しねよ


「ただいまー。」


 場違いに明るい声に嫌気が差す。

 人を殺しておいて、よくそんな呑気な声を出せるな。


 私は、明かりを落としたリビングで彼氏が入ってくるのを待っていた。手には包丁。台所から一番大きいのを選んで持ってきた。

 今の私には、もう彼氏への愛情なんてものはなかった。代わりに怒りがふつふつと湧いてくる。

 理不尽に奪われた小さい命。私がもっと早く何かをしていたら、こんなことにはならなかったのかな。


 どこでおかしくなったの?あなたは。


 何人もの女性に子ども堕ろさせてたって本当?

 それで憑かれたなら、しょうがないよ。

 あなたが悪い。全部あなたのせいだよ。

 でも、片付けはしなくちゃ。


 私がやらなければ、という強い思いが脳を支配していた。だって、このまま野放しにしていたら…



「あれ?なーちゃん…いないの?」



 ギシ、ギシ、ギシ、ギ、ギ、ギギ、ギ、ギ、ギシ


 静かなリビングに響く、床の軋む音。彼氏がリビングに足を踏み入れたのがわかった。ちょっと古い家だよね、そろそろ引っ越そうか。そう言って彼氏と笑い合った日々が遠い昔のことのように思える。幸せだった、あの頃。思い出すと、鼻の奥がつんとして泣きそうになった。


 でも。


 蟻の、カラスの、猫の、犬の、子供の死体を思い浮かべる。無惨に蹂躙された命。少し薄れかけていた怒りが復活してきた。私が今やるべきことは…


 彼を、殺すこと。


 覚悟を決める。包丁を構え、真っ直ぐ彼氏に突進した。胸のあたりに刺せた、と思う。刃物が皮膚をやぶり、体内に沈んでいく嫌な感触を包丁越しに感じた。目を瞑りながら、更に力を込めた。もっと、深く、深く、深く。死にますように。殺せますように。この化け物の生命活動が停止しますように。死ね。死ねよ。


 死ね。


 はもう『彼氏』ではない。化け物が彼の口だろうか、どこからかにゅるんと入り込んで、臓器を喰い破って、骨に溶け込んで、成り代わってしまった。目の前にいるのは、私の愛した人ではないのだ。


 かは、と彼氏が何かを吐く音が聞こえた。血だろうか。顔は、見たくなかった。見たらきっと、躊躇してしまうから。


「ナん、で、なーちゃん…」


 か細い声とともに、彼氏がよろめいてばたんと床に倒れた。私も一緒に倒れ込む。


 もうこれ以上刺さなくても、近い内に死ぬだろう。

 少しだけ安心したので、目を開いて、ここでようやく彼氏の顔を見た。

 困惑したような、傷ついたような、哀しい表情かおをしている。


「私と付き合う前にも、女の人妊娠させて中絶させてたの?」 


 これだけは、聞いておきたかった。もしかしたら、殆どが化け物に侵食された彼の中にも、まだ私の愛した『彼氏』がほんの少しだけでも残っているかもしれないから。


「へ…?ちゅう、ぜつ…?なん、で?俺、おれそんなことしてない…」


 今にも泣きそうな彼氏の顔。急に恋人に刺された挙げ句、こんなことを聞かれるなんて。ひどい話だよね。

 ごめんなさい、と心から思う。私もあなたがそんな人じゃないことはわかってるよ。ごめんなさい。


「わかってるよ、してないよね。君は悪くないよ。ただ、運が悪かっただけだよ。運悪く化け物に憑かれちゃっただけ。」


 半ば自分に言い聞かせるように強く頷きながら言った。彼氏はとうとう泣き出してしまった。


「ごめ、ごめん…なー、ちゃん…俺、こんなことしたくなかったよ…ごめん…気づいたら、殺し、てた。」


 殺したくなかった。


 彼氏は今にも消えてしまいそうな声で涙混じりに言った。


 私は我慢できなくなってしまって、つい涙を零してしまった。なんで、この人がこんな目に遭わなくちゃいけないんだろう。誰よりも優しい、私の彼氏が。


 それから、私と彼氏は抱き合ってわんわん泣いた。彼氏が途中、「結婚、したかったね」と少しだけ笑って言うもんだから、私は涙が止まらなくなってしまった。

 したかった。結婚。この人としたかったです。

 できたはずなのに。なんで、なんで。




「でもよかった、これでもう化け物も死ぬ。」

 


 それが彼氏の最期の言葉だった。気づいたら彼の心臓は止まっていて、思いの外、安らかな死に顔だった。



 静かな部屋に、私のすすり泣く音だけが響いていた。

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