第2話
机の引き出しに教科書を仕舞っていると突如暗くなったのでいよいよ私も召される時がやって来たのかと顔を上げると、海原陽菜だった。
不登校は終わりという意思表示だろうか。貞子みたいだった髪はばっさりと切られ、その辺を歩いていても見咎められない程度には落ち着いていた。それでもまだ長い方だが。
まあともかく、心機一転頑張るぞというのはいいことだ。
「おはよう」
とりあえず挨拶をしておく。一日の始まりは挨拶だと校長先生も言っていた。
「お……はよう、ございます」
帰ってきたのは蚊の鳴くような声と、女中さんみたいな丁寧なペコリ。根が真面目なのだろうか。熱意の落差に戸惑いながらも倣って頭を下げておいた。
「学校ちゃんと来たんだ」
頷かれる。身長は私よりも高いのに小動物的な可愛らしさがあった。
「まあ、何だ、その。困った事とかがあったら相談くらいには乗るから」
ふたたび首肯。首を動かす癖でもあるのかもしれない。
「うん、だからよろしくお願いします」
三度コクリ。ここまでくるとキャラ付けじゃないかと疑ってしまうのが私のよくない所だ。知らない範囲の内容を邪推するのは悪趣味以外の何者でもない。
ともあれ、海原陽菜が外に出られたのならよかった。個人的な所感はともかくとして、あんな社会問題として取り上げられそうな部屋にいつまでも生息しているのは社会的動物として間違っているだろう。そのまま寝転がっているとキノコの苗床にされそうだ。
ちょっといいことしたな。上機嫌になりながら朝の支度に戻る。
「……」
じーっとしている。
「……」
私の席は、珍しく注目を集めていた。不登校の生徒が登校してきて、あまり目立たない奴を無言で見つめているのだ。私が部外者でもどういうことだろうと気になる。当事者でも気になる。
「……なんスか」
視線と影はいつまでも私を覆ったままだった。海原陽菜はそこに張り付いたまま、何か言いたげな目線で私を見据えている。口元には微笑まで湛えているからちょっと不気味だ。
目を引くことに達成感を持つほど私はスターダムな構造をしていないので、差し当たってはこの娘をなんとかせねばならなかった。あんまり社交的な所へ引っ張り出されるとお腹痛くなっちゃう。
海原陽菜を考察するにあたって不可分な要素といえば引きこもりだったということだろう。加えてさっきの挨拶や、昨日の誰何を振り返ると、声を出すことが不慣れだと推測できる。昨日は半分冗談で比喩に使ったが、実際に吃音症のようなところもあるのかも。
だとしたらこれは新手の威嚇などではなく、きっと何か話したいという意図があってのことだ。うん、私も無責任だった。職業経験ゼロのニートをMicrosoft本社にぶち込んでもクソの役にも立たないのと同じ。何とかやりくりできる程度の下地を整えてやるまでが責任というものだ。
めんどくせーな、勝手にやれよ。
でもなあ、自分がその場のノリで蒔いた種だからなぁ。
そう考えてしまう辺り、もしかすると私も真面目の部類に入るのかもしれない。
「髪切ったんだ」
ひとまず無難な話を振っておくことにする。私の行動原理は「とりあえず」とか「ひとまず」が多い。
海原陽菜が即答えてくれるとは思えないから会話の主導権は私が握らなければならない。心持ち早口になりながら続ける。
「裏町にある美容院? あそこ私も良く利用するんだよね。でも地毛が茶色だからさ、よく誤解されるんだよね。綺麗に染まってますねぇって」
コクコクコクコク。壊れた赤べこみたいに同調を連打。見ているこっちが頭痛を催しそうだ。
とはいえ私も対人スキルが高いわけではなく、こういう積極的な会話が弾むはずもなかった。ひとしきり頷いた海原陽菜は満足したのか、また元の置物に戻って物言いたげな視線を注ぐ。海原陽菜が何かしら言ってくれれば話の接ぎ穂が見つかるのだけどそんなこともなく、美容院の話題はまだ鮮度を損なわないままその辺に投げ捨てられてしまった。
そしてまた重たい沈黙が訪れる。絵の話をすればいいのか、でも昨日語ったことが全てで、それにあれこれ付け加えると評価ではなくお世辞に堕してしまう。それは作者である彼女に対して不誠実だろうと思う。
