やらミルクやらをドバドバ入れなくちゃ飲めない。


「しかし、こんな光栄二度とないのかも知れません。まさかあのニカイドウと同じ席に座れるだなんて……この煌めくひと時では、どんな言葉も陳腐になってしまいそうです」

「……」


 カップから口を話した二階堂深月が、じろりと私を見た。睨んだようにも見えた。

「下手くそなお世辞は止めてください。不愉快です」

「いえいえ、そんな、お世辞だなんて」


「それほどの礼賛が出て来るくらい私に入れ込んでいるのなら、そもそも昨年の時点で気付いていなければおかしいでしょう。貴女が私に全く興味がない証拠でしかありません。白々しい人ですね」


 早口で連ねる悪態には、割と本気の嫌悪も見え隠れしている。私は即座に作り笑顔を引っ込めた。一年生の頃は無敗だったのだが、最近はよく見破られている気がする。


 素の仏頂面を前にして、二階堂深月は相好を崩す。


「そっちの方が好感を持てます」

「持たなくていいから」


 面倒なことになったな、と思った。そもそも彼女が私をお茶に誘う心当たりがない。


 海原陽菜という源泉を掘っていると、なんだか色々な副産物に掘りあたる。それは意思を宿していて、私の手足に絡みついて重りと化す。しかしいざ作業を投げ出そうとすると、マキちゃんの呪いに突き当たってしまう。だから掘り進めるしかない。進退窮まったとはこのことだ。


「海原さんと仲がよろしいようで」

「仲がいいってわけじゃないよ」


 私と陽菜の関係を定義づけるのは難しいだろう。多分、ヘルパーとかそういうのが適当だと思う。

 彼女は意外そうな顔をする。


「そうなのですか? 貴女が根気強く説得してくれたからこそ、彼女は復学できたのでは? だからここに招いたのですが……」

「あー……」


 要は友人の友人がどういう人物なのか見定めようという名目だ。私の腹痛を促進させそうなジャンルである。


 でもなぁ。ここで理由付けて帰る方が印象悪いよなぁ。


 内心で項垂れる私などつゆ知らず、二階堂深月はまだ湯気の立つカップをソーサーごと退けると、本屋で買った一冊を取り出した。それはわざわざ外へ出て探し回ったものだった。


「陽菜の、画集」

「ええ。私の憧れの人です」


 それは苦々しさと甘い感情が同居した声だった。ちょうど、手元のコーヒーのようなブレンドだ。


「小学六年生の、そろそろ中学生になるか、という塩梅でした。海原さんの絵に出会ったのは」


 しかしその絶妙なバランスはたちどころに消え去った。今は甘さへと傾いて、表情も慈母のような穏やかなものになっている。


「優しい絵、だと思ったのです」

「優しい?」

「はい。色使いが特に。温かくて、それでいて幻想的な。理想郷と言えばいいのでしょうか、その世界へ行きたいと本気で思わせるような絵ばかりでした」


 指先が優しく表紙を繰ると、ネットで見かけた一枚が表れた。液晶で魅力が濾されることなく、直に眼球へ飛び込んでくる。夕焼けと夜のコントラスト。藍色ともオレンジとも黒ともつかない、夜の前の一瞬の色。


 私は家族を思い出した。昔、まだ事件が起きる前。遊園地に連れていってもらった日曜日の、父の背中から見た沈みゆく夕陽。この絵はその刹那と酷似している。


「綺麗な絵だね。情緒的っていうのかな、何だか落ち着かなくなる」


「はい。とても私と同年代の子が描いたとは思えません。絵を描くのは昔から好きでした。友達はスケッチブックと色鉛筆でしたから、すぐに彼女に引き込まれました」

「もしかして、画集も同じのをまた買ったの?」

「はい、お恥ずかしい話ですが」


 二階堂深月は僅かに頬を赤らめて肯定した。そこに嘘や誇張などはなかった。そういうことに固執する人間にも思えなかった。


 じゃあ、どうして二階堂深月は陽菜が引きこもるのをみすみす見送ったのだろう。彼女はきっと私より何倍も深く陽菜を理解しており、また熱心なファンでもあるのだ。近くで切磋琢磨できる環境を手放すとは考え難かった。


