第4話 歴史とプログラミング

 ここにある芸術家がいる。

 彼は、昔からのアトリエを改良することもなく、昔からのアトリエを使っていた。

 それは、まるで、昭和初期に近いようなもので、今にも壊れそうに見えるのだが、老朽化への備えはしっかりしているようだ。

 ウワサでは、

「外見は昔のままでも、その強靭さは、台風くらいでは、ビクともしない加工をしてある」

 ということであった。

 確かに、見た目は今にも潰れそうなのだが、警察からも、国交省からも、何も言われないというのだ。

 ただ、最近流行の、

「線状降水帯」

 などの発生による浸水に関しては、他と一緒でどうすることもできないということだが、おれはしょうがないということであろう。

 彼のアトリエは、家の離れのようなところにあり、その横には土蔵のようなものがあり、

「昔からの大金持ち」

 ということを感じさせるのだった。

 彼の名前は、

「足柄霊光」

 という。

 驚いたことに、それが本名だということだから、

「まるで芸術家になるべくして生まれてきたようなものだ」

 と、子供の頃から。自他ともに認めるという名前であった。

 それを思えば、

「親も酔狂な人間だったのではないか?」

 ということであるが、それは、確かにその通りのようで、

「子供を芸術家にしたい」

 という意識はあったようで、やはり、こんな名前をつけたのは、

「芸術家になってほしい」

 ということからだったようだ。

 子供の頃は、名前で損をしたことはなかった。苛めもなかったのだ。

「金持ちの考えることはよく分からない」

 ということで、親たちは、

「あの子に関わるようなことをしちゃいけない」

 と自分の子供に言い聞かせていたのだろう。

 だから、子供も、親のいうことを聞いて。

 というよりも、自分たちで、

「あいつは気持ち悪いから、関わるようなことはしない」

 と思っていたのだ。

 足柄としても、

「別に友達なんかほしいとは思わない」

 と思っていたのだ。

 別に寂しいなどと思ったこともないし、

「寂しいというのがどういうことなのか?」

 ということすら、分かっていなかったということである。

 孤独というものがどういうことなのかを知らないまま、小学生時代を過ごしてきた。

「さぞや、長かっただろうな」

 と周りは思っているだろうが、本人には、そんな感覚はなかった。

 実際に、

「毎日のように、あっという間に一日が過ぎた」

 と思っていて、しかも、

「気が付けば、一年も過ぎていた」

 というほどのあっという間だったと思っている。

 ここが、他の人と違うということを、足柄は分かっていなかった。

 もっとも、この感覚は足柄だけが分かっていないだけではなく、他の人も分かっていないだろう。

 それを足柄は分かっていたが、他の子供たちは分かっていなかった。

 それは、

「孤独ゆえに、他の人たちよりも、感受性であったり、自分の感覚というものが、研ぎ澄まされたものではないだろうか?」

 ということではないかと思うのだった。

 普通の少年、これは大人になっても同じことであるが、時間の感覚とは、

「その間のインターバルというものによって、普通は同じ人であれば、感じ方が違っているものである」

 というのが、一般的な感覚であった。

 ただ、そのことを誰かが口にするわけではないので、いわゆる、

「暗黙の了解」

 という形になっていた。

 確かに、

「一日があっという間に過ぎる時、その時の一週間が、やたら長いと感じたり、逆に、一日が長かったと思うと、一週間があっという間だったりする」

 ということがあったのだ。

 それは、別に、

「口にしてはいけないことではない」

 と思うのだが、なぜか誰も口にしない。

 誰も口にしないから、

「口にしてはいけないことなのだ」

 と、勝手に自分で解釈し、口にすると、何か余計なトラブルにでも巻き込まれるかのように感じたりするのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、

「俺たちにとって、余計なことを口にすると、親に叱られる」

 という意識が身につく時期が、子供のうちにはあるのかも知れない。

 ただ、それには、個人差というものがあるのだろうが、それはあくまでも、

「親の都合」

 というものであり、親同士が仲がよかったりすれば、自ずと、子供が感じる時期というものは、近づいていくのかも知れない。

 そんなことを考えていると、

「親子の関係というのは、子供が小さい時は、その影響力は強いものなのだろう」

 といえるだろう。

 子供というのは、大人の影響をいつの時期まで受けるものだろうか?

 小学生の頃というと、どうしても、受けるのは当たり前だ。

 大体において、13歳未満というのを、

「児童」

 ということで、区別されることが多い。

 それは、やはり、

「肉体的な変化」

 によるところが大きいのではないだろうか?