「あれ、天野の思わぬ釣果? いーじゃん、いーじゃん、スゲーじゃん」
変な奴がやって来た。水島しずまはいない。一人のようだ。腰に試験官が着いたベルトみたいな玩具を付けて、右手には何か黒いUSBみたいなものを持っている。でも誰も葉子を見咎めない。こいつには主人公補正がかかっているんじゃないかと時々思う。
葉子が気安くするとうごくせきぞうの如き海原陽菜が過剰反応した。目を見開いて露骨に後退り、酸欠の金魚みたいにパクパク口の開閉を繰り返す。葉子は唇をすぼめて、黒いメモリのボタンを押した。『ジョーカー!』なんだそれ。
「……あま、の、さん」
「え?」
大きく口を開けている割に小さな声だ。でも額の汗はここからでも見えるくらいで、若干青ざめてさえいる。笑顔を浮かべてやると多少緩和した。
「ま、また、後で……話、いいですか?」
「え? あー、うん。わかった」
責任は私にあるし。最後の一言は喉奥に飲み込む。
海原陽菜はほっと胸を撫で下ろし、老人のような足取りで自分の席へ戻って行った。横顔には朱が差していて、遠慮なく向けられる無神経な目には気づいていないようだ。無視している可能性もあるが彼女がそこまで豪胆だとは考えられなかった。
「懐かれてるっぽいね」
『ジョーカー!』
おもちゃを鳴らしながら葉子が言う。口元には真意の読めない笑みが刻まれていた。
その言葉を皮切りに、内面の海に異なる属性の感情が衝突して渦潮を描いた。笹舟みたいな船艇はあっという間に大破して、放り出された私はなす術なくもみくちゃにされるのだろう。
「ははん。さては貴殿、面倒くさいと考えているな? そしてもう一方に自分でもわからない感情がある。だがしかし、これらは複雑怪奇な螺旋を描いて海底へと導く階段となるのだよ、ワトスンくん」
名探偵ぶって葉子が言う。意味不明な比喩はともかく、大要を言い当てられたのは驚きだった。
「まぁ思春期ってのはそういうもんさ。誰だって自分のことがわからなくて、どういう人物なのかを省察する時期とも言える。ハヴィガーストは偉大だね。過渡期でぶち当たる精神的煩悶を定義づけ、発達課題なんて名づけてしまった」
調子づいたのか饒舌に語り出す。何やら難しいことを言っている風を装っているけど、去年の倫理で習った内容そのままなので別に凄くはない。
「なに言いたいのか全然わからないんだけど」
半眼で言うと葉子は肩を竦める。『ジョーカー!』馬鹿にされているみたいで腹が立ったのでやかましい黒い棒を奪い取ってやった。『ジョーカー!』おおすげえ、これ紫色に光る。葉子はとても悲しそうな顔をした。
「ゴホン。まあともかく、だ。もう一方の感情から逃げちゃダメ。あんたは何か崇高な考えのもと我慢? 抑制? ……してるのかもしれんが、傍からすればそれただ女々しいだけだから」
「……なんであんたが偉そうなワケ」
「ミス・ユズリハ。逃げるのは罪だぞ? チェケラ」
私の反論を待たず、登校してきた水島しずまの下へ駆けっていった。しずまは表面上迷惑そうにしながらも口元はだらしなく歪んでいる。仲良いなぁとか思いながら目を逸らす。
それにしても、罪。罪と来たか。
「マキちゃん」
口内で単語を転がしながら席を立つ。すると天板とにらめっこしていた海原陽菜が面を上げ、何か期待するような眼差しで私を射抜く。曖昧に笑って手を振って、私はトイレへ足を向けた。自分への用事じゃなかったとわかるや否や、しゅんと肩を落とす。
廊下へ出ると思わず溜め息が漏れた。何だかくたびれたおっさんみたいだ。
懐かれた、と葉子は表現した。
私とマキちゃんは果たしてどういう力関係だったのだろう。
彼女は笑顔だった。奇しくも流体へのはなむけになったその裏には、どのような感情が隠れていたのか。探ろうとしても、今マキちゃんが何をしているのかわからない。生きているのかさえ定かじゃない。
手洗い台の鑑に映る私はしかつめらしく眉間にしわが寄っていた。これじゃあいけない。心が常在戦場のアホに因縁をつけられるかもしれない。唇の両端を引っ張って、なんとか笑顔を作る。馬鹿らしくなってやめた。どうせトイレには私しかいない。
