流体少女は額縁の夢を見るか
さかきばら
第1話
チャイムが鳴った。国有数のお嬢様学校でも放課後の解放感は同じらしい。
四月も中旬。入学してきた新入生も、進級した在校生もみんな空気に慣れ始めるころだろう。その証拠に、二年の教室では放課後の予定を話す声が軽やかに行き交っていた。
教室の窓際後方二列目はいつもぽっかり空いていた。机の上に花瓶が置かれることはないから虐められているわけじゃないんだろうけど、進級してから私はそいつを一度も見たことがない。
「天野さん、放課後はいかが?」
キバが特徴的の太ったクラスメイトが誘いをかけてくる。私はトドゼルガと呼んでいた。
容姿に違わぬ強引さでまたたく間にクラスのイニシアチブを掌握した実力者だ。性格がいいと専らの評判なので断っても引きずることはないだろうけど、誘われる回数は減るだろう。そうすると私が蚊帳の外にいるという空気が醸造されて、浮き上ってしまうかもしれない。それは望ましくない。
「ええ、もちろんです。実を言うとまだクラスに不慣れだった部分もありまして、喜んでお受けさせていただきます」
「ちょっと待って」
具体的な話に移行しようとしたところで待ったが入る。見れば佐藤葉子だ。
鋭い輪郭のスレンダーな身体に艶やかな大和撫子が乗っている。審査員が十人なら十人が美少女と拍手するような女の子だ。
「天野、今日は日直でしょ? プリント届けなさいな。文化祭のあれこれとか、作品の督促とか色々ある」
思わず黒板に向ける。日直・天野
書類の山を置いていく嫌味な上司さながら、葉子は私の机にプリントの束を投下した。トドゼルガはそれを見て表情を変えた。
「あら、あらあら、天野さんに無理させるところでした。本日のご無礼はお許しくださいね?」
そんな心底申し訳なさそうな顔をされると、私も罪悪感が湧いてくるので止めて欲しい。
だから善人というのは厄介だ。発達した頭を自分の領域以外に向けようとしないから、世界がぽわぽわとした光に包まれているものだと思い込む。邪まなものがほとんどない心で他人のために行動するから、その善意を無下にし辛い。だから私も気を遣わなくちゃいけなくて、とにかく疲れる。
私が愛想笑いを浮かべていると、話題の矛先は葉子へ移った。
「佐藤さん、そういえば水島さんや淫乱院さんは?」
「私がいつもしずまたちといるみたいな言い方だね。しずまは生徒会室に拉致られた。
「あら、でしたらわたしたちといかが? ショッピングを楽しんだ後、喫茶店で歓談をしようかと考えていますが」
「あー、ごめんね。私も用事あるんだ。また今度誘ってよ」
「わかりました、楽しみにしていますわね! では、ごめんあそばせぇ!」
トドゼルガはやたらと優雅な動きでスカートの端を摘むと、ドスドス教室を後にした。教室に外で数人が待っていた。それらと合流して校舎裏の街へと繰り出すのだろう。
「葉子、ありがと。助かった」
私が表情筋を緩めると、葉子もまたいつも通りの表情に戻る。美人が疲れたおっさんみたいな顔をすると味が出る。
「トドゼルガは悪い人じゃないんだけどね。何というか迫力あるから。天野なんかはやりづらいだろう」
用事があると断ったが、本当はそんなものないのだろう。
「葉子は悪い奴だし」
「んだとコラ」
佐藤葉子は悪人で変人だ。異世界転生者を自称しているし、会話の端々にネットスラングを持ち出すし、さらっとした調子で他人を馬鹿にすることもある。飄々としているくせに嫉妬深くて、水島しずまが生徒会長に連れて行かれたのだって内心穏やかじゃないはず。
言ってしまえばクズ。ついでに頭がおかしい。
以上の通り人間的な魅力は皆無だが、それは私も同じで、だからこそ気を遣わなくてもいい楽な相手だ。
「天野は流体だね」
「はぁ?」
「なにともぶつからないように神経すり減らしながら生きてるって感じ。疲れないの?」
疲れるか疲れないかで言えば、当然疲れるに決まっている。
でもそれは生きている限り避けられない難題で、誰もがそういう細々としたものと何とか折り合いを付けながら生きているのだ。だから私の在り方も数ある処世術の一つであるはずで、それだけが否定されるのは道理に反しているのではないか。例えそれが、どんどん温度が低下していって、私の体裁が凝固して、いつかポキンと折れるのだとしても。
「あー、ごめん。押し付けがましかった」
「んー、そっスね」
「ありゃ、ご機嫌斜めか。地雷ふんじゃったかな。ドロンさせてもらう」