 いわゆる、

「思春期」

「成長期」

 と呼ばれるものだ。

 子供が大人になる過程において起こってくるのが、精神面でいえば、

「思春期」

 そして、肉体面でいえば、

「成長期」

 ということになる。

 もちろん、精神面と肉体面で、その境目が難しい場合には、精神面であっても、

「成長期」

 と言ったり、肉体面であっても、

「思春期」

 ということで、心身ともに、そのどちらかということで、判断されることになるものだろう。

 親子であっても、さすがに子供の成長をすべて把握するなど無理だというものだ。

 むしろ、

「親子だからこそ、難しい」

 といえるのではないだろうか?

 というのも、

「親というものは、自分の子供を、自分の分身だ」

 と思うことがある。

 つまり、

「子供も、自分の子供の頃と同じ考えを持っている」

 と思い込んでしまうようだが、実際には、人間の性格というのが、

「持って生まれたもの」

 というだけではなく、

「育ってきた環境に左右される」

 ということが分かっていないのだろう。

 つまり、親というのは、子供の頃に感じることとして、親から、

「理不尽な言い聞かせ」

 のようなものがあった時、

「親だって、子供時代には、俺と同じ考えを持っていたはずだ。それなのに、どうして、子供の気持ちが分からないんだ?」

 と感じる。

 それは、子供が、

「自分が親から生まれたのだから、当然同じ遺伝子で繋がっているので、同じ考えをするはずだ」

 と思うだろう。

 だが、親が、子供にとって理不尽なことをするのであれば、それは、子供としては、

「親というものを許せない」

 と考えるに違いない。

 さらに、親も、

「自分と同じ頃には同じことを感じ。親から同じ怒られ方をするだろうから、親になったら、子供には、同じ理不尽な思いをさせたくない」

 と考えるに違いない。

「だから、俺だって、大人になったら、子供には同じような理不尽な怒り方は絶対にしない」

 と考えているのだ。

 だから、大人と子供というのは、

「一心同体のはずなのに」

 と感じるのだろう。

「大人になって、子供を持つと、子供の頃のことを忘れていくものなのだろうか?」

 と考えるが、

 すれが、

「忘れていく」

 と考えるのは、危険ではないかとも思えるのだった。

 ただ、大人になる間に、何が起こるのか、子供には分からないが、大人になってしまうと、まわりの環境が、そう感じさせるように自分を仕向けるのか、それとも、

「人間が大人になるということが、どういうことなのか?」

 ということを思い知ることになるのかということを思い知るという気もして仕方がないのだった。

 大人になると、余計なことだと思っても、

「考えなければいけない」

 と思うことがある。

 だから、

「子供の頃には、もっとシンプルに考えていたのにな」

 と思うのだ。

 大人になってから、

「子供の頃に戻りたい」

 という意識を持つ人がほとんどであろうが、それは、

「子供の頃は、何も考えなくてもよかったから、楽しかったな」

 と感じていると思っているのかも知れないが、実際には、そういうことではなく。

「子供の頃もいろいろ考えていたのには違いないが、大人になってから考えると、どうしても余計なことを考え、子供の頃であれば、シンプルに考えていたことが考えられなくなり、シンプルに考えてしまうと、それは悪いことだ」

