第2話 歴史的な話

 あれはいつ頃からだろうか? 猟奇殺人と耽美主義の見分けがつかなくなったのは。

 猟奇殺人というと、小説の世界では、今の時代に起こる殺人というよりも、銭前後のあの時代を思い起こすのであった。

 特に戦前というと、今とは文化だけではなく、政治体制、皆の考え方まで違っていた時代。

 もちろん、

「あの時代に生きていたい」

 という感覚はないのだが、タイムマシンというものが存在していて、

「タイムパラドックス」

 というものを考えないでいいというのであれば、

「見てみたい」

 と感じるのも、ウソではない。

 ただ、社会体制が、一つのことに特化していて、

「国家主義」

 と言えばいいのか、

「本当にあの時代が、今に繋がるのか?」

 ということが気になってきた。

 これは、わが国、日本というものに限ったことではない。アジア諸国においても、あるいは、ヨーロッパ諸国においても、その地域の、

「主義」

 がまったく変われば、その時代背景も変わってくるので、

「歴史が変わる」

 というのも当たり前のことである。

 だから、時代を、

「区分分け」

 することもできるのであり、例えば、

「古代、中世、近世」

 という分け方もできるだろう、

 日本においても、分けることができる。

 例えば、古代といえば、原始時代から、クニというものができて、そこで、小競り合いっが起こってくる中で、朝鮮半島の影響を受けてくることで、王の力を占めそうとするための、

「古墳」

 と呼ばれる、国王の陵墓というものの巨大なものが作られるようになる。

 まるで、聖書の中に出てきた、

「バベルの塔」

 の話のようではないか。

「地域がどこであっても、人間の考えることは同じだ」

 ということなのか、それとも、

「バベルの塔」

 の話において、最後に描かれた内容として、

「神様が人間が自分たちを冒涜したことに起こって、人類の言葉が通じないようにして、そのため、人類が世界各国に散っていった」

 というのがあったが、その人たちの一部が、朝鮮から日本に渡ってきたことで、

「巨大古墳を築く」

 という状態になっていったとは、考えられないだろうか。

 信憑性としては、十分にあるのではないかと思われるのだが、果たしてどうであろうか?

