小説の書かれる時(前編)

森本 晃次

第1話 耽美主義

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年8月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。疑わしいことも含んでいますが、それをウソか本当かというのを考えるのは、読者の自由となります。


「とにかく、美しいものが好きだ」

 というのは、人間の本質なのではないだろうか?

 そもそも、何が美しいというのか、正直、どこまでそう考えるのか、分かるわけではなかった。

 女の子であれば、

「美しいもの」

 というのもそうであるが、

「可愛らしいもの」

 という方が、男性に好かれたりする。

「美しいもの」

 というのは、どうしても、その両面が見えている。

 特に、綺麗なものというと、

「キレイなバラにはとげがある」

 などという言葉があるように、綺麗な女性に近づくと、

「血を吸われる」

 というような、吸血鬼の話であったり、

 血を吸われると、自分までが、吸血鬼になるということで、

「自分も美しいものになっているのではないか?」

 というような発想が芽生えたりしていたりする。

 特に、昔から、

「犯罪というものを、美しく演出する」

 という小説があったりしたが、時代によっては、本当に、

「死体を綺麗に飾る」

 という美学をテーマにした探偵小説もあったりした。

 時代としては、戦前くらいの探偵小説に多くて、

「本格探偵小説」

 と、

「変格探偵小説」

 という分け方をしている人もいたりした。

 本格というのは、

「優秀な探偵が出てきて、その人の理路整然とした推理が、事件を軽快に解いていく」

 というような話であったり、その内容として、

「トリックや謎解きに特化したもの」

 というものが、読者を、引き付けるという作品を、いうのだろう。

 では、

「変格小説」

 というのは、

「どちらかというと、ホラーや怪奇、ゴシップ小説と言われるような話がベースにあったり、SMの世界などのように、非日常の生活を、描くところが、変質的な感情を生むことで、軽快なストーリーというよりも、内容的には、

「重たい感じの小説」

 といってもいいだろう。

 だから、犯罪というのも、

「猟奇犯罪」

であったり、人間の感情が、裏表を表すことで、さらなる、気持ち悪さを演出しているのだ。

 といってもいいだろう。

 そんな犯罪は、内容が命であって、

「何かに特化している」

 というよりも、話が全体的に、

「おどろおどろしい」

 という方が、恐怖を煽るという感じであろうか。

 非日常ということでの、猟奇犯罪であったり、異常性癖という考え方には、

「犯罪というものを、美しく飾る」

 という考え方をしている方が、

「探偵小説が、ホラーやゴシック小説に近い」

 という考え方にも精通するのではないかと思えるのだ。

 確かに、探偵小説として、ホラー色を高めるとするならば、そこに、

「美」

 というものを絡ませる必要があるのではないかと思えるのだ。

 特に、戦前あたりの探偵小説では、

「何が起こっても不思議のない時代」

 ということもあってか、

「猟奇犯罪」

 であったり、

「SMなどが行き過ぎたことで、人を殺してしまうことになったりする」

 ということであったり、

 下手をすれば、

「異常性癖というものをごまかすために、死体をわざと、綺麗に彩るということを考える犯人もいたりするだろう」

 しかし、それは、結果として、異常性癖ということを思わせるのだが、そんな世界を知らない人は、異常性癖の種類を知らないだけに、

「何でも同じなんだ」

 と感じてしまうと、せっかくの犯人を追っている中で、

「見誤ってしまう」

 ということになりかねないだろう。

 それを思うと、耽美主義というのを、探偵小説に入れ込むのは、

「これこそ、一種のトリックの一つなのではないか?」

 ということであった。

 昔読んだ小説家に、

「耽美主義」

 に近い話を書く人がいた。

 しかし、実際には、

「犯罪を美化したり、自分が気に入った人を独り占めしたいなどという理由で、まるで、自分が博物館でも開いたかのように、人間をはく製にしたりするような内容の小説があったりしたが、それは、あくまでも、耽美主義ではなく、犯人は、そういう異常性癖だという風に、思わせておいて、実は、精密に計画された犯行だった」

