犬
「でもおかしいんだよなあ…。水子が憑くわけ…。」
ひずみさんはさっきからぶつぶつと独り言を呟いている。無意識下の言葉だからか、彼女らしからぬ口調である。
「ひずみさん、私、これからどうすればいいんでしょうか。」
ひずみさんに向けて言ったが、別に答えてくれなくてもいい、と思った。すっかり暗くなった空を仰いで、溜め息をつく。
しかし意外にも、ひずみさんは独り言を中断してこちらを見た。それから、数秒ほど考える素振りを見せた後、ぽつぽつと話し始めた。
「私は霊を視ることはできても、除霊はできません。ですから、直接貴女方の問題を解決してあげることはできないのです。それに、先程彼には四人の水子の霊が憑いていると言いましたが、それだけではなく、私なんかでは到底その全貌がわからないような…もっと凶悪で大きい何かが憑いていました。」
もっと凶悪で大きい、何か――――
私は全身にぶわっと鳥肌が立つのを感じた。
「得体のしれないものを下手に祓おうとすると、返り討ちにあってしまうことも考えられます。間違っても、自称除霊師なんかに依頼したりはしないでください。」
「じゃあ…わ、私は、どうすれば。」
私が震える声で尋ねると、ひずみさんは辛そうに顔を歪めて答えた。
「彼と別れるしか、ないでしょう。」
「で、でも!彼と別れたところで根本的な解決にはならないじゃないですか。私と別れた後もあんなことをこれからずっと繰り返していくんですよ?」
「ですが、今はそれ以外の方法はありません。」
私のそんな…という声が虚しく響いた。
「もちろん、最終的な判断は貴女に任せます。とにかく、彼の行動がこれ以上エスカレートしないことを祈りましょう。」
ひずみさんはいつの間にか、会ったばかりの時のような感情の読めない顔に戻っていた。声も心做しか冷たくなっている。
もう、誰も助けてくれないのだ―――
足元がぐらぐらと揺れている気がした。
心が今すぐにでも壊れてしまいそう。
気づいたら、駆け出していた。
後ろでひずみさんが私の名前を呼んだ気がしたが、もうどうでもよかった。
走りながら、ひずみさんに対する怒りがふつふつと湧いてくる。
あの女、霊が視えるだなんて本当は嘘なんじゃないの!
適当なことばっか言って!
ひずみさんを恨むのはお門違いだ。
彼女が嘘を言っているようには思えなかったし、何より突然連絡したのにすぐ来てくれて、相談にまで乗ってくれた。むしろ感謝すべきである。
わかっている。わかっているのに。
今の私は、こういう風に他人をなじらないと正気を保つことができなかった。
無我夢中で走っていたら、いつの間にか家についた。彼氏に無駄な心配をかけぬよう、部屋の前で上がった息を整えてから、ゆっくりドアを開ける。
「ただいま。」
玄関に足を踏み入れてすぐに違和感を感じた。
においが異様なのだ。足を進めれば進めるほど、においが強烈になっていく。鼻を突く生臭いにおい。私は血を連想してしまって、気分が悪くなった。嫌な予感がする。
できるだけ足音を立てないように歩いて、恐る恐るリビングを覗いた。
彼氏が背を丸めて何かをしているのが見えた。
こちらからだと背中しか見えず、何をしているのかまではわからない。意を決して、口を開いた。
「ねえ、なにしてるの。」
彼は私が帰ってきていたことに気がついていなかったのか、ビクッと肩を震わせて、それから振り向いて私を見た。
その拍子に、彼の背中で隠れていたものが見える。
犬だと、一目でわかった。
また首のあたりに切り裂かれた跡が見える。
首の方を見て、あることに気づいて絶句した。
その犬は首輪をつけていた。
血で汚れて見にくいところもあるが、黄緑色で、黄色いラインが入っていることがわかる。少し錆びた金色の鈴のついたこの首輪を、私は知っていた。
隣に住むおばさんの飼い犬がつけている首輪。
おばさんが飼っているのは真っ白な毛の柴犬だ。
目の前に無残な姿で横たわっているこの犬も、白い、柴犬。
急に足に力が入らなくなって、へにゃりとその場に倒れ込んだ。目眩がする。助けて。助けて。
助けて。
私はそのまま、意識を手放した。
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