第5話 詐欺と芸術家

 結局、芸術家を目指すようになった足柄は、最初こそ、

「親の敷いたレールという、一番嫌なものに乗っかることになった自分が嫌で仕方がなかった」

 のだが、

「芸術というものが、個性であり、さらに、孤独というものから成り立っているのではないか?」

 と考えるようになって、芸術家を目指している自分が、誇らしく感じれら、

「嫌に対して緒、コンプレックスなど、どうでもいい」

 と考えるようになったのだった。

 自分が芸術を目指している中で、

「芸術家の伝記」

 というのを読むようになった。

 中には、壮絶な人生を歩んでいる人もいて、

「だからこそ、芸術家になれば、伝記のようなものが書かれることになるのだろう」

 と思った。

 これは芸術家に限らず、著名人や有名人は皆そうで、

「そういう人生を歩まないと、有名にはなれないのか?」

 とも考えた。

 しかし、人それぞれに、個性があるように人生もある。

 どんなに穏やかで平凡な人生であっても、それなりに、苦労のようなものがあるのではないだろうか?

 それを思うと、

「どんな人にでも、伝記にはならないかも知れないが、1冊の本になるくらいのエピソードがある」

 と考えると、

「別に俺が、自分の目指す前の世界に、卑屈になる必要なんかないんだ」

 と考えるようになった。

 それから、少しの間、日記をつけるようになった。

 ただ、その日あったことを書き綴るというだけのことなのに、自分の中で、

「文章がうまくなっている」

 と思えてきたのだ。

 自分は、

「彫刻などの工芸作家を目指している」

 ということであるが、

「絵というものに対しては、なかなかうまく描けない」

 と思っていた。

 しかし、工芸品が、次第に自分で思っているように作れるようになると、描いている絵も、次第にうまくなっていっているように思えてきたのだ。

「俺って、そんなにうまかったっけ?」

 と感じるのだが、

「絵というものは、描けば描くほどうまくなる」

 と言われたのを思い出した。

 ただ、それも、ある程度の一線までであって、

「それ以上は、ある程度の努力を必要とするし、しかし、最後にものをいうのは、才能だ」

 ということであったのも、思い出したのだ。

 工芸作家としては、

「やればやるほど、うまくなる」

 というものなのかどうかは、自分でも分からない。

 ただ、こっちも、

「実際には、自分で考えているよりも、まわりの方が、案外と認めてくれていたりもするものだ」

 ということを感じるのだった。

「絵というものが、うまくなってきたのだから、工芸作家としても、それなりに上達している」

 のではないかと思い、コンクールに出典してもみたが、実際に、評価を受けることはなかった。

 コンクールなどでは、入賞しない限りは、一切何もないというシビアなものなのだ。

 せめて、

「自分が、落選したとしても、どのあたりで落選したのか?」

 ということも分からない。

 つまり、

「何人中、何番目だったのか?」

 ということも分からなければ、

「第1次審査で落選したのか?」

 それとも、

「最終選考までは行ったのか?」なども分からない。

 もっとも、賞によっては、最終示唆に残った人、そして、そこからの審査については書いてくれているところもあったりするが、ほとんどのところは、

「審査が、何次まであるのか?」

 ということすら、一切公表していないところもある。

 発表の際は、申込件数が分かるくらいで、後は何も分からない。

 何と言っても、募集要項の中に、

「審査に関しての問い合わせには、一切応じられません」

 というところがほとんどである。

 もし、それを言ってきても、

「最初から明記しています」

 と言われれば、それまでであった。

 それで、蓋を開けてみると、受賞者が芸能人であったり、極端に若い人などというような、

「話題になりそうな人が入選している」

 などということになると、

「出来レースなんじゃないか?」

 と疑いたくなっても、無理もないことだろう。

 本当であれば、

「自分がどれくらいの実力なのかを知りたいと思っている人が多いのだろうが、却って、分からなくなる」

 というのがオチというものであり、

「もう、応募なんかしないぞ」

 と思う人も少なくはないだろう。

 誰でも応募できるのであれば、もっとたくさんの人が応募していてもいいと思うのだろうが、中には、それらの賞を研究している人がいて、

「あれは、出来レースだ」

 ということを言って、広まったのも、あるのかも知れない。

 というのも、

「皆、その疑いを持っている」

 ということだからだろう。

「どうせ、応募したって、受かるわけないのに、自分がどこまでのレベルか分からない状態で、もし何かの間違いで入賞したとしても、相手の何かの宣伝に使われるだけかも知れない」