会話が行き詰るのを察した葉子は「じゃーねー」とひらひら手を振りながら教室を後にした。冬の名残に触れて硬くなる面貌は、茶色いポニーテールを見つけてパッと明るく花を咲かせる。さっきまでの冷めた一面とはまた別の佐藤葉子だ。あいつは柔いクズだけど、生きるのは上手だと思う。それは素直な心証だった。
生還したらしい水島しずまが私と葉子を交互に見た。
「葉子って割とお人よしよね。海原と天野が似てたからって」
「いや、別にそんなんじゃないし。ラビット、タァンク、ベストマァッチ! できそうだという知的好奇心から発露した行動であって」
「焦るとなに言ってんのかわからなくなる」
「EXCEED CHARGE! ピピピピピ、ドガーン!」
「あはは、やめて! くすぐらないで!」
なんの話をしているかはわからないが、両者ともに笑顔なのでよかったと思う。そのまま二人で私のいないところまで消えて戻ってこないでほしい。
「あー、めんどくせ」
なんというか見ていられなくなって視線を逸らすと、プリントの束が出迎えてくれた。
「……行くか」
私は重たく溜め息を吐くと、ファンリングしてあるそれを乱暴に鞄へ押し込んだ。
不登校の天才画家。
※ ※ ※
小学生の頃、ちょっと発育が遅れた子がクラスにいた。その子をマキちゃんとしよう。
よく笑うし優しいし、決して悪い子ではなかったのだけれど、色々なものが周囲とは嚙み合わなくて、だからいるだけで迷惑という悲しい立ち位置にマキちゃんはいた。
そういえば私は海原陽菜の居城を知らなかったが、至れり尽くせりでプリントに明記してあった。校舎裏の街へ出てから少し進んだ所。やはり天才画家と噂されるほどのことはあって、しっかりと特別寮で暮らしているらしい。
凄いなと思った。
通りがかったブティックのウィンドウに私の姿が映り込む。派手な茶髪の女が親の仇のように睨みつけていた。不良みたいだ。この頭は染めている訳ではなく地毛だ。親の親の親くらいに外国人の血が混じったらしく、以来天野家の人間はみんな茶色い頭をしていた。
「嫌なら染めりゃいいのに」
校則で頭髪の染色は禁じられている。でも染めている子は何人もいるし、それで何かの処罰が下ったという話は聞かない。だからきっと私が黒くしても怒られることはないのだろう。
それでも染めないのは、きっと何かが消化しきれていない証左でしかない。
小学生の頃に戻る。私はこんな頭だから、小さな黒山からちょっと浮いていた。
表立って差別されることはなかったけれど、私たちと彼らの間には明確な一線があって、それを決して跨がせることはなかったと思う。休み時間に混ざってドッヂボールをすることはあっても、彼らの家に上がってマリオカートで遊ぶようなことはない。
だから親近感を抱いたのだろうか、私はマキちゃんにひときわ優しく接していた。彼女は無邪気で純真で、高学年に上がって心が淀み始めた私たちからすれば眩し過ぎた。もしかすると彼女に優しくすることで、何かの代償にしたかったのかもしれない。
私はどこか余所余所しい『仲良し』をする陰で、マキちゃん係と嘲笑されている子供だったのだ。
ある日事件が起きた。今思えば死ぬほどどうでもいいけど、当時は五億円強奪事件にも匹敵する大事件だ。
その日は月に一度のカレーの日で、クラスのみんなが楽しみにしている一日でもあった。しかしながら今日のように背筋の震える寒い日でもあったから、インフルエンザで給食係の子が欠席してしまっていた。
必然的に代役を探すことになるけど、私の母校の給食係は後にPTAから苦情が来るくらいの重労働だった。なんせ一人で教室と給食室を何往復もしなきゃならないのだ。暖房の利いた教室とは対照的に、廊下は凍えるほど寒い。誰も立候補するはずがない。私もダンマリを決め込んで、グラウンドで走る赤白帽を眺めていた。
「わたし、やります!」
そんな中、意気揚々と手を挙げたのはマキちゃんだった。可愛らしい笑窪を口の端に刻み、喜色満面の笑みだ。
先生もこれ以上時間を伸ばすのは嫌だったようで、そのまま代役はマキちゃんに決まった。机を動かして四つで一つの小島を築き上げながら、みんなマキちゃんのことを笑っていた。あいつ馬鹿だ。極め付きは私のこともニヤニヤしながら眺めてくることだ。
なんで私まであんな目で見られなきゃいけないんだ。ふざけんな。
そう思った。
マキちゃんは途中まで順調にこなせていた。ちょっと駆け足で来ることもあってか、ペースも普段と比べて大分早い。食べ盛りのクソガキどもに待てをするのも残酷なことで、給食係が運んでくるのを待つ間は、いつも教室内に言い知れぬ殺気が沈殿していた。
みんなはひらひら手の平を返す。何だよ、あいつやるじゃん。いいぞマキ! 頑張れ!