「……そうですね」


 私がその内容を問うと、今度は、表情の針が苦々しさへ振れた。振り切った。


 心臓が嫌な軋みを立てる。前頭葉がきゅっと縮んで、痛みが湧く。


 これまで得た二階堂深月への印象を列挙して、さっきの質問の何が逆鱗に触れたのかを炙り出そうと頭が勝手に動き出していた。速やかにリカバリーに務め、せめて敵対することは避けないといけない。


 でも動くことを疎でいた私がそんな素早く動けるはずはなくて、二階堂深月は訥々と語り出していた。


「海原さんは、どうやら絵を描くのが嫌になってしまったみたいなんです。どうしてそうなったのかはわかりません。ですが、彼女はもう描きたくないという意思を、はっきりとした形で私たちへ突きつけました。あたかも、絶縁状か退職願みたいに」

「描きたくない……」

「はい。なにがあったのかはわかりません。お金に拘るような人じゃないのは確かですし、スランプに陥っていたわけでもないのです」


 二階堂深月の冷え切った口調は私を鎮め、冷静さを取り戻してくれる。恐らく二階堂深月が私を招いた理由の中には、このことを打ち明けたいという側面もあったはずだ。人は一人で秘密を抱え続けられるほど強い生き物じゃない。


 だから私は思い切って尋ねる。


「はっきりした形って?」


 二階堂深月はこれまでにないほど表情を曇らせた。眉間にしわが寄り、硬く閉じられた唇の向こう側ではきっと歯を食いしばっているのだろう。


 苦虫を噛み潰した形相のまま、絞り出すように言った。


「……絵画を侮辱するような作品です」


 ※ ※ ※


 特別寮も二回目の訪問となると、荘厳とした品格も薄らいで見えた。単に慣れた、ともいう。


「あぁ……海原さんのクラスメイトの娘ね。えーっと、あま、あま」

「天野です」

「ああ。海原さんなら今日は外出届出してないよ。部屋にいるんじゃない?」

「ども」


 私らしくない行動だという自覚はあった。明確に引いていた線が、ほんのわずかたわんで、余所を飲み込んで、そして再び閉じこもろうとする動きがあった。マクロファージが自らの細胞壁を一部崩し、他の細胞を取り込むように。


 さっきの二階堂深月との問答を思い出す。私は半ば強引に話を切り上げて、あたかも確認作業のようにこの場所までやって来た。二階堂深月は椅子を立った私を見上げていた。そこにどんな感情があったのかは知らないし、興味もない。


 ただ、彼女は数冊目となる画集を私に託した。それは今、本屋の頑丈なナイロン袋に包まれてガサガサ音を立てている。


 二階堂深月の部屋を通り過ぎて、陽菜の部屋の前に立った。


 インターホンを鳴らす。今回は起きていたのか、ドタドタと落ち着きのない足音が迫ってくる。


「……はい」


 半開きのドアからちょこんと覗き込む。印象的な琥珀の瞳。私は何故か安堵を覚えていた。


「ごめん、天野だけど」

「へ」

「今は暇? ちょっと上がりたいんだけどさ」

「あ、わわ……ずご、あぅ、少し、待っててください」


 ダダダ、ドダン。ダダダン、ガシャーン。


 擬音にすればそんな感じの一幕が、ドアの向こうで繰り広げられた。部屋はまだ樹海のような有様で、ツタの如き小物類がうずたかく積み上げられているのだろうか。


 二階堂深月はまだ帰宅してきた様子はなかった。今もどこかでインスピレーションの源でも探しているのかもしれない。ブラックのコーヒーを啜って絵になっているのかもしれない。いずれにせよ、それは私の知る必要がないことだ。


 私が知らなくてはならないことは他にある。


「お、またせ、しました」

「あんがと」


 頭に埃を乗せ、この間みたいに息切れを起こしながらも陽菜は扉を開いてくれた。


 こうして正式に誰かの家に上がり込むことなどいつ以来だろう。着る服が制服になってからは、そういう機会がめっきりなくなったように感じる。それは私たちが距離感という観念を弁えるからだ。自分の領域という意味合いを理解するからだ。