 と思うと、応募する気も失せてくるというものである。

 特に最近の有名な賞というと、

「話題になっている最近出てきたジャンル」

 であったり、見るからに、注目を浴びるだけのものだ。

 というものでもなければ、ありえなかったりする。

 そう言えば、賞ではないが、以前、

「小説にしませんか?」

 という自費出版社系の応募というのがあったらしいが、その時、ランクがあり、

「出版社がすべての費用を出す」

 という企画出版だったり、

「お互いに金を出し合う」

 という協力出版であったりを作品を読んで判断するというものがあったらしいが、相手は、それを

「絶対に協力出版に持ち込んで、うまく言って、金を出させる」

 という詐欺商法があったという。

 その時に、相手の営業でキレたのか、

「言ってはいけないことを言った」

 ということで有名になったことがあったらしい。

 その言葉が何かというと。

「あなたがいうような、企画出版というのはまず、ありません」

 というのだ。

「それはどういうことですか?」

 と聞くと、

「企画出版をするというのは、我々が、確実に売れると踏んだものだけなのです、それはどんなにいい作品だと思ったとしても、新人で無名の作家の本などは、危険だとしか思わないんです。だから、著名な人しかないんです」

 という話をする。

「じゃあ、どういう人なんですか?」

 と聞くと、

「それは、芸能人か、犯罪者しかありません」

 というのだった。

 その人は、相手の営業の言葉に、あっけにとられ、何も言い返せなかったという。怒りがこみあげてくるのは当たり前のことなのだが、それだけではなかったというのだ。

 そもそも、だったら、なぜ、企画出版というものを、あたかも、期待させるように書くのか?

 ありえないというものを書くということは、相手に期待させることになるので、商法上の

「表記違反」

 というようなものではないのか?

 と考えてしまう。

 それを考えると、

「出版社による詐欺行為」

 というものを疑って、その人は、次第に身体から力が抜けていったという。

 しかも、完全に相手はキレていた。話をしているのは、あくまでも、高圧的な態度だったのだ。

 何と言っても、

「あなたの作品を協力出版として推薦したのは、自分であり、自分が推薦しなければ、出版会議に名前すら上がることなく、誰からも相手にされない作品なんだ」

 と平気で言った。

 そして、その会議に上げるための推薦も、

「今回が最後だ」

 というのだ、

 つまり、

「今出版を考えないと、もう、二度と本を出すなどということはないのだ」

 と言ったらしい。

 それで、こちらもキレて、

「わかりました。じゃあ、これからは、他の出版社に送ります」

 といって、電話を切り、完全に、

「国交断絶状態」

 になったのだという。

 確かに当時、似たような出版社が何社もあった。

 その出版社は、その中でも、比較的最初からあり、出版社としても、小さそうだが、よくいろいろなところで広告を出していたのだった。

 だが、実際には、

「そんな広告に騙される人が、こんなにもたくさんいるのか?」

 と思うほどに、応募が多いという。

 それよりも、

「作家になりたい」

 であったり、

「本を出したい」

 と思う人が、

「ここまでたくさんいるのだろうか?」

 ということに驚かされた。

 その直接的な原因として考えられるのが、

「バブルの崩壊」

 だというのだ。

「バブルがはじけたことで、それまで、毎日のように残業していたのが、急になくなった」

 というのだ。

 というのも、

「バブル経済」

 というのは、

「事業を拡大すればするほど、儲かる時代だったので、人材はできるだけほしいと思っていたのだ」

 もっといえば、

「人材には限りがあるので、そうなると、現存の社員にムリをさせてでも、事業をやらせれば、それだけ儲かるのだから、儲かった分、社員に残業手当として支給しても、痛くも痒くもなかった」