これまで敬遠されてきたマキちゃんは、はじめて向けられた期待に応えようと必死だったのだろう。いよいよラスボス、カレーを運ぶターンが巡って来た。
今度はこれまでと違って、いつまで経っても戻ってこなかった。基本的に一回五分前後で往復が済むのだが、十分経っても戻ってこない。
業を煮やしたデブの発案で、様子を確かめに行くことになった。
階段の辺りで嗚咽が聞こえた。真横には倒れた寸胴とぶちまけられたカレー。マキちゃんの膝には赤い擦り傷が出来ていた。でもみんなはそんなことは目に入らなかったみたいで、さっきまでの態度はどこへやら、口々にマキちゃんのことを罵り出した。先生が止めに入ったけど止まらず、中には家族の人格を否定するような悪質なものまで混ざり始めた。
本来ならもう楽しい給食が始まっている時間帯だ。事実、行きがけに見えた他の教室では和気藹々とした空気が回遊していた。
鈍いマキちゃんでも、そこでやっと自分が責められているとわかったのだろう。嗚咽はどんどん大きくなって、やがて滂沱の涙を流し始めた。
「ふざけんなよ、このビョーキ!」
「謝れよ!」
「死ねよ!」
上履きがマキちゃんに投げつけられ、それが皮切りになってしまう。クラスメイトたちは嫌に統制のとれた動きでマキちゃんを取り囲むと、おもむろに手拍子を始める。
「しゃーざーい!」
「しゃーざーい!」
「しゃーざーい!」
もう先生は頭を抱えるばかりで、止めようともしなかった。何故かそれが一番堪えた。
吐きそうになっている私など眼中にないのか、凄惨なシュプレヒコールは続く。きっとあの場にいたなかで、一番早く終わって欲しいと願っていたのは間違いなく私だと思う。だってもうクラスメイトたちは給食をぶちまけられたことなど忘れていて、ただただ集団で弱者を嬲ることを楽しんでいたのだから。
「なあ、天野もこいつが悪いって思うよな」
ふと、会話の方向が私を目がける。それは銃口を向けられるのに等しかった。
呼吸が荒くって、視界が何重にもぶれる。けれど揺らぐ世界の中でマキちゃんだけがくっきりと浮かび上がっていて、涙に濡れたかわいい二重は確かに私を捉えていて、私がなにを言うのか見定めようとしている。
見回すとクラスメイト全員の眼差しが私に降り注いでいた。私がどういう選択をするのかで、この後どうなるのかが左右される。彼らはその指示を待っているようで、ただでさえ薄っぺらい私から現実感が抜け落ちていく。
なあ、お前はビョーキじゃないよな? 愉悦に歪む瞳たちは、そう問いかけてくる。
「天野も、こいつが悪いって思うよな?」
「……あ」
「天野」
「おい、天野」
「天野」
「天野ォ!」
天野、天野天野天野、天野、天野天野。
「しゃーざーい!」
なにかがぶっ壊れた。
私はもうマキちゃんを見ていなかった。
笑いながら手拍子をして、マキちゃんを攻撃する円陣に加わる。
マキちゃんがどういう顔をして、どういうことを想って、それが彼女の人生をどういう風に歪めたのだろうか。今となってはもうわからないことだ。
それから私はクラスへ馴染んだ。晴れて一線の内側へ迎え入れられた私は、みんなと同じく友達の家にお邪魔してマリオカートをし、休み時間は女子同士で交換日記を書き、連れ立ってトイレへ行ってカッコいい男子の話をしたりした。
でも私の脳裏にはマキちゃんがいつまでもこびり付いていた。
きっと頑張って拭い去ろうとすれば、忘れられる記憶だ。
でもそれはしなかった。
ふと横を見る。ウィンドウに映り込む私の髪は茶色いままだ。
※ ※ ※
ブリテン島の教会みたいな尖塔が目印の特別寮。
その正式名称は特別推薦優待学生寮で、ある分野で将来有望と目されララリアへ推薦入学した生徒のみが入寮を許される。いくら金を積んでも、すごい才能か血の滲む努力がないと入れない。具体的にはスポーツ推薦だったり中学時代にコンクールで優勝していたり、そうそうたる連中だ。一般寮が一部屋につき二、三人なのに対し、特別寮は一人一部屋。きっと思う存分疲れを癒やせるんだろうなぁと羨んだ。