教室に戻るのもどうなのだろう。私は個室に戻ると、便器の蓋を下ろしてその上に腰かけた。
なにか話しながら二人が入ってくる。軽く舌打ちする。
「どうやら今年の文化祭は画壇の方々がいらっしゃるようで」
「美術部ですか? 何やら美術部の
二人の会話で、海原陽菜の絵を思い出した。
こうして一日の大半滞在する建物を歩いていても、その構成員の大半は私の存在を知らない。きっとひとかけらの興味すらないだろう。私が個室から出ても話に花を咲かせている彼女らは一瞥さえくれないはずだ。
私は別にそれでもよかった。時間の流れに身を委ねて、あらゆる煩雑から遠ざかって生きこうと心に誓ったのだから、私があの黒い羊であることは歓迎すべき慶事だった。
だが海原陽菜はどうなのだろうと考える。彼女はあの羊に自己投影していたのか、あるいは見た目通り美術以外はからっきしのノータリンで、ただ衝動的に筆を動かしたのか。
「罪……」
この身は呪われている。厚顔無恥上等で言わせてもらえば、マキちゃんに。
そして私がこのまま捨て置けば、呪いはもう一つ増える。
果たして身体に出っ張りも筋肉もなければ、人間性もトイレットペーパーより薄っぺらいこの私が、そんな重圧を背負ったまま生きていくことができるのだろうか。
そんなはずはない。
そしてなんと、特別寮のおばちゃんから聞いた話に寄ると、美術推薦の身の上である海原陽菜は絵を描かなければ進級さえ覚束ないとのこと。ただでさえこもりがちなあの女が、周りが年下だらけの環境に追いやられて呼吸ができるのか。
「どうしたもんやら」
始業のチャイムが鳴るまで項垂れたままだった。
※ ※ ※
午前中の授業が終わると、またもや海原陽菜はやって来た。手ぶらだ。そりゃそうか。
ララリアにはご立派な食堂があって、昼休みを迎えた生徒は、買ってくるか教室で自炊した弁当を食べるか食堂まで歩いて食券を買うか迫られる。私はどちらかといえば前者だった。行きがけのコンビニで適当なものを見繕い、教室でもそもそ貪るのが日常だ。
口を少し開けてこちらを見ているこの女はきっと食堂派だろう。それかこれから購買。
金髪縦ロールと茶髪ポニーテールと食堂へ向かおうとしている葉子が、釘を刺すようにこちらを振り向いた。どうして貴様がそこまで干渉してくるのだ、あっちいけ鬱陶しい。
海原陽菜はちらちらと目線を散らかし始めた。保育士になった気分だ。
「……お昼は、購買?」
コクコク。
「お金あるの?」
コクリ。
取り出されたのはブランドものの長サイフ。しかし商品タグが外れずキーホルダーみたいになっている。多分ファンからの送り物だろう。送り主は泣いていい。
しかしブランドの名に違わず、数人の諭吉が押し込まれて息苦しそうにしていたので圧倒されてしまう。そりゃ名門ララリアの特別推薦枠に引っかかるくらいだから、ものすごい賞金のコンテストで好成績を残しているだろう。
するとその中の一枚を摘みあげ、恐る恐る私に差しだしてきた。
「奢り……ます、よ?」
「いやいいよ」
同学年の、それも同性に金を出してもらうとかあらぬ噂が飛び交いそうだ。
でも、すぐにお金を出そうとする姿勢は、その双肩に何が降りかかれば培われるものなのだろう。少し想像力を働かせていると、「え、あ、すみま、せん」海原陽菜が小さくなる。
「どうしたの」
「……そ、その。怒っちゃったかなって」
へつらうような笑みが痛々しい。私が座って彼女が立っている事実が、それをより一層強調しているように思える。記憶の蓋が開きそうになって、私は慌てて返事をした。
「別に。嫌なら嫌って言うから。気にしなくていい」
「……はい」
泣きそうな声だ。そんな険しい顔をしていたのだろうか。
私たちはそのまま並んで教室を出る。「あ、あの」訂正。出ようとしたところで袖を掴まれた。
「なに?」
「……え、えと」
教室中の視線が注がれるので今すぐ逃げ出したいのだが、挙動不審のこの女はまた別の理由で焦っているように見えた。よく見ればまつ毛が長くて綺麗な瞳だ。じっと見つめていると、昼休みの喧騒がだんだん遠ざかっていくように感じられる。
「――ませんか?」
「え?」
「……わたしと、一緒に歩くと、ちゅ、注、目されませんか?」