 それは裏を返せば、枠内に組み入れることの重大性を示唆している。友情を秤で計測すると、年をとったものの方が重たいのかもしれない。


 だからこそ、その判断は慎重を期さねばならないと私は考える。審議に審議を重ね、偏執的なまでに突き詰めた果ての結論にこそ意味がある。それら以外は、急ごしらえの思考停止に他ならない。


 相変わらず物の多い廊下を行きながら、私は額縁を見た。


 黒い羊。


 二階堂深月の言葉が、誤解であることを願う。


「うわっ」


 これまでは廊下しか入ったことがないから、その惨状の一端しか見えなかったのだろう。思わず声を漏らしてしまうほど、陽菜の部屋は酷かった。


 秩序という近代の観念が丸ごと消失してしまったかのような、物、物、物。部屋の片隅にはキャンバスが立てかけてあり、その辺りには絵具が無作為にぶちまけられてある。鮮やかで毒々しい色合いが壁に張り付いて、除こうとすると壁紙も一緒に剥がれそうだ。


 更にもう片方にはガラスケースが何台も並んでいて、中にはおびただしいほどのプラモデルが並べられていた。ウイングゼロ。Hi-ν。フリーダム。ブリッツ。絵具エリアとは対照的に、こちらは潔癖症めいた清潔さが保たれていた。


 それ以外はもう、ゴミ袋の山である。強引に隅へ押しのけられ、なんとか二人座れるスペースが設けてあった。さっきの擬音はそういうことか。


 陽菜は愛想笑いで言う。


「……き、たないところ、ですけど」

「汚すぎる……っていうか換気してるの?」

「え……あぅ、どうだったかな」


 濃すぎる激臭で鼻が機能停止にまで追い込まれていた。普通女の部屋と言えば香水らしい匂いがするものだが、ここはなんというか肉感が強い。端的に言えば臭かった。


 窓を探すけどそれらしきものはない。というか壁の如くそびえ立つゴミ山が窓を覆い隠している。どこで寝ているのだろうと疑問が止まない。


「とりあえず片付けていい? なんというか、これじゃ落ち着かない」


 私が提案すると、珍しく陽菜が反論した。


「い、いや……でも、わ、たしが解りやすい配置になっていて……」

「どこに何があるか全部頭に入ってるって?」


 控えめなコクリ。にわかには信じがたいけれど、まあ天才は私のような下々の理解が及ばないからこそ天才なのだろう。


「ならいいや」

「い、嫌なら」

「平気だから」


 陽菜はひとまず頷くが、納得した様子はなかった。そういう風に拗ねるくらいなら最初から反論しなきゃいいのにと考えてしまう私は、冷徹な人間なのだろうかと不安になる。


 そんな憂慮はすぐに忘れた。本題を思い出したからだ。雑多な物体を掻き分けて開拓したスペースに、二人正座で向かい合う。こうして改まった状態になると流石に気恥ずかしさも混じって来るけど、話が始まらないのでシカトに努めた。


「あの、陽菜さ」

「は、い?」

「えーっと……なんて言えばいいのかな」

「……は、はい」

「なんと申しますか」

「……」


 事ここに至り、私の性質が災いした。


 だってそれを問うことは、私と陽菜の関係に少なからず影響を及ぼすだろう。ひょっとしたら今以上に面倒な成長を遂げることも考えられるわけで、それは私の信条に真っ向から反していた。


 だがここから背きたくないというのもまた、無視できない衝動であることも確かだった。


 私はいつだって物言いが婉曲だ。率直に投げ込むということは、即ち打てば響くということだ。だから様子見に徹し、あわよくばそのままやり過ごす。


 しかしながら、これから問おうとしていることは、どうしてもそう言う風にはいかない。ともすれば陽菜のデリケートな部分を傷つけてしまうかもしれない。そこから起こる波紋に、いつか例えたように私という船艇は跡形もなく沈没してしまう可能性だってある。