 という時代でもあった。

 しかも、

「馬車馬のようになって働くことが美徳だった」

 という時代でもある。

「24時間戦えますか?」

 というコマーシャルによる閃電文句が流行ったくらいだ。

 そのコマーシャルというのが、スタミナドリンクであり。

「そんなものを呑んでまで、寝ずに働く」

 という今でいえば、

「ブラック企業」

 の典型でもあっただろう。

 ただ、安行手当は普通に出るので、大きな社会問題ともならなかった。

「企業戦士」

 などと言われて、本当に美徳だった時代である。

 ただ、

「過労死」

 などという問題もあってか、裁判問題などになると、企業もさすがに経営が危なくなることもあっただろう。

 ただ、しょせん、

「バブル経済」

 というくらいで、そんな経済は、いわゆる、

「実態がない」

 というものだ。

 その、化けの皮が剥げると、まずは、それまで神話のように言われていたはずの、

「銀行は絶対に潰れない」

 というものが、あっという間に破綻した。

 それにより、社会は、やっとバブル経済の終わりを知り、いよいよ、自分たちがやっていたことが、いかに危険なことだったのかということを思い知ったのだろう。

 後から考えれば、

「それは、当たり前のことではないか」

 と思うことであった。

 それなのに、

「どうして、こんな当たり前のことを誰も気付かなかったんだろうか?」

 と考えてしまう。

 経済学者の中には、感じていた人もいたかも知れないが、

「それを一介の学者でしかない自分が公然と口にして、果たして今の、常識というものを覆ることができるのか?」

 ということである。

 下手をすると、

「オオカミ少年」

 のように、

「あいつは、ほらを兵器で吹きまくっている」

 と言われ、下手をすれば、

「気ちがい扱いをされてしまうかも知れない」

 ということもあったのだ。

 そうなれば、本末転倒。

「どうせ、誰も信じてくれなくて、社会を動かすことができなければ、損をするのは、俺だけではないか」

 ということである。

 バブルがはじけてしまえば、誰もがその勢いに呑まれてしまう。

 だとすると、

「俺が必要以上に何かを言っても、結果、どうすることもできない」

 ということになるであろう。

 ということであった。

 結果、

「バブルがはじけることを、誰も止めることができないのであれば、自分が少しでも被害を少なくできるか?」

 という自己保身に走るしかないだろう。

 だか、この大きな経済の流れが一気に崩れてしまうと、どうなるか?

 そんなことを考えても、分かるはずはない。

 そうなると、今度は、

「余計なことを考えると、結局、自分がきついだけだ」

 ということになるのだろう。

 それを考えると、

「やはり、神様がいないと、俺はノアのようにはなれないんだな」

 と思うのだった。

 あれは、人間をつくった神が、

「自分の思っているような世界になっていない」

 ということで、世の中を浄化するという意味で、

「世の中を一度滅ぼす」

 ということで、リセットした後の最初の人間として選んだのがノアだったのだ。

 まわりの人間から、いかにバカにされようが、いずれ、神のいうように、大洪水が起こると、それまでバカにしていた人は、あっという間に水の中に消えてしまい、生き残れるわけはなかったのだ。

 何しろ、自然現象ではなく、

「神が起こした大洪水」

 なのだからである。

 それが、いわゆる、聖書の中にあった、

「ノアの箱舟」

 という話だったのだ。

 バブルがはじけるということは、その、

「ノアの箱舟」

 の中に出てくる、

「大洪水」

 のことであった。

 あっという間に飲まれてしまい、すべての生物は死滅するという大洪水である、

 ただ、すべての人間が死滅するというのは大げさで、庵とかここから生き残りをかけてどうすればいいかということが、

「遅ればせながらに考えられる」

 ということであった。

 そんな状態で、一つ考えられることとしては、

「正義と悪を逆転させる発想」

 というものであった。

 今まで、

「正しい」

 と言われていたことは、

「間違い」

 でって、

「間違い」

 と言われていたことが、

「正義だ」

 という考えだ、

 ただ、後者に関しては、吟味の必要があるが、前者は、ほぼ間違いないといってもいい、

 だから、考え方を180度変える必要があった。

 まずは、事業の縮小。

 そうなると、人員の削減、いわゆる、

「リストラ」

 というものだ。

 そうなると考えられるのが、

「経費節減」

 というものであった。

 人権時も経費に当たるわけであり、

「収益が得られえないのであれば、経費を抑えるしかない」

 というのが当たり前のことで、バブルの時期には、なかった発想である、

 なぜなら、

「事業を拡大すれば、その分、儲かる」

 ということだったからだ。

 事業縮小どころか、戦える戦士と、それだけたくさん養ったり、育てたりするか?