高級そうなインターホンを押すと、エプロン姿のおばちゃんが出てきた。怪訝そうな目をされる前に機先を制して切り出した。
「二年の天野です。海原陽菜さんにプリントを届けに来たのですが」
「あら、そうなの。二階の右手奥の角部屋だから。多分いると思うわ」
「ども」
ペコリと会釈して、教えられた場所へ向かう。
「いつもの人じゃないのね」
やっぱ向かえなかった。背中に掛けられた問いに振り返る。
「いつもの?」
「ええ、いつもは美術部の顧問の方が来てるのよ。作品書かないと、進級できないって」
「はぁ、そうなんですか」
返事はなく、おばちゃんは箒片手に庭の落ち葉を掃除し始めた。話したかっただけかい。
特別寮はやはり特別性で、入り口はまるで洋館のエントランスみたいになっていた。両腕で抱き締めるような形状の階段が左右から降り、天井から大きなシャンデリアがぶら下がっていた。天才探偵が推薦入学してこないことを祈ろう。うっかり殺人でも起きそうだ。
半分に切った螺旋階段を昇りながらさっきの会話を反芻する。絵を描かなくなったその理由をあれこれ想像を膨らませてみるけれど、絵画はおろか落書きさえ満足に描けない私に画家の心境を想像してみるなんてまず不可能だった。
ただ喉の奥に引っかかるものがある。わかるようでわからないそれがもどかしい。蟠りを解きほぐすようにマフラーの位置を何度か直した。
たかが学生寮だというのに各部屋にインターホンが付いているのには少なからず驚かされた。ここまで一階に共同の食堂がある以外は、各部屋にジャグジーまで備わっているとのこと。ここまで来るとマンションの一室と表現した方が適当だろう。
「ううん」
インターホンを押すのか。
なんというか、それは難易度が高い。うまく言葉に出来ないような抵抗感が指先を鈍らせる。まるでボタンと指先に同じ極の磁石でも仕込まれているみたいだ。
ガチャリと扉を開ける音が聞こえた。振り返ると髪の長い住人がサイフ片手に部屋から出てきたところだ。目が合ってしまい、つい反射的に会釈を返す。彼女も戸惑ったように頭を下げた。一階に自販機があったからそこまでジュースを買いに行くのだろう。
彼女が階段まで向かう際、何度もチラチラこちらを振り返っていた。そうだよね。見ない顔が部屋の前で棒立ちしているのとか怪しいよね。
意を決しインターホンを押しこむ。歯切れの悪い私の決意みたく、ピン・ポーンと二回に分かれて鳴った。
深呼吸しながら海原陽菜が出てくるのを待つ。
待つ。
待つ。
待つ。
さっきの人がファンタ片手に戻ってきた。しょざいなさ気な私をガン見する。
待つ。
「おせえ」
いくらなんでも遅すぎる。眠っているのだろうか。不登校なら十二分にあり得ることだ。私はもう一度インターホンを押してみた。しかし反応がない。
背後を意識した。さっきの人がまたジュースを買いに出てきたとしたら、「こいつまだいるな」と私を見咎めるかもしれない。そうやって認識されるのは、私にとってこの上ないストレスだ。ふつふつと焦りに似た感情が湧いてくる。
そのまま流されてドアノブを捻ると、なんと鍵がかかっていなかった。後ろを一瞥すると誰もいない。でもまたさっきの人が出てこないとも限らない。それは嫌だ。なんか凄く申し訳なさを感じる。
空き巣になった気分のまま、目先の感情に呑まれた私は不法侵入罪を犯していたのだった。
何してんだと面食らったが、幸いにも特別寮は我ら下々の部屋とは間取りが異なるようだ。一般寮だとドアを開けるとすぐに寝室やら何やらを兼ねた部屋が待ち構えているが、特別寮はそういった部屋まで続く廊下が設けられていた。
それにしても結構大きな音を立てたはずなのに、部屋の主は出てこない。
疑問の答えはすぐそこにあった。廊下の最果て、四角い磨りガラスのはめ込まれたドアの向こう側は暗がりに沈み込んでいる。
どうやら眠っているみたいだ。ほっと安堵の息を吐いた。
「それにしても」
どうしようか。