 要するに、

「自分の権力を示すことで、国家の統一を図る」

 ということを中心にしているといってもいいだろう。

 そういう意味で、

「バベルの塔」

 の話のラストは興味深い。

 全世界で、似たような巨大遺跡が作られているのを考えれば、

 例えば、

「エジプトのピラミッド」

 などの存在を知っていて、それをうまく神話化することで、聖書を作ったと考えれば、

「ピラミッドも、元々は、バビロニアから広がった」

 ということがいえるのではないか。

 そして、それ以後の日本などの未来において、同じようなものが作られたのは、ただの偶然なのか、それとも、

「バベルの塔」

 の記憶から、巨大なものを作ろうということなのかということである。

 そうなると、今度は、

「それら巨大遺跡は、少なくとも、神に近づこうなどという、大それたことではなく、神に敬意を表するため」

 という考え方であるとすれば、

「バベルの塔」

 と、

「巨大遺跡」

 との間で、繋がりがあると考えられるだろう。

 だから、決して、

「バベルの塔」

 以降には、

「天にも届く」

 というような、巨大な遺跡は存在しない。

 だが、今の時代においては、

「摩天楼」

 などという高層ビル群が、聳えているが、それはあくまでも、

「神に近づく」

 あるいは、

「王の権威」

 を示そうとするものではないといえるだろう。

 ただ、

「自国の権威を世界に示そう」

 という意識はあるようだが、それが、果たして神の怒りに触れないとも限らない。

 そう考えると、摩天楼を神が許すのであれば、

「バベルの塔」

 の話は、あくまでも、

「伝説である」

 ということになり、

「神様の存在」

 という信憑性はないことになる。

 ただ、高層ビルを壊す事件が過去にあったが、あれも、宗教が絡んでいることだったので、ひょっとすると、

「バベルの塔」

 の再来ということを言いだすとすれば、それが、信憑性のあることか、ただの言い訳なのかは、それこそ、人それぞれの考え方によることだろう。

 日本で、古代遺跡の時代を通りこすと、今度は、そのタイミングということか、

「仏教」

 というものが伝来してくる。

 そこで、元々あった、日本古来の宗教と衝突したということであったが、ここで一つ、疑問が起こってくる。

「巨大遺跡」

 を、

「バベルの塔」

 の話が入っている、聖書だと考えると、そのバックには、キリスト教があることになる、

 仏教と日本古来の宗教とが、対立したのであれば、

「キリスト教」

 とであれば、さらに大きな衝突になったのではないか?

 と考えられるのだ。

 確かに、当時の日本には、文字というものがなかったので、書物としては残っていない。外国の書物にもないということは、

「西洋のキリスト教のことなど、歴史書に書き残すなど、汚らわしい」

 という思いだったのか、それとも、

「本当に、キリスト教なるものは、その時には渡来していなかった」

 ということであろうか。

 まさか、

「バベルの塔」

 という話だけ伝わって、それが宗教色があるわけではない、ただの、物語としての、伝来だったのか?

 ということである。

 それを考えると、考え方は次第に膨らんでいき、可能性というものは、たくさんあるということになるのであろう。

 それが、

「未来」

 というものであり、

「未来には希望が待っている」

 という考えが、どれほどお花畑的な発想になるのかということは、分からないというものであろう。

 それを考えると、

「歴史というものが、節目節目にあって、それが、本当に、いい方に進んでいる」

 とは言えないのではないだろうか?

 特に近世などはそうであろうが、古代から中世もそうだといえる。

 歴史のターニングポイントの中には、その事件が起こったことで、

「歴史が、100年さかのぼった」

 というようなことを言われたりしている。

 それが、クーデターであったりすることが、

「歴史を勉強していると分かってくる」

 というものであった。

 いくつかあるのだが、まず、一つとして、

「乙巳の変」

 というものがそれではないだろうか?

 これは、いわゆる、

「大化の改新」

 というものに繋がるもので、近年まで言われていたこととして、

「三代に渡って、豪族の中で、頭一つ抜け出した蘇我氏が、天皇の権威を利用して、皇族を転覆させる」

 という計画を持っていることから、

「中大兄皇子、中臣鎌足に滅ぼされた」

 ということが正しいと言われるようになっていたのだ。

 これは、それこそ、

「天皇が神」

 であり、蘇我氏が、

「塔を作った、バビロニアの王」

 という立ち位置で考えれば、

「蘇我氏は、神をも恐れぬ悪である」

 ということになるだろう。

 その当時、

「巨大遺跡」

 から繋がる考えがあったとすれば、神をも恐れない豪族は、

「滅ぼされて当たり前だ」

 ということになるだろう。

 だから、長い間歴史の真実ということで、

「天皇家の転覆を狙った蘇我氏に対し、天誅を下した」

 ということになっている。

 しかし、言われていることとしては、

「クーデター」

 という言い方をしている。

 これは、

「すでにある権力者を、新興勢力が潰した」

 ということで、戦国時代の、

「配下のものが、上もものを討ち取って、成り上がる」

 という

「下克上」

 に近いものだといえるのではないだろうか?

 それを考えると、

「そもそも、勢力を持っていた蘇我氏に対して、新興勢力である、中大兄皇子と、中臣鎌足が謀反を起こした」

 ということになるだろう。

 そうなると、どうなるのか?