 ということであった。

 ただ、そうなると、考え方が、

「日本の今までの企業のありかたが、そもそも間違っているのではないか?」

 という考えにいたるのである。

 それまでの日本企業の考え方の一番というのは、まず、

「年功序列」

 というものだった。

 実力に関係なく、どれだけの年数、その会社にいるかということで、ある程度の年齢になると、自動に近い形で昇格していく。だから、年齢を聞いて、

「40ちょっとくらいです」

 と答えたとすると、もちろん、会社の規模にもよるのだろうが、

「係長か、課長クラスですね」

 ということが容易に想像つくということである。

 だから、もう一つの常識も成り立つわけで、それが、

「終身雇用」

 という考え方だ。

 最初に企業に入れば、

「定年まで勤め上げる」

 というのが当たり前のことであり、それだけに、最初の研修だけでなく、いくつになっても、

「社員教育」

 というおのを行うところが多かったのだ。

 それはいいことではないだろうか。

 ただ、終身雇用や、年功序列という考えが、

「バブル崩壊」

 とともに、崩れていくということは、誰の目にも明らかなことだった。

 要するに、

「アメリカ企業などのように、社員は、実力主義」

 ということである。

 だから、企業一つにしがみつくわけではなく、

「優秀な人材が、企業を選んだり、企業の中で、優秀な人材を他に求めて、引き抜きと行う」

 ということが当たり前のように起こっている。

 それまでの日本には考えられないことだ。

 何といっても、これは、昔の封建制度から尾を引いているのかも知れない。

 前述の、

「ご恩と奉公」

 つまり、

「会社から、雇ってもらって、安定して金が入る状態が、ご恩であり、そのために、会社に対しての企業戦士として、ずっと働いていくというのが、奉公ということになるのである」

 ということだ。

 そもそも、一つの大名から召し抱えられた参謀であったり、家老などが、実力主義ということで、他の大名のところに簡単にいくだろうか?

 いやいやそれはありえない。

 なぜなら、

「その大名の秘密を握っている」

 という観点からもありえない。

 そんな裏切り行為が分かったとすれば、

「隠密に暗殺される」

 ということになっても無理もないことであろう。

 そうなると、

「現代にだって言えること」

 いや、今の時代だって、誰もが思うことだ。

 ということである。

 ただ、実際には、バブルがはじけると、

「リストラ」

 というものが行われ、社員が減ると、残った社員にしわ寄せがいく。

 ただ、

「残業というのは、経費節減の観点から、あってはならない」

 ということになった、

 それまでは、給料はたくさんだったが、お金の使う時間がないということで、小金が溜まった状態で、今度は、定時に終わるということで、暇もできてしまった。

 そうなると、今な時間をどうするか?

 ということが問題になってくるのだ。

 そこで、流行ってきたのが、

「サブカルチャー」

 である。

「5時から男」

 などという言葉もあり、

 残業がなくなり、定時に帰ることになると、元気になる人ということである。

「どうせ、真面目にやってもやらなくても、給料は変わらない」

 ということで、仕事は適当にして、後は、プライベートを楽しむということである。

 それが、どのようなものかというと、流行ったりしたのは、

「スポーツジム」

 や、

「英会話教室」

 というものではないだろうか?

「スポーツジム」

 で、これまでなまっていた身体を鍛えるという考えであったり、

「海外旅行をしたい」

 ということから、英会話を習いたいと思う人が増えたということだろう。

 しかし英会話に関していえば、それだけ、新しい言語を勉強し、それから、

「実力主義」

 と言われるこの時代に、自分をアピールできるものを見に就けようという、

「一石二鳥」

 をもくろんでいる人もいるだろう。

 そういう意味もあるが、基本的にほとんどの人は、

「今までできなかったことをしたい」

 ということで、

「趣味を見つける」

 という人が増えたということだ。

 趣味にもいろいろあるが、その趣味を決めるいくつかある基準の中で、早い段階で考えるのが、

「なるべく、お金のかからない趣味」

 ということであろう。

 となると、

「小説執筆」

 などというものは、あまりお金が掛からない。

「筆記具か、ワープロのようなものがあれば、それで十分だ」

 ということだ、

 筆記具やノートなどは、そんなにかかるわけでもなく、ワープロも一度買ってしまえば、あとは、用紙や、インクリボンなどだけしかかからない。

「教室に行ったり、スポーツのように、お金が掛かるというものとは違って、書けるようになるというだけでも、それは自分にとっての自信にもつながる」

 というものだった。

 だから、前であれば、

「小説家になりたい」

 という、

「ガチな考えの人だけだった」

 というのに、その頃は猫も杓子もということだったので、商売にするには、あるいは、もっといえば、詐欺を働くには、

「好都合ではないか?」

 といえるのではないだろうか?