このままプリントを置いて帰るのがいいのだろうが、それだと勝手に上がり込んでしまいましたと白状しているようなものだ。半ば無意識とはいえ一線を踏み越えてしまったのだから、せめて真正面から頭を下げておくのが筋というものではあるまいか。
いいや。私は頭を振る。これまでにない欲求に戸惑っているだけだ。私は海原陽菜がどういう人間なのか気になっている。社会から逃げ出した少女を詳らかにしたいと願っているのだ。
もしかすると私の仲間なのかもしれない。
私はそう考えている。マキちゃんを見捨てた分際で。
佐藤葉子と水島しずまのやり取りから目を逸らした理由を追っていくと、ちゃんと根拠まで発掘できるのが厄介だった。自分をクズだと納得する自分もいて、それから逃れたいと考える私もいて、それぞれの主張が激しくせめぎ合っている。
決断を下したのは状況だった。箱の中で歪に育った倫理観がこの場からの退去を許すはずがないのは先ほども確認した自明のことだ。
罪悪感が苦味となって喉の奥に滲むけど、それは無視することにした。
ようし、やってやるぞ。
靴を脱いで一歩を踏み出すと、「へぶ」何かにつまずいてすっ転んだ。
このままじゃ危ない。手探りで電気を探す。「いでぇ」なにか突起に手をぶつけた。
苦労して電気のスイッチを見つけた。押し込むと、なるほど、転ぶわけだ。本に画材、コンビニ弁当の空箱がぎゅうぎゅう詰めのゴミ袋にプラモデルの空き箱まで打ち捨てられている。(MGEX STRIKE FREEDOMだって。でかすぎじゃん)テレビで見たことがあるような散らかり具合だ。
そんなゴミ山の頂上に、不釣り合いな輝きを放つものがあった。
「……これ」
額縁だ。金色の枠組みに植物のツタみたいなあしらいが施されている。悪趣味に分類してもいいだろう。
しかしながらそれが掲げていた一枚は、なおもその存在感を損なうことはなかった。
小高い丘の上に、一頭の黒い羊が風を浴びていた。淡いタッチで描かれた水彩画で、幻想的な仕上がりになっている。
丘のふもとには白い塊がひしめていた。目をこらせばそれは、ごく平凡な羊の群れだ。目立つ場所に自分達と違う色をした者がいるのに、彼らは前に進むのに精いっぱいで目をくれようともしない。
私のなかで揺蕩っていた形のない期待が、だんだんと集まっていく。それは決して固形化することはないけれど、しかし寄り集まって質量を増した。
「誰……ですか?」
喉の奥からひねり出したようなかぼそい問いが来る。女の子がそこにいた。さっきまで真っ暗だった部屋は弱々しい電球に照らし出されている。廊下と同じく必要のなさそうな物がそこら中に転がっていて、たくさんの影を作り出していた。部屋はその人物を表しているのだと聞いたことがあった。なるほど、と私は納得していた。
「海原、陽菜さん?」
返答はない。彼女は前髪を忙しなく掻き分けながら私の爪先から天辺までを検めている。
しばらく視線が交差した。
無秩序に伸ばされた黒髪はマントのようになっている。長すぎる前髪は目に入って痛そうだと心配になるけれど、その合間から覗く瞳は綺麗な琥珀色をしている。目鼻立ちは緩やかな軌道を辿り、どちらかといえば暖色という印象を受けた。
私は横目で絵画を一瞥した。そして彼女の背後に広がる、荒涼とした大地のような部屋と比較する。寄り集まった期待は目に見える形でその性質を変えていき、やがて確信へと昇華する。
そこでハッと自我が戻ってきた。いけない、このままご対面の余韻に浸っていては日が暮れてしまう。彼女の目もあちらこちらを泳いでいた。押し黙る私に困惑しているのが丸わかりだ。
「あのっ」
話しだそうとして、しかしいつもみたいに取り繕うのも不平等だと思った。
声帯の出力コードを切り替えて、対葉子用の嫌味な本性を惜しみなく露わにしていこう。
「……まあ、いいや。あんたは知らないだろうけど、同じクラスの天野楪っていいます。あんたは海原陽菜さんでいい?」
コクコクコクコク。
アホみたいに早い首肯が返ってきた。喋り慣れていないのだろう。私も同じようなものだ。