 というのは、

「中臣鎌足は確かに、新興勢力だったかも知れないが、中大兄皇子というのは、その名の通りの、皇子である」

 つまりは、

「中大兄皇子というのは、すでに皇族」

 ということになる、

 当時の日本は、

「どんなに豪族が勢いがあっても、天皇家にはかなわない」

 ということになるであろう。

 天皇系というのは、

「万世一系」

 であり、どんなに、他の勢力が強くても、その権威は、誰もがひれ伏すといってもいいであろう。

 それを冠が合えると、ここでの、

「クーデター」

 という言葉を使ってしまうと、

「皇族である中大兄皇子は、本当は、新興勢力だったのではないか?」

 ということである。

 そうなると、歴史が根本から変わってくるということになり、天皇が、日本で、

「万世一系」

 として、君臨するのは、それ以降ということになる。

 となると、それ以前の歴史として、

「巨大古墳の建設」

 がその権威を示すためだということになるとすれば、

「理屈に合う」

 ということがいえるのではないだろうか?

 というのは、

「巨大遺跡」

 というのは、まだその当時、絶対的な権力があるわけではなかった天皇家が、後世に権威を示すために、巨大遺跡を築くのだということになれば、それ以降、つまり、

「乙巳の変」

 の時には、まだ、天皇の権威が確立された時代ではなかったということで、

「クーデター」

 といってもいいのかも知れない。

 というのも、クーデターによって、成立した政府は、蘇我氏が行っていた政策をまったく変えてしまった。

「外交としては、蘇我氏が、朝鮮半島に対しては、平等に外交をしていたのに対し、大化の改新では、百済一辺倒の外交に移行した」

 ということになる、

 これが、実は間違いで、

「新羅、高句麗の連合軍が、百済に攻めこんだ」

 ということで、百済が日本に、助けを求めにきたということがあり、政府としては、兵を朝鮮に派兵したのはいいが、

「連合軍に大敗」

 を喫し、結局、

「九州において、相手が攻めてくるかも知れないということで、防衛をしなければいけなくなったのだ」

 ということであった。

 そのために、何度も遷都するという状態となり、世の中が、かなり混乱したのだ。

「7,80年くらいの間に、10回近くも、遷都をしたというのだから、誰が考えても異常といえるのではないだろうか?」

 また、蘇我氏は、

「仏教という外来の宗教を受け容れたが、大化の改新では、日本古来の宗教に固執し、仏教文化の発展を遅らせた」

 ということが、近年では言われるようになった。

 ただ、それが、いいことなのか悪いことなのかは、研究している人の意見である。

 歴史において、よく時代が流れると、

「歴史が答えを出してくれる」

 などということを言っている人がいたが、果たしてそうなのだろうか?

 確かに、

「歴史を勉強していると、考え方は様々であることから、何が答えなのかということが果たして分かるものであろうか?」

 といえるのではないだろうか?

 とにかく、

「あのまま、蘇我氏の時代が続いていれば、もっと歴史が先に進んでいたかも知れない」

 と考える学者が、今の時代は増えてきたということがいえるのであろう。

 そして、次に言われている時代は、

「源平の盛衰」

 というものを考えた時の子とである。

 平家というのは、

「清盛一代で、その盛衰は決した」

 といってもいいだろう。

 平家が、天皇家の権威に執着したことで、自分たちが武士であることを忘れたかのように、

「貴族化してしまった」

 と言われるが、それ以上に、平家がもたらした体勢というものが、本当に悪いものだったのかということである。

 それは、その後に起こった、

「武士を中心とした時代」

 としての、

「封建制度」

 という時代に言えるのではないだろうか?