「あー……いや」
単語の意味を飲み込むまで数秒の時を要した。音と景色が戻ってくる。まるで受容器や心をひっくるめた私が、琥珀の中に吸い込まれていたかのように。
というか、それだけのことを言うためにこんな決心をしなければならないのか。
それにしても海原陽菜が憂慮するものはやはりちょっとずれている。私を気にするのなら無遠慮に注がれる数々の視線にも気づいて良さそうなものだけど、どうやらそこに対して思うところはないらしい。あるいは単に鈍く被害妄想がたくましいのか。
嘆息しそうになり寸でのところで食い止める。代わりに言ってやった。
「別に私たちのことなんて誰も興味ないと思うよ」
「で、でも……」
海原陽菜はちらりと背後を一瞥する。あ、気付いていたんだ。
「それは教室の中だけ。全校生徒の九割は、私も、えーっと」
こいつの呼び方について考える。これまでフルネームで認識していたけれど、実際に声に出すとアニメのセリフを暗唱しているような恥ずかしさが付きまとう。だが苗字も、こいつが私に懐いている事実を顧みると、どうなのだろう。
私はその音を出そうとして、喉が詰まる錯覚に捉われた。足元を意識すると、私の爪先とこいつの爪先とはそう距離が開いていなかった。
私の舌先が上前歯の裏側を弾き、彼女の名を鳴らした。
「……陽菜のことも、知らないと思うから」
「いまなまえ」
びっくりした。急に流暢になった。
「いいから。いいから、行くよ」
「なまえ」
「やかましい」
有無を言わせず手を取って、そのまま外へ連れ出した。陽菜の手はぞっとするほど冷たかった。
なによりこのまま押し問答している方がよっぽど目立つ。ただでさえ今朝から陽菜関連でクラスメイトの口の端に昇るようになってしまったのだ。ここらで沈まないと危険だと警鐘が耳元で響いている。
けれどそれは、濃度の高い感情を薄めるための言い訳という役割が大きい。
しばらくきょとんと口を開けていた陽菜だったが、階段までたどり着いた辺りから呆けた口をパクパクし途端に慌てだした。ちょっと落ち着いて欲しい。
二階まで降りてきて、水島しずまが生徒会長に襲われているのを。葉子の腰巾着に発見されることは好ましくない。あいつ経由で葉子の耳に入ったら、また面倒な相手をしなくちゃならないからだ。
だが、食堂まで続く渡り廊下はあの道を通らなくちゃいけない。外の気温は一桁で、上にカーディガンしか着ていないこの状態で寒風に吹かれるのは論外だった。
仕方なく道を外れる。突然人の流れから脱した私たちを、不思議そうな目で見てくる奴がいた。「わっ、わっ」陽菜の上履きが地面と突っかかるのを無視し、私は足を速めた。
全然使われない第二音楽室の前を通り過ぎる。ドビュッシーを弾く女と、それを眺めるのが二人でいるくらいで、この辺りはまるでひと気がない。上階とつながる階段もなく、薄暗く掃除も行き届いていない。授業の最適化で捨てられたこの区画は、ララリアの華々しさの影だった。
陽菜は肩を上下させている。呼吸などシャトルランを終えた後のようだ。
「……大丈夫?」
声も出せないみたいで、代わりに首肯が返ってくる。
外に放置されたままの机に腰かけると、陽菜も馬鹿正直に続こうとする。出番の少ない彼女のスカートはまだ生活で萎れていない。だから汚れないよう埃を払ってやった。
荒い息遣いを聞きながら、私は深く嘆息した。丹田に蓄えられた活力ごと吐き出しそうなほど、深い。
どうして。その自問は今朝から続いていた。どうして私はこいつとここにいるのだろう。
理由はすぐに思い当る。私が率直に述べた感想が陽菜の琴線に触れたのだ。繊細なそれはたわみ、揺らぎ、そしてエネルギーを生み出す。陽菜を動かしたのはそれで、とどのつまり私の短慮でこいつを呼び寄せてしまったということになる。
横を覗き見る。下がった眉尻に、柔らかい曲線の輪郭。虫も殺せなさそうな横顔がマキちゃんと重なる。この場所に多くの光はなかった。空き教室から漏れるものと、嵌め殺しの窓から入ってくるものだけだ。
そんな空間に、こんな人間といるというのが、果たして私の贖罪なのだろうか。
「……なんで、ですか?」