 と判断するのだろう。

 だから、

「大人になったら、親から受けたような仕打ちを子供にはしない」

 と思っていたことを忘れたわけではないのだが、それをしてしまうと、危険なことが起こるかも知れないということが頭から抜けないからだろう。

 つまり、大人になるということは、そういう子供の頃を思い出すことで、余計に必要以上のことを考えて、

「やっぱり、子供の頃は浅茅江だったんだ」

 と思うことで、親が自分にしていたことが、急に理不尽ではなくなってくるのだ。

 だから、子供を叱るのだし、理不尽でもないのだ。

 そして、

「これが大人になるということだ」

 と思うと、

「親になったら、理不尽な怒り方はしないぞ」

 と思っていたことを忘れたわけではないが、その考えが間違っていたということに大人になって気づいたと思うのだ。

 だから、

「それを子供に諭すというのは、あり得ないことだ」

 と感じる。

 もし、自分が子供で、親から、その理屈を諭されたとしても、しょせんは子供の頭で理解できるわけがないことを諭されるのである。

 そうなると、

「親が理不尽な言い方で諭しに来た」

 としか思えないので、

「親のいうことを聞くわけもない」

 ということになるだろう。

 子供としては、

「親は理不尽だ」

 と思うが、

「思いたいなら、思わせておけばいい」

 ということになる。

 つまり、

「親であればこそ、説教しないといけないという立場なのだから、できるだけ、嫌われたくないようにするしかない」

 と考えると、

「諭すようなことは、逆効果で、なるべく、これが当たり前だというような、大人としての毅然とした態度をとるしかないのだ」

 だが、今の時代においては、それがままならない時がある。

 昔であれば、

「親の威厳」

 ということで、殴るなどというのが一つの手段であったが、今は指一本でも手を出すと、

「虐待」

 と言われてしまうのだ。

 それは、正直なところ、どういうことで虐待が始まったのか分からない。

 それぞれに理由というものがあり、その虐待を、親の方は、すべてにおいて、

「これは教育の一環だ」

 あるいは、

「しつけだ」

 という言い訳をするだろう。

 しかし、虐待ではない、本当の、

「教育の一環」

 であったり、

「しつけ」

 というものがあるはずなのに、虐待を防ぐという目的のために、教育の一環であったり、しつけがおろそかになり、

「何が正しくて何が悪いのか?」

 ということが分からないという子供ができるということになるのだった。

 それを考えると、

「過ぎたるは及ばざるがごとし」

 ということになるのではないだろうか?

 だから、足柄は、

「子供がほしい」

 ということは考えていなかった。

 だから、

「結婚」

 ということも考えていない。

 親が、高校生の頃に死んだのを機に、閉じこもってしまった。

 美大には、合格し、勉強もしたが、勉強しているうちに、

「俺には合わないかな?」

 ということで、中退してしまった。

 ただ、成績は悪くもなく、先生からも、一応の評価を受けていた。

 だから、退学を申し出た時、ゼミの先生としては、

「それはもったいないな」

 とは言ったが、次の一言で、

「まぁ、君の性格からすれば、何かに縛られることは、あまりいい傾向だとは思わないので、自由な発想な下で、どこまでできるかというのを、私は一ファンとして。見て行きたいものだな」

 というのであった。

 それを聞いた足柄は、ニコット笑って、その時、初めて、

「誰かと心が通じ合った気がした」

 と感じた。

 さらに、

「心が通じ合うには、下手に言葉なんかいらないんだ」

 ということであったのだが、それは、足柄が初めて感じたことであった。

 その言葉を、表現としては聴いたことがあった。

 確か、何かの本に書いてあったのだろうが、正直覚えていない。

 足柄という男は、心に刺さる言葉があったりすれば、その瞬間は感じるものがあるのだが、次の瞬間には、別のことを考えていることが多い。

 だから、

「どこかで聞いたことがあるような」

 とは思うのだが、そこが、重要というわけではない、

 それだけに、それがいつどこでだったのかということを、無理に思い出そうとはしないのだった。

 それが、足柄という男が、

「俺は芸術家肌なんだ」

 と思うところであり、

 一つのことを、点で覚えることが苦手で、流れで覚えようとするから、重要な言葉を感じても、それが、いつどうして思い浮かんだのかということを忘れてしまうのであっただろう。

「俺は芸術家なので、俺の気持ちをわかるやつはいない」

 と思っていた。

「親ですら分かっていなかったのだ」

 と思うが、ただ、

「俺を芸術家にしようと思ったという感性はすごい」

 と思ったのだ。

 ただ、それも、ごく短い間だけだったようで、正直、

「名前を付けた時だけだったので、俺は自分の気まぐれでお前に名前を付けてしまったのかと思って後悔したこともあったな」

 ということであった。

 それを思うと、

「俺というのは、ただの偶然で生まれたわけではないんだろうな」

 と思った。

「人は、誰も偶然などで生を受けるわけではない」

 と言われる。

 ただ、それなら、

「どうして、生まれてくる時に、親を選べないんだ?」

 ということになり、

「生まれながらに人間は平等だ」

 などと言われるが、

「そんなバカなことがあるわけはない」

 ということで、それこそ、

「詭弁ではないか?」

 と思えてならないだろう。

 子供によっては、

「平和な国で平和にすくすく育つ子供もいれば、戦争をやっている国の子供として生まれ、生まれてすぐに、栄養失調で死んでしまう」

 ということだって、普通にあるのだ。

 大日本帝国の時代、大東亜戦争が、青年期であったりすれば、下手をすれば、

「カミカゼ」

 や、

「人間魚雷」

 の乗組員となって、片道の燃料だけで、敵艦に突っ込むということになるだろう。

 成功すればまだいいのかも知れないが、目的を達成できなくても、帰還が不可能なのだから、それこそ、

「犬死」

 ということになってしまう。

 それを思えば、

「運命のいたずらとよくいうが、本当に悪戯では済まされない」

 といってもいいのではないだろうか?