鞄からファイリングされたプリントを取り出した。
「栄えある日直に任命されて、四月上旬分のプリントを届けに来ました」
コクコク。今度はさっきよりも動きが早い。前髪がバッサバッサと上下していてはなはだ不気味である。マキシマムザホルモンのライブ会場に貞子が紛れ込んだらこうなるだろう。どうなるんだ。
「で、えーと」
用件が終わってしまった。日直としての任務は無事果たしたのだから、もう部屋に戻っても怒られないはず。しかし私にはまた別の目的があって、それは心の中で主客転倒し、すっかりそのために来たことになっている。
だからその意味ではまだミッションコンプリートとはいかないのだけれど。
「……」
「……」
私も海原陽菜も何も言わない。言えない。内側で渦巻く感情は、出所さえ違えどきっと同質だろう。
なにか会話の糸口を探そうとピンポン玉より小さい海馬を引っ張り回すけど、叩けど出てくるのは埃だけで、洗練された会話の滑り出しなど望むべくもない。これまでなあなあで受け流すことだけに集中して生きてきたから、いざ流れを止めて何かと向き合おうとしても何が手ごたえなのか皆目見当もつかないのだった。
それが冷静な心持ちで理解できていたのならよかったのだろうけど、折悪しく心臓がバクバクなり始めたタイミングと被ってしまったので、よけい混乱に拍車をかけた。無言の間が吃音症を引き起こす毒の霧になってしまったみたいで、心肺器官から全身が侵されていくイメージで不安になる。
そこで、さっきから心の底で蟠っていたものがもう一つあったことに気が付いた。
海原陽菜は引きこもりだ。学校には来ないし、部屋からもほとんど出ないのだろうと散らかり具合で推測できる。私はそれを別の存在だと捉えようとしていたから、だから違和感が張り付いていたんだ。
この挙動不審な天才画家様が物理的な引きこもりであるならば、きっと天野楪は精神的な引きこもりなんだろう。誰から誘われても心を開かず、あまつさえ同じような人間の佐藤葉子すら敵視している節がある。間合いに近づけさせないように用心し、戦々恐々日々を歩む哀憐。
重くのしかかる沈黙の帳を切り裂いて、私はもう一度だけ飾ってあった絵を見た。
額縁の下の方。「作・海原陽菜」という文字。
よかった。安堵する。これでゴーストライターとかだったら私はただの道化だ。
「この絵さ」
さっきよりも淀みなく切り出せた。
「なんていうんだろ、いいねって思った」
「……え」
海原陽菜は意外そうに目を見開く。
「見ていて寂しくなったというかさ、なんだろ、めちゃくちゃ月並みな表現だけど、ガツンときたよ。あんたそんなこと思ってるんだなって」
今度はあんぐりと口を開いた。何かうなじ辺りがちりちりとして、また別の理由で胸の奥が喧々囂々騒ぎ立て始める。
思えばそれはクリスマス前夜の高鳴りと似ていた。何かを待ち焦がれる、素晴らしきものを想像する拍動だ。寒空にすっかりやられてしまった私は、もうこんなこと何年も忘れてしまっていた。
「学校おいでよ。あんたのこと待ってるから」
私は返事を聞く前に部屋を後にした。「待っ」海原陽菜がなにか言いかけていたけど、まあ耳が悪いという設定を後で付け加えれば解決する話だ。
半螺旋階段を下る足取りは、心持ち軽やかだった。ファンタ二本目を買っていた人と目があったけど、余裕綽々で会釈まで返せる。向こうはちょっと戸惑いながらも返してくれたので何か勝った気分になった。
もしかしたら、私は言語にするだにおぞましい理由で海原陽菜をいざなおうとしているのかもしれない。
それでも構わない。私はクズだ。救いようのないゴミで、甘ったれで、引きこもりで、最低で、痛々しい中二病を未だに引きずっているような人類の落伍者だ。
本当は見ていた。私がシュプレヒコールのエンジンに加わった際、マキちゃんがこちらへ向けた視線を。
彼女は娘の門出を祝うように、笑っていたのだ。
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