 やーい、ヘタレー。


 お前けっきょく自分が傷つくのが怖いんだろー。


 深く溜め息を吐いた。なんかもう、私はこればっかりだ。


 陽菜がびっくりして肩を強張らせていた。きっとあの無駄に回る脳内では、非生産的な被害妄想が量産体制へ移行したところだろう。


「あのさ」

「へ、はい……」

「絵、あるじゃん。廊下に」

「え? え、絵……あ、絵ですね」

「私さ、褒めたじゃん」

「……」


「陽菜?」

「ゃ、やっぱり、褒めて、くれたんです、ね……」

「あー……ん。まあ、そうなる」

「……嬉しいです」

「あっ、そう」


 余りにも対応の引き出しが少なすぎる。ここまで対人の経験値が不足しているとなると、流石に自己嫌悪も逃れえない。可愛らしくはにかんだ陽菜を前に、私は目を逸らすしかない。


「で、だよ」

「はい……!」

「もう描かないのかなって」

「あ……」


 春が瞬きのうちに冬へ逆行したかのように、陽菜の笑顔は奥の奥へ引っ込んでしまう。その一端でも握れないと、私に降りかかる呪いが増してしまうような気がして、半ば自棄になりながら言葉を重ねた。


「別に責めてるわけじゃなくて、純粋に気になっただけ。私、廊下のあの絵が好きなんだ。自分でも芸術とか興味なかったはずなのに。今、描いてるんだったら謝るけど」


 なんとなく、もう筆は握っていないという根拠のない確信があった。陽菜は何も答えず、ただ茫洋と私の瞳を見つめ続けていた。それが答えだった。私は唇を動かす。


「陽菜、前に言ったよね。自分の絵が人間不信で無価値の絵だって。なんでかなって思ったんだ。私は陽菜の絵が好きで、ちゃんとした形で評価されてる……んだよね」

「……」

「だとしたら、それが否定するのはおかしい……ああ、いや、違う」


 言いたい事をうまく言葉に出来なかった。いざ口に出そうとすると、霧状になってすり抜けていってしまう。もしかすると私はかなり頭が悪いのではないか。学校だと平均点を下回ったことはないけど、学業と頭の出来は別と聞くし。


「私は、その、陽菜の絵が、好きだからさ」

「……ぇ」

「どうして、本人がそう思うのか、純粋に気になる、だけなんだろうね」


 陽菜はまだ無言のままだった。けれど瞳はこちらへ向けられていて、どこか毅然としたものを漂わせている。半開きの唇の向こう側では、答えを紡ぎ出すため必死に言葉を積み上げているのだろうか。


 私はそれを待つことにした。


「……わたしは」

「うん」


 ようやく動き出したそれは、たどたどしいけれど、気骨が通っている。


「自分がなんなのか、わからなくて、だから、探そうとしたんです」

「……そっか」


 陽菜の言葉は、彼女の絵の輪郭と同じく曖昧で、明確な境界線で区切ることができない。でも一言一句逃してはならないのだと思う。あの額縁を目にした時に湧き上がってきた感情が、期待をひとかけら伴って痛切に訴えかけてきている。


「でもそれは、間違っていること、だったそうです。ちゃんと向き合っていないから、わたしは絵をちゃんと描いてない、んだって」

「絵を通して、自分を探そうとしたんだ」


 陽菜はコクリと頷く。


 きっと自分探しというのは、一人ぼっちの黒い羊を描いたあの一枚なのだろう。


 絵を通して自分を探る。私は初対面の折、陽菜の髪が異常なまでに長かったことを思い出した。もし入学当初からずっと引きこもっていたとしても、あそこまで伸びるはずはない。


 一般的に社会へ参画するのであれば、貞子を疑うほどの長髪は不利にしか働かないはずだ。彼女の黒髪は綺麗だけど、それは手くしで梳けるような爽やかなものではなくて、黒々とした重たい色合いだ。