 そんなことを考えると、

「生まれながらに平等だ」

 というのはあり得ない。

 もし、戦争のない土地に生まれたとしても、それは同じことだ。

 平和なところにだって、

「貧富の差」

 というものが存在していたり、昔の時代であれば、

「奴隷制度」

 などというものが、普通に社会の組織として、存在していたのではないか。

 奴隷と言われていた人が、

「理不尽だ」

 と思っていたのかどうかというもの分からないところで、

「これが当たり前なんだ」

 と考えていたとしても、それも無理もないことではないだろうか?

 それだけ、

「奴隷として扱われていると。余計なことを考えないようにしよう」

 と思うことが、彼らにとって、その時は、

「一番幸せなことだったのではないか?」

 と思えるのだった。

 つまりは、

「何も考えないこと」

 というのが、彼らにとっては、一番精神的に苦しまずに済むことだったのかも知れない。

「理不尽だ」

 と考えると、

「神も仏もないものか」

 という発想になるのだが、そこに宗教が入り込んでくると、

「この世で報われなかった人たちは、あの世に行った時、あの世では報われる」

 という宗教の教えというものが、生きてくるのだ。

 しかし、宗教というものは、ある意味都合よくあっている。

 昔から信じられているものはまだいいが、

「今の時代の新興宗教」

 というものは、かなり理不尽なものが多い。

 ただ、それは、あくまでも、

「今のこの世」

 というものに照らし合わせてということなので、

 生まれながらに、平等などありえないのだから、平均から下であったりする人は、どうしても、宗教に嵌ってしまう。

「今の苦しみから、少しでも助かりたい」

 という思いがあるからなのか、

「生まれながらに、平等だ」

 という言葉を、真剣に信じるからなのかも知れないが、それは、昔の宗教とは考え方が違っているもので、

「新興宗教」

 という、怪しげで、

「都合のいいことしか言わない」

 というものは、どうしても、蔓延ってしまうのであろう。

 孤独な足柄は、学校では、歴史が好きだった。

 孤独な感覚に、歴史は、楽しかった。学校では、

「年号を覚えるのに、語呂合わせ」

 のようなものがあるせいで、

「歴史というのは、暗記物だ」

 ということを頭に刷り込まれてしまったことで、

「歴史が嫌いだ」

 と思っていた時代が、恨めしかった。

 しかも、そんな感覚にさせたのは、まわりのことで、友達でもない連中が、ウワサのようにしていた、

「歴史は暗記物」

 という言葉を真に受けてしまったという自分が情けないのだが、

「それ以上に、人に影響を与える無責任な言葉」

 というのが、嫌だということになるのだろう。

 それを考えると、

「俺って、意外と人の影響を受けてしまうんだ」

 と考えた時、前に考えた、

「人間は生まれながらに平等ではない」

 ということを思い出したのだった。

 それは、

「生まれた時の環境だけではなく、何よりも、自分の親から受け継ぐ遺伝」

 というものが、一番大きいのかも知れない。

 それを思うとやはり、

「生まれる時に、親を選べない」

 ということに、さらに繋がっていくということになるのであろう。

 それを考えると、

「歴史というものは、あくまでも、自分が感じたことによるもので、しかも、それが、自分の人生に大きな影響を与える学問だ」

 と思うと、

「簡単には、無視できない」

 と考えるようになったのだ。

 人生において、

「歴史というものが、点ではなく、線で繋がるものだ」

 という当たり前のことに気が付くと、

「歴史は決して暗記物の学問ではあない」

 ということになるのだ。

 今、学校では、

「プログラミング」

 というものを教えているという。

 特に、子供の習い事でいえば、

「かなりトップの方にある」

 と聞いたことがある。

「プログラミング」

 というと、普通であれば、

「アルファベットが並んだもので、それを機械語に翻訳させて動かす」

 というものを想像するだろうが、

「学問としてのプログラミング」

 というのは、

「モノの考え方を中心として、その流れを、点から線として考えるものだ」

 ということを聞いたことがあった。

 その人は、

「個人的意見だ」

 といっていたが、果たしてそうだろうか。

 個人的意見であっても、複数の人間が支持すれば、それは、大衆意見に匹敵するものになるといっても過言ではにあだろう。

 それを考えると、プログラミングと歴史とでは、まったく違う学問のように思うが、

「点と線」

 という考え方をするならば、

「紙一重の考え方ではないか?」

 と思うのだった。


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