要領を得ない問いに振り向く。
「なんでって……何が?」
「ここ」
「ああ」
確かにあの流れながら食堂へ引っ張られると考える。それが普通だ。
説明しようか逡巡する。だってそれを明かすことは、葉子風に言わせれば流体である正体を晒すことにつながる。私の本性は知られたくない。きっと意に沿わない人間が大多数で、あまつさえ共感し同調してくる奴がいれば最悪だ。繋がりは束縛の類義語でもある。
なんと言い訳したものか。私が答えあぐねていると、慎重に化石を掘り起こすように、陽菜は言った。
「……さっきの人に、見られたくなかった、からですか?」
私と陽菜の距離が近いことを意識した。嫌悪に似たものが心に滲んだ。矢印は陽菜に向けられていない。
「なんでそう思うの?」
「だって……その」
「言いなよ。別に怒ったりしないから」
「人、嫌いそうだし」
「そんなことないよ?」
自分でも意外なほど冷たい声だった。
「世のなかには信じられないくらい人がいてさ、想像を超えた人物だってたくさんいる。それって素晴らしいことだと思わない? 知れば知るほど自分も成長するし、多くの財産が得られる。だから私は人が大好きだよ」
この理路整然もさっきと同じく、許容量を上回った情動を何とか処理しようとする働きだろう。それらしい抑揚のついた私の声は、誰もいない暗がりで空しくバウンドを繰り返す。
これまでも似たようなことはあった。演技の隙間から私を覗き込もうとしてくる、無粋で悪辣な輩は何人かいた。でもそいつらは私の話を信じて、自分の勘違いだと納得してくれた。
「……でも」
しかし陽菜は食い下がった。それは私にさざめきのような動揺を生む。
「あの絵」
「絵が、なに?」
「腐った絵です。人間不信の絵です。一人で閉じこもろうとする敗走の絵です」
その言い方は、どこか渇いていた。荒廃した部屋が脳裏をよぎる。しかし私も譲るわけにはいかなかった。
「絵が好き、イコール人格は、なんだろ、間違ってるんじゃない? それだったらスプラッタ映画好きな人は殺人願望あるってことになる。だったら世のなか殺人事件まみれだと思うんだけど」
「……え、と」
陽菜は黙り込む。話すことに慣れていない人間は、口と脳を同時に動かすことが酷く不得手だ。だから語彙が降り積もるまで待つしかない。ちょうどこの場所が廃墟として成り立つために、埃と汚れが不可欠であるように。
そして私はそんな隙など与えない。
「ごめんね、意味わかんないことにつき合わせちゃって。さっさと食堂行こうか」
「…………はい」
陽菜は何か言いたげにこちらを見たけど、黙ってうなずく。どこか悄然としたその姿に、ほんのわずか罪悪感がうずいた。
※ ※ ※
夜だ。あたしたちは二年になっても同じ部屋だった。
でも葉子がいなかったらまた対人恐怖時代に逆戻りする可能性もあったので、素直に喜んだ。
で、その葉子が最近おかしい。
いや、前から大分イカれてたのはあるんだけど、輪にかけておかしくなったのはいつからだろう。
その葉子は淫乱院さんと仲良く並んでテレビを見ている。
「葉子、葉子! どうして変身中に攻撃しないのですか? その間に攻撃をすれば効率的に倒せると思いますの」
「変身する時にエフェクトが出現しているでしょう? あれが敵を拘束しているのです」
「まぁ! でしたら片方が変身している間に攻撃すればよろしいのでは? 赤い警察の方もいらっしゃることですし」
「……ええ、はい。そうですね」
淫乱院さんの率直な意見に、葉子はとても悲しそうな顔をした。淫乱院さんは悪い人じゃないのだけど、ちょっとお約束を呑みこめないところがある。
「あたし、ちょっとジュース買いに行ってきます」
「あら、わたくしも同行いたしますわよ? 寝食を伴にする友ですもの。とも、だけに。ウフフ」
「は、はい。じゃあ一緒に行きましょうか」
言いながら、あたしはちらっと葉子をうかがう。
「行くんなら行ってくればいいのだよ、チョベリバ」
浮薄な口ぶりだけど、それは葉子なりの強がりだ。案の定拗ねたような顔をしていた。
おかしいとはこういうことを指す。前まで葉子は頭のネジが飛んでいたところはあるけど、年齢に対して自律というか、なんというか、どっしり構えている部分があった。