 平家は、その権威の下になるものとして権力の元になるものとして、

「海外貿易」

 に見出していた。

 特に、平家は、元々が、海軍力によって、勢力を伸ばしてきたのだ。

「福原」

 という、国際港を作ったのも、平家の功績であり、そこで、宋との、海外貿易で、富みを得ていたのだ。

 しかし、源氏が、

「武家政治」

 ということで、

「島流し」

 となった伊豆を拠点に、坂東武者との間に力をつけて、

「朝廷とは、一線を画し、決して、妥協しない」

 ということから、権力を増してきたのが、鎌倉幕府だったのだ。

 その基本方針として、

「ご恩と奉公」

 という考え方である。

「領主が、御家人たちの領地を保証する」

 という、ご恩に対して、

「領主が戦をしたり、問題が起こった時には、御家人が領主の元に馳せ参じる」

 という、いわゆる、

「いざ鎌倉」

 という言葉にあるような状態を、奉公というのだ。

 この上下関係を、

「封建制度」

 と呼び、日本に限らず、中世と言われる時代の基本的な考え方となったのだった。

 しかし、その封建制度が確立するまでには、かなりの紆余曲折があった。

 そもそも、坂東武者が、源氏を祀り上げて、幕府をいうものを作ったはいいが、その御家人の間で、権力争いが勃発した、

 それが、

「初代将軍」

 である、源頼朝が死んだことで勃発した、

「北条氏とその他の御家人」

 との対立であった。

「源氏の跡取りである将軍」

 というものを巻き込んでの、権力争いということになったので、将軍といえども、

「対抗勢力に加担した」

 ということになると、平気で島流しになったりした。

 さらには、暗殺されたりして、源氏の血筋は、

「将軍三代で、途絶えた」

 といってもいいだろう、

 奇しくも、蘇我氏の三代と似ているところが皮肉であるが、あくまでも、

「立場としては、逆だ」

 ということになるのだろう。

 それを考えると、

「武家政治が確立するまでには、かなりの時間がかかる」

 ということであった

 鎌倉幕府は、一時五一定の安泰の時代があったが、中国に成立した元による、侵攻によって、その体制に陰りが見えた。

 何といっても、封建制度では、

「領主のために戦って、論功行賞で、褒美としての、土地を貰う」

 というのが、当然だったのだが、

「元寇の侵攻を食い止めた」

 といっても、相手に侵攻しての領土が増えたわけではないので、何とか勝利したといっても、

「褒美として与える土地がない」

 というのが問題だった。

 命を懸けて戦い、負けたのであれば話は別だが、借金してまで、戦に参加したのに、褒美がないとなると、踏んだり蹴ったりということになる。

 まさに、リアルに生活ができない。あるいは、

「部下を養うことができない」

 ということで、幕府に対する不満から、倒幕となったのだ。

 しかし、その後に成立した足利幕府も、最初は、最盛期を迎えたところまではよかったが、今度は各御家人の力が津yすぎて、そちらを制御しきれずに、結局、

「応仁の乱」

 などの内乱がいくつも勃発し、それによって、下克上の機運が高まり、

「戦国時代」

 へと突き進んでいくのであった。

 この時代は、とにかく、

「群雄割拠の武将たちが、繰り広げる」

 といわれる、

「国盗り物語」

 という時代だったのだ。

 城というものが発展し、小競合いであったり、大きな戦を重ねることで、体制が次第に見えてきて、

「織豊時代」

 というものを経ての、

「徳川幕府」

 の成立により、やっと、

「天下泰平の時代」

 がやってきたということであった。

 その時代は、260年続き、反乱はあったが、大きな戦のない時代であった。日本の歴史においても、

 いや、

「世界の歴史においても、260年も、戦争のない時代というのは、実に稀である」

 ということから、そういう意味で、

「徳川時代というのは、世界的に特筆すべき時代だった」

 といってもいいだろう。

 それを考えると、それだけ、戦国時代が、歴史的に激しかったということになるのであろう。

 外交という意味では、平家が滅んだのは、痛かったのかも知れない。

 そういう意味で、考え方として、

「平家の世の中であれば、うまく中国との外交がうまく行っていて、元が攻めてくることもなかったかも知れない」

 といえるのではないだろうか?

 歴史というのは、

「答えがない」

 と言われるが、

「もしも」

 ということがあったとすれば、本当に、日本の歴史はまったく変わっていたかも知れないと思えるとすれば、

「平家の滅亡」

 ということは、歴史の転換点としては大きかったのかも知れない。


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