 それは海原陽菜が、どれだけの間、何かから逃げ続けてきたのかを如実に表しているのではないか。私はそんなことを考えていた。


 それじゃあ、どうして陽菜はそうやって逃げ続けているのだろう。


 そこまで追い込まれるのを直截に尋ねられるほど、私と陽菜は親しくない。向こうは私に懐いている。


 私ははからずも自分探しを肯定していたのだから、彼女はそれを自分が承認されたのだと感じたのだと推測できる。でもそこまでで、触れられたくない領域を土足で招くほど互いを信用していない。


 特別推薦の生徒が進級するためには、その分野で日々努力していると学校へ証明しなければならない。陽菜の場合は絵だ。絵が描けないと彼女はレーンから外れて、ずるずると社会から剥がれていくのだろう。


 彼女はもう一人で生きていけるだけのお金がある。誰とも合わずに一人で食べて寝て、やがて孤独に息絶えて腐り果てることができる。


 海原陽菜に絵を描かせること。それが私の贖罪だ。


 そして同時に、私は彼女をもっと知りたいと感じてしまっていた。


 彼女に対する何故が、とめどなかった。


 さっきの淫乱院櫻子の演説もどきが脳裏によみがえった。臆病な自尊心と尊大な羞恥心。マキちゃんを何かの免罪符に使うことこそ、許されざる罪科ではないかと思った。


 そうやって言い聞かせると、言葉は思いのほか喉をするりと抜けだした。


「陽菜」

「はい……?」

「友達になろうよ」


 陽菜はしばらくポカンとした。


「明日は日曜日だよね。予定かなにか、ある?」


 まだ動かない。長い間こんな汚い部屋で生活していたから、脳を新種の胞子に乗っ取られてしまったのだろうか。


「ゆ、ゆう、ゆゆゆゆずりはっ」

「うわびっくりした」

「ゆずりはっ、ゆずりはっ、ゆずっ……かひゅーっ、かひゅーっ」

「落ち着きなよ……どうしたの」


 頭をガクガクさせながら過呼吸になっている。危ない人みたいだ。危ない人なのかな。


「と、友達なので……! はい、なまえ、なまえで」

「あー……」


 そういえば初めて名前で呼んだ時も、こういう風に過剰反応していたのを思い出す。私は何となく気恥ずかしくなって前髪を弄る。風呂以外で髪に触れるのは滅多になかった。


 陽菜は目がぐるぐると螺旋を描いている。顔も紅潮して、これ以上興奮すると倒れてしまいそうだ。いっぱいいっぱいな彼女がおかしくて思わず吹き出すと、「あわわわ」更に混乱を加速させてしまった。



「よってい! ないです! ない、ないです」


 だが陽菜は勢いを逃すまいと頭を振る。声量の調整が下手なのか、大声は二階堂深月から苦情を入れられそうだ。


「じゃあ映画でも観ようか」

「……!」


 パァァ。花が咲く。どちらかといえば向日葵みたいな明るい花だ。


「……友達」

「あー、うん。うん」

「です、よね? あの、思っても迷惑じゃ」


「私からなろうって提案して、それで迷惑だって言い出すのはちょっと頭がおかしいと思う」

「です、よね! はい、はい……!」


 何やら妙な〆になってしまったが、当初の目的は果たせたので問題はないとする。


 家路をのんびり行きながら、思案に耽る。


 思えば陽菜は距離の詰め方が独特な子だった。彼女は何らかの理由によって、平均的な生活から離れた場所でこれまで生きてきた。初日とその翌日に連続して私に接触してきたことから、関わりを渇望していたのだと思い知らされる。少しくすぐったかった。


 彼女が引きこもるようになった原因、果てには彼女の長すぎる髪の由縁は、依然として陽菜の中に秘めたまま顔を出さない。けれどそれは奥深くに組み込まれていて、強引に引っ張り出そうとすると出血を引き起こす類のものだ。


 これは自惚れだ。それはマキちゃんに対する私の消えない感情と毛色が似ていた。


 ただ、あの羊は、お互い同じような病巣を抱えていることを示し合わせてくれた。

 だから私たちの心底へめり込んだ大きすぎる淀みをどうするか、それをこれから考えていかなければならない。


「さっむ」


 陽が落ち始めて、辺りは夜へと移行する。

 こうも寒いと、さしもの流体も凝固してしまいそうだった。

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