それがある日を境に、あたしの前だけ挙動不審になってしまった。確か、お姉ちゃんとちゃんと話し合うきっかけをくれた日だと思う。
「しずまさんしずまさん、葉子は色々なことをお知りなのですね! わたくし、特撮ヒーローなど爺やの目の前では視聴できませんもの!」
淫乱院さんは子供みたいにはしゃいでいる。縦ロールもそれに合わせて揺れる。あと、胸も。すごいぁ、羨ましい。
しかしまぁ、由緒正しき家の生まれなので、ああいう娯楽物に飢えていたのかもしれない。ただでさえ不幸体質で、怪我も絶えないみたいだったから。年上らしく悠然としているところもあるけれど、あたしはこの人のこういうところが好きだった。だからこそ尊重しなきゃいけない部分だと思う。
それは葉子もわかっているはずなんだけど、どうも淫乱院さんに対しては……うまく言葉にできないけど、嫉妬のような感情を向けていると取れる場面がいくつもあった。どうしてだろう。疑問に思うけど、そういう時の葉子はあたしが近づくとピューって飛んで逃げてしまう。なんで逃げるの、あたしのこと嫌いなのかな。
「しずまさん、今夜はこのファンタグレープというものを味わってみたいです!」
「オレンジの方が美味しいですよ」
「あら、そうなのですか。ではオレンジにしましょう」
寮の前に自販機が置いてある。コインを入れてボタンを押す。ガコン。出てくる。取り出す。淫乱院さんが飲む。にぱーっと笑顔。愛らしい。
そしてあたしに遅れて電撃が走る。
「葉子あたしのこと嫌いなの!?」
それは困る。ここにきて最初に出来た親友だ。あたしに張り付いていた他人への恐怖とかコンプレックスとかを、葉子は器用に剥がしてくれた。今では多少ドモるけれど、日常会話程度なら難なくこなせるようにまでなったのだ。
それに嫌われるのは、こう、来る。泣きそうになる。
「あら、そんなことないと思いますが。むしろ大好きなのでは?」
「そ、そそそそそそそっそそそっしょげぁうべぁ、そうですかね!?」
「あらあら、しずまさんったら、レベルマックスですね。落ち着きなさいな」
深呼吸を促されたので、とりあえず深く息を吸う。すーはー。
淫乱院さんの喉にオレンジ色の液体が流し込まれ、ペットボトルは空になった。
というか大好き。大好き。それはなんだろう、とても嬉しかった。胸の奥がポカポカと温かくなって、四月の夜の寒さなどどこ吹く風になる。葉子があたしのこと大好きで、でもそれが恥ずかしいから上手く話せない。
なんだろう、抱きしめたい。
「では抱き締めればよいのです。わたくしたちは、愛を伝えるために言葉を学んだのですから、思うままに突き進めばよいのですわ!」
「はい。頑張り、ます!」
こういう時の淫乱院さんは非常に頼りになる。入学から間もない時、葉子たちとブティックへと繰り出し、何故か葉子がご機嫌斜めになった際もこういう具合で背中を押してくれたものだ。抱きしめる行為は言葉じゃないとか言ってはいけない。
「ウフフ、青春とはすばらしいものですわね。わたくしも老婆心がうずきますわ。いえ、決して老婆などではありませんのよ? ええ、わたくしは年齢が一つ上だとしても、わたくしは気にしておりませんので……うぅ、しくしく」
淫乱院さんが自爆していた。こういう時はしばらく放置するのが正解だ。五分経てば回復する。
あたしたちはその後ジュースを数本見繕って、部屋に戻ることにした。消灯までもう間もなく。見つかるとお説教は免れないので、なるべく素早く戻らなくちゃいけなかった。
「……なんだかスパイ映画みたいですね」
「ええ、世のなかの子供達はみなこういう素晴らしき経験を財産とするのでしょう」
早くも復活した淫乱院さんはなにか大人びたことを言っている。心の爆弾がまた炸裂しないか心配だった。
「よぉ、そこなお二人さんやぁ。いま何時じゃぁ思っとるん?」
耳に残る広島弁。冷や汗を流しながら振り返ると、奴がいた。
寮母である。
あたしたちはこってり絞られた。雑巾だったらきっと引き千切れていただろう。