 という話だったりする。

 特に、犯罪を、そういう、

「異常性癖の人間だ」

 ということにしておけば、犯罪をそっちに見せることができるのだが、その小説家はそれを逆手にとって、

「大量殺人のように見せているが、実際には、ほとんど人殺しをしていない」

 などという話を書いていたりしたのだ。

 小説によっては、

「犯人が、反応予告というものを、送ってくるのに、密室の中にあった」

 であったり、

「石膏像の中に隠されたたくさんの美女」

 などというと、

「完全に、美女を石膏像の中に入れ込めて、自分の美を完成させよう」

 という、いかにも、

「耽美主義的な発想」

 であるが、実際には、

「本当は、そんなに人を殺していない」

 ということだったりする。

「耽美主義」

 という考え方は、

「道徳や、モラルよりも、美というものがmすべてであり、犯罪であれば、殺人を行って、綺麗に美しく飾った芸術を、まわりに、見せびらかせる」

 というような異常性癖を、

「耽美主義的な犯罪」

 といえるだろう。

 しかし、実際には、ミステリーともなると、耽美主義というのは、トリックの伏線のようなものであり、前述の、

「石膏像の中に埋めこまれた美女たち」

 というものも、実際には、その被害者を、家出娘であったり、捜索願が出ている人から探そうとすると、

「永遠に分かることはない」

 というのである。

 なぜなら、

「今の時代では、ありえないが、昔であれば、場所によっては、まだ、土葬にするという習慣があったりした場合、綺麗で傷一つない死体が手に入る」

 ということは、普通にあるということであろう。

 つまり、

「墓暴き」

 ということである。

 戦前であれば、普通にあることではあるが、まさか、女性の石膏像を作るのに、

「墓暴き」

 ということまでする必要があるのか?

 ということである。

 それは、犯罪を、

「猟奇殺人」

 と思わせて、犯人を、

「異常性癖者」

 から探るということで、犯行を攪乱しようという考えが、そこにあるのかも知れない。

 そうなると、犯人は、

「異常性癖」

 ではなく、

「実に緻密に計算された、頭脳明晰の人物ではないだろうか?」

 ということになるのだ。

 そんな耽美主義というのは、基本的には芸術の世界のお話とうことになる、

 ただ、耽美主義というと、なかなかあまりいい意味には使われない、なぜなら、あくまでも、

「美を追求する」

 ということに特化しているからであろう。

 ただ、

「美」

 というものが、どういうものであるかということを考えると、正直、耽美主義の根幹が分からなくなり。

 特に、

「美というものは、人によって感じ方が違うのだ

 例えば、過去の平安時代の美人というと、今の美人とは、比較にならないものではないだろうか?

 もちろん、絵巻の絵を見ているだけでの判断なので、実際に絵巻の人物がどういう人だったのかということは分からないが、少なくとも、

「絵巻として、美人だということで残っているのだから、実際の人を、さらに、当時の美人の概念に重ねた形で、綺麗に飾って描いたとも考えられる」

 だから、みんな同じような顔に見えるのであって、よく見れば、

「紫式部と、清少納言」

 とは、雰囲気は少し違っているように思うが顔は区別がつかないように思えるではないか。

 平安貴族としての男性もそうだ。

 皆同じ顔に見える。

 これが、その時代の一番美しい人物だということで、皆同じ顔に描くというのが、あの時代の一種のトレンドだったのかも知れない。

 そんなことを考えていると、逆に、

「あれが、平安時代の美だったのではないか?」 

 と言われているが、その信憑性は分かるというものだ。

 また、外人に対してもそうだ、

 人によっては、

「外国人の女性。特に金髪女性に憧れを持っている人もいるだろう」

 つまり、

「美を持って、尊ぶ」

 という印象なのだろうが、逆に、

「肌の色が違ったりして、気持ち悪い」

 と思う人もいるだろう。

 特に、快楽を素直に表現する時のあの声を、

「まるで獣のようだ」

 と感じてしまうと、完全に興ざめしてしまう人もいるだろう。

 かたや、あれを美だと感じる人もいれば、

「美とは、かけ離れたものだ」

 と感じる人もいる、

 美しさの基準に、人それぞれのブレがある以上、

「耽美主義」

 というものが、どれほど、曖昧なものだといえるのであろうか?