 小説を書くということは、他の趣味がどのようなものなのか分からないが、一番難しいこととしてよくいわれるのが、

「最後まで書き切る」

 ということである。

 つまり

「最後まで書き切ることが、どれだけ難しいか」

 ということで、その難しさというのが、少し他の趣味とは違うのではないだろうか?

 というのも、たぶん、ほとんどの人が、途中で、

「俺が小説なんか書けるわけはないんだ」

 と思うからではないだろうか?

 小説を書くということに、免許がいるわけではない。

 民間の教室で、

「小説講座」

 という教室も確かに存在する。

 それが、バブル崩壊での、誰もが持ちたいと思う趣味に繋がる、

「サブカルチャー」

 だといってもいいだろう。

 しかし、そんな民間のっ教室だからといって、別に、

「バブルがはじけてから、急に増えた」

 というわけではない。

 今までにもあったものであり、意外と教室お高額だったりするのだ。

 そうなると、趣味を小説にした人のその理由として、

「安上りだから」

 ということであったとすれば、ここで教室に入学するというのは、本末転倒であろう。

 ただ、小説を書き始めて、

「いずれが、プロのなりたい」

 と真剣に思っている人は、

「お金に糸目をつけない」

 と思うものなのかも知れない。

 それだけ、自分には自信があり、小説を書き続ける自信が生まれ、これからもどんどん上達すると思っている人は、教室に入学して、基本から学ぶことになるのではないだろうか。

 ただ、この教室の講師というのが、自分が小説家になるうえで、あてになるのかどうか、難しい、

 というのは、あくまでも、本当かどうか分からないが、講師をしている人は、

「確かに一度は新人賞のようなものを取って、文壇デビューを果たしたのかも知れないが、次回作が売れなかったり、自分でいい作品を作ることができないというジレンマに押しつぶされ、鳴かず飛ばずの人だ」

 という人が多いのではないだろうか?

 それを考えると、

「言い方は悪いが、プロになろうと考えている自分が、プロになれなかった人から教わるというのだって、これこそ、本末転倒ではないか?」

 とも考えられる。

「いや、文章講座というのは、基礎の基礎を教えるところだ」

 ということを言われたとすれば、

「それなら、値段が高すぎる」

 と言いたいだろう。

 それくらいのことであれば、ネットで調べたり、本を買って読むことだってできるはずだ。 

 何も、時間を使って、教室に通い、例えば、半年コースで終わってみれば、

「文章のいろは」

 というものを教わっただけだということになれば、

「本当に、本末転倒だ」

 といってしかるべきであろう。

 それを思うと、教室に払うお金がもったいないと思うのは、当然のことであろう。

 だから、小説を自由に書くということが、趣味の段階ではいいことなのだろう。

 そういう意味で、詐欺商法の会社には、たくさんの原稿がやってくる。

 なぜなら、彼らは、

「ちゃんと中身を読んで、批評をしてくれる:

 とことだからだ。

 しかも、その批評には、いいことだけではなく、悪いことも書かれている。

 だから、信憑性があるのだ。

 有名な文学賞であったり、新人賞などの、

「審査に関しての質問には一切お答えできません」

 という、グレーな部分だらけで、

「出来レースではないか?」

 と思われるところとはまったく違うのだ。

 しかも、出来レースと思う理由として、前述のような、

「企画出版をするのは、芸能人か、犯罪者だけだ」

 というようなことを言われたとして、もし、お金のある人であればどう思うだろう。

 最初から、

「怪しい」

 と思っていたとすれば、そんなことを言われると、反発するのだろうが、そうではなく、真面目に聞いていた人は、

「少々くらいのお金だったら」

 と思うかも知れない。

 世にさえ出れば、だれかが見てくれるかも知れないと思うのだろうが、果たしてそんないうまくいくかということだ。

 今の時代であれば、インターネットを使って、

「無料投稿サイト」

 というものがあり、

「いくらでも、自分で公開することができるようになっているのに、誰もそれを見て、この作品はいいといって、認めているわけではないではないか」

 と思うのだった。

 そんな世の中において、出版社というものがどれほど作者のためになっているかということを信じている人がいるから、

「騙される」

 という人が多いのだろう。

 しかし、そもそも、実力もないのに、猫も杓子も、

「作家になりたい」

 などというのはどういうものか。

「あくまでも、趣味の一環」

 ということであればだれも何も言わないが、そうではなくて、こんなひどいことになることが、誰にも分からなかったということなのか?