部屋の灯りは消えていた。消灯時間を過ぎると、電気は勝手に消える。スイッチのオンオフは通用しない。きっと照明への通電自体を断っているのだと淫乱院さんは推測していた。
きっと葉子は寝ているだろう。明日の朝、拗ねているのかもしれない。どうなだめようか考える。その反応を思い描くと、自然に口角が吊り上るのだった。
淫乱院さんは半泣きでお布団に潜った。寮母に言われた年上の自覚という言葉が思いのほかジャストミートだったらしい。あたしも励ましたけど引きずったりしないか、心配になる。
「……まぁ、いいや」
小声で呟いてあたしも掛け布団を羽織った。その上に毛布を広げると、温かい空気が毛布の重みで閉じ込められて大変温かい。冬が終わるのはいいことだが、このスタイルとお別れするのはちょっと名残惜しかった。
……。
…………。
………………。
なんだか、暑い。
あたしは抱き枕など持ち込んでいただろうか。
なにか、薄いものがもぞもぞと動いている。
「……やばい、やばいやばいやばい。これやばい。いやだって、女の子同士だしさ、いや、あれ? 私元は男だから問題ないじゃん、いや問題だよそっちの方が」
こうも動かれると鬱陶しいので、あたしはその物体を抱きしめることにした。おお、出っ張りが少なくて抱き心地がいい。確かな柔らかさの奥に力を込めると折れそうな硬さがあって、ずっとこうしていたくなる。しかもなんだか上の方がさらさらしていて、そこからシャンプーみたいな香りが漂ってきた。
「ひゃ……うひゃ、え、うん」
なんだかそれがブルブルと震えだした。心なしか胸元に生暖かい風が来る。
「んぅ……」
なんだか知らないけど動くなよぉ。あたしはさらさらして丸いものを胸元まで抱え込んだ。顎を乗せる形。
「きゃっ……や、だ……ぁ、いや、いやじゃない……えへ、うへ、へへへ……」
というか、なんだろう、この抱き枕喋る。聞き覚えのある声だ。
「……しずま、しずまぁ」
それがあたしを呼んでいて、その声音は切なげで、なんというか、こう、やばい。
細胞の一つでも距離が空いていることが許されざる罪科であるように、最新型抱き枕の方からも密着してくる。レムの狭間をたゆたうあたしの記憶がよみがえってくる。淫乱院さんが言っていたけれど、AIの技術は更なる飛躍を遂げていて、頭打ちになると想定されたリミットを凌駕しかねない勢いだそうだ。つまり人間らしいAiが誕生し、それがシンギュラリティの発端となることもSFの夢物語ではないとのこと。
淫乱院さんの家はかなり大きな家系だから、いち早くそういうものを入手したのだろう。なんでそんなAIを抱き枕に搭載したのかはわからないけど、まあ淫乱院さんだからってことで説明できる。
「しずま……」
記憶の整理が完了したのか、意識が鉛のように重たくなった。神経が機能を閉じて、なににも加算されることのないそのままの体重が圧し掛かってくる。
布団と高性能AIの温もりが混じって、今すぐにでも寝入ってしまいそう。
「……なんで戻ってこなかったの? しずまは、私よりも淫乱院さんの方が好きなの?」
え?
これ、
もしかして、
葉子?
「……ごめんね、私めんどくさいね。その、うん……お休み」
葉子らしき抱き枕はそのまま布団からするする抜け出そうとする。眠りに落ちかけていたので手足は動かないと思ったけれど、布団を少し開いた際に流れ込んできた外気に震え、それを補うように動いていた。
即ち、抜け出そうとする葉子を逃がさなかった。
「あ、え? しじゅま? しずまっ、しずしずしずしずぅ……ゃ、お…………ぁあばばば、がくん」
なによそれ。葉子は途端に動かなくなった。体温が急上昇している。オーバーヒートしちゃったのかな。
でも、あたし葉子を抱きしめて、っというか一緒に寝ている。
微かに残った意識が蒸発しかけるけど、眠りの水流は圧倒的であり、抗うことなどできなかった。
まあ、それでも。
「……好きの、種類が、違うっ、てば」
そんな遺言を残して、あたしは意識の底へ沈んで行った。
翌朝、淫乱院櫻子は響き渡る二つの大音量で目を覚ましたという。
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