 とも考えられる。

 となると、

「耽美主義」

 というのは、

「美を追求する」

 と思っている人がいたとしても、それが同じ感覚なのかどうか、怪しいものだ。

 その人が、

「美しい」

 そして、

「これが芸術だ」

 と思ったとしても、そのことを分からずに、

「猟奇殺人だ」

 ということで片付けると思う人もいるだろう。

 ここに一人、スーパーの警備員として雇われた男性がいるのだが、彼は、このスーパーに勤め始めて、そろそろ一年になろうとしていた。

 このスーパーは、元々、

「24時間営業」

 をしていたが、ここ数年前からの、

「世界的なパンデミック」

 というものによって、経営が極端に悪化し、

「時短営業」

 を何度も余儀なくされたことで、

「24時間営業には耐えられない」

 ということになったのだ。

 だから、以前の、

「24時間営業」

 であれば、警備員はいらなかった。

 必ず誰かがいるからである。

 ただ、もっとも、その店員の中に、よからぬ考えを持った人がいれば、別なのだが、実際にはそんなことはなかったようだ。

 ただ、それも、

「パンデミック前」

 のことであり、

「世界的なパンデミック」

 が襲ってきてからというもの、

「何が起こっても、別に驚きもしない」

 という時代になってきたのだった。

 問題だったのは、パンデミックが流行り出した時のことだった。

 世界中での流行は、日本にも襲い掛かってきた。

「伝染病に国境はない」

 というのもその通りで、最初こそ、政府もかなり甘く見ていて、そもそも、

「パンデミックが流行した、最初の国の国家元首と、国賓として、招こうという計画を、パンデミックが世界的に大きな問題となり、国によっては、都市閉鎖という、いわゆる、ロックダウンを行っていた時に、まだ、国賓で招くなどという戯言を言っていたのだ」

 さらに、その時すでに、

「小中学校の全国的な、閉鎖」

 ということを政府独自で行って、調整もしていないので、大きなパニックを招いた後のことだったのにである。

 当時のソーリは、側近にすら相談もせず、もちろん、学校側とも、何も話どころか、調整もしないまま、

「一週間後から、小中学校をすべて、休校にする」

 などと言いだしたのだ。

 ただ、保育園や幼稚園だけは、なかなかすぐにはいかないので、その限りにあらずという、

「だったら、何のための、小中学校だけが休校なんだ?」

 という、

「いかにも中途半端で片手落ちの対策をしたのか?」

 ということになる。

 さすがに反発が強かったことで、政府もやっと、いろいろなところでの事の重大さに気付いたのか、

「国賓として招くことは辞める」

 と、やっと言いだして、こっちもやっとであるが、

「鎖国状態」

 というものを作り出したのだった。

 それによって、外国から、病気を持った人が入ってこないということになったのだ。

「それにしても、そんな簡単なことに、政府もやっと気づいたのか」

 ということを言われた。

 そもそも、政府は、どこまで、このパンデミックに危機感を感じていたのか分からない。

 何と言っても、日本は、ずっと戦争もなかった、

「平和ボケ」

 の国である。

 それを考えると、

「政府が一番、平和ボケだ」

 といってもいいだろう。

 だから、

「先に、学校芸さを行う」

 という、基本的な順序も分からないソーリが生まれているのだ。

 それも、実際にはしょうがないだろう。

 何といっても、政治家というものは、

「庶民がどのような暮らしをしているのか?」

 ということを分からない人種だということだからだ。

 このソーリではないが、昔ソーリをやっていた男が、定価で、数百円のカップラーメンの値段を、

「大体。5000円くらいか?」

 と、真顔でマスゴミに言ったという逸話が残っているくらいだからである。

 特に政治家というのは、今はそのほとんどが、

「世襲」

 というものである。

 世襲というのは、

「代々受け継がれていく」

 というもので、

「今の政治家の親は、そもそも政治家で、2世議員というのが、そのほとんどを占めている」

 と言われているではないか。

 特に、今の政治家は、選挙において、

「親の地盤をそのまま受け継ぐ」

 ということなので、自分から、票を集めるということはしない。

 そのくせ、

「親は政治家なんだ」

 ということで、子供の頃から、

「親の七光り」

 というもので育ったことで、

「好き放題にやってきて、自分が政治家になることは約束されている」

 と思っている。

 分からないことは、秘書や側近が教えてくれる。

 というどころか、何でもやってくれるというものだ。

 それこそ、

「中国における、紫禁城内での、皇太子のようだ」

 といってもいいだろう。

「そういえば、昔見た、中国映画で、紫禁城内部の甘やかされて育つ皇帝を描いた映画があったが、それを思い出す」

 という人も多いだろう。

 日本は、民主主義で、実際に、象徴ではあるが、天皇家でもない限り、そんな、

「帝王学を学ぶ」

 ということはない。

 ということになるのかも知れないが、実際には、企業の中には、世襲の会社もあり、いわゆる、

「同族会社」

 というのは、そういう社長も中にはいたかも知れない。

 それこそ、

「側近がしっかりしているから、会社が保たれた」

 あるいは、

「同族会社の2代目が贅の限りを尽くしたということで、その代で、身代を崩す」

 というようなことは、昔から起こってきたことだったのではないだろうか?

 しかし、それも。ほとんどが、

「バブルがはじけた」

 ということで、終わりを告げてきたのではないだろうか?