 これらの詐欺問題は、

「騙される方も悪い」

 ということがいえるのではないだろうか?

 それを考えると、それだけ騙す方も、

「いい方法だ」

 と思ったのだろうが、しょせんは、詰めが甘いということも言えるだろう。

 そもそもが、自転車操業なのだ。

 というのは、彼らが何に金を使うかというと、まずは、会員を増やすための、

「宣伝広告費」

 であった。

「本を出しませんか?」

 という宣伝文句に対して、読者が、原稿を送る。

 そうすると、送られてきた出版社は、その内容を読んで、批評して送り返す。

 ここは、少なくとも、

「文章に対して、少々の心得のある人でなければいけないだろう」

 となると、前述の、講座の先生レベルの人が、ここで作家担当として働くということもありであろう。

 そうなると、それなりの給料も出さなければいけない。

 作家が本を出したいと思うところで終わりではない、製本から、その本の売り込みまでしなければならないのだ、

 ただ、売り込みなど、最初から出版社は期待していないだろう。

「誰が無名の作家の本を店に並べるというのか?」

 というのが、出版社側とすれば、

「当然のこと」

 ということで分かっている。

 しかし、作者の方は、

「これでm一定期間少しだけでも、人の目に触れる」

 と思い、

「自分の本が、店に並ぶことを夢見てきている人からすれば、写メでも取っておきたい」

 と考えることであろう。

 だから、本を出す人は結構いる。

 そして、想像以上に本の出す人が増えて、何と、発行部数だけでいえば、その出版社は、年によっては、日本一ということになるのだ。

 しかも、そのほとんどが、協力出版である。つまりは、

「半額くらいで、本が出せる」

 ということだ。

 しかし、見積りと見れば、さらに詐欺であることは一目瞭然である。というのは、普通定価というのは、

「実際に本を作るのにかかる原価と、利益を足して出てくるものなので本来なら、それを折半だというのであれば、1000円定価の本を出すのに、利益を200円だとすれば、の頃の折半ということになり、半額であれば、筆者には、400円というのがだ廊であろう」

 そこまでは分かり切っていることであるが、何とそこで、出版社が見積りでいくらを示すかというと、

「1500円を出してくれ」

 といってくるのだ。

「折半するといっているくせに、定価よりも高いというのはどういうことだ?」

 と聞くと、相手は、

「本屋に並べるのに、お金が掛かる」

 というのだが、

「そもそも、本を置いてもらうために、金がかかるというものなのか?」

 それよりも、何よりも、

「それだって、すべて定価の中でしょう?」

 と問い詰めると、何も言わなくなってしまうのだった。

 そこで、

「ああ、これは詐欺だ」

 と思うのだという。

 だから、高圧的に出荒れた時も、冷静に対応できたのだということであった。

「ああ、やっと詐欺であるということの本性を現したな」

 ということである。

 それを思うと、そのからくりの全容が見えてきて、次第に、

「やっぱり利用できるところだけ利用すればいい」

 と考えた。

 批評に関していえば、確かに、

「もっともだ」

 と思えるからだ。

 作者本人の思い込みや思い入れが入っているので、自分で読み返しても、このような感想は出てこない。

 まわりの人に読んでもらおうと思っても、小説に興味のない人や、

「批評などというのは、俺にはできない」

 という人がたくさんいるだろうから、そんなにうまくいくわけではない、

 それが、詐欺商法において、

「どういうことになるのか?」

 を、詐欺グループには分かっていない。

 それこそ、

「バブルの時期、バブルに便乗して、最後にはどうなるかが分かっていないという人に似ている」

 つまりは、

「その時だけのことしか考えていない」

 という証拠であろう。

 しかし、一応は、

「経営者」

 ということで商いをしているわけなので、それでも、最初は何とかなっているのは、彼らとしても、

「引き際が肝心だ」

 と思っていたのかも知れない。


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