宝物


「ねえ。私のマシロちゃん見てない?昨日から見つからないの。」


 朝、隣の部屋に住む門田さんが今にも泣きそうな顔で訪ねてきた時、思わず私も泣いてしまいそうになった。


 ごめんなさい。マシロちゃんは……


 殺されてしまった。私の彼氏に。




 私が目を覚ました時、犬はもういなくなっていた。もしかしたら全部夢だったのかもしれない、と一瞬期待をしたが、奥の部屋から出てきた彼氏が「大丈夫。わんちゃんはちゃんとしておいたから。」と無邪気に言ったので、私の僅かな希望はあっけなく潰されてしまった。


「ねえ、なんであんなことしたの。」

 恐る恐るそう聞くと、彼は私の目を見ずにさらっと言った。

「だって飼い主さんと一緒じゃなくて、マシロちゃんだけで外歩いてたんだよ?助けてあげなきゃだめじゃん。」


 マシロちゃん。


 お隣の門田さんというおばさんは気さくで優しい人で、よく私たちに挨拶ついでに話しかけてくれた。ペットの犬の散歩の途中で会った時は、触らせてくれもした。

「マシロ、っていうのよ。可愛いでしょ。」

 マシロちゃんは真っ白で綺麗な毛を纏っていて、触るとモフモフしていた。真っ黒な瞳がきゅるんとしていて、とても可愛い。

 聞いたところによると、門田さんは四年前に旦那さんを病気で亡くしていて、それから今に至るまでずっとマシロちゃんと二人で暮らしているらしい。


 マシロちゃんは私の宝物なの。


 門田さんはそう言って、慈愛のこもった眼差しでマシロちゃんを見つめた。

 私もなんだか、幸せな気分になったのを覚えている。



 その、宝物を。


 彼は殺してしまった。



 どうすればいいの。どうすれば…。

 もういっそ、門田さんに言ってしまおうか。

 きっと怒られる、恨まれる、罵られる。それはわかっている。

 でも、私はこれ以上秘密を抱えて生きていけない。

 このままだと私は、壊れてしまう。


 ……だけど。


 彼氏は止めるだろう。私が門田さんに告白しようとすれば、間違いなくやめさせようとする。

 もしかしたら、もしかしたらだけど、下手をすると私も門田さんも彼氏に殺されてしまうかもしれない。それが怖かった。


「なーちゃん。俺ちょっと出かけてくるね。」


 玄関の方から彼氏の声が聞こえた。

 私は「うん」と小さく返事をして、一瞬玄関まで行って見送ろうか迷ったけど、やめた。


 バタン。ガチャリ。


 扉が閉まる音、続いて、鍵がかかる音。



 部屋は、驚くほどしんとしている。


 ふと、思いついた。

 今、彼氏はいない。今のうちに門田さんのところに行けば、バレることはないだろう。


 そーっと玄関の鍵を開け、首だけを出して左右を確認した。よし、誰もいない。


 外に出て、扉を閉める。念の為鍵も閉めておいた。

 門田さんの部屋の前まで行き、二回、ゆっくり深呼吸をした。

 意を決して、チャイムを押す。


 ピンポーン。


 音が響いてから十秒ほど経ったが、反応はない。

 もう一度押してみる。


 ピンポーン。


 数十秒待ったが、やはり応答はなかった。

 どうやら、外出しているらしい。


 私は溜め息をついて、自分の部屋に戻った。



 いつも通り洗面所に向かい、手を洗って、うがいをする。


 そこでまた、鼻が違和感を覚えた。

 あの、血のようなにおい。


 マシロはしたのではなかったのか。まさかここに放置しているのか。


 においはここの後ろ――浴室の方からする。

 恐る恐る、覗いてみた。



 浴槽に入っていたのは、人間だった。


 人間の、こども。


 見た目からして小学校低学年くらいだろう。

 光のない虚ろな目はその子がもう息をしていないことを物語っていた。


 人は、本当に驚いた時は、声なんか出せないのだということを思い知った。

 その代わりに強烈な吐き気が込み上げてくる。


 もう、見たくない。


 私は浴室の扉を閉めて、その場にへたり込んだ。


 加速してしまっていた。彼の殺害願望は。

 そしてもう、実行に移している。


 このままだと、彼はどんどん人を殺していくだろう。


 止めるには―――


 もう、彼を殺すしかない。


 そう思った。

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