 確かに、バブルがはじけたことで、それまで、

「神話」

 とされてきた、

「絶対的なこと」

 が、通用しなくなってきた。

 特に。

「銀行などのような、金融機関が潰れることはない」

 と言われてきたのに、バブルがはじけたことで、最初に経営破綻したのが、その銀行だったのだ。

 基本的に、

「銀行が潰れない」

 と言われた理由の一つとして、

「銀行が潰れると、そのパニックは、想像以上の混乱を招き、さらなりパニックを生むのではないか?」

 ということで、政府が、そんな状態を何とかしようとして、銀行が潰れるのを阻止しようとするからだということであった。

 しかし、実際には、政府が助け舟を出す前に、銀行はひとたまりもなく潰れていく。

 それが、複数となり、ほとんどの銀行が先ゆかなくなってしまっては、政府としても、どうすることもできないだろう。

 そうなると、

「経営方針の転換」

 というものが問題になり、

 実際に表むきの体制としては、

「吸収合併」

 ということが余儀なくされる。

 何とか、合併することによって、技巧の利用者であったり、預金者を守ることができたところも多かっただろうが、結果として、

「経営破綻」

 に追い込まれたところも、少なくはなかった。

 それだけ、

「バブルの崩壊」

 というのは、ひどいものだったのだ。

 それが、平成に入ってから、少ししてのことで、実際に、

「昭和と呼ばれた時代の末期には、その兆候はあった」

 といってもいいだろう。

 そんな時代において、今の世の中では、

「もう、30年も経っているのに、その傾向は尾を引いている」

 といってもいいだろう。

 バブルの頃は、

「世界ランキングで、日本企業はベストテンの上位を占めていた」

 というのに、今では、

「ベスト50にも、入っているかどうか」

 という体たらくである。

 それを思うと、

「日本には、それだけの何か、特殊な体制がある」

 ということであろう。

 というのも、

「日本には、海外にはmない、昔からの体制がある」

 といえる。

 それが、

「年功序列」

 であり、

「終身雇用」

 という考え方である。

 もちろん、終身雇用があるから、年功序列という考えが出てくるわけであって、つまりは、

「一つの企業に入ると、ずっとその会社で定年まで勤め上げる」

 ということである。

 その基本となるのが、

「年功序列」

 というものであり、

「給料は毎年のように、昇給していき、そして、数年で、上の役職に就ける」

 ということになる。

 だから、キチンと勤め上げれば、

「係長が、課長に、そして部長に」

 という形で、

「年とともに上がっていく」

 というものだ。

 だから、そのためには、

「企業が強くなければいけない」

 ということである。

「バブル崩壊からこっち、終身雇用などは、なくなってきた」

 と言われているが、いまだに、日本の基本は、

「年功序列である」

 日本という国は、

「物価は上がるが、給料は上がらない」

 と言われているが、それは、

「企業が内部留保を持っているからだ」

 と言われている。

 内部留保というのは、

「会社が、ため込んでいる、いざという時の貯えだ」

 ということだ。

 実は、これは、悪いことばかりだとはいえない、

 確かに、給料が上がらないのに、物価が上がることで、実に困った状態になってはいるが、今回の、

「世界的なパンデミック」

 というものが起こった時、もし内部留保がなければ、ほとんどの会社は、あっという間に潰れているだろう。

 特に、政府が発した、

「緊急時代宣言」

 というものが、大きかったといってもいい。

 あの時は、

「病院、インフラ、生活に最低限必要な食糧、日用品などの、スーパーやコンビニなどのお店」

 それ以外は、

「休業要請」

 だったのだ。

 日本は、他の国のように、

「有事というものがない」

 ということで、戒厳令のような、

「国民の権利や自由を、政府の一存で制限ができる」

 ということはない。

 憲法に規定された。

「基本的人権の尊重」

 であったり、

「法の下の平等」

 というものがあるために、権利や自由を制限することができないのだった。

 ただ、それでも、

「伝染病の恐ろしさ」

 から、休業に応じた。

 中には、その間に、経営ができなくなり、倒産していくところも多かっただろう。

「従業員も、路頭に迷う」

 ということになり、

「地獄のような時代の始まりだ」

 といってもよかったであろう。

 それを思うと、

「内部留保があるおかげで、倒産せずに済み、社員が路頭に迷うこともないかった」

 といってもいいだろう。

 社員は、給料が下がったり、事情を知らない人は、不満だっただろうが、まだクビになるよりはマシということで、本当に、この時代は、店が閉まっていて、暗黒だっただけではなく、社会情勢も、暗黒のトンネルの中を、出口も分からずに、彷徨っているという、そんな時代だったといっても過言ではないだろう。

 それが、

「世界的なパンデミック」

 で、実際に、

「バタバタと人が死んでいく」

 ということであったり、

「医療崩壊を起こす」

 ということになったりしていたのだ。


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